(8)この世の諸霊力
【聖句】
■4章1節~11節
1だからわたしは言う。相続人は、未成年の間は、
全体の所有者であっても奴隷と何ら変わるところがなく、
2父親が前もって定めた期日までは、後見人や家の管理人の下にある。
3このようにわたしたちも、未成年であったときは、
この世のもろもろの霊力の下で、奴隷状態にあった。
4しかし、時が満ちるに及んで、神は御子をお遣わしになり、
女から生まれさせ、律法の下に生まれさせた。
5それは、律法の下にある者たちを贖い出すためであり、
わたしたちが神の子の身分を受けるためなのである。
6あなたがたが子であるからこそ、
神は、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、
わたしたちの心に遣わしてくださった。
7だから、あなたはもはや奴隷ではなく、子である。
子であれば、神による相続人である。
8ところが、以前あなたがたは神を知らないままに、
ほんらい神でない神々の奴隷にされていたのに、
9しかも今は神を知りながら、と言うより神に知られているのに、
どうして再び、無力で頼りないこの世のもろもろの霊力力へと逆戻りして
またも改めて隷従しようと願うのか?
10あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを遵守している。
11あなたがたのために苦労したのが、無駄になったのではないかと、
あなたがたのことで心配している。
【講話】
(1)宗教的隷従と自由
律法主義のキリスト教徒たちは、以前ガラテヤの信徒たちが従っていた異教の伝統を否定して、律法制度としての割礼をガラテヤの信徒たちに「押しつけよう」としています。彼らがそうするのは、自分たちの律法こそ、ガラテヤの信徒たちの伝統的な異教に勝るものと信じているからです。ところがパウロは、ユダヤ教の律法もガラテヤの信徒たちの異教も、同じレベルの「宗教」で、所詮は「この世のもろもろの霊力力」にすぎないと言うのです。旧約の律法がイスラエルの民をキリストへ導く「養育係」であったと言うのなら、同じように、ガラテヤの信徒たちにとって、従来の自分たちの伝統的な宗教や慣習も、やはり彼らをキリストへ導くための準備期間であったと言うことができましょう。律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちとパウロの視点とは、この点が異なるのです。
パウロはここで「隷従」という言葉を使っています。すなわちガラテヤの信徒たちは、律法主義者たちの課そうとする割礼によって「束縛される/縛られる」と言うのです。しかもパウロは、キリストの御霊にある自由によって、もはやそのような律法に「束縛されてはならない」と言うのです。ただし、律法に「束縛されない」ことは、律法を「否定する」ことと同じではありません。律法に束縛されるまいと意識して、律法を否定することは、逆に言えば、それだけ律法に「束縛されている」ことにもなります。だから、ほんとうに律法に「縛られない」人には、場合によって、律法を自由に「用いる」道が開かれるのです。これこそが、ほんとうの意味で、律法に「縛られない」ことであり、律法から「自由になる」ことだからです。パウロがこのように言うのは、キリストの御霊の内には、律法の最も大事な本質が全部含まれていて、キリストにある者は、「意識せずして」神の御心を成就しているからです(5章13~26節)。だからパウロは言うのです。律法を破ろうとするな。律法を守ろうとするな。律法に「死ぬ」のですと。
(2)強制と悪霊
パウロの「無力で頼りにならない」という言い方は、ユダヤ教の伝道者が異教の神々を指す言い方でした。そこには「悪霊的」という意味も含まれていました。この「悪霊的」という言い方は、ユダヤ人が伝統的に聖書の神以外の神々、異教の神々ですね、特に聖書の神に逆らう神々のことを指す言い方でした。聖書で「悪霊」と呼ばれているものの中には、このように、かつてはユダヤ教の神と無関係であった異教の神々のことを指している場合が多いのです。「無力で頼りない」という言い方が、悪霊的な意味を帯びていると解釈されるのもこの理由からです。パウロもこのようなユダヤ教の伝道者たちの言葉を用いているために、彼も同じように、異教の神々を「悪霊的」だと思っているという見方が出てくるのです(コリント第一10章20節)。
ところが、そのパウロが、同じコリント人への第一の手紙で、偶像と言われる神々は「存在しない」と言っています(コリント第一8章4節)。パウロが、「ほんらい神でない神々」と言うのはこの意味です。異教の神が「ほんらい神でない」ものなら、それは「悪霊」ではないことになります。だからパウロは、異教の神や神々を直ちに「悪霊」だとは見ていないことになります。ただし、イスラエルの律法にせよ、異教の神々にせよ、キリストにある御霊の自由を「犯して」、その自由を奪おうと働くときには、すなわち律法なり異教の宗教なりを「強制しよう」とする時には、どちらもキリストの御霊に逆らうという意味で、「悪霊的」とパウロは呼んでいます。コリント人への第一の手紙10章では、偶像に供えた肉を食べることと偶像礼拝の祭儀それ自体に参加することとを区別して、前者には御霊にある愛の自由を勧めていますが、後者は、悪霊との交わりにあずかることとして警告しています。パウロが、律法が「悪霊的」であるという場合も、これと同じ考え方に立っているのです。
(3)新しい福音の形態
パウロは、一方では、ユダヤ教の宗教制度をキリストの福音の内に受け容れることを拒否し、もう一方では、ガラテヤの人たちに伝わる因習や迷信的な宗教を持ち込むことに対して警告しています。一見しますと、ガラテヤの信徒たちは、自分たちの古くからの因習や迷信や宗教から「離れて」、彼らにしてみれば聖書の「新しい」神を教えるユダヤ教へと改宗したように見えます。確かに、ガラテヤの信徒たちの中には、自分たちがイエス・キリストの福音を受け容れることは、従来の迷信的な習慣や多神教を離れて、唯一の真の神へと改宗することだと信じた人たちもいました。
ところが、パウロに言わせると、そういうガラテヤの信徒たちの考えは、必ずしも正しくないのです。パウロが、彼らに伝えたかった最も大事なこと、それは「イエス・キリストの御霊にある自由」なのです。この観点から観るならば、ユダヤ教も彼らの伝統的な宗教的な慣習も、どちらも重なり合って見えてきます。ユダヤ教の「聖書的な宗教」にせよ、ガラテヤの伝統的な宗教にせよ、こういう既成の宗教を超える自由な聖霊の働きをパウロが伝えようとしていたことが分かります。ただし、このパウロの視点は、従来の聖書宗教も伝統的な宗教も、どちらをも否定するという意味ではありませんから注意してください。パウロは、ガラテヤの信徒たちの過去の習慣や迷信を攻撃したり非難したりはしていません。彼は、ユダヤ教の律法主義的な宗教制度をそのまま受容することを批判し、またこれを「課す」姿勢をはっきりと否定しているのです。
ではパウロはいったい何を目指しているのでしょうか? そのような宗教的な重なり合いの中にあって、御霊によって新しい信仰の形態を「創造して」いこうとしているのです。これこそがパウロの目指していることです。従来の慣習的宗教の奴隷になるのではなく、御霊にある自由をどこまでも追い求めるように勧めているのは、このためなのです。ここに、従来はなかった御霊にある「新しい生き方」が生まれてきたのです。だが、その形態は、ガラテヤの信徒たちの間ではまだ確立していませんでした。
だから具体的なしきたりやきまりがないために、ガラテヤの信徒たちは、パウロの伝える御霊にある新しい形態に戸惑いを感じたと思います。彼らが、既成のユダヤ教の制度を受け容れて、これに頼ろうとしたのはこのためです。わたしたちも、言わば、今までにない新しいキリスト者のタイプを生み出していく過程にあると言えます。御霊は、人格的な霊ですから、その人自身の内に宿って、その人を通じて「人格的に」その働きを表現しようとします。「人格的に」とは、言い換えると「自由に」その人のキリストにある個性を表わすことです。すなわち自分自身で、自主的に自分に関わる物事を判断し、決定していくことができます。だからこそ「御霊の知恵」が必要なのです。そういう知恵と意志と勇気が与えられることです。すなわちその人に具わる「人格的霊性/個性」が大事になってきます。これを「霊的個性」と呼びましょう。
(4)宗教制度と御霊の福音
自分たちが、先祖伝来の宗教的慣習を離れて聖書のユダヤ教へ従うことが、どうして「逆戻り」なのか? ガラテヤの信徒たちには、これがなかなか理解できなかったと思います。パウロはどうして、ガラテヤの従来の宗教と聖書のユダヤ教とを同列に置いて、どちらへ向かっても「逆戻り」だと言うのでしょうか? 私たちから見るならば、先祖の宗教に留まることと割礼を受けて聖書の律法制度に転向することとは、全く違うように思われます。ここで私たちは、これらの両方に共通しているところが見えてこなければ、パウロの言う意味が分からないと思います。ここは大事なところです。まさにこの点こそ、ガラテヤ人への手紙の主題だからです。両方に共通するのは、「人間の行いによって義とされようとする」こと、すなわち「律法の諸行によって救われようとする」ことです。パウロが、「律法の諸行ではなく、イエス・キリストの御霊の福音による」と言うのはこの点なのです。
神の教えに背いて律法を破ること、すなわち律法違反は罪です。けれども、それ以上の罪があります。それは、神の律法を逆手にとって、己の力で律法を行ない、自分の功績によって救いを獲得しようとする行為です。これを「自己義認」と言います。自己義認は、宗教的な人、特にクリスチャンの陥りやすい「偽善」の罠です。律法主義はこれを行う人間に誇りをもたらします。この人間的な誇りほど、神のみ前に忌み嫌われるものはありません。これが「律法主義」の罪です。律法を破る律法違反と律法を自力で守ろうとする律法主義、このふたつこそが、人間の罪の二大本質です。
イエス様の御霊は十字架から降る罪の赦しの御霊です。そこから注がれるのは罪の赦しの愛です。この愛こそが、人間に平和をもたらすのです。人間が誇りとするいわゆる「宗教」は、平和どころか争いの原因になります。「わが仏一人尊し」と言いますが、自分の宗教だけを誇りとして他の宗教を見下す。あるいは異教として排除する。これが宗教戦争の原動力です。なんにもしない。なんにも行わない。禅宗の坊さんたちは、座禅を組むことによって、この「なんにもしない」訓練を毎日積んでいます。御霊は愛と赦しの御霊です。ただ、「はい」と言って戴く恵みの賜です。「律法」とは、広い意味では、イスラエルの律法や宗教制度だけではなく、それ以外の諸民族の宗教や宗教的慣習をも含んでいます。だから律法は、イスラエルの準備期間であっただけではなくて、それぞれの国、それぞれの民族にとってもまた、「キリストへの準備期間」であったことになります。
イエス様を受け容れることによって、それまでの自分の過去が、あるいは自分たちの民族の過去の霊性が、キリストの光に照らされて、逆に新しく見えてくるのです。これは自分でやろうとしてもできることではありません。イエス様の御霊によって啓示されて初めて見えるのです。パウロが、イスラエルの歴史を振り返って、そこにキリストにいたる不思議な導きを見ているのと同じです。イエス様にあって、これまでの日本の伝統が、福音の準備期間であったことが初めて分かるのです。イエス様を信じた後のパウロに、イスラエルの律法が「新しく啓示された」のです。彼の律法観には、他のユダヤ人キリスト教徒たちと共通のところもありましたが、パウロ独自のものもありました。パウロは、全世界の諸民族への広がりから、自分と自分の民族の律法観を思い切って変容させたのです。しかしこのような律法観は、一般のユダヤ人たちには理解できませんでした。ガラテヤ人への手紙では、パウロはモーセ律法をやや否定的に見ているように見えます。しかし、このことは彼が、モーセ律法を否定しているのではありません(5章4節)。この問題は難しく、ローマ人への手紙7章で詳しく扱われています。
(5)隠れたキリスト者
諸宗教とキリスト教との出会いは「原罪論」においてではなく「聖霊論」において成り立つとモルトマンという神学者が言っています。これは、キリスト教とほかの宗教との出合いにおいては、「悪霊」とか「異教」とか「罪人」という言葉を、キリスト教徒が、「自分たちを抜きにして」語ってはならないという意味です。また、教義化したキリスト教が、ほかの宗教に対して聖書律法的にこのような言葉を当てはめてはならないという意味です。
パウロの言う「律法」には、(1)旧約の制度的な律法(割礼)という意味があります。また(2)霊的に内面化された律法の意味もあります。「ああ、わたしは何という惨めな人だろう」(ローマ7章24節)とあるのは、このような内面的な律法から出た叫びなのです。また、(3)キリストの御霊にあって、すでに福音的に成就した律法という意味もあります。「命の御霊の律法」(ローマ8章1節)とあるのがこれです。わたしはこれを「キリストの霊法」と呼んでいます。さらに(4)この自然界に働く神の法という意味もあります。パウロの言う「律法」は、これら四つの間で意味が移動しているのです。
パウロが律法は「霊的」であると言う時に(ローマ7章14節)、それは外側を規制する旧約の律法の精神を内面化し、そうすることによって律法の本質的な意味を深めることを指しています。「アブラハムの子孫」というのは、旧約ではイスラエル民族のことでした。ところがパウロは、この言葉を「アブラハムの信仰を受け継ぐ者」という意味に「内面化」したのです。このように内面化することによって、この言葉は、イスラエル民族だけではなく、「アブラハムの信仰」に従う全世界の人たちを含むことになりました。すなわち、内面化することで「律法」の意味が拡大し普遍化したのです。このように、内面化は普遍化へ繋がります。こうして、例えばローマ人への手紙9章25~26節では、かつては反逆のイスラエル民族を指していた言葉「ローアンミ(わが民でない)」が、イスラエル民族から異邦人へ普遍化されて、しかも、「イスラエル民族」から「異邦人」へと、意味の転位が生じています。
だからわたしたちは、外側からその人の信仰を判断しないで、外面の宗教的な形態がどうであれ、その人の内側を洞察する必要があります。見かけのクリスチャンがクリスチャンではなく、「隠れた」クリスチャンこそ、ほんものだということもあるのです。例えば、現在の皇后陛下のような場合、陛下は宮中で神道の儀式に参与していますが、その内面はカトリック的なキリストの霊性なのです。聖霊は、人格としてのイエス様の霊性です。このようなイエス様の人格的霊性は、座禅を組んでいるカトリックの修道僧のような場合でも可能です。仏教の「空」の世界は、イエス様の人格的霊性と対立するものではなく、空の世界にあっても、イエス様の霊性は少しも損なわれることなく成り立つからです。また、仏教の循環的な時間は、福音の直線的な時間軸と対立するものではありません。両者は組み合わさって螺旋形に進むことができるからです。あるいは、日本古来の時空一如の「間(ま)」の世界も、福音の終末的な時間軸と矛盾するところがなく、そのままで採り込むことができるほどです。