(7)律法の役割
【聖句】
■3章15節〜29節
15
人の遺言の場合も、いったん有効になったら、
だれも取り消したり、追加したりはしない。
16その上、約束はアブラハムとその子孫に告げられたのであるが、
多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われていない。
そうではなく、一人を指して「あなたの子孫とに」と告げている。
この「子孫」とは、キリストのことである。
17そこでわたしはこう言おう。
神によって以前から有効だと確認されていた契約が、
それから四三〇年後に出てきた律法によって無効にされて、
その約束が反故にされることはないと。
18もしも相続が律法から出ているのなら、
もはや、約束から出たものではない。
ところが神は、約束によってアブラハムに恵みをお与えになったのである。
19では、律法とは何か? 
律法は、違犯のために付加されたもので、
それは約束された子孫が来る時までのことである。
律法は天使たちを通して制定されたもので、
仲介者の手を経ている。
20仲介者は、一方だけのものではないが、
神はひとりなのである。
21では、律法は神の約束と相容れないのか?
決してそうではない。
なぜなら、もしも命を創り出す律法が与えられていたとすれば、
義は、確かに律法から出て来たことであろう。
22しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めた。
それは、イエス・キリストの信仰から出る約束が、
信じる人々に与えられるためである。
23だからこの信仰が来るまでは、
わたしたちは律法の下に閉じ込められ監督されて、
来るべき信仰が啓示されるにいたったことになる。
24こうして律法は、養育係となって、
わたしたちをキリストのもとへ導いた。
信仰によって義とされるためである。
25しかし、この信仰が到来したからには、
わたしたちはもはや養育係に支配されない。
26だからあなたがたは、皆、キリスト・イエスにある信仰によって神の子である。
27だからキリストと結ばれる洗礼を受けたあなたがたは、
誰でも、キリストを着ている。
28もはや、ユダヤ人かギリシア人かはなく、奴隷か自由人かもなく、男と女もない。
だからあなたがたは、皆、キリスト・イエスにあって一つである。
29そこであなたがたがキリストのものであるのなら、
確かにアブラハムの子孫であり、
約束に基づく相続人なのである。

【注釈】
  
【講話】
(1)約束か律法か
   3章15〜18節でパウロは、アブラハムへの「祝福の約束」が、「アブラハムの子孫」(単数)にも及ぶと述べた上で、その「子孫」(単数)とはキリストを指すと言っています。さらに、神のこの契約/約束は、律法によって破棄されることはないとも言うのです。なぜパウロはこのように言うのでしょうか? それは律法主義者たちが、アブラハムへの神からの契約を割礼やモーセ律法とセットにして、これらの律法を遵守することなしには、アブラハムへの神の祝福は授与されないと主張するからです。パウロは、これに対して、アブラハムへの祝福の約束とその祝福を相続するのは、律法によるのではなく、神の約束によると反論するのです。なぜパウロは、約束と律法とは相容れないと言うのでしょうか? それはそもそも「アブラハムの信仰」に対して与えられた神からの「祝福の約束」の解釈が、律法主義的な人たちとパウロとでは異なるからです。パウロがここで言うアブラハムから相続する「祝福」とは、キリストの御霊のことです。だからパウロにとっては、アブラハム=アブラハムの子孫(キリスト)=祝福の約束(御霊)、この三つがセットになっています。ところが律法主義者たちには、アブラハム=アブラハムの子孫(ユダヤ民族)=モーセ律法がセットになっているのです。
   律法主義者たちは、アブラハムを自分たちユダヤ民族の先祖と見ています。またモーセ律法は、「アブラハムの子孫」としての彼らに、神から特別に与えられた祝福であり、民族の歴史的宗教的な誇りの源なのです。彼らのより所は、このような先祖からの過去の伝統に根ざしています。これに比べると、アブラハムをいきなりキリストに結びつけるパウロの主張は、やや「強引」であるという印象を受けます。しかしよく考えてみると、律法主義者たちのほうがパウロよりも強引なのです。なぜなら彼らは、割礼を含むモーセ律法の遵守なしには、キリストの御霊にある救いは完成しないと主張するからです。これに対して、パウロは、モーセ律法を遵守しているユダヤ人キリスト教徒たちに律法を破棄せよと迫っているのではありません。異邦人キリスト教徒に対して、モーセ律法を「強制する」ことを拒否しているのです。なぜ律法の強制を拒否するのでしょうか? パウロと律法主義者たちとは、いったいどこが違うのでしょうか?
   それは彼らとパウロとでは、「キリストの御霊にある」姿勢に違いがあるからです。律法主義者たちは、自分たちの民族的な過去に誇りを抱き、これを重んじようとします。彼らは、民族の先祖アブラハムとモーセ律法を通して、今の自分たちの霊的な状態を見ています。ところがパウロは、「現在のキリストの御霊」の恵みから、逆にモーセ律法を見ていて、さらにアブラハムへとさかのぼるのです。言い換えると、彼らは過去から現在を見ています。これに対して、パウロは、現在から逆に過去を見直しているのです。彼らは、自分たちの人種的な優越性と歴史的・宗教的な律法の優越性は変わらないと信じています。ところがパウロには、現在与えられているイエス・キリストの御霊の観点から見ると、かつての自分自身の有り様をも含めて、自分の民族、歴史的なモーセ律法の授与、アブラハムへの祝福の契約が、全く違った姿で見えてくるのです。彼らにとって過去は不変です。パウロにとって、過去は変わるのです。否、変わらなければならないのです。なぜなら、「悔い改める」とは、自分が今まで行なってきたこと、すなわち自分の過去を「改める」ことだからです!ちょうど数字の計算違いをした場合のように、そのままでつじつまを合わせようとしてもダメです。過去を信じてはいけません。もう一度「過去に戻り」、過去を検証し直す。これをやらなければ、これをやるまでは、問題は解決しないのです。このように、キリストの御霊にあっては、自分の「過去を変える」ことができるのです。「すべてを新しく創造し直す」ことができるのです。これがどんなにすばらしいことか、お分かりいただけるでしょうか。
   さらにもう一つ、パウロが約束と律法とは「相容れない」とする理由があります。パウロはここで、聖書の言う「アブラハムの子孫」(単数)とはキリストを指すと述べています。だから、アブラハムへの「祝福の約束」とは、イエス・キリストを通して初めて、「わたしたち」に注がれる聖霊の働きのことです。キリストの御霊に導かれ、その御霊にある生き方をパウロは「キリストの信仰」による歩みと呼びます。キリストの信仰によって、御霊にあって歩む者には、「律法の諸行」としての行ないは無用だとパウロは言うのです。なぜなら、「信じる」とは、「それ以外のいっさいのもの」を混入させないことだからです。このことをはっきりと指し示したのが、キェルケゴールというデンマークの哲学者です。御霊にある信仰とは、それだけで完結した世界です。だから、信仰「と」律法、信仰「と」何かほかのもののように、「と」は要らないのです。パウロにとって、「アブラハムが恵まれた約束」(18節)とは、このような「と」の入らない御霊の賜だったのです。
   現代のアメリカでは、聖霊運動が盛んです。しかし、最近のアメリカのキリスト教全体の動きは、聖霊運動をも含めて、アメリカ第一主義の保守的な傾向を強めているようです。御霊の働きが、時代のキリスト教の先端を行くのか、あるいは逆に保守化して古い体質へ逆行するのか、この分かれ道はどこにあるのでしょう? 私の見るところでは、ここでパウロが見ているキリストの御霊にある福音か、それとも律法主義的なユダヤ人キリスト教徒の福音か、というこの分岐点とつながっているように思われます。
(2)律法の役割
   それでは、パウロの目に映ったイスラエルの過去とは、どのようなものだったのでしょうか? 彼にとって、律法主義者たちが誇りとするモーセの律法は、けっして彼等の言うような絶対的なものでありませんでした。モーセ律法は、アブラハムへの契約から430年たって、後から付け加えられた補助的な意味にすぎないことが分かったからです。イスラエル民族だけでなく、民族主義的な人たちはしばしば、自分たちの過去を絶対化したり賛美したりして、民族のアイデンティティを確立しようとします。けれどもパウロには、イスラエルの過去がそのようには映らないのです。彼は、キリストの御霊によって、イスラエルの歴史の根源へと、すなわちアブラハムへとさかのぼります。「そこから」モーセ律法を観るのです。御霊はパウロを現在の時に置きます。そこから、イスラエルの歴史の原初へとさかのぼらせます。「今」と「始め」、このふたつの間に置かれたものとして、モーセ律法を見ているのです。
   パウロは律法を貶めるのではありません。否定するのでもありません。彼は律法を現在の視点から「正しく位置づける」のです。彼は、このような歴史感覚によって、新しいイスラエルの歴史を見通すのです。ではパウロは律法をどのように位置づけたのでしょうか? 彼は、それまでのイスラエルの歴史をそれ以外の異邦人の歴史、言い換えると「イスラエル以外の諸民族の歴史」との関連の中に置いて、これをとらえたのです。彼はモーセ律法もイスラエルの歴史も、全世界の諸民族との関係において、改めて見直しています。そこからイスラエルに与えられたほんとうの意味での歴史的使命、いったいそれはなんだったのか? とこれを問いつめ、見直し、洞察しようとしているのです。「正しい」歴史認識とはこういうことなのです。
   彼が観たイスラエルの律法制度は、イエス・キリストの到来によって、すでにその役割を終えていることでした。アブラハムへの契約とこれに続く割礼とその後で加えられたモーセ律法の体系は、世界を救うメシアがイスラエル民族から出現するために、神がその民を選び、律法を与えて、イエス・キリストの出現へと導くための準備であったこと、このことをパウロは「今初めて」知ったのです。キリストが顕われた今となっては、もはや律法は、その一定の役割を終えたのです。民族のどのように輝かしい歴史も、神から与えられた一定の役割があります。これが終われば、その歴史は「過去のもの」となるのです。そこから新しい歴史の創造が始まるからです。ところが、律法主義者たちは、すでに役目を終えたはずの「古い革袋」に新しいキリストの御霊の福音というぶどう酒を入れようとするのです。パウロがこれに断固として反対するのはこのためです。
   パウロの目に映ったユダヤ人一般の姿は、自分たちの伝統だけに固執して、周囲の諸民族との関係も、自分たちの置かれた歴史的な状況も目に入らない、偏狭な民族主義にとらわれた姿でした。そのような偏狭な歴史観が、どのような恐ろしい危機を招くことになるのか、パウロがこれをどこまで見抜いていたかは分かりません。しかし、パウロが憂いをもって見たこの偏狭なユダヤ民族主義が、国と民とを滅ぼす結果になりました。パウロも、このことを予感していたのではないでしょうか。少なくとも神は、パウロの口を通して、ユダヤ主義者や律法主義者たちに、このような事態を警告していたのです。
   旧約の預言者たち、例えばアモスもホセアも、彼等の預言において、北イスラエル王国の豊かな土地やヤロブアム王の功績などに目を奪われませんでした。彼等は、やがて北イスラエル王国が、アッシリアによって滅びると預言したのです。イザヤも南ユダ王国に向かって、アッシリアに手向かうなと預言しました。しかし、ヤハウェ主義の王であったヒゼキヤは、アッシリアと戦って敗れたのです。エレミヤも、南ユダ王国で、バビロニアと戦うなと預言しました。預言者たちは、彼等の預言において、パウロと同じように、イスラエルの過去を絶対化しませんでした。彼らは、その時に自分が置かれた状況の中で、イスラエルの過去を正しく位置づけようとしたのです。イザヤにもエレミヤにも、かつてのダビデ王朝の権勢やソロモン時代の栄華は、もはや色あせたものに映っていたのです。こういう正しい歴史認識ができたのは、彼らがヤハウェの御霊を受けていたからです。彼らはイスラエルの過去の栄光や栄華に目を奪われることなく、今のユダ王国の現状を世界の歴史の中に置いて観ていたのです。だから彼らは、「大丈夫だ。大丈夫だ。」というヤハウェ主義の預言者たちを偽預言者と呼んで厳しく批判したのです。ちょうどパウロが律法主義者たちを偽預言者と呼んでいるのと同じです。
(3)聖書的律法主義
   パウロの信仰は、いまだ土地を持たないままに神を信じたアブラハムの信仰へ立ち返ろうとすることでした。ヤハウェの神は、ほんらい特定の国や国土に属さない、「土地(国)を持たない神」だからです。こういうアブラハムほんらいの信仰に立ち返ることによって、異邦人キリスト教徒たちには、過去のイスラエルの律法制度に縛られることなく、自由なキリストの御霊にある交わりが開かれるからです。ところが、ユダヤとエルサレムを中心に置く律法主義者たちの意図は、律法の「押しつけ」によって、せっかく与えられた異邦人キリスト教徒への御霊にある自由を奪おうとするものだったのです。
   今日においても、特定の国に本部を置いて、そこを中心に伝道活動を続けているキリスト教の宗団が多数あります。それらの宗団の組織的な働きの意図は、このガラテヤ人への手紙で語られている「律法主義者たち」の姿勢に類似しているとは言えないでしょうか。自分たちの国なり民族なりが受け継いできた聖書の宗教をそのまま「異教の人たち」に押しつけようとするところがないでしょうか。ガラテヤの信徒たちに生じたこの問題は、現代においても本質的に変わってはいないように思われます。ガラテヤの教会においては、パウロの伝えたキリストの御霊にある自由な信仰と、制度化した聖書的律法主義の宗教とが、「両方とも同じ時に」、互いにぶつかり合う形で伝えられたのです。ガラテヤの信徒たちが混乱するのは当然です。
   21節でパウロは、「律法は神の約束と相容れないのか? けっしてそうではない」と言います。律法の時代は、キリストが到来するまでの間、イスラエルの準備期間でした。わたしたちはこのことに注目しなければなりません。パウロは、律法は命を創り出す力を持っていないけれども、律法は「別の働き」をすると言うのです。ではその「別の働き」とは何でしょうか? 23節でパウロは、律法がわたしたちを「監督し」「保護する」役目をしてきたと言うのです(この言葉は、保護する/監督する/見張る/警護するなどの意味があります)。イスラエルの律法制度も日本の伝統的な宗教も、それぞれその国と民族とを守ってきました。保護してきました。しかし、必ずしもそういういい面だけではありませんでした。日本の過去の宗教制度と伝統は、日本の民を「監視し監督し支配」してもきました。「国民」を「保護する」と言いながら、同時に束縛し監視もしてきたのです。だからパウロは、ガラテヤの信徒たちが、従来のガラテヤの宗教的な慣習を離れて、聖書の律法的なユダヤの慣習に従うことを「逆戻り」と言ったのです。
   (4)キリストを着ること
   けれども今はイエス様に浸されて(洗礼されて)、イエス様を身に「まとっている」のです。28節にあるユダヤ人とギリシア人には、人種的な違いもありますが、むしろ宗教的、文化的な違いのことです。もはやキリストにあっては、聖書の民だ、異教の民だという宗教的な違いはないのです。奴隷か自由人かという社会的身分の違いもないのです。男女の差別とあるのは性(ジェンダー)の違いです。もはやこれもない。パウロは、宗教と社会と性別、この三種類の最も極端な違いの場合をあげているのです。にもかかわらず、「キリストを着る」こと、すなわちキリストにあってひとつなのです。法の下に平等だという言葉がありますが、イエス様の霊法のもとにあっては、「人格として」平等なのです。アブラハムへの祝福とはキリストの御霊のことです。キリストの御霊に与る者は「キリストのもの」(29節)です。わたしたちがほんとうの「アブラハムの子孫」なのです。こうパウロは言うのです。
 ここでは「同じで違う」ということが起こっています。同一化と差異化とが問題になります。これは「無意味と意味」に関係します。虫と人間のように、全く別種のものを比べるのは無意味です。逆に全く同じものを比較するのも無意味です。完全に異質なものの間では、あるいは完全に同じものの間では、「意味」が失われるのです。同じで違う、個々に人間としての「意味」が生まれるのです。「意味」が生まれるというのは、その人たちとの間に「交わり」が生まれることです。逆に「意味」がないところに交わりは生まれません。虚無か憎しみが生じる恐れがあります。双子を育てる難しさがこれですね。同じでもなく異質でもない。適度に同じで、適度に違う扱いをする。これが大事です。鏡の部屋に入れられると人間は気が狂うそうです。クローン人間が不気味なのはこのためです。同一化されると人間は意味を失うのです。そこには、支配と暴力が発生します。
 神と人間とは完全に異質ですから、交わりは生じません。この両者の間に、神でもあり人でもあるイエス・キリストが来られて、「父なる神」として人間と神との間に交わりを創り出してくださったのです。神が人間となられたというのは、この意味ですね。三位一体の神は、神としては超在する。しかし御霊としては人間に内在する。神は人ではない。しかし神はイエス・キリストという人格の神としてご自身を啓示された。これが聖書の神です。聖書の神は「交わり」の神です。男女の間には交わりが必要です。親子関係に「交わり」は要りません。しかし、親子と言えども他者として扱うこと、すなわち交わりが必要ですね。最近は家族も昔のように、同じ世界にいるとは限らないから、互いに交わりを創り出す必要があります。昔のように、ひとつ屋根の下で、生活も何もかも同じではなくなりました。このように、イエス・キリストにあって、わたしたちは、違っていながら同じである状態におかれて、そこに「交わり」が生まれるのです。国籍、性別、職業は、関係ないです。
 ちなみに、フランス革命(1789年)の際の人権宣言の中に「自由と平等と博愛」とありますが、ここで言う「自由」の根源には男女(夫婦)の間に成り立つ交わりの自由があり、「平等」には民族間の対等性がこめられており、「博愛」は社会的な階級差別を越える愛を指しています。この精神は、フランスからアメリカ独立の際に贈られたニューヨークの自由の女神に受け継がれています。これはパウロが言う、「男と女」「ギリシア人と未開人」「奴隷と自由人」の差別の撤廃を受け継ぐものだと言えましょう。
 イエス・キリストのペルソナを身にまとうことによって、ユダヤ人とギリシア人という聖書の民と異邦の民、自由人と奴隷という社会的身分では両極端の人たち、男と女という全く違った性質の人間、これらが、同じキリストの御霊にあって、対等に向き合う。対等に向き合うことによって、互いの間に「同一化」ではなく「交わり」が生じること、これがイエス・キリストを受け入れる時に起こることなのです.

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