(6)アブラハムの子と律法の呪い
【聖句】
3章1節〜14節
1
ああ、悟りの鈍いガラテヤの人たちよ、だれがあなたがたをたぶらかしたのか。
目の前に、十字架につけられたイエス・キリストが描き出されたではないか。
2あなたがたに一つだけ確かめたい。
あなたがたが御霊を受けたのは、律法の諸行からか?
それとも、信仰の聴従からか?
3あなたがたは、それほど悟りが鈍いのか? 
霊によって始まったのに、今肉によって仕上がるのか。
4あれほどの体験をしたのは、無駄だったのか? 
もしもそれを無駄と言うのなら。
5それだから、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で御力を働かせた方は、
律法の諸行によるのか、それとも信仰の聴従によるのか?
6それはアブラハムのように、「神を信じた。
それで彼は義と認められた」からである。
7だから知ってほしい。信仰による人たち、
彼らこそアブラハムの子なのである。
8聖書は、神が異邦の民を信仰によって義となさることを先見して、
「すべての異邦の民はあなたにあって必ず祝福される」とアブラハムに福音を予告した。
9このように、信仰による人たちは、信仰の人アブラハムと共に祝福される。
10 だから、律法の諸行によっている者はだれでも、呪いのもとにいる。
「律法の書に書かれているすべてに留意して、
これらを実行しない者は、全員呪われる」とあるのだから。
11そこで、律法にあってはだれも神の御前で義とされないのは明らかである。
「信仰による義人は生きる」とあるのだから。
12ところが律法は、信仰によるものではない。
そうではなく「諸律法を実行する者が、それによって生きる」のである。
13キリストは、わたしたちのために呪いとなることで、
わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださった。
だからこう書かれている。「木にかけられる者は皆呪われている」。
14れは、アブラハムへの祝福が、
キリスト・イエスにあって、異邦人に成就するためであり、
約束された御霊をわたしたちが、信仰によって受けるためである。

【注釈】

【講解】
(1)今回の箇所について
 この前は、パウロの手紙の中でも、最も大事な所をお話ししました。今日は、パウロの手紙の中でも、最も難しい所の一つをお話しします。ローマ人への手紙の11章もこことは違った意味で難しいところです。ここでパウロは、あなたがたが御霊を受けたのは律法の諸行からか、それとも信仰の聴従からか、という問いかけで始めます。そして14節では、約束された御霊を信仰によって受けるためであるで終わっています。御霊を受けたことに始まって、御霊を受けることで終わる。この始めと終わりに挟まれて、「アブラハムの子」と「アブラハムの信仰」が出てきます。もうひとつ「律法の呪い」という聞き慣れない言葉も出てきます。律法というのは、この前お話ししたように、単に旧約聖書の律法のことだけではない。それぞれの国、それぞれの民に、神様から与えられている教えや宗教や制度があります。現在の中東地域では、ユダヤ教とイスラム教とキリスト教とが出合っています。実はこれらの宗教は、三つともモーセにさかのぼります。モーセの律法、これが三つの宗教に共通している。しかし、実はモーセよりももっとさかのぼったところに、偉大な人物がいたんです。それが、信仰の父アブラハムとパウロが呼んでいる人です。「アブラハム」と「律法」、このふたつが、イエス様の御霊に挟まれて、今日の問題として浮かび上がってくるのです。
(2)アブラハムの子孫
  ではアブラハムとモーセとはどう違うのか? 聖書によれば、モーセはイスラエルの民ですから、アブラハムの子孫から出ています。そのアブラハムからさらにさかのぼるとノアに行きます。知恵の人ノアです。このノアをもっとさかのぼるとエデンの園のアダムとエヴァに行き着く。ここには人類の犯した堕罪があります。この罪から出たのがカインによるアベル殺し。この暴力に始まって、人類はついにノアの洪水の破滅を招いてしまった。けれどもノアは、神の憐れみによって洪水を免れることができました。ノアの知恵ですね。神は、その憐れみによって、二度と人をその暴虐のゆえに水で滅ぼすことはしないと約束されました。ルカによれば、このノアから12代目がアブラハムです。だからアブラハムは、モーセよりもさらにさかのぼるユダヤ教の父であり、同時にイスラム教とキリスト教の父なのです。言わばアブラハムは、信仰の父であり、宗教の父です。
    だからガラテヤを訪れていたユダヤ主義者のキリスト教徒は、「あなたがたはアブラハムの宗教に従わなければならない」と教えたのです。「ではどうすれば、アブラハムの宗教を受け継ぐことができるのですか?」「このためには、まず割礼を受けて、アブラハム契約を実行しなければなりません。」「どうしてわたしたちたちが、割礼を受けて、ユダヤ教徒にならなければならないのですか?」とガラテヤの信徒たちは尋ねます。「それは創世記の17章で、アブラハムは神から義と認められた。その時に彼は神から割礼を命じられた。そしてアブラハムは、割礼の民ユダヤ人の父祖となった。このアブラハムの子孫がすなわちユダヤ人です。この民こそが、アブラハムへの契約に基づく祝福された民だからです。だからあなたがたも割礼を受けてユダヤ教徒となり、アブラハムの民に加わるならば、アブラハムの祝福を受けることができるのです。」こう彼らは、ガラテヤの信徒たちに教えたのです。
    ところがパウロは、これに対して、「ちょっと待ちなさい。」と言いました。アブラハムが神様から義と認められたのは、契約と割礼によってではない。なるほどアブラハムは神様から義と認められた後に、契約と割礼を受けたけれども、彼は、義と認められたから割礼を受けたのであって、割礼を受けたから義と認められたのではないのです。こうパウロは言うのです。ではなぜアブラハムは義と認められたのですか? 義と認められる前のアブラハムはどうだったのですか?
    アブラハムはカルデヤのウルという所、古代のメソポタミア、現在のイラクの南東のペルシア湾に、チグリス河とユーフラテス河とが注いでいますが、そこにシュメール王国が建てたウルという都市があった。今から4000年以上も前には、そこはウル王朝の都市であって、宗教的にも政治的にも文化的にも栄えていたと思います。アブラムはそこの住民でした。彼の父も親族もそこに住んでいました。ウルには立派な神殿があって、そこには月の神ナンナル(別名シン)が祀られていました。太陽神シャマシュと金星の女神イシュタルは、ナンナルの息子と娘です。都市があって神殿があって王がいて、この王様と神殿のもとで、宗教と国家とが一体となって民を支配する、そういう宗教的制度のもとで、アブラムも民の中で暮らしていたのです。ところが、アブラムはヤハウェの啓示を受けた(「ヤハウェ」というみ名はモーセに初めて告げられました)。主なる神はアブラムに言われた。「あなたの親族あなたの父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」そこでアブラム一族は、自分の故郷を離れて、ウルを脱出したのです。そこからハランへ登り、カナンの地へと来て、そこでアブラムは、神からの契約を受けてアブラハムとなり(創世記17章5節)、そのしるしとして、割礼を受けることになったのです。
    だからアブラハムは、ヤハウェを信じる前は、主なる神を知らない人でした。宗教もあった。国家もあった。神殿もあった。神々も祀られていた。しかし、このひとりの神ヤハウェは知らなかったのです。ここからアブラハムの契約が始まり、割礼が始まり、ユダヤ教が始まった。だからアブラハムの最初の信仰は、律法ではなかった。ただ神の導きに、ハイと言って従った。あるがまま、そのままで、ヤハウェのみ声を信じて、ハイと言って従ったのです。この素直で単純な信仰。これでスタートしたのです。これでスタートしたのなら、これで終わりまで行かなくてはならない。ただしこの時はまだ、アブラハムではない。アブラムです。神様に出会う前はアブラム。出会った後はアブラハム。アブラハムの孫のヤコブも、神様と格闘してからイスラエルという名前をいただいた。
    アブラハムが神に義と認められたのは、ただ黙って神のみ声に従ったからです。信仰の聴従です。信仰とは聴くことから、聴くことはキリストの御言葉から来る。主の御言葉が響いてくる。これに聴き従う。聴き従うその心に働くのが信仰の霊、これがイエス様の御霊です。御霊は御言葉と一つになって働く。言葉とは霊だからです。聖言は聖霊。聖書は聖霊の書。霊言です。霊言こそ霊験のもとです。御言葉は種。この種が心に蒔かれると、新しい命が生まれる。創造される。だから信仰は御言葉の創造をもたらすのです。これがアブラハムの信仰です。だからこれはアブラハムが割礼を受けてからのことではない。ユダヤ教の創始者になってからではない。アブラムがアブラハムになったこと、これがパウロの言うアブラハムの信仰。だからこれは、宗教以前、律法以前、異邦人のまま、異教徒のまま、そのままで神様を信じた。その信仰が義と認められたのです。これがパウロの言うアブラハムです。未信者アブラムがアブラハムになった。これがわたしたちのアブラハム。だからわたしたちこそアブラハムの子孫。アブラハムの子なんです。
(3)律法の祝福と呪い
 
 ■律法の呪い
 ガラテヤ人への手紙3章1〜14節で、パウロは「あなたがたが御霊を受けたのは律法の諸行からか、それとも信仰の聴従からか?」と問いかけて、「約束された御霊を信仰によって受けるためである」と結んでいます。御霊に始まり御霊で終わるのですが、これに挟まれて「アブラハムの子」と「アブラハムの信仰」、もうひとつ「律法の呪い」という聞き慣れない言葉がでてきます。現在、ユダヤ教とイスラム教とキリスト教とが中東で出合っていますが、これら三つはモーセにさかのぼりますから、モーセ律法はこれらの宗教に共通します。しかし、モーセよりも先に、パウロが「信仰の父アブラハム」と呼ぶ偉大な人物がいます。「アブラハム」と「律法」、このふたつがイエス様の御霊に挟まれてでてくるのです。ガラテヤ人への手紙を解く鍵がこの辺にありそうです。
 ここでパウロが言う「律法」には、モーセ十戒とモーセ五書だけでなく、旧約聖書全体も含まれます。それだけでなく、現代的な視点からすれば新約の教えも入ると言えば、読者の方は意外に思うかもしれません。けれども「敵を愛せよ」(マタイ5章43〜48節)というイエス様の教えを、わたしたちが<自力でまともに>守れと言われたら、「恵み」どころか恐ろしい束縛をもたらす「律法」に変じます。日本語では、神と人との関係は「律法」、人と人との関係は「法律」、自然界は「法則」のように使い分けますが、「律法」も「法律」も「法則」も、パウロでは同じギリシア語の「ノモス」です。だから、宇宙も人類も神と人との関係も「ノモス」に支配されています。
 人体には「健康のノモス」が働いて、脳の血管を血液が流れます。ところが血管が詰まって血液が流れなくなると、血管が破れて脳梗塞を起こします。健康のノモスは命の理法。守られれば祝福、破られたら同じノモスが死を招く。これが「律法(ノモス)の呪い」です。天地の法であるノモスは、守れば祝福、破れば呪いに転じます。パウロはわたしたちが「律法の呪いの下にある」と言います。なぜでしょうか?人類は、国と国との平和を守らなければ核兵器によって滅びる危険があります。平和の律法、敵をも愛するノモス、これを守れば人類に祝福が来ます。これを破れば滅びが来ます。しかも律法が一つでも破れたら、律法は呪いに転じます。脳でも心臓でも胃でも、どこか一箇所が働かなければ、人体のほかの部分が健康でもその人は死にます。膨大なコンピューターのプログラムも、一箇所が狂うとコンピューター全体がおかしくなります。これがノモスの厳しさ、ノモスの怖さです。
 わたしたちは、どんなに「律法を守ろう」と頑張ってもこれを破ってしまう。「律法の全部」などとても守れません。「守れば」祝福になるハズの律法が、自力で「守ろう」とすれば逆に「呪い」に転じる、これが律法の謎です。律法を「<自力で>守ろう」とするのが律法主義、これを破るのが律法違反。この二つがセットになって、祝福となるべき律法が呪いに転じるのです。しかも人間は、自力で律法を「守れる」とうぬぼれるから困ったものです。律法破りは律法違反。律法追求は律法主義。人間の罪が働くと人をこのどちらかに「仕向け」ます。すると律法は「罪の律法」(ローマ7章25節)に変じるから始末が悪いです。進もうとすれば律法主義。退(ひ)こうとすれば律法違反。「なんと悲惨なこのわたし!」とパウロが嘆くのはもっともです。これがパウロ言う「律法の呪い」の真相です。ところがこの律法の謎こそが「福音の真理」につながるのです。
■律法と自由
 このように人を束縛し呪うはずのノモスが、人に自由をもたらすと言ったら皆さんは驚くかもしれません。マリナーズの一郎のバッティングは自由自在です。でもその「自由」はでたらめではない。そこには驚くべき正確な「打法のノモス」が働いています。一寸一秒も狂わないバッティングのノモスです。しかし、頭で考えていてはとても間に合いません。彼はバッティングのノモスを「体で覚えている」のです。だからノモスを「守ろう」などと考えません。彼がノモスそのものだからです。ノモスが身に付けば、後は自由自在です。英会話でも、英文法を「守ろう」などと意識していてはとても英語は話せません。英語の文法(ノモス)が身に付いていれば、自由に話せるのです。ノモスは、このように、外から来ると恐ろしい束縛ですが、内側から身につければ、自由をもたらす。何とも不思議で、楽しいです。同じノモスが、守れば祝福、破れば呪いです。
 では「律法の呪い」から自由になるためには、どうすればいいのでしょうか? わたしたちが律法そのものになる。でもそんなことができるのか?イエス様が「わたしたちのために」十字架におかかりになって、「律法の呪い」から贖いだしてくださった!わたしたちの代わりにご自分が「律法に呪われた人」になることで、律法を破る人間にかけられる呪いをご自分が引き受けてくださった。だからイエス様を受け容れる者には、呪いではなく憐れみと罪の赦しが降ります。イエス様だけが、わたしたちの律法主義と律法違反の「律法の呪い」から救い出すことができるのです。恵みの御霊は絶対無条件。十字架と御復活のイエス様の御霊が、わたしたちの罪を赦して、なおも働いてくださる(ローマ5章20節)。だから、わたしたちはなんにもしない。なんにもできない。「ハイ」と言ってイエス様を受け容れるだけです。イエス様の赦しの御霊に自分を委ねる人に、もはや律法の呪いは力を失います。これがキリストの「御霊のノモス」です。パウロの言う「恵み」です。
 イエス・キリストは復活され、聖霊となってわたしたちに宿ってくださる。イエス様の御霊(みたま)がわたしたちに働くとイエス様の愛が働く。神様への愛、隣人への愛、霊の兄弟姉妹への愛がわたしたちに働いてくださる。神と人とを愛することこそ律法全体の一番大事なところ。律法の<全部が>これに含まれます。この一番大事なことをイエス様はわたしたちに成し遂げてくださった。イエス様の御霊が働くと、自分ではできなかったこと、自分の努力ではどうにもならなかったことが、赦しと憐れみの御霊にあって、わたしたちに成就されていくから不思議です。数ある律法を一つにまとめて、罪深いわたしたちの存在の<まっただ中で>、この罪に負けることなく、この罪を恐れることなく、この罪と関わることなく、聖霊ご自身が私たちにあって働いてくださる。御霊が働くとはそういうことです。これが神の憐れみ、神の愛です。だからこれは新しい<創造のみ業>です。古い自分を修理するのではない。古い自分にあって、新しい創造が行なわれるのです。
                 (4)呪いに勝つ力

 第一次世界大戦が始まる前は、ドイツは文化の高い立派な国でした。モーツアルトの国、ベートーヴェンの国、ゲーテの国、カントの国、哲学あり、音楽あり、文学あり。ベルリンは栄えて、大勢のユダヤ人たちが、ドイツで活躍していた。アインシュタインもそうです。ところが1914年に第一次世界大戦。オーストリアの皇太子がセルビアで暗殺された。たったそれだけの事件がきっかけになって、第一次世界大戦が起こった。日本はその時は連合国側について、その結果南太平洋の島々を日本の統治信託領土とすることができた。ドイツの捕虜が四国へ収容されて、そこで初めて、ベートーヴェンの第九の交響曲が演奏された。一九一八年に世界大戦が終わって、やっと平和が訪れた。ワイマール時代と言って、再びドイツに民主的な時代が始まったのです。ところがそれもつかの間、やがてヒットラーのナチスが台頭してきた。すると祝福となるべき国家の法律や制度が、再び呪いへと変わっていった。法律や制度や宗教など、もろもろの祝福となるべきものが、逆に人々を抑え、人々を支配し、人々を恐怖で苦しめ始めた。祝福をもたらす律法が呪いの律法へと変わったのです。
  第二次世界大戦が始まった。大勢のユダヤ人が、ヨーロッパの方々から、ドイツやポーランドの強制収容所へと送られた。強制収容所は無法地帯と言いますけれども、実は無法どころか有法地帯。きめ細かい規則(律法)がたくさんある。もしその中の一つでも破るならたちまち処刑です。まさにパウロがここで言うとおりの律法に近い。一つの小さな違反が、そのまま死につながる。このように悪魔は律法を利用するのです。だからパウロも、サタンが律法を利用して、人間の罪を刺激して死に至らせると言っています。サタンは実に巧みに律法を悪用するのです。
 たまたまある男の人が、ほんのちょっとしてミスを犯してしまった。そこで早速その男が、ナチスの官憲によって処刑されることになった。すると彼は叫んだ。ああ、わたしには家族がいる。どうかわたしを助けてくださいと。すると、これを見ていた囚人たちの中に、コルベ神父というカトリックの神父さんがいた。その神父さんが、それではわたしが身代わりになるから、その人を赦してくださいと申し出た。こうしてその神父さんが身代わりになってその男の人を救ってくれたのです。これが、律法の呪いを受けて殺されそうになった人を助けるために、自分が律法の呪いを受けて犠牲となることです。キリストが「わたしたちのために」律法の呪いとされたのはこの意味です。
 でもコルベ神父の信仰は残った。彼の名前は人々に覚えられています。このコルベ神父が、強制収容所にいた時に、ある人が彼に言ったそうです。「この強制収容所の中を見てみろ。ここはまさに地獄ではないか。神の愛なんて、どこにあるのだ。」すると神父は答えた。「もしこの世の中に愛がないのなら、愛を創り出さなければならない。」愛があるかないかではない。愛を創造しなければならない。この創り出す力はどこから来るか? コルベ神父のその愛はどこから来たか? イエス・キリストが、わたしたちのために、律法の呪いとなって自らを犠牲にしてくださった。イエス様が、律法の呪いの十字架から復活してくださった。このイエス様の復活が、この世を支配する律法の呪いに打ち勝つ力となったのです。コルベ神父はこのキリストの愛の力に支えられていたのです。キリストの十字架と復活の愛によって、わたしたちは新しく創られていく。どうにもならないこの世の中にありながら、そこで新しい命が創られていく。こういう神様の不思議が起こるのです。これが、わたしたちのために律法の呪いとなってくださったキリストの霊法なのです。
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