(9)キリストの形成るまで
【聖句】
■4章12〜20節
12
わたしのようになってほしい。

わたしもあなたがたのようになったのだから。
兄弟姉妹たち、どうかお願いする。
あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしてはいない。
13知ってのとおり、最初にあなたがたに福音を伝えたのは、
わたしの体が弱った時であった。
14しかもあなたがたは、わたしの身体をさげすんだり唾棄したりする誘惑にあって、
かえって、まるで神の使いのように、あるいはキリスト・イエスのように、わたしを受け入れてくれたのである。
15あなたがたがのその幸いは、いったいどこへ行ったのか。
証言するが、あなたがたは、できることなら、目をえぐり出して、
わたしに与えようとしたほどであった。
16では、わたしは、真理を語ったがために、
あなたがたの敵になってしまったのか!
17彼らがあなたがたに熱心なのは、善意からではない。
かえって、自分たちに熱心にならせるため、あなたがたを引き離そうと企むからである。
18善いことには常に善いやり方で熱心になるべきで、
これはわたしがあなたがたと一緒にいなくても同じである。
19わたしの子供たち、もう一度産みの苦しみを味わいつつ、
あなたがたの内にキリストが形づくられるまで、
20できれば、今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したいと願う。
あなたがたのことで途方に暮れているからである。

【注釈】

【講話】
(1)人間の業か、神の業か?
  今日は、島根県からバスで5時間もかけてお出でになった方がおられます。すでにいろいろな教会や宗団にも入って様々な体験をしている方です。そんな方が、どうしてわざわざバスで5時間もかけて、この小さなただの交わりの場にお出でになったのか? これは御霊のお働きのほかには考えられませんね。御霊のお働きと言っても、ここは、いわゆる霊能の癒しの奇跡の集会ではありません。そういう神癒集会なら、ダレソレ先生という外人の霊能者が来られて、何千人、何万人という集会をやって、目の前で歩けなかった人が歩いたり、目の見えなかった人が見えたり、病気が即刻治ったりします。でもここの交わりはそういう霊能ではない。そうではなく、おひとりおひとりの内にね、イエス様の御霊が働いてくださる。病気が治るのも救われるのも、その人自身の内に働くイエス様の御霊のお働き、これあるのみです。だから、どんな結果が出たかよりも、どのようにしてその人の救い、その人の癒しが生じたのか? その過程が大事なのです。これを育て、これを涵養する。これがここコイノニア会の御霊の交わりなのです。では、さっそく今回のところへ入ります。
  ここでのパウロの語り方は、かなり感情的になっていて、この部分は、これの前後と論理的につながらないという批判めいた注釈もあります。けれども、御霊の体験をした方ならお分かりの通り、御霊は、その人の知性だけでなく、心も感情も含めて、その人全体を通して語り、証しします。霊性とはそういうものです。「からだ」とは区別された理性/知性のレベル、あるいは身体とは区別される精神の世界、そういうふうに「霊性」を考えてはいけません。その人の全身全霊を通じて御霊は働くのです。ここでもそうで、一見前後のつながりがないように見えていて、実はちゃんと深いところでつながっている。霊的なところで一貫しているのです。
  このことが分からない人から見れば、ここは、人間パウロとガラテヤを訪れている律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちとの間の人間的な「対立/いざこざ」とこれに巻き込まれたガラテヤの信徒たちのこれも人間的な困惑、というふうにしか映らないでしょう。平たく言えば、信者をめぐる伝道者同士の「いざこざ」、こういうレベルの低いとらえ方しかできないでしょう。要するにパウロとユダヤ人キリスト教徒たちとの人間的ないがみ合いにすぎないとしか映らないのです。
  先に出てきたように、パウロはシリアのアンティオキア教会で、ペトロと衝突しましたね。通常パウロの第2回伝道旅行は、この衝突の後で行なわれたと見られています(第2回伝道旅行の後で衝突が起こったとする説もありますが)。そうであれば、彼がガラテヤの人たちに福音を伝えた時は、パウロにとって、身体的にも伝道の状況においても、最悪の状況にあったことになります。体は病で弱り、教会からの援助もなく、その上で、彼の伝える福音に批判的な人たちからの攻撃にさらされていたからです。
  それでも彼はガラテヤの信徒たちに福音を伝え、しかもガラテヤの信徒たちは、彼をイエス・キリストご自身のように受け容れてくれたのです。これは、人間の力や思惑でできることではありません。イエス様の御霊のお働きなしには、ありえません。そのことを一番よく知っているのが、ほかならぬパウロ自身です。人間の力の及ばないことを、人間の考えの及ばない時に、神様は働いて成し遂げてくださるのです。人の業(わざ)か? 神の御業か? 霊的な目で観ればちゃんと分かる。神様はこのような仕方で物事を成してくだいます。分からない人には分からない。でも分かる人には分かるのです。自分が偉かったからできたのか? それとも自分はダメだったけれども、御霊が働いてくださったからできたのか? この見分けがつかない仕方で御霊が働いたりはしません。
  キリストの十字架と復活と御霊の降臨、こんなこと、理屈や論理で説明して「ハイ分かりましたと」と言えるようなことではないのです。「十字架につけられたイエス様」のお姿が、信仰の目と耳で「聴き従う」人の前に顕われる(3章1節)。こういう体験をして初めて、分かるのです。だから、パウロの伝える福音は、そもそもの初めから、人間が自己努力で伝えるものではない。伝えるのは人間でも、ただ「用いられている」だけです。働くのは神様ご自身です。そうでなければ、御子の贖いの御業だとか、十字架だとか、復活などとうてい理解できるものではありません。
  人間パウロが最悪の状態にあって、それでもイエス様の御霊が、彼の口から語り、彼の体からあふれて、ガラテヤの信徒たちに迫ったのです。人間の力が抜けてしまうところに初めて、神様の働く場が生まれるのです。人間の知力や誉れや権威が全く存在しないところに働くのが、イエス様の御霊です。だからこれは、人の計らいや努力や能力や、いわゆる霊能でさえもない。パウロが見えなくなって(「わたしは死んだ」と言うのはこの意味)、キリストの御霊が働いて初めて、ガラテヤの信徒たちは、キリストを体験したのです。パウロは、「このこと」を伝えたい。「このこと」をガラテヤの信徒たちに分からせたいのです。人が救われるのは「律法の諸行」によるのではない、「キリストの信仰」によることを分からせたいのです。
(2)信仰か、ビジネスか?
  律法の諸行とは何かを行なうことです。これは分かりやすい。ああしなさい、こうしなさいと、どうすればよいかを教えてくれますから。その通りやればいい。ところがね、キリストの信仰は分かりにくい。「なにもしなくてもいい」と言われても「どうすればいい」のか分からないからです。「なにもしない」いい例は座禅です。あれはまさに「なにもしない」ことを「させてくれる」のですね。無念無想です。わたしは座禅を組んだことはないけれども、なんとなくわかります。なぜならイエス様の御霊が働く時には、まさに「なにもしない」状態に於いてくださるからです。“Don‘t try!”(しようとするな!)ベニー・ヒンが神戸に来た時に、彼はこう言いました。彼は若い時にある霊能の伝道者に尋ねたそうです。「どうすればあなたのようになれるのですか?」とね。するとその伝道者が、エレベーターに乗る前に、彼を振り返ってこう言ったそうです。
   人はなにもしないではいられない。あっちへ行って拝んだり、こっちへ行って尋ねたり、人の意見や先生探し、教会探しに集会巡礼、じっとしておれないのです。だからいつまで経ってもラチがあかないのです。なにもしなければ、イヤでも自分一人になります。自分と神様だけになる。人につられて祈るのでもなく、人に祈ってもらうのでもない。祈るも祈らないも自分次第。ただ黙って坐っているだけです。そんな時に祈りが湧いてきたら、それこそほんとうの「あなたの」祈りです。祈りがなければ信仰はない。祈りが信仰だからです。信仰とは御霊の働き、だから祈りは「あなたに」働く御霊の働き。やっと自分のイエス様に出会えた。やっとイエス様は、人を通じてではなく、「あなたに」直に語ることができるようになった。御霊はそういって喜んでおられます。祈りのないところに自分はないのです。「我祈る。ゆえに我あり。」です。
  ところがね。それではダメだと言う人がいるのです。いろいろな儀式や宗教的なしきたりや教義を持ち出して、こうしなさい、ああしなさい。これはいけない、あれはダメ。信仰が与えられて、よろこんでいるのにです。やっと病気が治って元気になったら、ああだ、こうだとうるさく言われるようなものです。これこれを守ることによって初めて救いが体験できる。キリストを知ることができる。こう教えられますとね、いったいイエス様の御業は、人間の行ないから出たものなのか、それとも神の御霊によって始められたことなのか見分けがつかなくなります。その結果、信者たちは、教義や律法や祭儀に従わなければ救われないと思いこんでしまうのです。
  ガラテヤ人への手紙のここでも、キリストを伝える伝道者同士のメンツや人間的な対立だと誤解されるかもしれません。ところが、霊的な視点で見ますと、パウロと彼らとの間には、御霊にある信仰のあり方をめぐって、大きな違いがあるのです。律法主義とパウロとの違いは、すでに説明しましたので、繰り返しません。ただここで指摘したいのは、パウロに反対するユダヤ人キリスト教徒たちのように、人間的な自己努力で救いを伝え、救いを完成させようとするならば、その伝道もその結果生まれる成果も、自己の「成果」、自己の「業績」として「評価」されます。うっかりするとこれは、どこまで成功したか、という伝道ビジネになります。「勝った、負けた」の販売競争につながります。こうなると福音は商品になり、信者は商品の販売相手の顧客になります。かつての日本のビール会社の商戦みたいに、自分の系列の会社の内では、自社製品以外は絶対に買わせないし売らせない。かつての日本のパソコン業界もそうでした。顧客を「自分たちの側につかせる」ことばかり考えます。ほかのグループや系列には顧客を絶対に渡さないように「囲い込む」のです。規制緩和以前の日本の会社がやっていたやり方ですね。ところがこれこそ、日本の一般的な宗教団体のやり方なのです。だからいったん自分の宗団に入信したら、その人をほかの宗団には移れないように囲い込むのです。人間的な成果、人間的な業績で評価する宗教ビジネスの世界ではどうしてもそうなります。パウロが、自分に敵対する人たちが「善意からではない」と批判するのはこの点です。
  ところがパウロはそうではないのです。彼は、人間パウロの側に信者たちを引き寄せようとしているのではない。そうではなく、「イエス・キリストのもとへ」彼らを引き寄せようとしているのです。そもそも福音の御業は自分がやっていることでもなければ、ました自己評価のためではない。神様の創造の御業なのです。神の御霊ご自身が働いてくださらなければ、福音を伝えたり、これを受け容れたりすることなど、ありえません。だからパウロにとっては、自分の伝道であって自分の伝道ではないのです。彼は「己の誉れや栄光を求めることをしない」のです(ヨハネ7章16〜17節)。ここが、対立するユダヤ人キリスト教徒たちとパウロとの「目には見えない大きな違い」です。外側から見ると同じようにキリスト教を伝えていますが、その動機は全く異なっているのです。「律法の諸行」からではなく「キリストの信仰」から、ほんとうの御霊にある救いと喜びが来る。分かれば単純で、難しいことではないが、理解しようと思えば、限りなく難しく、限りなく複雑で、ああでもない、こうでもないと議論を呼びます。
(3)交わりの形成と個人
  日本人の場合、イエス様の教えも「その先生の」教えだと思っている人が多いようです。だから自分は「ダレソレ先生に就く」というように考えます。これではいつまで経っても、肝心の自分の信仰が育ちません。コリントの教会がそうでした。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と言い(第一コリント3章3〜9節)、人間関係や宗派や教団の関係ばかりに目を奪われていた。現在の日本人に最も欠けていて、しかもこれからますます重要になること、それは「自分を見出す」こと、あるいは「自己をしっかりと保つ」こと、これだと思っています。ところが、日本の宗教で、このように「自己確立」を教えてくれる宗教はありません。もちろんスローガンとして掲げることなら、どの宗教でも宗団でもやります。それぐらいのこと、自民党でも民主党でも、共産党でもやりますよ。でも実際は組織を作ることと人々を囲い込むための宣伝にしか過ぎません。現実に進行している事態は逆です、教育基本法を変えて、憲法を変えて、個人よりも国家を尊ぶことを教え込もうとしています。個人「よりも」と言いましたが、尊ぶ「個人」さえまだ育っていないのです。だからと言うか、それなのにと言うか、今のうちに個人を無くして、国家や組織に従う人間を作ろうとしています。
  これからの世界に向かって開かれた日本を作るためには、日本人を個人として育てなければなりません。日本の文化は、今やっと世界の人たちに認められ始めています。こういう大事な時に、日本人を個人として育てることのできる力、これがイエス・キリストの福音です。その福音の働きであるイエス様の御霊です。これ以外に、今の日本人を個人として「育てる」力はどこにもありません。知識や金や組織は「権威」をつくるけれども「個人」を育てません。日本の文化が世界の人たちに認められるためには、日本人が「尊敬」されなければなりません。尊敬は個人としての人間に対して向けられるものであって、国家や会社や宗教などの組織に向けられるものではありません。それらは権威を与えてくれるかもしれません。しかし、そういう権威や権力は、威張る人間はつくるけれども、尊敬される個人はつくりません。怖がられる人間は出てくるけれども、敬愛される人は生まれません。権力を笠に着て、日の丸を強制的に掲げさせ、口をこじ開けて君が代を歌わせて、それで国歌や国旗が尊敬されると思いますか? 権威ぶって人を怖がらせることはできても、絶対に尊敬されません。こんなことをしていたら、今に必ず、日の丸も君が代も廃止される時が来ます。人々から心を奪ったら、国旗も国歌も消えます。戦前戦中の日本がこの誤りを犯した。だから、国旗も国歌も尊敬されなくなったのです。今また同じ過ちを犯したら、もう取り返しがつかないです。
  だから、イエス様の御霊の福音を受けている皆さん方は、そのひとりひとりが、今の日本では、神様の目から見るならば、ものすごく貴重なのです。日本の将来は皆さんにかかっている。こう言っても言いすぎではないです。もしもですよ、このキリストの交わりまでもが、組織だ、宗団だと言って、個人を育てることをしなかったら、塩気のない塩みたいに外に捨てられて踏みつけにされるだけです。「自由」とは「自己に由る」ことです。だから、御霊にある自由は、個人のないところには存在しません。個人と個人との間に初めて成り立つのです。これがほんとうのコイノニア(交わり)です。「教会」とは、イエス様の御霊にあるこの「交わり」のことです。御霊は一人一人の内に働き、一人一人の間に働く。それぞれであって、一つ御霊、一つであって、それぞれです。こんなことは、人間にはできません。人間は、己の栄光と業績を誇り、勝った、負けた、の競争ばかりをやるからです。十字架の贖いから降るイエス様の御霊、このお方の働きによらなければ、自由も個人も生まれません。だから、創造の御霊に自分自身を委ねて、イエス様と共に歩んでください。
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