【注釈】
1【相続人は】パウロは福音と律法との関係を3章15節では「遺言」のたとえで説明しました。またローマ人への手紙7章1節では「結婚」のたとえを出しています。今回のところは、後見人と未成年者のたとえです。パウロは、ガラテヤの信徒たちがよく知っている当時のローマの法制度をたとえにして、彼らが福音を信じる以前の状態と律法との関係を説明するのです。これによれば、家族あるいは一族の家父長は、死後に自分の全財産を相続させる子供のために、一人あるいはそれ以上の後見人を指名します。「時が満ちる」(4節)までは、子供は「遺産全体」の所有者でありながら、その遺産を自分で扱う「自由」が許されません。だから、法的にはまだ非公式な身分なので、「奴隷」と変わらない状態にあるとパウロは言うのです。
【奴隷】非公式とは言え、全遺産の所有者の身分を奴隷にたとえるのはすこしおおげさかもしれません。しかしこれは、福音を信じる以前と信じた後との格差がどれほど大きいかを示すためです。遺産を「自由にできる」身分と全く手出しができない身分とを対照させて、キリストにある「自由」と律法(と罪)のもとにある「奴隷」状態との違いを明らかにするためです。このようにここからは、「自由と奴隷/隷従」という主題が、5章15節まで続いています。
2【後見人や家の管理人】後見人は未成年者に対する法的な根拠がありますが、家/家族の管理人のほうは、未成年の子供に対する法的な根拠はありません。しかし家の管理人には、その家の奴隷を管理する役目がありましたから、パウロがこのことを念頭に置いて管理人をも加えたと思われます(「遺産全体」とあるのは、物だけでなくその家に属する人〔奴隷たち〕も含まれます)。また、「父親が前もって定めた期日まで」とありますが、当時のローマでは、未成年者が成年に達する年齢は、家長ではなく国家の法で決められていました(例外もありましたが)。しかしここでパウロは、父の神が定めた「一定の期間が満ちる時」が来て、福音の時代が始まったことを言おうとしているのです。律法と福音との関係は、このように神の救済の歴史と深く関わっているからです。
3【この世のもろもろの霊力】「自然界の諸要素」「この世の諸原理」「宇宙/時代の諸霊力」などと訳されます。ギリシア哲学では、ほんらいこの用語は、永遠不滅の霊界に対照させて、物質的なこの自然界を構成する4つの主な元素(火/水/土/空気)を指していました。いわゆる「四大元素」(the four elements)と呼ばれるのがこれです。このことから、物質世界を支配する諸原理を意味し、さらにこれらの諸原理が、宇宙の天体の運行と結びついて考えられるようになりました(ペトロの第二3章10〜12節)。もろもろの天体は「神々」と見なされましたから、この用語は、天文・占星術と関連づけられ、そこから宗教的な原理や教えの意味にもなりました(コロサイ2章8節/20節)。プラトン哲学やストア派の哲学もこの考えを採り入れています。また、2世紀になるとグノーシス宗教も「宇宙を支配する諸霊力」を悪の力と見なしました。
パウロに限らずユダヤ教やキリスト教では、宇宙は、神の救済の歴史から見て、様々な「時代」(アイオーン)から成り立つと考えられていました。だから今の「この時代(世)」は「悪い時代(世)」なのです(ガラテヤ1章4節)。パウロの宇宙観もこのような「悪の支配」という考え方の影響を受けていると思われます。しかしパウロは、4章9節で、このような「この世のもろもろの霊力」に基づく宗教を「頼りにならない」もの、「無力」なものだと述べています。「頼りにならない」のは、このような教えが人間の理念や肉体的な感覚から出たものだからです。また「無力」なのは、それらの諸宗教が、キリストの御霊の働きのように、人間の罪を根底から解決し新しく創造する力をもたらさないからです(ガラテヤ6章15節)。
しかしここで特に注意したいのは、この節の「わたしたちも」は、ユダヤ人キリスト教徒も異邦人キリスト教徒もパウロたち自身も全部をひとくくりにして指していることです。だからパウロは、旧約時代のユダヤ教もギリシア・ローマの諸宗教や哲学も、またこれらが混淆した宗教形態も、すべてを一括して「今の世を支配する諸霊力」と見なしていることになります。旧約聖書の宗教(律法全体)もこの用語に含めている点で、パウロは、ガラテヤを訪れていたユダヤ人キリスト教徒たちと相容れなかったのです。だからパウロは、ユダヤ人も異邦人も全員が、キリストの御霊を宿して「自由にされる」以前は、旧約の宗教や異邦世界の諸宗教によって束縛された奴隷状態にあったと指摘するのです。
4【時が満ちる】神の定めた救済の時代が新しい「時を迎えた」という意味です。父が定めた「未成年の時期」が終わったのです。神の導きによるこのような「時代/世(アイオーン)」の転換は、キリスト教の歴史観および終末観と深く結びついています。
【神は御子をお遣わしに】4節〜5節では、救い主としてのキリストが、簡潔にまとめて語られていて、これはおそらくパウロが原初教会から、すなわちユダヤ人キリスト教徒たちから受け継いだ伝承に基づいています(マルコ12章/ヨハネ3章16節)。神がなされたことは、わたしたちに御子を遣わしたこと、わたしたちを贖い出したこと、御霊を授与したこと、この三つです。神が贖い主をこの世に遣わすという思想それ自体は、キリスト教だけのものではありません。パウロがここで神が御子を「遣わした」と述べているのは、御子が世の初めからすでに存在していたことを表わしています。だから、パウロはキリストの「先在」を信じていたと見ることができます(コリント人への第一8章6節/10章4節)。このようなキリストの先在信仰には、「知恵のロゴス」が世界の初めから存在していたとするヘレニズム・ユダヤ人キリスト教徒の知恵思想が背後にあると考えられます(ヨハネ1章1節)。
【女から・・・律法の下に・・・】この節が原初のユダヤ人キリスト教徒たちからの伝承であるとすれば、ここで「女から」とあるのはキリストがユダヤ人の出身であること、また「律法の下」とは、旧約聖書の律法を指しているのは明かです。ユダヤ人としてのパウロもこのことが意識していたのは間違いないでしょう。しかし、ガラテヤの信徒たちに宛てたこの書簡では、「律法」は、3節で述べたように、「この世を支配する諸霊力」全体をも含むことになります。だから「女から・・・律法の下に・・・」という言い方は、キリストだけでなく、そのまま人間一般にも当てはまります。御子は、わたしたちと同じ人間としてこの世に生まれてきたという意味です(パウロは処女降誕伝承を知らなかったと考えられます)。キリストはわたしたちと同じ人間として生まれ、ユダヤ人異邦人の区別なく社会的宗教的にわたしたちと同じ「この世」に来て、わたしたちの罪と重荷を担い救い出してくださるのです(ローマ8章3節)。このようにパウロは、旧約聖書の律法を「この世のもろもろの霊力」の中心に位置するものと観ていたのです。
5【律法の下にある者たち】これをユダヤ人に限定する説がありますが、その必要はないでしょう。この節では、「神の子の身分」を授かる「わたしたち」は、ユダヤ人も異邦人も含んでいますから。ただしパウロは、旧約聖書の律法を世界の中心に置いていますから、ここでの「律法」にも、旧約の律法の意味が反映しています。
【神の子の身分】「子の身分」の原語は「養子」のことです。この言葉は七十人訳にもパウロ以外の書簡にも出てきません。しかし、旧約にはイスラエルが「神の養子」であるという伝承が続いていましたから、おそらくこの用語はユダヤ人キリスト教徒からでたものでしょう(ローマ9章4節を参照)。パウロは、聖書の神と全く関わりがなかった人たちが、神の御霊を授かることによって、神の「子となる身分」を授けられると語っているのです(ローマ8章15節)。しかし、次の節にあるように、御霊を授かった養子は、もはや単なる「養子」ではなく、神を「父」と呼ぶことができますから、神によって「生まれた」者なのです。
6【子であるからこそ】この6節は、「あなたがた」が、まず先に「神の子」として受け容れられてから、その後で、御子の霊を授与されるという意味なのか? それとも、あなたがたに御子の霊が授与されている現実こそが、神の子であることを証ししているという意味なのか? このふたとおりに解釈できます。前のほうがカトリック的な解釈であり、後のほうは、プロテスタント(新教)の中の諸派の解釈です。このふたつの解釈には、長い歴史的な伝統があります。新共同訳は、後の解釈を採っています。
「神の子」とされることについて、3章26〜28節では、パウロは洗礼について語りますが、御霊の授与については語りません。一方で、ここ4章5〜6節では、御霊のことを語りますが、洗礼はでてきません。同じことがローマ人への手紙でも言えます。ローマ5章5節/7章6節/8章3節では御霊のことが語られています。これに対してローマ6章では、洗礼について語られますが、御霊については語られません。パウロは、洗礼と御霊の授与とを相互に同じものと見なしていたのでしょう。パウロの時代の教会では、受洗は受霊体験とひとつのものとして理解されていたと思われます。
イエス様の十字架の罪の赦しが、すべての人に開かれて「ある」ことと、その赦しを受け容れて、実際に罪の赦しを自分自身で体験すること、すなわちそう「なる」こととは、つながっていますが、同じではありません。洗礼には御霊の働きが「ある」ことと、その御霊の働きを自分自身のものとして体験して、洗礼に含まれる御霊の働きに「なる」こととは同じではありません。しかし、パウロにあっては、洗礼と聖霊体験のふたつが一体なのです。ある事柄が「存在していること」とその事柄がその人にとって「現実すること」とは、同じではありません。しかし、このふたつは不即不離です。
ここ4章6〜7節は、ローマ人への手紙8章15〜16節と並行しています。ローマ8章16節では、パウロにあって現実に働いている御霊こそが、神の子であることを証しするとあります。御霊の賜とその働きは、それ自体で「客観的」であるとパウロは言いたいのです。特にここガラテヤ人への手紙では、ガラテヤの信徒たちに「今現に働いている」御霊こそが、あなたがたが神の子であることを証ししていることが大事なのです。
【アッバ、父よ】「アッバ」はアラム語の「父」(アブ)を強めた形で、「父よ」という呼びかけです。「父よ」とあるのもギリシア語「パテール」の呼びかけですから、アラム語とギリシア語とで、二度「父よ」と呼びかけていることになります。ガラテヤの信徒たちは、このように、伝えられたアラム語と自分たちのギリシア語とを組み合わせて聖霊に促されて語ったのです。ちょうどわたしたちが、「アーメン」というヘブライ語をそのまま用いたり、「ハレルヤ、感謝です!」のように、同じことをヘブライ語と日本語で言うのと似ています。
【わたしたちの心に】ルターは、6節の注解で、わたしたちの心が、悪魔の攻撃で弱り果てる時に、あるいは神を喜ばせることができないと悩む時に、御霊は「わたしたちの心に」降って来て、このように「アッバ、父よ」と言い難いうめきをもって(8章26節)叫んでくださると述べています。このように、ここガラテヤ4章6節は、ローマ8章14〜16節と共に、後のヨハネ福音書14章15節以下の「慰めの御霊」(パラクレートス)のもとになっていると言われています。なお「あなたがたは」で始めた文が、「わたしたちの心」で終わるのはおかしいという理由で、これを「あなたがたの心」と読む写本があります。しかし、これは後からの訂正です。パウロは、自分と語る相手とを主観客観の別なく一つに見ているのです。
7この節は3章26〜29節へと戻ります。3章28節でもこの7節でも「もはや」が繰り返されています。キリストの御霊にあって、神の子としての「自由」を自分のものとすることが大事だからです。御霊にあるこの自由こそ、アブラハムへの祝福の約束であり、「アブラハムの子」であることの証でもあります。なぜならこの御霊の自由こそが、わたしたちがアブラハムから受け継ぐことを許された「相続」にほかならないからです。なおここで「あなた」と単数で呼びかけるのは、ガラテヤの信徒ひとりひとりに向けて語っているからです。
【神による相続人】「相続」という言葉は、3章18節に初めてでてきました。また「相続人」は3章29節と4章1節に表われ、4章30節へと続きます。聖書の神の信仰と祝福とをほんとうの意味で受け継ぐ者とはだれなのかをパウロはこの言葉で語ろうとしているのです。ユダヤ=キリスト教の救済史は、とりもなおさず人類の歴史それ自体を形成しこれを導くものです。アブラハムの信仰を受け継ぐ者こそ、真の意味で神の救済史の「正統な」相続人であることをパウロはこれから語ろうとしているのです。だからここでパウロは、旧約と新約を貫通する父の神の導きを意識して「神による相続」というやや異例な言い方をしています。神と人間とを結ぶのはキリストであるからという理由で、ここを「キリストによる/キリストを通じて」などと読む写本がありますが、これらは後になって教義的な配慮からでた訂正と思われます。
8この節から新しい段落に入ります。これまでパウロは、旧約のユダヤ教が、そのもとにある人たちを束縛してきたことを指摘して、ガラテヤの信徒たちを訪れている律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちの教えを批判してきました。ところがここからは、ガラテヤの信徒たちが、まだキリストを知らず、「神を知らなかった」時の状態へと視点を移すのです。しかしパウロは、ユダヤ教の律法主義を厳しく批判している割には、ガラテヤの人たちの改宗前の宗教については語らないのです。また、批判もそれほど厳しいものではありません。だからここでパウロの言う「ほんらい神でない神々」というのは、具体的にどのような宗教なのかを知る確かな手がかりがありません。ただし、文脈から考えて、ガラテヤの部族あるいは民族が受け継いでいた伝統的な宗教儀礼や慣習を指していると考えられています。ガラテヤの人たちは、もとは北方から南下して来たケルト系の民族でした。ケルト民族はヨーロッパを中心に広い範囲に分布していました(現在この伝統が残っているのはスコットランドの最北部とアイルランドなどです)。ただし、ガラテヤでは、ギリシアやローマの諸宗教と混淆していましたから、ヘレニズム化した宗教儀礼や慣習に変容していたと思われます。
ヘレニズム時代のユダヤ教徒たちは、こういう「神を知らない」人たちに、聖書の「唯一の神」を教えて、人々を彼らの「先祖伝来の迷信」から改宗させようと努めていました。パウロもキリストを信じる以前には、このようなユダヤ教の伝道活動を行なっていたと考えられます。だからガラテヤの信徒たちは、ユダヤ主義的なキリスト教徒が来て、聖書の神の律法を教え、伝統的な迷信を脱却するように伝えられると、素直にこれに応じたのです。それはちょうど現在の日本で、外国から来たキリスト教の宣教師たちが、日本古来の「ほんらい神でない神々」を離れて、聖書の神に改宗せよと教えるのと類似しています。だからここでパウロが言う「神を知っている」「神を知らない」という言い方は、これらユダヤ教の宣教師たちが用いていた用語です。パウロはここで、この用語を用いて、ガラテヤの信徒たちが、せっかくキリストを信じて「神を知った」のに、どうして再び、「無力で頼りないこの世のもろもろの霊力」へと戻るのかと批判するのです。
【ほんらい神でない神々】人間が考え出した「神々」のことで、実際には存在しない「カミ」のこと(コリント人への第一8章4節)。具体的には、ガラテヤの信徒たちが、かつて従っていたおそらくはケルト的な風習や儀礼のことでしょう。ヘレニズムの哲学では、「実在する」神々と人間の想像がこしらえた「ほんらい神でない」神々との間に区別がつけられていました。「ほんらい神でない神々」という言い方には、「悪霊的な」働きをする霊の意味が含まれていると見る説もあります。しかし、むしろパウロは、そのような神々は本質的に「存在しない」と言っているのです。
9【神を知る/神に知られている】キリスト信者が「神を知っている」という言い方は、パウロでは、ローマ人への手紙1章21節とコリント人への第一の手紙1章21節だけです。ただしコリント人への第一の手紙2章6節以下では、知恵の御霊によって神を深く知ることが語られています。「神に知られる」という言い方はコリント人への第一の手紙8章3節/13章12節にあります。しかしこういう考え方はイスラエルの伝統の中にすでに存在していたものです(詩編139)。ただしここでは、神と人間との交わりの知恵について、「知る」主語と「知られる」対象とが入れ替わっていることに注意してください。これは、聖書の神と人間との相互の「認識」について、とても大事なことです。キリストの御霊の働きは、人間がこれを「知る」のではなく、むしろ神に「知られていることを知る」のです。
【無力で頼りない】「この世のもろもろの霊力」については3節の説明を参照してください。ここで「無力」というのは人間の罪を取り除く力がないことであり、「頼りない」というのは、人間の知恵や知識や感覚などの「肉」に基づいているという意味です。ガラテヤの信徒たちは、キリストの御霊を体験した時に、それまでの先祖伝来の宗教儀礼が「ほんらい神でない神々」であって、「無力で頼りない」ことを悟ったはずです。だから、今更そのような宗教へと逆戻りすることは不可能なはずだとパウロは言うのです。この言い方は、ユダヤ教の伝道者たちが、異教の「悪霊」について語る時の用語だという指摘もあります。
【またもや改めて隷従したいと】ここでパウロは、ガラテヤの信徒たちに「どうして以前の宗教に逆戻りするのか?」と問いかけています。このことから判断しますと、ガラテヤの信徒たちが、自分たちの古来の宗教儀礼や風習に逆戻りしたという意味にも受け取ることができます。ところが、これまでパウロの述べていることから判断すると、彼らはユダヤ教の割礼を受けて、ユダヤ教の律法制度を受け容れようとしているのです。だから、ガラテヤの信徒たちにしてみれば、割礼を受けてユダヤ教徒になることは、彼らの先祖からの風習や宗教儀礼からむしろ「離れる」ことを意味していたはずです。ところがパウロは、彼らに向かって、どうしてまたも「以前のような」無力で頼りない宗教的霊力に逆戻りするのか? と言うのですから、これは彼らには予想もしなかったことに違いありません。割礼を受けて、聖書の神を信じることが、どうして以前の神々へと「逆戻り」することになるのだろう!?というわけです。「隷従しようと願う」とありますので、彼らはまだ実際に行なってはいないと思われますが。
パウロに言わせるなら、律法に従って割礼を受けてユダヤ教に改宗することは、彼らが以前から従ってきた伝統的な宗教儀礼や慣習へ「逆戻りする」ことと同じことなのです。なぜなら、パウロから観ると、ユダヤ教も異教も重なり合って、ひとつに映っているからです。この点で、パウロとガラテヤの信徒たちとの間に大きな食い違いがあります。当然、律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちとパウロとの間には、越えがたいほどの溝があります。ユダヤ人キリスト教徒たちは、(かつてのサウロがしていたように!)聖書の神とアブラハム契約と割礼などの律法を異邦人に教えることによって、異教徒であるガラテヤの人たちをその「先祖伝来の空疎な神々」から唯一の聖書の神へと改宗させようとしているのですから。
ではなぜパウロは、ガラテヤの信徒たちやそこを訪れている律法主義のユダヤ人キリスト教徒たちの考え方に反して、このように、ユダヤ教も異教も一塊(ひとかたまり)に観ているのでしょうか? 彼が、それらのどちらにも、悪霊的な働きがあると観ているからだという解釈もあります。しかしパウロは、「悪霊的」という言葉をここで用いてはいません。むしろ、パウロは、ユダヤ教と異教の両方に向けて共通する言葉として、「奴隷」「隷従」「束縛」という言い方をしています(3章22節と4章8節)。すなわち、パウロは、旧来のユダヤ教も異教的な宗教儀礼や慣習も、どちらも人を縛る、人を「隷従させる」という点で、宗教的な共通性を帯びていると観ているのです。なぜパウロには、このような視点が与えられているのでしょうか? 彼には、イエス・キリストの「自由の御霊」の視点があるからです。伝えられたユダヤ教の律法制度もガラテヤの古い宗教的慣習も、人間を束縛するものとして働いているというのが、パウロの見方です。イエス・キリストの御霊は、いわゆる聖書の律法的な制度も異教の宗教儀礼や慣習をも克服する力として、人々に「御霊にある自由」を与えるのです。パウロの福音は「過激なほどに急進的」〔ロンゲネッカー〕です。このような「自由の光」に照らされた霊性から観るならば、律法主義も異教も「同じように」神から出たものではなく、実体を持たない空疎な「束縛」としてパウロの目に映っていたのです(コリント第一15章27〜28節)。
10【日、月、時節、年など】ユダヤ教の律法で決められた暦を指していると思われます。例えば「日」とは安息日のこと、「月」とは新月のこと(列王記上23章31節)、「時節」とは仮庵祭のような季節の祭り、「年」とは新年などを指しているのでしょう。しかし、宗教一般と暦は深くつながっていますから、パウロは、そのような区別ではなく、全体としてユダヤ教の律法制度(それに異教の祭儀をも重ねて)全体を遵守することを言うのでしょう。
11【苦労したのは】パウロがここで「あなたがたのために」苦労したと言っていますが、パウロはいったい何のために労したのでしょうか? 異教からユダヤ教への改宗が目的ではないとすれば、彼は何を目指しているのでしょう。パウロはその目的を「キリストの御霊にある自由」であると言います。ここでパウロは、過去の伝統的な宗教的慣習でもなく、既成の聖書的律法に基づくユダヤ教でもなく、全く新しい人間の生き方、キリストの御霊にある自由な交わりの姿が、新しく創造されなければならないと考えているのです(6章15節)。ではその「御霊にある自由」とは、どのような姿でガラテヤの信徒たちに想い描かれていたのでしょうか? 律法主義者たちの来訪によって、パウロにもガラテヤの信徒たちにもこの点が問題として浮上したのです。彼ら律法主義のユダヤ人キリスト教徒が、パウロとガラテヤの信徒たちに突きつけた問題点は、まさに「このこと」でした。ガラテヤ人への手紙はこの問題に対する答えとして書かれたのです。パウロが思い描いたキリスト者の交わりの具体的な姿は、やがて、マルコの教会やマタイの教会やルカの教会やヨハネの教会という姿で具体化することになります。