【注釈】
  3章の後半から4章の前半で語られる律法と約束(福音)との関係は、15節〜18節/19節〜25節/26節〜29節/4章1節〜7節/4章8〜11節の五つに分けて見ることができます。
15【兄弟たち】1章2節では、「わたしと共にいる兄弟たち」とあって、そこにはパウロと信仰を共にするユダヤ人キリスト教徒たちも含まれていました。しかしここでは、パウロは、主として異邦人キリスト教徒たちに宛てていると思われます。
【人間一般の例で】原文は「人間に従って/人間の例にならって」です。パウロは、これから「律法の役割」とこれの意味について、神に属する「霊的なこと」としてではなく、通常の人間生活の例をあげて説明しようとするのです。だからこれは、「いかにも人間的な」(ローマ3章5節)という否定的な意味ではありません。
【人の遺言】原語は「契約」「遺言」の意味です。パウロがこの語を死者の遺言の意味で用いている箇所はほかにはないので、ここでも「契約」と訳すのが正しいという説もあります。しかしパウロは、「神の契約/聖約」(英語の”covenant”)を人間一般の例として説明しようとしているのです。「二度と変更できない」とあることや後で「相続」の問題が出てくるので、人間同士の「契約」よりも、むしろ「遺言」と訳すほうが分かりやすいでしょう。ちなみに「人の」は単数です。
  ただし、当時のギリシア=ローマ世界で、法的に遺言が「無効に」されることが無かったかと言えば、必ずしもそうではありません。遺言の当事者が生存中の場合とそうでない場合とでは、法的に遺言の扱いに違いがあったようです。これはユダヤでも同様でした。だから、ガラテヤの場合でも、法的に遺言の取り消しが不可能であったとは言えません。神は「死ぬ」ことがないから、その意味で遺言の例は不適切だという意見もあります。だが、パウロはここで、神による「契約/聖約」の意味を含めながらも、こういう法的な詳細にはこだわらずに語っているのです。
16【約束】3章2〜14節で、パウロは、まず「御霊」について語り始めて、終わりを「約束された御霊」で締めくくっています。だからこの16節からの「約束」というのは、「御霊が授与される」約束のことです。「約束」(御霊)が、4章7節まで続いて、終わりに「御子の霊」(4章6節)が授与されていることで締めくくられています。このようにパウロは、ここからは「福音」を「約束された御霊」として、また「祝福」をこの約束を「相続する」こととして語るのです。パウロは通常神の契約を語る場合には単数の「約束」を遣いますが(ローマ4章13節)、複数を用いる場合もあり(ローマ9章4節)、ここでも複数が遣われています。おそらく神からアブラハムへの約束が、一回限りのことではなく、数回に及んでいるからだと思います。
【ひとりを指して「あなたの子孫とに」】ユダヤ教では、「アブラハムの子孫」が単数の場合でも、イスラエルの民全体を集合的に表わすと理解されてきました。もっとも「アブラハム」と言っても、それはアブラハム個人だけではなく、アブラハムの部族全体が含まれています。また、ユダヤ教では、「アブラハムの子」を特定の一人に限定する場合には、アブラハムの嫡子であるイサクを指していました。だから、イシマエルの子孫とエサウの子孫とは、「アブラハムの子孫」からは除外されていたのです。こうして、当時のユダヤ人は、イサクの子孫である自分たちこそが、「真のアブラハムの子孫」であり、イスラエルの民であるという誇りを抱いていました。おそらくガラテヤを訪れたユダヤ人キリスト教徒たちも、「アブラハムの子孫」をこのような意味に理解して、またガラテヤの異邦人キリスト教徒たちにこのように教えていたのでしょう。ところがパウロはここで、「一人の」アブラハムの子孫が「キリスト」を指していると解釈するのです。しかもこの「キリスト」を、3章29節では、ガラテヤの異邦人キリスト教徒たちをも含む集合的な意味で用いています。アブラハムの子孫をメシアと結びつけるこの見方は、パウロ独自のものです。彼はこのようにして、「キリスト」をアブラハムに与えられた「約束」と結びつけるのです。なぜこのようなことをするのかと言えば、これによって、神からアブラハムへの約束(キリスト)が、モーセ律法よりも「以前の」出来事であることが分かるからです。
17【そこでわたしはこう言おう】前に述べてきたことをさらにはっきりと語ろうとする時、パウロはこのように言います。
【契約】原語は単数です。この語は「約束」「遺言」や神との「聖約」など広い意味に用いられます。なおこの節の終わりに来る「約束」も単数ですから、「契約」と「その約束」とが同じものを指すことが分かります。
【四三〇年後】出エジプト記12章40節には、「イスラエルの民がエジプトに滞在した期間」は430年であったとあります。しかし創世記15章13節には、イスラエルは400年間エジプトで奴隷になると預言されています。これらの聖書の記事に基づいて、ユダヤ教では、アブラハムが約束を受けたのが70歳の時で、イサクが与えられたのが100歳の時であると計算して、この間の30年をエジプト滞在の400年に加えて、430年と数えたのです。ただし、この430年は、出エジプトの時までのことですから、アブラハム契約からモーセによる律法授与までの期間を430年だとする解釈は、パウロ独自のものではないかと思われます。
   またパウロのように「アブラハムへの約束」と「モーセへの律法」とを対立させている例は、ユダヤ教には見られません。ユダヤ教の伝統的な解釈によれば、アブラハムは、モーセ律法が授与される以前から律法を守っていたとされていました。特に創世記17章10〜14節にあるように、アブラハムへの契約に伴う割礼によって、モーセ律法は、アブラハム契約から必然的に派生するものだと見なされたのです。パウロはこれに対して、アブラハム契約は、モーセ律法に先立つものであって、時期的に後の律法は、契約とは無関係であるとして、アブラハム契約とモーセ律法との関連性を否定するのです。それは、パウロが、このふたつの出来事を「歴史的な時間の軸に沿って」見ているからです。こうして、アブラハムへの約束とモーセ律法とを切り離してとらえているのです。430年後に「出てきた/出来た」という言い方に、パウロのこのような見方がはっきりと表われています。パウロ独自とも言えるこういう「アブラハムへの約束」の見方は、パウロが、ここでの約束を「キリストの御霊」のことだと理解するからです。パウロは、このように、御霊の視点から、改めてアブラハムへの約束とモーセ律法との関係を見直しているのです。
18【相続】ここで初めて、「相続」の問題が導入されます。以後この問題が、4章1〜7節と4章21〜31節へと続くことになります。イスラエルでは、「相続」とは、ほんらい土地(国土)相続のことです(創世記13章14〜17節)。しかし後代には、「ソロモンの詩編」(前63年頃〜前43年頃)の14章に見られるように、「相続」が、地上の国土のことではなく、霊的な意味に転位されるようにもなりました。ただし「ソロモンの詩編」では、相続は、「主の律法を守る」ことと結びついていますから、律法を守ることが、「パラダイスの祝福」に与るか、「陰府の死」へと堕ちるかの分かれ目となります。
   パウロの場合は、「相続」は、「キリストの御国」として霊的に理解されています(第一コリント6章9〜11節)。ただし福音書では、必ずしもそうではなく、イスラエルの民が受け継ぐ土地(国土)の相続が、全世界を受け継ぐ相続へと拡大されています(マタイ5章5節)。同時に、この国土の相続は、霊的な意味にも転位されています。マタイが言う「地を受け継ぐ」は、「この世」あるいは「この時代(アイオーン)」の国土のことではありませんが、新しい御国は、今の時代の世界を単に否定するのではなく、これをも内包することを意味しています〔ルツ著『EKK新約聖書註解・マタイによる福音書』〕。またそるのです。おそらくこのような相続観は、福音書が書かれた頃には、すでにユダヤの国が滅びていたこととも関連します。また、イスラエルの民による「民族全体の」相続から、後代では「個人の相続」へとその内容が変容していることにも注意しなければなりません。
   ユダヤ人キリスト教徒たちの間では、相続が「律法による」と主張すること自体は、それがアブラハムへの「約束による」ことと必ずしも矛盾しないと考えられていました。なぜなら、ユダヤ人一般もユダヤ人キリスト教徒たちも、彼らの見方からすれば、アブラハムへの約束とは、「割礼を含む律法に」含まれると考えていたからです。ところが、これに対してパウロは、相続を「律法によるのか」それとも「約束によるのか」という対立関係でとらえるのです。パウロは、この点に関して、この節の後半で、相続の約束が「神から」出たことを強調して、しかもそれが神からの一方的な「恵み」から出ていると見ています。先に述べたように、パウロは、「約束された御霊」と「相続」とを結びつけていますから、ここでも御霊の授与が、アブラハムへの祝福の約束/契約の「後になって」出て来た律法授与とは無関係であると言うのです。だからパウロは、ここで、イスラエルが土地を取得する「以前の」アブラハムの信仰へとさかのぼっていることになります。こうすることによって、パウロの神は、いまだ「国土を持たない神」であった頃のヤハウェほんらいの神の姿へと回帰したと言えましょう。このように、アブラハムまでさかのぼることができたのは、パウロに働く御霊の働きによるのですが、彼自身、パレスチナの外のギリシア文化の中で育ち、ローマの市民権を持つ「国際人」であったことも関係しているのかもしれません。
   しかし、パウロのこのような御霊の働きによる「相続」の見方は、特定の国土(エルサレム)に根拠を持つ制度的な宗教とは相容れないものがあったのです。律法主義者たちは、エルサレムを本拠地として、そこから全世界へ「キリストの福音」を宣べ伝えようとしていました。この場合、彼らにとっては、割礼を含むイスラエルの律法制度は、キリストの福音とセットになっていたのです。すなわち、ガラテヤにおいてもエフェソにおいても、割礼とモーセ律法を遵守させることで、イスラエル民族の伝統的な聖書の神をイエス・キリストの神として、世界中に広げようと意図していたのです。
   パウロの信仰は、いまだ土地を持たないままに神を信じたアブラハムの信仰へ立ち返ろうとすることでした。ヤハウェの神は、ほんらい特定の国や国土に属さない、「土地(国)を持たない神」だからです。こういうアブラハムほんらいの信仰に立ち返ることによって、異邦人キリスト教徒たちにとっては、過去のイスラエルの律法制度に縛られることなく、自由なキリストの御霊にある交わりが開かれるからです。ところが、ユダヤとエルサレムを中心に置く律法主義者たちの意図は、律法の「押しつけ」によって、せっかく与えられた異邦人キリスト教徒への御霊にある自由を奪おうとするものだったのです。
19【律法は違反のために】律法が後から「付加された」とあるのは、アブラハム契約への「補助的な意味で」律法が出てきたことです。ここで律法が「違反のために」とあるのが問題になります。これの解釈は大きく三つに分かれるようです。
(1)ユダヤ教でもヘレニズムでも、律法は罪を犯すのを防ぐためであって、いわば「罪から守る囲い」として与えられた。
(2)律法は神に対する罪を悟らせて、「罪となる行為を自覚させる」ために与えられた(ローマ3章20節/4章15節/5章13節)。
(3)(2)をさらに強めて、律法は「罪を増し加える」から、ここでは違反を「防ぐため」ではなく、逆に違反を「生じさせるために」できた(ローマ5章20節)。
   これら三つのうちで、(1)の解釈はユダヤ人キリスト教徒たちに共通していますから、パウロもこのような律法観を共有していました。しかし、パウロはさらに、律法が「肉の弱さのゆえに無力になっていた」(ローマ8章3節)と考えていますから、ここでは、(1)の意味だけでなく、むしろ(2)の意味に理解するほうが適切だと思われます。罪の自覚が、人をキリストの贖いを信じる信仰へ導く働きをするから、律法が「キリストへ導く養育係」(3章24節)とあるというのも、この解釈を裏付けることになります。しかし、「違反を生じさせるために」という(3)の解釈も有力です。確かにこういう律法観はパウロ独特です。しかし「約束された子孫が来る時まで」とあるところから判断するなら、この解釈はここガラテヤ人への手紙では、あてはまりません。なぜなら、(3)の律法観は、キリストの御霊の到来によって、むしろより鋭く意識されてくるからです。ちなみにルターは、市民生活では、律法は(1)の意味であり、信仰生活では(2)と(3)とを共にした意味に解釈しています。
【天使たちを通して】律法がモーセを仲介として天使を通して与えられたという見方は、ユダヤ教の伝承からきています。このような見方は、新約にも表われます(使徒7章38節/ヘブライ2章2節)。しかしユダヤ教では、律法を神聖視することから、律法は「直接神から」モーセに啓示されたという見方が強かったようです。ルターはここで、「天使たちと天使たちに劣る人間モーセの仲保者」を「これよりはるかに優る契約の仲保者キリスト」と対照させています。パウロの言う「律法の仲介者」は、モーセを指しているのは間違いありません。ではなぜパウロは「天使たちを通じて」とわざわざ付け加えたのでしょうか? パウロはここで、律法が直接神からの啓示であるというユダヤ教の伝承を意識しながら、実はそうではなく、律法は神から与えられたものではないと言おうとしているのです。少なくとも、律法は、神からの委託とは別に、天使を通じて与えられたものに「すぎない」という意味です。ただし天使の役割をこのように低く見る例はユダヤ教にはあまりないようです。
   以上のように、パウロは、アブラハムの子孫への約束をキリストと結びつけています(3章16節まで)。その上で、このふたつの出来事の間に入り込んだモーセ律法が、アブラハムとキリストの結びつきを無効にするものではないと言うのです(3章17節以下)。15節から19節までで、パウロは、キリストの御霊にあって、イスラエルの律法の歴史を「再解釈」しているのです。すなわち、モーセ律法からさらにアブラハムへと過去にさかのぼることによって、その過去を「現在の時点から」捉え直しているのです。このようなことができるのは、パウロが、「現在自分に注がれているキリストの御霊」の光によって、過去を逆照する視点に立っているからです。これによって、過去を違った目で見ることができるのです。言い換えると、イエス・キリストの御霊は、わたしたちの「過去を変える」のです。
20この節の解釈にも諸説があります。「仲介者/仲保者」は「仲介すること」の意味にもなり、また「一方の側」と訳した原語には「一人」の意味もあるからやっかいです。だいたい以下の四つの説にまとめることができましょう。
(1)律法は、モーセを仲介者として神とイスラエルの民との間で成立したものであるから、直接神から啓示されたものではない。したがって、アブラハムに直接神から与えられた約束に劣っている。ユダヤ教には、律法がモーセを仲介者として与えられたという見方とは別に、直接神から啓示されたという見方があったので、パウロはこれを否定しています。
(2)律法は天使たちとイスラエルの民との間で成立したものであるから、神からのものではない。この見方はイスラエルにもありましたが、ユダヤ教では天使たちの仲介を神からのものと比較して「劣っている」という認識はなかったから、この点にパウロ独特の見方があります。
(3)神であるにせよ天使であるにせよモーセであるにせよ、仲介とは一方と他方との両方の立場によって成立したのであって、神ひとりから出たものではない。だから、律法は神の約束に劣っている。この律法観もパウロ独自です。
(4)「仲介者というものは、一人で事を行なう場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。」〔新共同訳〕この解釈はわかりやすい。当事者がひとりであれば、仲介は要らないはずです。ところが律法には仲介者が必要であったのだから、律法は直接神だけから出たものではない。この点で、神ひとりによる恵みの約束とは異なっている。これも、パウロ独自の律法解釈です。
  私は(2)の説が、前後の内容とパウロの律法観から見て妥当だと思いますが、(3)の説が一般的なようです。要するにパウロは、律法が神一人の意志から出たものではないことを言いたいのです。律法は、「人間の弱さと罪深さ」に合わせて作られたものですから、「肉的な」人間の都合に従っているとパウロは考えていたのです。
21【律法は神の約束と相容れないのか?】ここは19節の「律法の働きとは何か?」という問いにさらに答えるためです。神の約束と律法とは相容れないのか? キリストが到来して、約束の御霊が降ったのなら、律法は破棄されて不要になったのか? こういう疑問に答えるためです。パウロは同じ問いをほかでも繰り返しています(ローマ6章15節/同7章7節)。ここでの「相容れない」を「対立する」と訳す場合がありますが、注意しないと論理的なつながりが混乱します。例えばここを次のように訳してみますから読み比べてください。
(1)では律法は神の約束より<劣る>のか? その通りである。なぜなら、約束は命を与えるが、律法は命を与えないのだから。
(2)では律法は神の約束に比べて<不必要>なのか? そんなことはない。なぜなら、約束は命を与え、律法のほうはその約束へと<人を導く>働きをするのだから。
(3)では律法は神の約束とは<相容れない>のか? そんなことはない。なぜなら、約束は命を与える働きをするのに、律法は命を与える働きとは<別の働き>をするのだから。
(4)では律法は神の約束と<対立する>のか? その通りである。なぜなら、約束は命を与えるが、これに対して律法は死を与えるからである。
(5)では律法は神の約束と<対等>なのか? その通りである。なぜなら、約束は命を与えるし、律法も命を与えるからである。
   この中で、(1)〜(3)までは、パウロが言おうとしていることに合致しています。(5)の解釈は、ユダヤ教の立場からです。ユダヤ教では、律法は命を与えるという見方をしているからです。ただし、この場合は、律法と神の約束とは「対等に張り合う」ことになるでしょう。しかしこれは、ここでのパウロの立場ではありません。問題は(4)の場合です。パウロの言う「律法」とは「命」ではなく「死」をもたらすという説があります。特に19節にある「罪のために」を「違反を促すために」「罪を犯すようにし向けるために」と解釈するのであれば、律法は罪の働きによって人に死をもたらすという考え方が成り立ちます。しかし、そうであれば、(4)の訳のようになりますから、律法と神の約束とは「対立する」ことになりますから、「決してそうではない。」とは言えなくなるのです。ですからここでは、(4)の解釈は成り立たないのです。しかし、律法が死をもたらすという見方は、パウロ特有の律法観の一部で、このような見方は、ローマ人への手紙に表れます。
【命を創り出す】この一句が「律法」と「約束」との最大の違いです。「命」とは万人に与えられるキリストにある「新しい命」のことです。これは現在の肉的な人間からは生まれてきません。それは神による新たな創造行為だからです。このような命は、キリストの十字架の贖いによるキリストの復活の力から来るものです(ローマ4章17節/同8章11節/第一コリント15章22節/ヨハネ6章63節)。ここでの「命を創り出す」については、特にローマ人への手紙4章17節が大事な鍵となりますが、これについては、4章後半の注釈で説明します。また「義」が「出て来る」と訳したところは、原語では「義がある/存在する」です。これは、神からの義が実際に働くことを意味しています。ここでは「義」と「命」とが結びついているのに注意してください。「命にあること」「キリストにあること」「御霊に導かれること」「義であること」、これらは皆パウロでは一つながりです。
    パウロはここで「律法」と「神の約束」は互いに「相容れない」のか? と問いかけます。もしも律法が命を創り出す働きをするのであれば、律法は神の約束であるキリストの御霊と全く同じ働きをしますから、両者は「競い合う」ことになります。言うまでもなく、パウロは、律法には「命を創り出す力」がないことを言おうとしています。ただし、ユダヤ教では、律法は「命を創り出す」と考えられていましたから(シラ17章11節)、ここでもパウロはユダヤ教と対立することになります。
22【聖書は】ここの「聖書」は律法のことだという見方があります。しかし、この節は、ローマ人への手紙11章32節と構文的にも内容的にも共通しています。ローマ人への手紙では、「閉じ込めた」主語は神ですから、ここでもパウロは、聖書と神とをだぶらせていると言えます。ただし、パウロが「神」と言わず「聖書」と言ったのは、特に律法を念頭に置いた旧約聖書のことを指しているからです。この点で、この節とローマ人への手紙11章の節とは異なっています。パウロがここで「聖書」と言うのは、特に旧約聖書のことです。だから旧約の律法全体を「聖書の宗教」だと見なしていることになります。これを現在のわたしたちから見れば、旧新約聖書を信じるわたしたちも「聖書の宗教」を信じていることになります。「新約」聖書は、パウロの言う「旧約」聖書ではないから、そのような同一視は成り立たないと言うのはその通りです。しかし、パウロの当時のユダヤ人にもユダヤ人キリスト教徒にもガラテヤの信徒たちにも、「聖書」はただひとつでした。パウロから見れば、その「聖書」こそが、律法にほかならなかったのです。旧新約聖書も、注意しないと、パウロの言う意味での「律法宗教」へと転じる恐れがある。このことをここでのパウロは教えていると思います。「律法」と「聖書」とは同じではありません。しかし、「聖書」は、うっかりすると律法へ転じる恐れがあるのです。
   パウロが、律法主義者たちを呪うのは、彼らが、ガラテヤの信徒たちの今のままの信仰を認めず、モーセ律法を「聖書の宗教」として押しつけようとするからです。このことは、宗教的「呪い」の正体とは、人間が自分の宗教と律法を誇り、その価値観を他の民族に押しつけたり、他の宗教を見下すことによって生じることを示しています。自分の信じる宗教以外の宗教を容認しないことは、ほかの宗教を「呪う」ことにほかならないのです。聖書をそのような「律法の宗教」にしてはならないのです。
【すべてのものを罪の支配下に閉じ込めた】「すべてのもの」とあるのは、全人類のことであり全世界のことです。ただしこれには、全宇宙という意味も含まれていると言われています。宇宙全体が、悪(罪)の支配下に閉じ込められているという考え方は、ギリシア思想にもありますが、ユダヤ教では特に黙示思想から来ています(ローマ人への手紙8章18〜22節を参照)。「罪の支配下に閉じ込める」とあるのは、「罪という牢獄の中に囚われている」という意味です。モーセ律法は、違反行為を罰するため、あるいは違反行為を防ぐために天使によって与えられたものであり、この意味において世界の諸民族の伝統的な律法と本質的に変わらないのです。ただし、法はそれぞれの民によりそのレベルに差がありますから、イスラエルの律法は、その宗教性(神聖さ)と倫理性において、比類のない高さに到達していると言えましょう。なおこのことについては、さらに次回の段落で見ることになります。なおローマ人への手紙11章28〜36節を参照してください。
【イエス・キリストの信仰から出る約束が】新共同訳は「イエス・キリストへの信仰によって・・・信じる者に与えられるためである」とありますが、私は英訳聖書その他の註解に従いました。「イエス・キリストの信仰から出る約束」とは、先に出てきた「約束された御霊」の賜のことです。
23【監督され】原語には「監視する」と同時に「警護する/監督する/保護する」という意味もあります。「閉じ込める」は「監視する/拘置する」と一般に訳されています。英訳では“imprison”と“guard”とあります〔NRSV〕。この節は前節と同じように見えますが、22節では「すべてのもの」と宇宙的な規模で語っているのに対して、ここでは「わたしたち」のことになります。また22節では「閉じ込められる」ことだけですが、ここでは「監督する/保護する」が加えられています。パウロは律法が「束縛」であることを意識していますから、ここでは「保護する」よりも「監視する」の意味のほうが強いでしょう。パウロは律法の働きが人間を罪から「監督し保護する」意味もあることを述べて、次の節へ続けているのです。旧約聖書がイスラエル全体を律法の下で「罪に閉じ込めた」という見方は、パウロの場合には、キリストの御霊が降ることによって初めて示されたと言えます。おそらくこのような律法観も、パウロが主から「啓示された」のだと思います。「罪の支配下に閉じ込める」とあるのは、「罪という牢獄の中に捕らわれている」という意味です。人間が罪の捕らわれ人(罪の奴隷)であるという考え方は、パウロだけでなくヨハネ福音書にも共通しています(ヨハネ福音書8章34節)。このような思想はまた仏教にも共通するところがあります。 
24【養育係】これは「教師/先生」のことではありません。むしろ子供を監督しながら、しつけて訓育する人のことで、古代では教育のある奴隷(古代の奴隷には職能や学識のある人たちも大勢いました)の仕事とされました。少年院の「保護監察係」に近いでしょうか。
【キリストのもとへ導き】ここでパウロは、律法が単にキリストが来るまでの監督であったのではなく、むしろ律法がわたしたちをキリストへと「導いた」こと、すなわち律法がキリストを「もたらす」ための役割を果たしたと述べています。律法は、「わたしたち」が信仰による義を与えられるための神のご計画であったと言うのです。律法の役割を今までよりも肯定的に見ているのに注意してください。
25【わたしたちはここでパウロが言う「わたしたち」とは、主としてユダヤ人キリスト教徒たちを指しています。パウロは、ガラテヤの信徒たちだけではなく、そこにいるユダヤ人キリスト教徒たちにも呼びかけているのです。「支配されない」とは、自由を意味しますから、すでに律法と割礼の生活を送っているペトロやパウロを初めとするユダヤ人キリスト教徒たちは、割礼のままで、従来の順法スタイルの生活を続けることができます。しかし、異邦人キリスト教徒たちは、もはやそのように、割礼や食物規定などの律法に「縛られる」必要がないのです。これが、キリストの御霊にある者たちの「自由」です。なおここで述べられているように、神が律法を通して、さらにはキリストの御霊を通して、人間を「養育し」さらに「教育する」という考え方は、古代教父のエイレナエオスにも見ることができます。ここに述べられているパウロの律法とキリストの信仰との関係は、これ以後のキリスト教の律法理解の土台となるものです。
26【あなたがたは】ここで「わたしたち」という呼びかけが「あなたがた」に変わります。「わたしたち」というユダヤ人キリスト教徒たちを意識した呼びかけが、ガラテヤの信徒たちを含む全部の信徒たちへの呼びかけに変わり、そしてこれが、「キリスト・イエスにある(あなたがた全員の)信仰」へと、親しみをこめた語りかけになります。ここには、ただ「救い主」としてのイエス・キリストだけではなく、イエス様という「人格」によって結ばれているもの同士への愛情が表現されているのです。なお、「キリスト・イエスにある信仰」を「信仰によって、キリスト・イエスにあって(神の子である)」と読むこともできます。
27【だから】この語が、26節から繰り返されていますが、同じ主旨を言葉を換えて言うときの用法です。
【キリストと結ばれる洗礼を受けた】原文は「キリストの内へと洗礼された」です。ここでパウロは3章4節に戻り、ガラテヤの信徒たちに、彼らが洗礼を受けた時に、同時に聖霊に満たされた体験を思い出させます。「洗礼する」は「深く浸す」ことですから、イエス・キリストの人格と「深く結ばれる」交わりに入ることです。これまでは、「義とされる」や「監督される」などの律法や法廷に関わる用語が用いられてきましたが、洗礼されて「キリストと結ばれる」〔新共同訳〕ことによって、全員が、イエス様の人格に結ばれた者同士となり、保守的なユダヤ人キリスト教徒もパウロのようなヘレニストのユダヤ人キリスト教徒も異邦人であるガラテヤの信徒たちも、互いに異なる立場にありながら、イエス様の人格によってお互いが「ひとつに結ばれる」のです。26節の「皆」や27節の「誰でも」に注意してください。この洗礼のほかに「割礼」は要らないのです。27〜28節は、原初キリスト教会以来、洗礼の際に用いられた信仰告白であり、パウロがそれをここで取り入れていると言われています。
【キリストを着ている】衣服が霊的な意味を帯びるのは、人類に共通しています。旧約でも衣服は権威や救いや正義や栄光の象徴です(歴代誌下6章41節/詩編132篇9節)。これが新約では「イエス様の御霊の衣」となります(コロサイ3章12節の「身にまとう」/コリント第一15章53〜54節)。イエス・キリストの御霊は、衣服のように、それを着る者をひとつにします。ただし、衣服と身体は決して同じではありません。同じように、御霊はどこまでも御霊であって、わたしたち自身の一部となることはありません。これが、キリストの御霊とわたしたちとの不思議な「交わり」の姿です。
28【ユダヤ人もギリシア人もなく】これは人種的な違いを指していると同時に、ここでは特に「割礼」を問題にしているから、宗教的な違いをも念頭に置いています。キリストの御霊にあっては、「ユダヤ教も異教もない」という意味です。続く「奴隷か自由人か」は、当時の社会では大変な違いです。パウロは、人種的、宗教的、社会的に極端に違う者たちをあげて、これらの差異さえも、イエス・キリストの御霊の働きによって根元的に解消されていると言うのです。これはすでに成就していることではなく、イエス様の御霊によって、終末的に成就することであり、「この時代」は、この目的に向けて導かれているという意味です。
【男と女もない】これはいわゆる性(ジェンダー)的な差別のことです。ここだけ原文が「男と女」になっています。ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人の間の差別は、歴史とともにキリストの御霊にあって解消されていくのが望ましいことです。ところが、「男と女」の場合は、これとは少し違うようです。男女の「区別」それ自体は、神によって定められたものですから、この違いを「解消する」ことはできません。むしろ、男も女も、それぞれ与えられた特質を活かして、互いに助け合い慰め合うのが、創造の神の意図なのです。「男女平等」とは、互いに人格的に対等であるという意味です。男女の「差別」は解消されなければなりませんが、その区別は活かすべきなのです。第一コリント人への手紙12章13節にもここと同じようなことが言われていますが、そこには男女の問題は出てきません。
   パウロがここで、宗教や人種や身分や男女などの人間的な異質性をイエス・キリストにある御霊にあって克服するように言っているのは、言うまでもなく、ガラテヤの現状が、そうはなっていないからです。だからこれは、現状を述べたものではなく、勧めであり、キリストの御霊にあって、わたしたちが終末へ向かって歩むための御霊の働きかけなのです。
29【キリストのもの】「キリストに属する」と訳すこともできます。普通パウロは「キリストにある」と言いますが、この信仰者とキリストとの結びつきは、後の書簡では、「キリストのからだ」の一メンバーであるというエクレシア(教会)観へと発展することになります(ローマ12章5節)。
【アブラハムの子孫であり】ここでパウロは、「キリストこそアブラハムの子孫」(16節)であることを、またそのことが「神の約束」に基づくことを(18節)読者に想い起こさせます。さらに26節の「あなたがたが皆神の子」であることと結びつけて、この段落を締めくくります。アブラハムの子孫であれば、「アブラハムの祝福を受け継ぐ」(9節)のです。
【約束に基づく相続人】ユダヤ主義者たちは、割礼を受けて、モーセ律法を守ることが、イスラエル民族が所有する「アブラハムの祝福」を受け継ぐ道であると教えていました。しかしここでパウロは、ほんとうの意味で「アブラハムの子孫」になるとは、「キリストのもの」となることであり、それは割礼や律法によるのではなく、キリストの御霊にある信仰によって「神から」与えられると言うのです。パウロの唱える「一致」が、ユダヤ主義者たちの唱える「一致」と全く異なることに注意してください。両者は、その根本原理において、互いに相容れないのです。ただし、「相容れない」のは、パウロがユダヤ人キリスト教徒たちの宗教的な生き方を排除するからではなく、彼らの側が、パウロの唱えるキリストの御霊にある一致を認めずこれを排除するからです。
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