【注釈】
[1]【悟りの鈍い】自分たちに与えられている御霊の賜の意味を正しく洞察できないことです。ルカ24章25節では、「悟りの鈍い」は、御霊のイエス様のご臨在と聖書の御言葉とを結びつける悟りがないという意味です。ガラテヤの人たち全般について、生まれつき愚かであるという意味ではありません。パウロのここ1節〜5節での叱責は、ガラテヤの信徒たちの具体的な行動を念頭に置いていると思いますが、それは後の4章8節〜20節に出てくることと関連しているのでしょう。
【たぶらかした】新共同訳では「惑わす」と訳しています。原語には、「異端の教えに引き込む」という意味があります。新約聖書での「惑わす」は、ふつうこの意味です。しかし、原語そのものは、魔女などが、ねたみや悪意を抱いて相手に魔術をかけて呪うことで、この目的のために「目をくらませる」「たぶらかす」ことです。パウロの敵対者たちが、御霊にある自由が与えられていることで、ガラテヤの信徒たちを「うらやましく」思い、ねたみを感じていた。こういう解釈もあります。パウロは、せっかくよい賜を与えられているのに、信徒たちがだまされてこれを失いかけていると警告しているのです。
【十字架につけられたイエス・キリストが描き出された】ここでは、「目の前に」とあるから、ガラテヤの信徒たちに、キリストが「見える姿で」はっきりと顕現したという意味です。ただし、こういう視覚的な表現にも、キリストの十字架についてパウロが語った言語的な意味もこめられているのは間違いありません。ただし、「描き出される」とあるのですから、ここでは明らかになんらかの視覚的な顕現があったとみるべきでしょう。「あなたがたのただ中で描き出された」という写本もあることは、そのような視覚的な状況を裏書きしています。なお「十字架された」は、完了形分詞で、イエス・キリストの贖いと復活がすでに完了した結果として、今ガラテヤの信徒たちの前に顕われていることを指します。なお、「描き出される」の原語は、「前もって書き出される」という意味にもなるから、「旧約で預言されたいたとおりに」(ローマ15章4節)イエス・キリストが十字架にかけられたと解釈することもできます。
イエスは、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14章27節/マタイ10章38節)と教えています。この言葉は、イエスが生前に弟子たちに語った言葉だと考えられますが、ここでは「イエスに従う」ことが大事な点であって、「十字架を背負う」ことは、従うことの厳しさを言い表わしたものでしょう。十字架刑は、イエスの時代の最も一般的なローマ帝国の処刑の方法でしたから、「たとえ死ぬおそれがあっても」従う覚悟がいることを教えたかったのです。したがって、この言葉は、「十字架にかけられる」ことそれ自体を目的と見て、これを目指すように教えているのではありません。ところが、イエスの十字架が現実の出来事となった「後では」、イエスのこの言葉が、違った意味を帯びるようになりました。この言葉は、「イエスの十字架それ自体」を目指すよう教えていると受け止められるようになったと思われます。イエスの生前には、「従う」ことを教えるための十字架のたとえが、イエスの復活以後では、十字架にかかることこそ、「従う」ことだという意味の転換が生じたのです。「十字架」についてのこのような転意は、復活以後のキリスト者たちによると思われますが、復活以後のこの十字架の意味を受け止めて、十字架されることこそ従うことであると信じたのがパウロでした。彼にあっては、キリストと共に十字架されることこそが、キリスト者の信仰の目的であり、同時にイエス・キリストに「従う」ことなのです。パウロは、この十字架信仰を霊的、神学的に深めましたが、以後のキリスト教は、このパウロの信仰を継承するようになりました。ただし、イエスの生前であっても、イエスの十字架以後であっても、「十字架」が、比喩的(隠喩的)な意味で用いられていることに変わりはありません。
[2]【あなたがたが御霊を受けたのは】1節での聖霊体験による視覚的な描写が、続く2節と3節によっていっそう確かなものとされます。パウロは2節で、信頼できる確かな証拠として、ガラテヤの信徒たちが「すでに体験し」、また「現に体験しつつある」聖霊の働きを思い起こさせるのです。パウロは、ペトロへの使徒職とパウロへの使徒職との比較の場合にも、同じように「現にパウロを通して働いている」御霊について述べています(2章8節)。ロンゲネッカーが指摘するとおり、従来のガラテヤ人への手紙の注釈者たちは、パウロの聖霊体験を過小に評価してきた嫌いがあります。ガラテヤ人への手紙では、「御霊」に関する言及は、ここ3章2〜5節と5章16〜26節に集中しています。しかし、この両方のセクションに挟まれた部分にも、彼が暗黙のうちに御霊の働きを意識しているのは明らかです。「御霊によって始めた」とありますが、ガラテヤの信徒たちが体験した「受霊」が、具体的にどのようなものであったかを見定めるのは難しいです。おそらく異言を伴う聖霊体験に始まり、これに、ヴィジョンや預言も伴っていたと思われます〔バートン〕。それが時には、「アッバ、父よ」という呼びかけとなって発せられたのでしょう(4章6節)。
【信仰の聴従からか】字義どおりに訳せば、「信仰を聞くことから」。先には、「律法の諸行」に対して「キリストの信仰/信実」が対照されましたが、ここでは「律法の諸行」に対して「信仰の聴従」が対照されます。しかし先にはこの対照が、ユダヤ人キリスト教徒たちに向かって提示されたのですが、ここでは異邦人キリスト教徒たちに提示されているのです。だからここでの「聴従」には、ガラテヤの信徒たちが、誰かの言うことに「聞き従う」ことではなく、「パウロの語るキリストの信仰」の福音を聞くことです。だから、聴き従うには、語られる内容自体も含まれています。ガラテヤの信徒たちが御霊を受けたのは、「パウロが語る」信仰の福音を聴従したからなのです。
[3]以下14節までは、佐竹明氏によれば、次のように対称形の構成になっています。
2〜5節:霊の働き。
6〜9節:アブラハムの祝福。
10〜12節:律法の呪い
13節:律法の呪いからの解放。
14節:アブラハムの祝福。
14節後半:霊の働き。
【霊によって・・・肉によって】「始まる」の動詞はアオリスト分詞で、「仕上がる」は現在形受動です。だから「仕上げる」よりも「仕上がる」のほうが正しいでしょう。「仕上がる」は「完成する」「終わる」と訳すこともできます。ここで「霊」とあるのはイエス・キリストの御霊の働きによって与えられる「人間存在の霊性」ことです。これはパウロ独特の言い方です。彼はこの「霊」に対照させる意味で、「肉」という表現も用います。「肉」は、「肉体」をも含む人間存在が、神とは関係なく、時には神に逆らう性質を言い表わす場合に用いられます。ただし、「肉」という言い方はパウロ独自のものではなく、すでにユダヤ教で用いられていました(イザヤ31章3節)。
「霊によって始まった」とあるのは、イエス・キリストを信じて洗礼を受けると同時に聖霊の賜をも体験したことを指しているのでしょう。パウロに限らず、原初のキリスト教では、洗礼と受霊は、ほぼ同時に体験されました。これに対して「肉によって仕上がる」とは、洗礼によって始まったキリスト教を、モーセ律法を中心とするユダヤ教を受け継ぐことで「完成させる」ことを意味しています。ここではより具体的に、ガラテヤの信徒たちが、ユダヤ人と同じように「割礼を受ける」ことを意味します。これが、ガラテヤを訪れていたユダヤ主義のキリスト教徒たちの教えだったのです。
しかしパウロに言わせると、これでは、せっかく「信仰の聴従」によって御霊の働きを体験したのに、この体験を人間の努力や意欲から生じる「律法の諸行」によって置き換えることにほかならないのです。これでは「完成」でなく「逆戻り」です。なぜなら、このような「仕上がり」方では、宗教的な誇りや律法の諸行に伴う優越感が助長されるだけで、従来の制度化した宗教的な営みと何一つ変わるところがないからです。宗教的な制度に逆戻りするなら、そこには宗教的な隔ての壁が「新たに作られる」にすぎません。割礼にせよ洗礼にせよ、そのような肉体に帯びたしるしだけが残り、御霊の真の働きが失われることになります。こうなりますと、クリスチャンに期待される「愛と喜びと平安」は訪れることもなく、御霊にあるその人の霊性の成長も望むことができなくなります。パウロは、「神が始めた御霊のみ業が、あなたがたにあって成就される」ことを願っています(フィリピ1章6節/3章3節)。なお、「肉によって仕上がるのか」は、人間の「意図的な」努力を含むと見て、新共同訳では「肉によって仕上げようとするのですか」と訳しています。ここで指摘されている「霊」と「肉」との対比は、形を変えて5章16〜25節にも表れます。
[4]【あれほどの体験をした】原語の「体験する」は、新約聖書では、多くの場合「苦しみを受ける」の意味で、特にキリストの「受難」”passion”を表します(ルカ22章15節他)。したがってクリュソストモスやその他の多くの注解者は、ここをこの意味に理解して、キリストのために苦しみに出合ったことだと解釈しました。特にパウロの言う「ガラテヤ」を広い範囲でのローマの行政区を指すと理解する場合には(南ガラテヤ説)、ここを使徒言行録14章22節と結びつけて解釈します。
しかしながら、このギリシア語は必ずしも「苦しみ」だけを意味するのではなく、「よい思いをする」「有益な体験をする」の意味にも用いられます。小アジア中部の比較的狭い範囲をここの「ガラテヤ」とする場合には(北ガラテヤ説)、そこの信徒たちが特に苦しい体験をしたという記述は見あたりません。特にここ4節では、その前に「霊を受けた」ことが語られ、5節では御霊の「不思議なみ業(わざ)」が生じたことが語られていますから、ここでパウロの言う「あれほどの体験」というのは、ガラテヤの信徒たちが、洗礼に伴う御霊の授与と様々な霊的なしるしや働きを体験したことを指していると見るほうがいいでしょう。なお「あれほど」は複数ですから、「驚くようなみ業・奇跡」という意味だけでなく、5節で述べるように御霊の様々な働きをも含むと思われます。
【もし無駄と言うのなら】原文を直訳すれば「もしも無駄だったとすれば・・・」という条件節です。英語の”if in vain indeed!”。確かに「御霊によって始まる」のは、人間的な業を超えた御霊の恵みと憐れみの働きであり、これに対して「肉によって仕上がる」のは「律法の諸行」に基づく人間の意図的な努力によります。しかし、たとえ人の意図的な諸行によって、せっかく与えられた御霊の働きが妨げられたとしても、それで御霊が、ご自身の働きを止めるわけではありません。御霊はなおも人に働き続けて、その恵みを証ししようとするからです。だからパウロは、あれほどの御霊のしるしやみ業が与えられたのに、それらの体験を今になって無駄にするのか? とガラテヤの信徒たちに問いつめる一方で、御霊の働きに希望をつなぎつつ、彼らがキリストの十字架の恵みに「立ち返り」、これに「留まる」ことを期待しているのです。このような意味をこめて「もしもこれを無駄と言うのなら」と訳しました。パウロはここで彼らを「見放す」のではなく、逆に期待をつなぎつつこういう言い方をしているのです(4章11節参照)。
[5]【御力を働かせた】「御力」はここでは複数で、御霊の様々な具体的な現われ、異言や預言を含む霊的なしるしや奇跡や力ある働きのことです(第一コリント12章7〜10節参照)。また、パウロ自身が使徒として彼らの間で行なった御霊の力ある働き(第二コリント12章12節)だけでなく、「あなたがたの間で」とあるとおり、ガラテヤの信徒たち自身の間でもさまざまな御霊のみ業が現われたのでしょう。だからこれらの現われは、外からは見えない「個人の内面」で生じたという意味だけではありません。
また「神の御力の働き」は、宇宙的な規模で人間や世界に神が「働きかける」ことをも示唆しています。知恵の書(15章11節)に、人を創造した神から来る「働く霊」(新共同訳では「活動する魂」)とあるのもこの意味です。こういう神のみ業が、超自然的と見なされる場合に、それは「奇跡」〔新共同訳〕として認識されます(マタイ14章2節参照)。「御力」が具体的な現われであるのならば、それらは、宇宙の創造者である「神の働き」から出ていることですから、ここでの神の働きを「教会の中」だけに限定する必要はありません。大事なことは、5節の「神の御力」が、現実に「働く」のは、人間の意図や計らいや努力から生じる「念力的な霊力」ではなく、宇宙的な規模での神の創造のみ業に基礎づけられていることです。それゆえに「律法の諸行」からではなく、「信仰の聴従」によって、すなわち、神の御霊の働きに委ねることによってしか生起し得ないのです。パウロはこのように、1節〜4節で述べたことをこの節でまとめて、6節へとつないでいます。
[6] 6節から9節まででは、アブラハムが受けた祝福とその根拠、およびアブラハムに約束された祝福を受け継ぐことが語られます。ここには、「信仰による」「義」「アブラハムの子孫」「異邦人を義とする」「すべての民への祝福」「アブラハムへの福音」など、福音の理解への鍵となる語が並んでいます。パウロの念頭にあるのは創世記15章5〜7節です。これに対して、彼の反対者たちは、創世記17章1節〜14節を引用しているのでしょう。特に問題となるのが創世記17章14節です。パウロに反対するユダヤ主義のキリスト教たちは、この節を根拠にして、異邦人キリスト教徒にも割礼を迫っているからです。なおパウロの他の文書で、この部分に並行するのはローマ人への手紙4章1〜12節です。
【アブラハムは神を信じた】アブラハムについては創世記に三つの重要な記述があります。彼の信仰による義認(15章6節)、祝福の契約と割礼(17章4〜14節)、律法の成就者としての功績(26章5節)の三つです。この三つを総合して、ユダヤ教でのアブラハム観を最もよく表しているのが、シラ書44章19〜21節の次の文でしょう。
「アブラハムは諸国の民の偉大な父であり、その名声には何のかげりもない。彼はいと高き方の律法を守り、神は彼と契約を交わされた。彼は契約のしるしを体に受け、試みに遭ったときも、忠実であり続けた。それゆえ、神はアブラハムに次のように約束された。諸国の民は彼の子孫によって祝福を受ける。彼の末は地の砂の数ほどに多くなり、その子孫は空の星のように高く上げられる。海から海に至り、川から地の果てに及ぶ地を、彼らは代々受け継ぐようになる。」
ここには、アブラハムの信仰、律法の成就、契約、割礼、約束、諸国民の父、子孫への祝福の源など、アブラハムにかかわるすべてが含まれています。これらのゆえに、ユダヤ教では、アブラハムは、イスラエルへの罪の赦しを神に求める際の執り成しの根拠となり、彼の功績のゆえに子孫の罪が贖われるという信仰が伝承されていたのです。
ただし、ユダヤ教のこのアブラハム観には、今ひとつ重要な側面があります。それは、異教からの「最初の改宗者」としてのアブラハムです。なぜならアブラムは、異教的偶像礼拝のウルから抜け出して、ヤハウェを信じたからです(創世記12章1〜4節)。したがって、ヘレニズム時代には、アブラハムは、「改宗者の父」としても位置づけられていました。パウロがガラテヤの信徒たちにアブラハムを持ち出す時、まさにこの点に注目しているのです。パウロがここで、アブラハム問題を取り上げているのは、ガラテヤを訪れたユダヤ人キリスト教徒たちが、アブラハム問題を持ち出したからでしょう。彼らは自分たちを「アブラハムの子孫」と位置づけ、異邦人キリスト教徒も、割礼を受けることによって、「異邦人のアブラハム」となることができると説いたのでしょう。「アブラハムの義」とは、ユダヤ教においては、このように、彼が律法を守った功績に対する「律法による義」のことだと理解されていました。
これに対してパウロは、創世記15章6節において、異邦人キリスト教徒がアブラハムの子孫に所属するのは、「信仰と約束」にのみ根拠を持つと主張するのです。パウロは、アブラハムが「義と認められた」その後になってから、初めて律法が付加されたと見るのです。だから律法それ自体の授与は、アブラハムへの神の約束とは、直接関わることがないのです。この解釈に基づいて、パウロは、「律法の諸行なし」で、アブラハムが義認を授かったと証しするのです。このように、パウロは、「歴史的な経過に基づいて」、アブラハムを律法から切り離すのです。パウロによれば、アブラハムの義認は、彼に対する神からの信実に応える信仰によるものであって、試練に耐えて、律法を忠実に守った「功績」によるのではないのです。アブラハムは、信仰による改宗者として「神に受け入れられた異教徒」です。パウロが6節の冒頭で、「それはちょうどアブラハムのように」と言う時に、彼は、アブラハムをば、「ユダヤ人キリスト教徒の」ではなく、「異邦人キリスト教徒の」模範として引き合いに出すのです。
このようなアブラハム観は、当時のヘレニストのユダヤ人キリスト教徒たちに共通するという説もありますが、ここまで徹底しているのは、おそらくパウロ独自のものでしょう。パウロの対立者たちは創世記17章を引用して割礼の必要を説いたのですが、パウロはこれに対して、創世記15章6節をほぼ七十人訳のとおり引用して、これに反論しています。ただしパウロは、アブラハムへの義認以前の出来事、すなわち創世記14章で語られるロトの救出やメルキゼデクからの祝福などについては何も触れていません。これらは、アブラハムが義と認められるまでの「アブラハムの功績」として、パウロに反対するユダヤ人キリスト教徒たちがあげていたからでしょうか。
以上をまとめて、次のことを確認しておく必要があります。
(1)ユダヤ教では、アブラハムの信仰とこれによる行為が、「彼の功績」と見なされ、義認はこの功績に対して与えられたとされた。ところがパウロは、アブラハムの信仰をちょうど異教からの改宗者のように「不信心な者を義とする」神からの恵みと結びつけた。
(2)アブラハムの信仰は、キリストの到来を必ずしも前提にしなくても、「神を信じる」ことそれ自体に義認を見ている。こうすることでパウロは、ユダヤ人も異邦人も、共に神に「義と認められる」根拠として「アブラハムの信仰」をあげていて、これによって両者を統一的にとらえている。
「キリストの到来を必ずしも前提にしなくても」と言いましたが、アブラハムの信仰それ自体のうちに、イエス・キリストへの信仰を予告する意味があることを無視することができません。これは、アブラハムが、キリストの「予型」(タイプ)であるという見方につながります。しかし、パウロはむしろ、アブラハムをイスラエル民族の始祖だけではなく、「ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との共通の始祖」でもあるという視点に立っているのです。したがって、パウロのアブラハム観は、基本的にイスラエル民族の救済史をそのうちに組み込むものであって、いわゆるキリスト論的な予型の視点から、イエス・キリストへの信仰のみに救いを限定し、こうすることによって、イスラエル民族を神の救済史から閉め出そうと意図するものではないのです。
【認められた】「認める・見なす」とあるのは、ある人なりある物なりをあることに「相当する価値がある」と判定することです。大胆な言い方をすれば、実際はそうでなくても、「それに相当する」と「見なす」ことです。しかし、明らかに事実に反することを「事実だと見なす」という意味ではありません。だから、たとえ無割礼の者でも「割礼に相当すると見なす」(ローマ2章26節)場合に、それは「無割礼」の者を無条件で「割礼に相当する」と見なすことではありません。それとは知らずに「律法を行なう者」が割礼ありと「見なされる」のです。これと同じく、その人に律法の諸行がなくても、その信仰を「義に相当すると見なす」(ローマ4章4節)と言うのがここでの意味です。したがって、たとえ罪人でも、その罪が赦されるなら、罪ありと「見なされない」のです(ローマ4章7節)。同様に、「肉による」アブラハムの子ではなく、「約束による」アブラハムの子が、アブラハムの子孫と「見なされる」(ローマ9章8節)ことになります。同じ論法によって、信仰によるガラテヤの信徒たちも「アブラハムの子孫」と見なされるとパウロは言うのです。「神はキリストにあってこの世(の人々)を罪過ありと見なさない」(第二コリント5章19節)とあるのもこれと同じです。
ただしここでは、「見なす」のが「神」であることが、改めて注目されなければなりません。なぜなら「神が」見なす場合に、それはただ現実に反することを「認知」するという意味ではないからです。人間とは異なり、神の言葉は「創造する」力として働くからです。だから、パウロが、キリストへの信仰によって、「不信心な者を義と見なす」と言う場合に、そこには神の御霊にある「創造的な働き」の意味がこめられていると見るべきです。アブラハムに対する「義認」の場合でも、彼の「信仰」を根拠にしているけれども、そこには、神に受け入れられる「義」の性質を実際に具えるという有り様をも含んでいると見るべきです。だから、ここでの「認める」に虚構の意味はありません。それは神による「創造的な義認」だからです(テトス3章5節)。ただし、「認める」根拠は、基本的に法的な意味であり、神に受け入れられる「行為や性質」それ自体のことではありません。パウロの特長は、「義」と「救い」とが密接に結びついていて、それが「キリストの恵み」を基盤にしていることです。
【義】「義と認められた」と言う場合の「義」「正しさ」”righteousness”は、ギリシア語ほんらいの意味では、民族、都市、国家などの共同体の基準に照らして「正しい」ことです。この場合の基準は法的な意味だけでなく道徳的・倫理的な意味も含まれます。
(1)旧約では特に神と神の民としてのイスラエル共同体の基準(神からの律法あるいはイスラエル共同体の伝統)に照らして「正しい」ことです。
(2)ただし、神の基準とイスラエル共同体の基準とが必ずしも一致するとは限りません。神の基準は人の基準としばしば異なるからです。このために、「義」は、しばしば「現実に神に受け入れられる」ことになります。この場合、ヘブライの「義」は、ギリシアとは異なり、そこには常に「相互関係」が含まれてくることになります。「義に相当すると見なす」という創世記15章6節の意味は、このように神と人との相互関係において理解されなければならないのです。だからそこには、人間の側から見た神への「意外さ/驚き」も含まれます(ヨブ9章2節/申命記24章12〜13節/詩編71篇19節/知恵の書15章3節など)。
(3)宗教的な意味での「義」は、神と人との契約関係と深く関係します。この場合、通常の人間同士の「契約」”contract” のことではなく、神が一方的に人を保護するという意味での「聖約」”covenant”のことです。だから、神と人との契約に基づく「神の義」は、しばしば「神の信実」や「神の憐れみ」と結びつくことになり、七十人訳ではヘブライ語の「義」は、「信実」とも訳されています。
(4)このような「神の義」は、しばしば虐げられた人たちを圧制者から護る「神の裁き」とも関連し、特にイザヤ書40〜66章では、「神の義」は、「神の救い」として語られます(詩編72篇)。しかし、このように「救い」として語られる「神の義」は、初期ユダヤ教では、すなわちキリスト教が始まる直前の頃にはあまり見あたらないようです。
(5)新約聖書においても、「義」に含まれる法的・倫理的な意味は失われていません。「義」は、神の要求に応え、あるいは神の教えを成就することで「神に受け入れられる」ことを意味します(マタイ3章15節/5章10節/ヨハネ16章8節/ローマ6章13節など)。マタイやルカでは、「義」は神を喜ばせる行為であり、また終末において「正しい裁き」に耐えて神に受け入れられることです。
以上のことから、いったい何が、「神に受け入れられる」ための条件なのか? おいうことが問われることになります。ローマ4章で説かれるように、「義」は人の資質や性格や行為によるのではなく、神の「赦し」に基づく。これが新約聖書の基本です(ガラテヤ3章6節/ヘブライ11章7節)。同時に、神からの「義」は、その人の生き方に基づいて、未来において、すなわち終末に授与されるものなのです(ガラテヤ5章5節/フィリピ3章9節)。
[7]【アブラハムの子】ここで、この書簡の4章の終わりまでの鍵となる「アブラハムの子」という表現が出てきます。この表現は、おそらく、パウロの論敵が用いているのをそのまま彼らに対する反論として出しているのでしょう。論敵たちが、この表現をガラテヤの信徒たちに向けて用いたのは、(1)アブラハムの受けた契約とこれに由来する割礼を受けることで、ガラテヤの信徒たちも改宗したユダヤ教徒となり、これによって、アブラハムの子孫としての祝福とその「正統な」相続に与ることができること。(2)この時代、「救い」という言葉は、個人の救いのことではなく、民族や家族や部族などの共同体の一員として初めて意味を持つ言葉であったこと。したがって、ガラテヤの信徒たちもアブラハムの子孫としての「ユダヤの民」に組み込まれることによって初めて、「救い」が完成されるとパウロの論敵たちに教えられたと思われます。
これに対してパウロは、(1)「アブラハムの子」とは、アブラハムの契約と割礼を受け継ぐことではなくて、彼が義と認められた「信仰」こそが、アブラハムから受け継ぐべき資質であると言うのです。この考えの背後には、「子」とは親の資質を受け継ぐ者のことであるというヘブライの伝統的な解釈があります。例えば、神の性質を宿すものこそ「神の子」であるという考え方です。(2)パウロは、人間的な血筋による(肉による)アブラハムの子孫としてのイスラエル民族に所属することではなく、霊的に「新しいイスラエル」に属することこそ、アブラハムの正統な相続権を得る道であると言うのです。ここに、「アブラハムの子/子孫」とは、そもそもなにか? というアブラハムを継承するその「正統性」が初めて、問われてくることになります。
[8]【聖書は先見して・・・福音を予告した】パウロは、ローマ人への手紙15章9〜12節にもあるように、旧約のいたるところから、異邦の民に神の祝福が及ぶことを読み取っています(第二サムエル22章50節/詩編18篇50節/117篇1節/イザヤ11章10節)。しかし同時に、イスラエル民族も異邦人と共に救いに組み込まれているのに注意しなければなりません(ローマ15章8節)。なお「福音を予告する/前もってよい知らせを伝える」という動詞は、聖書にも七十人訳にもヘブライ語にも見あたりません。ただしフィロはこの語を用いていますから、パウロはこの動詞を一般のギリシア語から採ったのでしょう。
【すべての異邦の民】原語は「諸民族」で一般的に異邦の諸民族を指しますから、パウロもここで「異邦」の意味を含ませています。ただし創世記では、むしろ「あらゆる諸国民」の意味のほうが強いと言えます。とくにここでは、「すべての」とあって、創世記18章18節(七十人訳)から引用されています。なお「必ず祝福される」と訳したのは七十人訳からで、「祝福する」が強められています。「あなたにあって」とあるのは、創世記12章3節からの反映ですが、アブラハムの信仰に従うことを指してこう言ったのです。
[9] 【信仰による人たち】この節の始めに、「このようにして」とあって、7節〜8節で述べたことを締めくくっています。「信仰による人たち」は、7節と同じ意味で、彼らこそが「アブラハムの子」であり、アブラハムの「正統な」子孫なのです。パウロはここでアブラハムの信仰に与って「義とされる」ことをアブラハムの「祝福に与る」ことと同一視しています。「祝福される」は現在形で、これはガラテヤの信徒たちが味わった聖霊の賜を指しています。同時に、この「祝福される」は、続く10節での「呪われる」と対照されてくるのです。ただし、注意しなければならないのは、アブラハムの祝福に与るのは、ガラテヤの信徒たちが、「信仰による」からであって、彼らが「異邦人」だからではありません。8節から9節へのこの点での移行に注意してください。このようにしてパウロは、「信仰による」ことで、ユダヤ人と異邦人とを同じ平面に立たせるのです。
[10]ここからは難解な所です。パウロは、2節から5節までで、「律法の諸行」と「信仰の聴従」とを対立させてきました。さらに6節から9節までで、アブラハムの信仰にさかのぼって「信仰の聴従」こそが、祝福に与る正統な道であると指摘しました。この10節からは、「律法の呪い」という新たな主題が導入されます。引用は七十人訳の申命記27章26節からで、「この律法のすべての言葉を守り絶えず実行しない人は呪われる」です。この句はおそらくガラテヤを訪れているユダヤ人キリスト教徒たちが引用していたのでしょう。彼らは、割礼をはじめとするユダヤ教の律法を遵守させる意図でこの句を引き合いに出したのです。ところがパウロは、まさにその同じ句を「律法の呪い」と結びつけるのです。その上で、続く11節で、ハバクク書2章4節の「だから義人は、わたしの信仰によって生きるであろう」(七十人訳)を「律法の呪い」と対立させて引用します。そして、12節で再び「律法」は「信仰」に基づかないこと、律法はこれを「実行する」者だけが義とされることを確認します。そして13節で、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記21章23節)を引用して、キリストこそ「律法の呪い」から贖い出してくださる方であることを示すのです。14節では再びアブラハムへ戻ります。それからこの章の2節で述べた御霊の授与へ戻って、締めくくっています。
【呪いのもとにいる】古代オリエントでは、神や王や家長などの命令、国や民族同士の協定や契約、宗教的な契約を破った場合に、その当事者に向けて発せられる「呪いの形式(決まり文句)」がありました。呪いは、古来の日本の「呪いの人形」のように、しばしば呪術的な意味を帯びて行なわれることもありました。しかし、ヘブライでは、そのような呪術的な呪いはむしろ禁じられていて、「呪い」は、ヤハウェとの契約やその命令を破る場合に、その民や家族や個人に向けて発せられます。この場合、「呪い」は、神や王や家長のように上の者からその下の者に発せられるのが通常です。だからそこには、法的あるいは宗教的ななんらかの罰を伴うことになります。「呪い」は「祝福」と表裏をなしていて、呪われた者は、祝福を受ける共同体から破門されることで、その共同体から追放されるのです。ただし、呪いが、イスラエルの民全体に及ぶ共同体的な性質を帯びてくる場合もあります。したがって、個人的な恨みで誰かに「呪い」を発することは、旧約ではほとんど行なわれなかったようです。申命記27章16〜25節には、「呪いの十戒」が述べられていて、ここで初めて、個人に向けられる呪いが規定されています。「呪い」はヤハウェとの契約を破るときにあらゆる不幸となって全地に望むのです。だからこの地上は、人間の原罪のゆえに「呪い」を受けています(創世記3章14節/5章29節/イザヤ24章6節)。しかし神は、ノアとの契約によって、人類全体に及ぶ「洪水の呪い」を控える決意を啓示しました(創世記8章21節)。また「呪い」は、それが呪われるべきでない者に向けられた時に、ヤハウェはこれを「祝福」に変えてくれるのです。申命記23章6節の場合がそうであり、パウロがキリストの受けた呪いを祝福へと転じたと言うのも同じ考え方から出たものでしょう(ガラテヤ3章13節)。「呪い」は、祝福によって「呪いに返す」(ルカ6章28節)ことで、その終焉を迎えることになりますから、終末には呪いは存在しなくなるのです(ヨハネ黙示録22章3節)。
10節で「呪いのもと」とあるのは、「罪のもと」(3章22節)、「律法のもと」(3章23節)のように、その力と権威によって支配されていることを表わしています。「この世のもろもろの霊力のもと」(4章3節)とあるように、パウロは、ユダヤ教の「律法による呪い」をも、「この世・時代」を支配しているもろもろの霊力、すなわち天空を支配する霊力から政治権力や宗教的な権威などと重ね合わせて見ているのが分かります。申命記27章11節以下では、モーセは、イスラエルの民に命じて、「祝福の山ゲリジム」と「呪いの山エバル」とに分かれて立たせ、十戒や性のタブーを破る者に呪いを宣言しています。だからその「呪い」は、律法を「破る者」への呪いなのです。
【律法の書に書かれているすべてに・・・】申命記27章26節からの引用です。この際に、パウロは、七十人訳の「律法のすべての言葉」を「律法の書に書かれているすべて」と強めて言い換えています(ヘブライ語原典には「すべて」に当たる語はありません)。ガラテヤに来ているユダヤ主義のキリスト教徒たちは、律法を順守させ割礼を行なう意図でここを引用していました。旧約聖書の内容からすれば、この節は、「律法を守らない者への呪い」であることは明らかである。ところがパウロは、相手の用いる引用を「割礼を行なわせない」ために、すなわち律法を「守らせない」ための引用として、これを逆に用いているのです。このために、ここのパウロの引用の仕方について議論が行なわれてきました。パウロはこの引用文で、「律法のすべてに」とあるのに着目して、律法の「すべて」を「実行しない」者は、「全員」呪われる、とテキストを裏返して読むのです(ガラテヤ5章3節を参照)。この解釈によれば、「律法によってはだれも神の御前で義とされないのは明らかである」(11節)という結論に導かれます(ローマ3章19〜20節参照)。ただしここで、パウロが、律法の「すべてに留意して、実行しない者」とあるように、「すべて」と言う表現と共に「常に留意し実行する」ことにも重点を置いているのを見逃してはならないでしょう。そこには、ルターが正しく洞察したとおり、律法を形式的に順守する当時のユダヤ人やユダヤ人キリスト教徒たちの偽善に対する厳しい批判が含まれているからです。パウロはここで、思い切った革新的な律法観を提示していて、ここはパウロのいわゆる「反律法主義」あるいは「反ユダヤ教主義」への重要な起点となっていると言われています。ただしこのようなパウロの律法観については、彼の真意を誤解する向きがあります。パウロの律法観への誤解は、彼の生存中もそれ以後も、絶えずつきまとってきたことを知る必要があります。なおここでのパウロの論じ方については、「使徒パウロの継承思想」7章の「継承の正統性」の(2)「祝福と呪い」の項をお読みください。
[11]【律法にあってだれも神の御前で義とされない】「律法にあって」は「律法の諸行によって」と同じです。神の律法(ノモス)は、人が人である限りは、だれひとりこれを「完全に実行する」(「神のみ前で」の意味)ことができないと言うのです。神は、人の力で実行できないことを命令するのはなぜでしょうか? 人が「自分の力で」神の律法を守ろうと意図することがないためです。人は神の律法を「聖なるもの」「正しいもの」と認識して、これを守りたいと「願うこと」はできます。しかし、その願いは常に、自分は人であって神ではないという自覚へとわたしたちを導くのです。人をして、神の裁きに服する「謙虚さ」へと導くのです。これがパウロの律法観の本質的な考え方です。神に「義とされる」という受動形が意味するのがこれです。義認は神からの受動形であって、人間の能動形ではないのです。人は神を「観る」ことはできません。せいぜい神に「観られる」ことによって、神を知ることができるだけです。神と人間との出会いは、人間にとっては、このように「られる」次元の領域で生じるのです。
【信仰による義人は生きる】ハバクク書2章4節からの引用です。ヘブライ語の原文は「義人は、彼の信仰によって生きる」です。七十人訳では「わたしの義人は信仰によって生きる」と「義人はわたしの信仰によって生きる」のふたとおりがあるようです(「わたし」とは「主なる神」のこと)。このように七十人訳では、ヘブライ語原典の「彼」が「主」のことと理解されています。ユダヤ教のラビたちは、ここを創世記15章6節のアブラハムの信仰と結んで解釈し、アブラハムの信仰(誠実さ)による彼の功績を称える根拠としていました。このためハバクク書のこの節は、モーセ律法全体の神髄を言い表わすものとされ、クムラン宗団でもこの書が、彼らの「義の教師」と関連づけられて重視されていたのです。原初のキリスト教会でも、ハバクク書のこの節は、重要な意味を帯びていたと見られています。だからこそパウロもこれを引用したのでしょう。新共同訳では「正しい者は信仰によって生きる」と訳してあります。しかし、「信仰による義人」と訳したのは、前後の内容から、パウロはおそらくこう読んだであろうと推定されるからです(ローマ1章17節/10章5節以下/ヘブライ10章38節参照)。ここでの「信仰による」は「生きる」とも結びついています。「信仰による」については、後の4章21節以下で、さらにその意味を追求することにします。
[12] 律法主義のユダヤ人キリスト教徒たちは、厳格であれ単なる順法であれ、キリストへの信仰と律法主義とを調和させて、キリストにある信仰と伝統的な律法順守とを両立させようと意図していました。ところがパウロはここで、そのような両立をきっぱりと否定するのです。なぜでしょうか? それは、反対者たちが、律法を「実行する者」こそが、神によって「生きる」というこの御言葉を「取り違えて」いるからです。なぜなら、律法の諸行により頼もうとする者は、まさにそのような「律法志向」によって、律法を「神の御前で」は「完全には実行できない」からです。その結果として、 前節で述べた理由によって、「律法によってだれひとり義とされない」ことが起こるのです。だから「諸律法を実行する者が、それによって生きる」とあるこの節は、ここでは、律法を真の意味で「実行する者」が「だれひとりいない」ことのゆえに、皮肉にも「生きる」保証ではなく、逆に律法に裁かれて「死ぬ」ための「呪い」への保証となります。これが次に続く「律法の呪い」です。
パウロは、続く節で、イエス・キリストの十字架における「律法の呪い」を提示しています。「あなたたちの律法遵守をもって、キリストを信じる生活と調和させようとするのは、誤りである。あなたたち流の律法遵守は、キリストへの信仰の妨げにこそなるが、決してこれを促進するものではない。」「あなたたちの律法」は「キリストの信仰」から出たものではない。一度その律法宗教を完全に葬って、これを離れてイエス・キリストの十字架への信仰に全託する時にのみ、本当の意味で、「神の律法に生きる」ことができるのだから。パウロはこう言いたいのです。
バートンは、キリストへの信仰を割礼と両立させることについて、これを現代で言えば、「キリストを信じて救われるためには信仰によらなければならない。しかし、洗礼を受けることによって、救いを<よりいっそう確かなものとする>ことができる」とする考え方に通じると見ています。この類比に立つなら、パウロがここで言うのは、次のようになるでしょうか。「人は洗礼を受けていてもイエスの言葉を<実行しなければ>救いに入ることができない。ところが人はだれもイエスの言葉を<完全に実行する>ことができない。それゆえに、人はだれひとり神の御前に義とされることはない。それどころか、洗礼により頼むその心こそが、イエスを信じる信仰への妨げになっている。だからキリストを信じて救われるためには、入信した未信者はもとより、すでに受洗しているキリスト教徒たちも、洗礼により頼む心を捨てなければならない。保守的なキリスト教主義者たちは、洗礼を受けなければイエス・キリストとの契約に与ることができないと言う。しかし、イエス・キリストとの契約に与るために必要なのは、信仰とこれに伴う御霊の働きであって、洗礼ではない。あなたがたは、洗礼を選ぶのか? それともイエスの御霊の働きにある信仰を選ぶのか? どちらかである。」
ただしバートンは、「律法」それ自体と割礼などを順守する「律法主義者」とをはっきり区別していて、ここでのパウロの批判は、もっぱらこれら「律法主義者」の偽善性に向けられていていると見ています。ルターもその『ガラテヤ人への手紙講解』で、同様の視点からカトリック教会を批判しています。だからこそパウロは、この節の後半で、「諸律法を<実行する者>が、それによって生きる」(レビ18章5節。七十人訳から)と旧約の律法を「肯定的に」引用しているのです。パウロのこの考え方は、現代で言えば、洗礼無用の無教会を唱えた内村鑑三の洗礼観に近いと言えましょう。ちなみに、新共同訳で、ガラテヤ人への手紙2章16節の「律法の諸行」を「律法の<実行>」と訳してあるのは問題だと思います。ここ12節のレビ記の引用には「実行する」という動詞がはっきりと用いられていますが、2章16節にはこの動詞がありません。「律法の<実行>」と「キリストの<信実/信仰>」とを対立させるのは、ここでのパウロの論証に照らしてみるならば、誤解を生じさせるおそれがあります。
[13] 【キリストはわたしたちのために呪いとなる】この「わたしたち」は、「律法の呪い」と関係しているからユダヤ人(キリスト教徒を含む)のことだという説があります。しかしパウロは、割礼問題を異邦人キリスト教徒との関連で見ているのですから、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の両方を含めて「わたしたち」と言っていると受け取るべきでしょう。10節の律法についての引用が、両者それぞれに意味は違いますが、どちらの側にも宛てられているからです。なお、「ために」は、「代わりに」という意味なのかどうかを詮索するのは、わたしにはあまり意味がないように思われます。キリストが、わたしたちのために「呪いとなる」は、古代から言われている「呪いの犠牲とされる」ことですから、ここは「呪われた者とされる(ことによって)」と訳すほうが正しいでしょう。
【律法の呪いから】「律法の呪い」という言い方は、新約全体でもここだけです。10節の引用に「律法を実行しない者は呪われる」とあり、しかもパウロは、律法のすべてをだれひとり実行できないと言うのです。結果として、人はだれでも、律法を実行できないために受ける呪いから免れることができなくなります。これが、ここで言う「律法の呪い」の意味です。ただしこのことは、律法が存在することそれ自体が、人にとって「呪いとなる」ことではありません。律法は、たとえそれ自体が正しく聖なるものであっても、それが人間の側によって歪められて、その結果、人間に呪いとして働くという意味です。このように、人間にとって「呪いとなる律法」のことをわたしは比喩的に「堕落した律法」あるいは「律法の堕落」と呼んでいます〔付記「パウロの律法観について」を参照〕。ここでの「呪い」は神の「怒り」(ローマ1章18節)に近いと言えましょう。
【贖い出してくださった】ローマ時代には、戦争の捕虜たちなどは奴隷として扱われました。しかし、身代金を支払うことで「贖われて」、自由を回復することができたのです。パウロが「贖う」と言うのは、当時のこのような習わしに基づいて比喩的に表現しているのです。キリストは、わたしたちの「身代わりとなって」、ご自分を「呪いの犠牲」とすることによって、呪いのもとにいるわたしたちを自由にしてくださったのです(1章4節)。したがってこの「犠牲」は、第一には「律法のもとにいる」ユダヤ人に向けられた贖いですが(ローマ3章24節)、異邦人への贖いの意味も含まれています(第一ペトロ1章18節)。なお、「贖う」というこの動詞はアオリスト形で、人類の歴史上で、ただ一回限りの出来事が、キリストの十字架によって起こったことを指しています。その結果として、キリストの御霊が、今現在のガラテヤの信徒たちに「贖いの業」を働いているのです。
【木にかけられる者は皆呪われている】七十人訳の申命記21章22〜23節からの引用です。ただし、七十人訳では、「呪われる」の動詞が、パウロの言葉とはやや異なっています。パウロは10節の引用に合わせた動詞を用いています。また七十人訳には「神に呪われた」とあるが、パウロは「神に」を省いています。おそらく「律法による呪い」の意味で引用しているからです。このために、ここでパウロの言う「呪い」は、あくまで「律法の呪い」のことであって「神の呪い」ではないという見方もできます。
申命記では、死刑にされた者が、その後で、曝しものにするために木にかけられました。それも、木にかけられた死体は「神に呪われた者」で汚れているという理由で、日が暮れるまでのことであったようです。ところが新約時代では、ローマの影響もあって、申命記のこの箇所は、死んだ者だけでなく、生きたまま木(十字架など)にかけられる者にも適用されるようになりました。パウロはイエス様が、生きたまま十字架刑に処せられたことを念頭に置いて、申命記からの引用を行なっているのです。
キリストが「わたしたちのために」十字架にかかり、「呪いとされて」わたしたちを「呪い」から贖い出してくださったという信仰は、申命記21章のこの引用によって、原初教会において早くから成立していました。しかし、最初期の教会では、イエス様がメシア・キリストであることと、そのメシアが、「神の呪い」を受けて「木にかけられた」こととは、直ぐには結びつかなかったようです。その間には、イザヤ書53章にある「受難のメシア」預言が介在していると思われますが、いつ頃どのような過程でこの信仰が成立したのか、特定することはできません。イエス様の語録集(Q文書)には、十字架の贖いが見られませんから、この信仰は、エルサレム教会での聖霊体験の中から、比較的早い時期に、生まれたものかもしれません。しかし、「律法の呪い」という思想をここまで深く掘り下げているのは、パウロ独自の霊的な洞察によるところが大きいと言わなければならないでしょう。
[14] この節は、「異邦人に成就するため」と「信仰によって受けるため」のふたつの「ために」から成り立っています。それは、「アブラハムへの祝福」が、「キリスト・イエス」にあって、「異邦人に成就」することであり、さらに「約束された御霊」をわたしたちが「信仰によって受ける」ことを指しています。
【アブラハムへの祝福】ここでパウロは「アブラハムの祝福」(9節)へ戻ります。すなわちアブラハムに「約束」された祝福とは、いったいだれのものか? これがここで改めて問われることになるのです。パウロはここで、アブラハムの祝福が「異邦人のため」であると言います。ではなぜ、「アブラハムの祝福」が、異邦人のためのものになるのでしょうか? その根拠は、次に来る「キリスト・イエス」にあります。
【キリスト・イエスにあって】ここを「イエス・キリストにあって」と読む写本もあります。アブラハムの祝福が、異邦人に及ぶのは、ひとえにキリスト・イエスによる十字架の贖いのみ業によります。ところが、ガラテヤを訪れているユダヤ主義的なユダヤ人キリスト教徒たちは、アブラハムの祝福に与るためには、ガラテヤの信徒たちも、律法に従って割礼を受けなければならないと主張したのです。しかし、パウロのここでの論旨に従うなら、イエス・キリストにあるならば割礼は要らないことになり、割礼を受けるなら、イエス・キリストは無用になります(5章4節)。だから、「キリスト・イエスにある」こととユダヤ主義者たちの言う「律法に従う」こととが、互いに対立するのです。パウロの反対者たちは言います。イエス・キリストにある信仰は大事である。しかし、その上で、さらに割礼を受けることも大事であると。しかしパウロはそうは言わないのです。なぜでしょうか?
その理由は、ガラテヤの信徒たちには、「割礼を受けていなくても」、すでにイエス・キリストの御霊が注がれているという現実があるからです。この点は先に、パウロが自分の使徒職に言及したときにも述べていることです。しかもこのキリストの御霊こそ、アブラハムに対して「約束された祝福」にほかならないとパウロは言うのです。ここでパウロが「御霊の約束」(原文)と言う時、彼はアブラハムへの神からの「祝福の約束」を考えています。だから、パウロが「アブラハムへの祝福」と言う時に、その内容は、「御霊の授与」のことなのです。しかも、アブラハムへの祝福の「約束」は、後で出てくるように、アブラハムの「正統な相続権」と結びついているのです(3章18節/29節/ローマ4章13節)。このようにして、アブラハムの祝福が異邦人に及ぶこと、キリストの御霊が信仰によって授与されること、これらのふたつが、ひとつにされてパウロの福音の「正統性の根拠」となっているのが分かります。ここには、アブラハムへの祝福→イエス・キリスト→異邦人への御霊の授与→信仰の受領、という過程が一貫しているのが分かります。
ただし、この解釈だと、イエス・キリストとユダヤ教の律法とは、相互に排他的に機能することになります。この書簡でのパウロの主旨から言えば、それでもいいかもしれません。しかし、イエス・キリストは、ユダヤ人にとっても異邦人にとっても同様に、メシア・キリストなのです。バートンが、その註解で繰り返し警告しているのは、この点です。パウロは「ユダヤ人が」割礼を受けることに反対しているのではありません。そうではなく、「異邦人が」割礼を受ける必要がないと言っているのです。しかも、彼がこのことを強調するのは、ガラテヤの信徒たちを訪れているユダヤ人キリスト教徒たちが、「善意からではなく」ガラテヤの信徒たちをパウロから引き離そうと意図しているからなのです(4章16節)。このために、彼が「走ってきたことがむだになってしまう」のをパウロは恐れるのです。パウロはこの書簡を常に自分に反対する「論敵を意識しながら」書いています。この視点から書かれているパウロの言い方と彼の葉の背後にある事実とを混同してはなりません。だからパウロは、続く段落では、律法の真の意味と福音との関係を明らかにしようと努めるのです。