【注釈】
   今回の段落は、パウロがペトロに対して発言した内容の続きのようにも受け取ることができます。けれども同時に、パウロは、ガラテヤの信徒たちに向けて発言しているように読むこともできます。結論から言えば、ここでパウロは、内容的に見るなら、ペトロに向けた発言を引き継いでいるのですが、同時にガラテヤの人たちのほうにも語りかけています。ただしここで、パウロが意識しているもうひとつの「陰の聞き手」がいることも忘れてはならないのです。それは、今なおガラテヤに留まっていて、おそらくパウロの手紙が朗読されるのをガラテヤの人たちと一緒に聞くに違いないユダヤ主義的なキリスト教徒たちのことです。パウロは、この段落では、ヘレニズムの手紙の様式に準じていて、この様式では、主題となる内容を前もって要約して相手に呈示します。だからパウロはここで、この段落に続く3章1節から4章11節までの内容をここにまとめて聞き手に呈示しているのです。それだけにこの段落は、内容が凝縮されていて、読みほぐすのが容易ではありません。「行間を読み取る」という言葉がありますが、ここでは「行間」というよりも、一語一語の間の「語間を読み取る」必要があります。この段落は、パウロの福音の要(かなめ)となるところです。少し大げさな言い方をしますと、キリスト教の中心となる主題が、この部分に圧縮されていると言えます。
15【わたしたちは生れながらユダヤ人でパウロは、15節と16節でも、いぜんとしてユダヤ人キリスト教徒同士の間で語っています。ここで言う「ユダヤ人」は、同時に「ユダヤ教徒」のことで、原語はどちらの意味にもなります。「罪人と言われる異邦人」とあるのは、「罪を犯した」犯罪者の異邦人の意味ではありません。そうではなく、「異邦人」と「罪人」とを同一に見ているのです。だからここの「罪人」は、犯罪者ではなく、アブラハム契約(創世記17章4~11節)に基づいて割礼を受けたユダヤ人から見て、アブラハム契約の「外にいる」無割礼の「諸民族」(これが「異邦人」の原語です)を指す言い方なのです。だからパウロがここで、「罪人と言われる異邦人」と呼んでいるのは、同じユダヤ人仲間として、アンティオケアのペトロたちだけでなく、ガラテヤにいるユダヤ人キリスト教徒たちをも意識していると思われます。先にペトロが、異邦人キリスト教徒たちとの共同の食事から身を引いたのも、異邦人がアブラハム契約に属さない「罪人」であったからです。ただし、パウロは、「罪人と言われる異邦人」に続けて、「人が義とされるのは」とわざわざ「人/人間」を主語に置くことで、「罪人」のはずの異邦人と契約の民ユダヤ人とを同じ「人間」として対等に扱う姿勢を見せています。とすれば、ここでの「罪人と言われる」には、ユダヤ人キリスト教徒のこういう言い方に対する多少の皮肉がこめられているのかもしれません。
16この節には、「義/義とされる」が3回、「律法の諸行によらない」が3回、「イエス・キリストの信仰」が3回繰り返されています。この節から、「神に義とされる」ことをめぐって、「律法の諸行」と「イエス・キリストの信仰」とがはっきり対立してくることになります。ここは、このように書簡全体のキーワードが集中していて、書簡の主題を示す重要な節となっています。そこで節全体を次のように四つの部分に分けて見ていくことにしましょう。

(1)けれども、人が義とされるのは、律法の諸行からではなく、
イエス・キリストの信仰によるほかないことを知ったので、
(2)わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。
(3)これは、キリストの信仰を通して義とされるためで、
律法の諸行からではない。
(4)なぜなら、律法の諸行によっては、
「肉なる人はだれ一人義とされない」からである。

  (1)と(3)では、「律法の諸行によって義とされない」ことが「イエス・キリストの信仰」と対比されていて、(4)でさらにこのことが確認されているのに注意してください。(4)の部分は、七十人訳の詩編142篇(2節)「あなたのみ前に義とされる者は、命あるものの中にはだれもいない」から来ています。パウロはもとの「命あるもの」を「肉」と言い換えています。これは神に対して弱い人間のあり方を「肉」という言い方で表わし、救い主「キリスト」と対比させるためです。その上で彼は、「肉が義とされる」のは、「律法の諸行からではない」と続けて、「神からの義/神の義」を「律法の諸行」と対立させているのです。この点こそが、ユダヤ人(ユダヤ教徒)およびユダヤ主義的なキリスト教徒とパウロとの決定的な違いであることが徐々に明らかにされます。ここはその最初の起点となるところです。
【人が義とされる】「義とされる」という動詞は、「義」という名詞形と「義の(行ない)」のような形容詞と「義とする/される」という動詞の形で、パウロ書簡にしばしば表われます。この言葉は、旧約聖書に根ざしていて、商取引での「正しい」量りや尺、律法にかなう「正しい」行ないや生活、「偏らない公正な」裁判、ダビデのような「思いやりのある公正な」王や支配者、「公正で偏り見ることをしない正義の」神などの意味になります。特に「神の義」は、王や神が、弱い者や貧しい者に目を向けて、彼らの訴えを「公正に」判断し、正しい政治や裁きを行なうことで、苦しむ人たちを「救い/助ける」ことをも意味しています。しかし、「神の正しさ」は、人の尺度とは異なりますから、人間の理解を超える性質を具えています。このために、パウロの場合などでは、人が神に「受け容れられる」状態/条件のことを「神の義」と呼ぶ場合が多いのです。だから、たとえ貧しくても、あるいは罪人でも、悔い改めて神に受け容れられる場合には、そのことを「神の義」と呼ぶことができます。この場合「神の義」は、ほとんど「神の憐れみ/恩寵」と同じ意味になります。
    このように、神によって「義とされる」は、神に「受け容れられる」こと、あるいは「認められる」ことを意味しますから、裁判で、たとえ罪を犯していても、悔い改めて赦されるなら、その人は無罪と「認定/裁定される」という法廷の用語に近い意味を帯びることになります。パウロが「神の義」と名詞形で言う時には、このような意味で用いられることが多いのです。しかしながら、神によって「義とされる」、あるいは神が「義とする」のように、動詞で用いる場合には問題があります。なぜならこういう場合には、単に「無罪放免」という意味だけでは済まないからです。名詞で「神の義」という場合には、人間の性質や生活にかかわりなく、キリストにあって無条件に神から「義と認めていただく」こと、すなわち法廷的な意味で「無罪」の宣告を受けることですから、これをキリスト教では「義認」と呼んでいます。ところが、神によって「義とされる」と動詞形で言われる場合は、人がほんとうの意味で、正しい性質を「具える」こと、すなわち人が人格的に正しく「造り変えられて」、現実の生活において正しく生きることも含まれることになります。
   したがって、キリスト教では、伝統的に、「義とされる」は、義と「認定される」という意味と、義人の性質を現実に「具える」という、二つの意味を兼ねて用いられます。カトリック教会では、「神の義」という名詞を法廷的に解釈して「義認」の意味で用い、さらに人が義の性質を現実に具えることを「義化」と言います。ですから人は、神によって「義認」を与えられ、そこからさらに「義化」されることになります。カトリックではこのふたつの過程全体を「成義」と言います。一方プロテスタントでは、「義とする/される」という動詞を重視して、これを法廷用語の「義認」の意味に解釈する場合が多いのですが、プロテスタントでも、神の義が生活の中で実現することを「義認」から「聖化」(しょうか)へいたる信仰としてとらえることがあります。これは宗教改革以来の歴史的な過程から生じた違いですが、現在では、カトリックもプロテスタントも、「神に義とされる」ことを「義認」と「義化/聖化」の両方にわたる意味で理解していますから両派の間に事実上違いはないと言えましょう。さてここ16節でのパウロの「義」の用法は、「義認」の意味が強いものの、ペトロの行為やガラテヤのユダヤ人キリスト教徒たちを念頭に置いてみるなら、具体的な現実の生活様式と切り離すことができません。したがって、ここの「義とされる」は、「義認」だけではなく、現実の生活において正しい生き方を実現するという意味をも含んでいると思います。
【律法】これについては、付記「パウロの律法観」を参照してください。
【律法の諸行】この言葉は、通常「律法の行ない」(「行ない」は複数形)あるいは「律法の業(わざ)」と訳されています。しかしこの言葉は、単なる「行為」の意味ではなく、特に宗教的な意味を帯びて用いられ、しかも複数形なので、「律法の諸行」という訳語を用いることにします。「律法の諸行」は、ここでは、旧約聖書に定められている教えや戒律や儀礼を守り行なうことを意味します。ここで言う「律法」は、モーセの十戒のような律法のことだけでなく、割礼や贖罪の献げ物や食物規定や安息日など、旧約聖書の定め全体を指しています。ですから「律法」は、旧約聖書に基づくユダヤ教全体、すなわち「宗教」と同じ意味に理解することができます。こうなると「律法の諸行」は、現代で言う「宗教的な行為/活動」と同じ意味になります。
    ところがパウロの場合には、この「律法の諸行」は、独特の意味を帯びて用いられています。特に16世紀の宗教改革以来、プロテスタントでは、パウロの言う「律法の諸行」とは、ユダヤ人が、(旧約)聖書の律法に固執するあまり、諸律法を人間的な自己努力によって実行しようとすることであり、こういう自己努力を通して、神に受け容れられる「義/正しさ」を自分の業績によって獲得しようとすることだと考えられてきました。自分たちユダヤ人は、聖書の律法を守り実行しようと努めてきたのだから、聖書を知らない異邦人のような「罪人」ではない。こういう自己義認から来る誇りが、彼らユダヤ人を支えてきたと考えられたのです。
   パウロは、こういうユダヤ人の誇りの支えとなっている律法主義を「律法の諸行」と呼んで、厳しく批判しました。なぜなら、人間が、自分の努力や業績によって、神に受け容れられる義/正しさを造り出そうとしても、「神の側が」求める律法の基準にはとうてい到達できないからです。だからパウロは、人間が神に受け容れられようとしても、自分の業績としての「律法の諸行」に頼っている間は、「神の義」に到達することは不可能なことを見抜いたのです。そうではなく、逆に、自己の努力では律法の基準に到達できないことを率直に認めて、神の前にへりくだって、神がキリストをとおして備えてくださった「神の憐れみと恵み」に頼ることによって初めて、「罪の赦し」が与えられて、神に受け容れられる道が開かれることをパウロは知ったのです。神はキリストを遣わして、イエス・キリストの十字架の死によって、キリストの命とその血を人類のための罪の赦しの献げ物としました。こうして、神が人間を「受け容れる」道を備えてくださった。これが、キリストを通して与えられる「神の義」であるとパウロは語るのです。だからパウロは、人間的な自己努力に基づく「律法の諸行」とキリストを通じて啓示された神の憐れみと赦しによる「キリストの信仰」とをはっきりと対立させるのです。パウロの伝えたこの福音は、ユダヤ的な律法の諸行ではなく、キリストによる恵みだけを信じる「信仰のみ」が救いをもたらすとして、ルターによる宗教改革以来、現在まで続いています。
   けれども、この教義によって、パウロの論争相手であるユダヤ人やユダヤ主義的なキリスト教徒は、「律法の諸行」による傲慢と異邦人に対する「誇り」のゆえに、キリストの信仰を拒否したと見なされてきました。このためにユダヤ人は、神から見捨てられた民だと見なされたのです。こういう言わば「反」ユダヤ主義的な解釈は、プロテスタントだけでなくカトリックにも共通していて、キリスト教とユダヤ教との対立の原因になっています。しかし最近では、このような反ユダヤ的なパウロ解釈が見直されるようになりました。イスラエルの民が、律法や祭儀を守り行なった場合でも、それは、自分の業績を誇るためではなく、神の恵みと憐れみを謙虚に求める気持ちの表われでした。このことは、例えば神殿建築に際してソロモン王が捧げた祈りにも表われています(列王記上8章27~40節)。パウロの時代のユダヤ人キリスト教徒は言うまでもなく、通常のユダヤ人の間でも、「律法の諸行」を誇る傲慢な意識は必ずしも一般的でなかった。最近になってこのように考えられるようになったのです。パウロがこのガラテヤ人への手紙で批判しているのは、まずいわゆる「ユダヤ人」、すなわちユダヤ教徒のことではありません。そうではなくて、「ユダヤ人キリスト教徒」たちのことです。それもユダヤ人キリスト教徒全体ではありません。なぜならパウロ自身もユダヤ人キリスト教徒だからです。そのユダヤ人キリスト教徒の中でも律法に固執する人たちのことです。だから、パウロの批判する相手は、当時のユダヤ人全体から見れば、かなり特殊な人たちのことなのです。この人たちはだから、「律法主義者的なユダヤ人キリスト教徒」と呼ぶことができます。もちろん「律法主義的」な人は、ユダヤ人キリスト教徒だけでなく、ユダヤ教徒の中にもいました。キリスト教徒よりもユダヤ教徒の中にこの傾向が強かったと言えます。しかし、それでもユダヤ教徒全部ではありません。極端な律法主義者たちで、「ゼロータイ」(熱心党)と呼ばれた人たちのように、現代のテロ集団のような人たちもいました。
   「律法の諸行」は、神とイスラエルの民との間に結ばれた「契約」と関連しています。神はアブラハムと契約を結び、彼と彼の子孫たちに永遠の祝福を約束し、これに伴って割礼の儀礼を命じました(創世記17章1~12節)。イスラエルはそれ以来、契約の民としての歩みを続け、割礼を実行してきたのです。だからパウロの時代でも、彼らは、割礼、食物規定、安息日など、律法の規定に従うことをユダヤ民族の「しるし」として順守していました。けれども、一般のユダヤ人の考え方は、律法を守り行なうことによって神の義を獲得しようとする「律法主義」から出ていると言うよりは、単に神との「契約のしるし」として律法に従うという以上のものではなかったようです。この意味で、現代のユダヤ人の生活スタイルに通じるところがあります。だからこれは、契約に基づく「順法スタイル」であって、生活のスタイルとして理解するほうが適切でしょう。こういう「契約に基づく順法的な」生活スタイルは、厳格に律法を遵守することで神の義に到達しようとする「律法主義」と区別されなければなりません。なぜなら彼らの儀礼は、神の前で己の行為を「律法の諸行」として誇るためではなく、神がイスラエルを省みてくださることへの感謝を表わす「神の愛への応答」以上のものではなかったからです。したがって、1世紀のユダヤ教は決して「律法主義」一色ではありませんでした。
    ちなみに、16節(1)の「イエス・キリストの信仰によるほかない」とあるところは、原文では「イエス・キリストの信仰による以外に律法の諸行によっても義とされることがない」と訳すことができます。この訳だと、イエス・キリストの信仰さえ与えられているのなら、律法の諸行が行なわれていても、神に義とされることがありえるという意味に解釈できます。ユダヤ主義的なキリスト教徒たちは、この意味で福音と律法の関係を理解していたのでしょうか。しかし、このような解釈は、ここでのパウロの真意ではありません。彼はここで、「律法の諸行」と「イエス・キリストの信仰」とをはっきり対立させているからです。パウロは、当時のユダヤ主義的なユダヤ人や一部のユダヤ人キリスト教徒たちが主張する「律法主義」と闘わなければなりませんでした。パウロの宣教活動は、この問題で貫かれていると言えるほどです。彼が明らかにしようとしたことは、「律法主義」に対立する「キリストの信仰」です。彼はこれを「福音の真理」と呼んでいます。この福音の真理は、現在でも、イエス・キリストの福音の最も大事な真理であることを確認すべきであると思います。
【イエス・キリストの信仰】ここで「信仰」と訳されているギリシア語「ピスティス」は、旧約のヘブライ語「エムナー」にさかのぼります。このヘブライ語は、特に神について用いられる場合には、「誠実である」「信頼できる」という意味が基本にあります(「エムナー」と同根で「エメッツ」があり、これはギリシア語で「アレーセイア」(真理)と訳されます。どちらのヘブライ語も「アーメン」と同じ語源です)。ですから「ピスティス」は、「信仰」とも「信実/真実」とも訳すことができます。語法的に見ると、「イエス・キリストの信仰/信実」という表現は、「わたしたちがイエス・キリストを信じること」(キリストを目的と見なす目的格的な属格)と「イエス・キリストがわたしたちに与える信仰」あるいは「イエス・キリストが具えている信実」(キリストが主語となる主格的な属格)というふたつの解釈が可能になります。
     「信実/信仰」という名詞の用法で言えば、「キリストが具えている信実/キリストが与える信仰」という主語としてのキリストを明確に表わす用法は、パウロ書簡を含めて新約聖書には見あたりません。しかし、神については「神が具えている信実/真実」(ローマ3章7節)として用例が出てきます(他にコリント第一1章9節/10章13節/コリント第二1章18節)。この「神に具わる信実」と並行して、「キリスト教徒の信実/信仰」も「アブラハムの信実/信仰」もすべて、「彼らが具えている/に具わる」ものとして主格的に理解されています。ラテン語の聖書(ウルガタ)での ”fides Christi”は、「キリストに対する信仰」と目的を意味する場合には、“fides in Christo”が用いられていますから、”fides Christi”は、やはり主格的に「キリストが具えている信実」の意味で理解されているようです。
  しかし、上に述べた主格的な例に対して、パウロでは、イエス・キリストについて言う場合には、「キリストと共に生きることを信じる」(ローマ6章8節)や「イエスが死んで復活されたことを信じる」(1テサロニケ4章14節)のように、イエス・キリスト「についてあることを信じる」という言い方が多いのです。新共同訳が「イエス・キリストへの信仰」と訳しているのはおそらくこのような解釈に基づくのでしょう。また「キリストの信仰」をたとえ主格的に解釈しても、これが「キリストへの信仰」という意味をも含んでいることは、パウロがこれに続いて、16節(2)で「わたしたちもイエス・キリストを信じた」と言い換えていることから分かります。「イエス・キリストの信仰」という言い方は、パウロ系の手紙に6回表われます(ガラテヤ2章16節/3章22節/ローマ3章22節/3章26節/エフェソ3章12節/フィリピ3章9節)。なおローマ3章26節の直訳も「イエス・キリストの信仰から出た者を義とする」(新共同訳と比較してください)です。おそらく語法的に見る限りでは、この句は、「キリストへの信仰」と訳すほうが正しいでしょう。「キリストの信仰」を「キリストに対する全託的な信仰」の意味に解釈したのは、宗教改革時代では、ルターに始まるようです。現在の英訳聖書では、New Revised Standard Version も The Revised English Bible も共に”faith in Christ”「キリストへの信仰」とキリストが目的になっていて、NRSVでは、欄外に”faith of Christ” 「キリストの/からの信仰」があげられています。
   語法的にはこれでよいとしても、内容として見るならばなお問題が残ります。「律法の諸行」と「キリストの信仰」とを並べて見ますと、「イエス・キリストに対する信仰」という目的格の解釈は、動詞としては「イエス・キリストを信じる」ことです。だから「律法の諸行」、すなわち「律法を行なう」ことと「キリストを信じる」こととが並行して対照されることになります。「行なう」も「信じる」も、どちらも「人間が」行なう行為を指しています。だから両者の違いは、人間の側の行為の対象が「律法」か「イエス・キリスト」か、という点に絞られます。これに対して、「イエス・キリストに具わる信実/から来る信実」と解釈するなら、この名詞は「律法の諸行」という名詞と対照されます。しかしこの場合は、人間の行為の対象が、律法かイエス・キリストかという違いではありません。なぜなら「キリストから来る信実」とは、人間の側からではなく、神の御子としてのイエス・キリストから降る「信実/信仰」という意味になるからです。ここでの違いは、いったい「信仰」とは、「人間の行なう行為」なのか? それとも「イエス・キリストから注がれる信仰」なのか? ということになります。ここでは、「人間の行為」と「キリストからの信実」とが対立するのです。
   これらのふたつの解釈の狭間で問われてくるのは、いったい「イエス・キリストを信じる」行為それ自体は、そもそも「人間の」行為なのか? それとも「イエス・キリストから来るもの」なのか? ということです。もしもキリストを信じる行為が人間から出たものであれば、その行為は、律法を行なう人間の行為と並行して見ることができます。しかし、もしもキリストを信じる行為それ自体が、そもそも人間から出たものではないとすれば、それはイエス・キリストを通じて働く神から出たことになります。この場合は、人がキリストを「信じる」という行為は、宗教改革者たちが唱えたように、これに「先立つ恵み」”prevenient grace” が、すでにその人に来ていなければならないのです。
   先にあげた「律法を行なう」と「キリストを信じる」というこの並行関係は、一見すると分かりやすいようですが、このように内容的に見ると、必ずしも明確でないことが分かります。なぜなら、律法については、人はこれの規定に従って「行なう」ことができます。ところがイエス・キリストを信じる場合には、人はいったい何を基準にして「信じる」ことができるのでしょう? 聖書にはキリストの「名を呼ぶ」あるいは「キリストの言葉を聴く」という行為が、「キリストを信じる」ために必要であると語られています。しかしこれらは、信じるための手段ではあっても、行為それ自体の対象ではないのです。パウロの場合で言えば「キリストへの信仰」は、復活したイエス様との出会いによって生じた出来事でした。ガラテヤの人たちの場合は、パウロから「聞いて信じた」からであり、その上で十字架にかけられたイエス様が「目の前に描き出される」(3章1節)事態からでした。どちらの場合も人間がある対象を目指して行なう行為から生まれたのものではありません。これらは、人が行為する以前に、神のほうから人に働きかける時に生じる出来事だからです。この場合、人はせいぜい神からの働きかけに「応答する」ことができるだけです。もしもこれを「信じる」という人間の行為と呼ぶのであれば、その「行為」とは、行為する主体それ自体さえ危機にさらされている状態での「行為」です。「キリストから来る信実」あるいは「キリストに具わる信実」という解釈は、「誰が」(主語)「何を」(目的語)「行為する」(述語)のか、その区別が失われて、これらが一体となった主客一如の霊的現実から生まれたと見るべきです。だから、「キリストの信仰」には、キリストからの信実とこれ対する人間の側からの応答の両方がこめられていると見ることができます。わたし自身は、この意味での「キリストの信仰」は、語法的には目的格であっても、「キリストからの信実」と、さらには「神の信実」とが重ねられていると解釈しています。
   パウロは「キリストにある」(エン クリストォ)という独特の言い方をします。アドルフ・ダイスマンは、「イエス・キリストの信仰/信仰」について、すでにその著書『パウロ』(初版1912年)で次のように述べています。
 

 
  ダイスマンは「神秘」という言葉を聖書本来の古典的な意味で用いています。わたしはこのダイスマン以上の深い洞察をいまだ寡聞にして知らないのです。
  以上をまとめると、16節全体の論旨は次のように解釈できるでしょうか。(1)の部分では、まず人は「イエス・キリストの信仰」によって「義とされる」、すなわち義認が与えられます。そこから(2)の部分で「キリストの信仰」に対する人間の側からの応答として「キリストを信じる」という決意へと導かれます。この両者の「信実」が出会うところに「交わり」が生まれ、そこに(3)「キリストの信仰」によって「義とされる」ことが、「義認」の結果として現実化することになります。その上で、(4)の部分で、この義認とその結果として生じる「キリストの信仰」に生きる人の生活が、「律法の諸行」から生じたのではないことが確認されています。
17【わたしたちが罪人であると見なされるのなら】17~18節から、パウロは、彼とユダヤ主義的なキリスト教徒との間の違いへと目を向けます。パウロが、「わたしたちが罪人であると見なされるのなら」と言う時の「罪人」とは、先の「罪人と言われる異邦人」と同じ意味の「罪人」のことです。それは、ユダヤ教で言う「アブラハム契約とこれに伴う律法から除外された人たち」を指す言葉です。特に捕囚以後では、「罪人」は、慣用的にユダヤ人以外の異邦の諸民族を意味していました(1マカバイ2章20~21節/24節/27節)。なぜなら異邦人は、アブラハム契約のしるしとなる割礼を帯びていなかったからです。
  異邦人キリスト教徒たちにも割礼を行なうべきであるというユダヤ主義的なキリスト教徒たちの言い分もまさにここにあったのです。たとえキリストを救い主と信じていても、割礼を受けていなければ彼はアブラハム契約の「外の者」として、いぜん「罪人」ではないか(これが罪人と「見なす/言われる」の意味)。それだけではなく、ペトロが行なったように、ユダヤ人キリスト教徒が、「律法を無視して」異邦人キリスト教徒と食卓を共有するならば、これを行なうユダヤ人キリスト教徒までもが異邦人並みの「罪人」へと転落することになるではないか。それなら、信じる者を無割礼へと導くキリストは「罪人」をつくりだす「罪の奉仕者」ではないのか? これがパウロの伝えるキリストに向けられた批判の第一点だったのです。
   第二点は、もしも律法なしで救いに入ることができるのなら、律法の禁じている不道徳な生活をどうやって防ぐのか? という問題がありました。実はここに、ユダヤ教の律法順守問題とは別に、もう一つの問題が潜んでいます。それは、福音を受け入れたガラテヤのキリスト教徒たちの生活ぶりが、異邦人たちのそれと変わらない「放縦な」傾向を帯びていたらしいことです。このことが、ユダヤ主義的なキリスト教徒から律法順守を迫られる理由のひとつになっていたと思われます。パウロはこの書簡の5章で、キリスト教徒のモラルは、律法によってではなく、御霊の結ぶ実によって初めて可能になることを説いていますが、それは、このような批判を念頭に置いているからです。ただし、ここの段落では、まだこの問題に触れるところまではいっていません。
【キリストは罪をもたらす者なのか】パウロが「キリストによって義とされることを求める」と言う時、キリストを信じて無割礼のままで水の洗礼を受ける行為を指しています。その上で、無割礼の洗礼によって、受洗者だけでなく、このような福音を伝える「わたしたちまでも」が「罪人と見なされる」のなら、と仮定した上で、「キリストは罪をもたらす者となる」という結論を引き出して、パウロはこの結論をきっぱりと否定するのです。結論が誤っているのは、そもそも無割礼のままの洗礼者を「罪人と見なす」こと自体が誤りだからです。このようにしてパウロは、ユダヤ主義的な視点と自分の福音との違いを鋭く対立させています。
   パウロは、ここで受けている非難をこれ以後も繰り返し受けることになります。通常このような場合に、彼は先ず相手の非難する事実をあげます(無割礼の洗礼では、律法違反の「罪人」であると見なされる)。次に「もしそれがほんとうであれば」と仮定して、その上で、この仮定に基づく結論を引き出します(キリストは「罪」をもたらす)。それからこの結論を断固として否定します。その上でこれに続けて、自分の主張をさらに深めて示します。これがパウロの論法の特徴です(ローマ3章3~4節/6章1~2節/7章7~8節/9章14~16節/11章1~2節/1コリント6章15~16節/ガラテヤ3章21~22節)。ところがここでは、次の18節で彼はさらに論を深めることをしません。その代わりにこう言うのです。
18【もしわたしが、自分で壊しておきながら再びそれを建てようとするなら】パウロは一人称の「わたし」に戻って何を言いたいのでしょうか?「キリストは罪をもたらす者なのか?」という非難は、ここでのパウロだけでなく、ほかならぬアンティオケアでペトロも同じ体験したからです。ペトロは、イエス様の御霊に導かれるままに異邦人キリスト教徒と食卓を共にすることで、「律法から自由な」生活をしていました。しかし、このことがまさに今パウロが受けている非難を招くことになったのです。ペトロは、律法から自由な自分の生活態度が、「キリストは罪をもたらす者」と呼ばれることを恐れたのでしょう。彼は、次第に律法へ逆戻りすることになったのです。その結果ペトロは「自らを違反者だと証しする」羽目に陥って、今度は逆にパウロから批判を招くことになりました。ただし、アンティオケアでは、結果として多数意見を得たのは、ペトロのほうであってパウロではありませんでした。このためにパウロは、アンティオケアの教会を去ることになったのです。ただしパウロはここで、「もしわたしが」と仮定して、直接にペトロを名指ししないよう配慮しています。パウロは、ペトロの轍を踏むことはしません。では、いったいペトロとパウロとは、どこが違うのでしょうか?
19ここから、福音の要(かなめ)となる大事な数節が続きます。この数節は比喩的な表現で語られています。パウロは生きていて、まだ死んではいないのですから。しかしそれは、ただの「たとえ」ではありません。霊的なことを語る時に用いる比喩で、現実に深く根ざした体験を語る比喩です。このような比喩を「隠喩/暗喩」(メタファー)と言います。暗喩は、霊的な出来事を語る時に欠かすことができません。それだけに幾つもの意味が重なり合っていて、いろいろな解釈を呼び込むことになります。暗喩が「難解だ」言われるのはこのためです。しかし、「霊のことを言い表わす」手段として読むなら、暗喩は決して難しいものではありません。これらの重層的な意味を以下に分類してこの19節にこめられた意味を探りたいと思います。
【わたしは律法によって律法に死んだ】この文には、「わたしは律法<によって>死んだ」と「わたしは律法<に>死んだ」という二つのことが重ねられています。
(A)まず「わたしは律法によって死んだ」という意味から始めます。「律法によって」とあるのは、「律法を通じて」と言い換えてもいいでしょう。これは、律法が「死ぬための手段」として働くという意味です。では律法は、どのようにして死ぬための手段となるのでしょうか? それは律法を貫徹するために、律法の諸行をどこまでも追求するまさにその行為によって、逆に人が律法の重みに耐えきれず、律法を守りきることができない苦しみに断罪されて、律法を守ることで救いが達成されるはずなのに、逆に律法による「裁き」にさらされるという意味です。その結果自分が「死にいたる」ほどの苦しみを味わうからです。先にパウロは、「わたしは同年配の誰よりも律法に熱心であった」(1章14節)と言いました。パウロは、キリストに出会うまでは、彼の論争の相手であるユダヤ人キリスト教徒たちに比べて、彼らよりもはるかに熱心に律法を貫徹しようと努めてきたのです。だからこそ、ユダヤ人キリスト教徒たちを厳しく迫害したのです。「律法によって死んだ」が重要なのは、ローマ人への手紙7章22~24節にもあるように、これがパウロ自身の律法体験に根ざしているだけでなく、この体験が、彼以後の多くのキリスト者の体験によって裏付けられているからです。この句には、パウロ自身の律法における切実な体験が反映されています。ただし、このような事態は、まず「キリストが律法に死ぬ」ことが先にあるからです。
(B)「わたしは律法に死んだ」について。単純に考えて「律法によって」死んだという意味だけであれば、その上に「律法に」という句は不要です。しかし、人は死んでしまえば、その段階で、もはや律法によって裁かれることも罰を受けることもありませんから、律法の手の届かない存在となります。この意味では、この句を「わたしは律法に<対して>死んだ」〔原口尚彰氏訳〕と訳すこともできます。「律法に対して死んだ」は、死んで律法の手の届かない存在になることです。パウロがすでに死んでいるのであれば、この解釈は字義どおりの意味として成り立ちます。しかし、彼がまだ生存している場合には、この解釈は比喩(暗喩)として理解されなければなりません。
  人は死ぬことで律法の手の届かない存在になりますから、その人に限るならば、「死」は、「律法それ自体の死」ともなります。すなわち「律法に対して死ぬ」ことは、その時点でその人に関して「律法の終焉」となります。律法はこれの完全な成就を求める者を死へと追いつめます(ローマ7章10節)。ところが、死こそ律法がその力を失う場であれば、律法の働きは律法自体の消滅へ向かうことになります。神の律法は、人間に向かってこれを貫徹させようと意図することによって、人を死に追いやると同時に、律法自体の消滅へと向かうのです。律法は人を裁くことで死へ追いつめるまさにその過程において、律法自体の消滅へ向かうという、律法に内蔵された矛盾がここに露呈されます。人間がまだ生きている間は、その律法体験がいかに苦しくても、「律法の終焉」とまでは行かないでしょう。しかし「律法を通して」人を死へと向かわせるそのことが、律法それ自体の消滅へつながるというパウロの認識は、ここで大事な意味を持つことを忘れてはなりません。
【神に生きるためです「律法に対して死んだ」ことをパウロはさらに「わたしが神に生きるため」という句へと結びつけます。人は罪に問われて処刑され、その結果として「律法に対して死んで」も、そのことが直ちにその人が「神に生きる」道とはなりません。ところがここでは、人が「律法に対して死んで」、その人への律法の束縛が失われることによって、もはや律法を守ろうとする苦しみを味わうことがなくなって、「律法から解放される」という明るい側面が顕われてくるのです。だから取りようによっては、この「わたしは律法に対して死んだ」には、ふたつの意味がこめられています。ひとつは、律法によって「わたし」が殺され、その結果「わたし」は無に帰すること。もうひとつは、律法とは関わりを持たない「わたし」が、新しく誕生すること。この二つです。一方の「わたし」は律法によって殺され、他方の「わたし」は律法から解放された存在になるという、明暗二重の「わたし」の意味がここに浮かび上がってきます。
    原文は「律法に死ぬ」に続いて「神に生きるために」とあって、この二つが対になっています。律法「に」死ぬことは律法「から」離れることを意味し、神「に」生きることは神と「共に」生きることですから、これらは「律法に対して死ぬ」と「神と共に生きる」と訳すことができます。この二つは、つながっているようですが、「死ぬ」と「生きる」とありますから、互いに対立すると見なすことができます。「神」と「罪」とは、聖書でしばしば対立関係で出てきます。しかし「神」と「律法」とが対立する関係は珍しく、ここのほかには、フィリピ人への手紙3章9節に見られるだけです。そこでも、復活のキリストへの信仰が「律法から生じる自分の義」と対立してとらえられています。なお「神と共に生きる」では、ローマ人への手紙6章10節がここに最も近いでしょう。
  くどいようですが、パウロが「律法を通して」と言うのは、律法に「殺される」ことですから、その結果人は「律法に対して死んだ」存在となります。だが、そのこと自体は、直ちに「神に生きる」ことへとつながりません。律法の諸行それ自体は、神と共に生きる道をもたらさないからです。律法を求める諸行の行き着く先は、せいぜい「律法の終焉」をもたらすだけです。律法に対して死ぬことから、神と共に生きることへの転換は、直接には出てこないのです。肉体にあって生存している人間が、死んだからといって「神に生きる」ことにはなりません(ここでは、死んで天国へ行くこと、あるいは浄土へ行くことのように「あの世」へ行くことが語られているのではありません。どこまでも「今この世において」霊的に生じる出来事を語っているのです)。だからパウロが、律法を追求して、その結果苦しみのうちに死んでも、自分が無に帰するだけで、「神に生きる」ことにはなりません。ではいったい、パウロはなぜ、律法に対して死ぬことが、「神に生きるため」だと言うのでしょうか? 
【わたしはキリストと共に十字架につけられている】パウロにとって、「律法によって律法に死ぬ」ことが「神に生きる」ことと結びつくのは、そこに「キリスト」の働きがあるからです。「律法による死」から「神への生」への転換は、「キリストと共に十字架される」ことが、その人に霊的に起こることで初めて成就される。こうパウロは語っているのです。人は律法を追求することで死にいたり、律法に対して死ぬことで初めて、神によって生きますが、この「死ぬ」から「生きる」への転換は、「キリストによる十字架の死と復活」を通じて初めて可能になるのです。しかし、わたしたちは、どのようにして「キリストと共に十字架される」ことができるのでしょうか? 自分自身の力によってでしょうか? そうではありません。ここでは、「わたし」は十字架「される」のであって、自らを十字架「する」ことではないからです。ここの原文は「わたしはキリストと共に十字架された」と訳すよりも、むしろ「わたしはキリスト<によって>共に十字架された」と読むほうが分かりやすいのではないでしょうか。「共に」は原文では前置詞ではなく「十字架された」とう動詞の接頭辞になっています。だから、少なくともこの文は、“I have been crucified with Christ.” ではないでしょう。むしろ”By Christ I have been crucified with (him).”のほうが原意に近いでしょう。律法を追い求めたパウロが、初めて律法の終焉を見ることができたのは、「キリストによって共に十字架された」自分を発見する場においてだったのです。このキリストの十字架の場で、律法からの解放がわたしに成就した、というのがパウロの告白なのです。
   このように「律法からの解放」と「神と共に生きる」が、パウロにあって同時に生起するのは、イエス・キリストの十字架による死と復活と不可分です。福音書が伝えるのはこの出来事であり、「そのこと」が、パウロにも生じたのです。しかもこれが、イエス様を信じるすべての人にも起きること、このことをパウロはわたしたちに伝えたいのです。この地上にあって、現在肉体を具えたわたしたち人間にこのような不思議が生起するのは、イエス様の父なる神から降る聖霊のお働きです。「イエス様の御霊」のお働きです。御霊はわたしたちの内で、新しい創造を始めてくださるからです。パウロが、「いったい誰が、このようなことを想像できただろうか!」と驚嘆するのも無理ありません(コリント第一2章9節)。
   もう一度整理してみましょう。パウロは律法を熱心に追い求めました。その結果死ぬほどの苦しみを味わいました。そして救いにいたるはずの律法が、実は人を裁きと死へ追い込むことを悟りました。ところがイエス・キリストに出逢い、その十字架の死と復活を知ることで、律法から解放されて、神と共に生きる命に与る自分を発見したのです。このように見ると、一連の流れが、時間的に順を追ってパウロに生じたことが分かります。しかしこの認識は必ずしも正しくありません。なぜなら、律法を通じて死ぬこと、律法から解放されること、神に生きること、キリストと共に十字架されたこと、これらは「この順番に」認識されたのではありません。事実は逆で、イエス様の御霊にあって、その働きかけによって初めて、これらのことが「最初から」起こっていたことが見えてきたからです。だから、律法が人を裁いて死へと追いやるという認識それ自体さえも、パウロが、イエス様の御霊にあって初めて分かったことであって、律法を求めている最中に、パウロ自身が発見したことではないのです。律法を熱心に求めていたのはパウロだけではありません。彼と同輩のファリサイ派の若者も同じように律法を求めていました。しかし、律法が、人を命へではなく死へ導くことを洞察したのは実にパウロただ一人だった、こう言ってもいいでしょう。なぜでしょうか? 彼がイエス・キリストに出逢って、その十字架と復活を通じて、神の憐れみと恵みを知ったからです。このように見ますと、わたしたちは、16節の最初から、「わたしは<キリストにあって>律法によって律法に死んでいる」と読むことも可能になるのが分かります。なぜなら「律法」というものをこのように認識することができたのは、イエス様の御霊の導きによる以外にはありえなかったからです。
    しかしながら、ユダヤ主義者たちにはこのことが洞察できません。律法に熱心だったかつての彼の同僚にも認識できません。イエス様の御霊の導きなくしては、これらのことを悟ることができないからです。ユダヤ教徒たちだけではありません。ユダヤ人のキリスト教徒たちでさえ、イエス様の御霊を信じると言いながら、「律法に対して死ぬ」こと、そして「律法から解放される」こと、この御霊の大事な働きを十分理解できていないのです。だから彼らは、割礼などの律法制度とイエス様の福音とが、根本的に異なることを見抜くことができないのです。
    ここで確認しておきたいことがあります。律法を通じて断罪されること、そして律法による死を通じて、「律法から解放されたわたし」へと転じるためには、イエス・キリストの十字架による罪の赦しが働かなければなりません。しかしこの転換のためには、その前提として、「律法を通して死ぬ」ことがなければならないのです。なぜなら、神に生きる「わたし」が誕生するためには、律法の諸行を通じて死に至る「わたし」がその裏側に潜んでいるからです。この認識なしには、真の意味で、律法からの解放を体験することができないのです。ガラテヤを訪れているユダヤ主義的なユダヤ人キリスト教徒たちは、「律法の諸行」と「キリストの信仰/真実」とのこの関係が十分理解できず、パウロの説く福音と律法との関係を把握できないままに、「パウロは律法を無視している」あるいは「パウロは律法はいらないと主張している」、こう言ってパウロを誤解し批判しているのです。
   以上見てきたとおり、パウロにとって、キリストとの出会いは、律法をないがしろすることから出ているのではありません。「律法からの解放」は、律法を中途半端に投げ出すことからではありません。律法は完全に守らなければ逆に呪いとなることを知っていたからこそパウロは律法を追い求め、このようなパウロにして初めて、「律法によって律法に死ぬ」という深い洞察が与えられたのです。内村鑑三はこう言います。


20【生きているのは、もはやわたしではない】この節は、先の「わたしは律法によって・・・死んだ」と結んで解釈するのが通例です。ローマ人への手紙6章5~11節では、「律法」とキリストとの対立ではなく、「罪」とキリストとが対立関係で語られています。ローマ人への手紙で言われている「古いわたし」とは、律法によって「罪の奴隷」とされている「わたし」のことです。「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」とパウロは言います。ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙とのこういう並行を見ると、パウロでは、「罪」と「律法」とが、ほとんど交換可能な言葉として用いられているのが分かります(これについては付記「パウロの律法観」を参照)。パウロにとってキリストの十字架は、なによりも律法を通して断罪された「わたしの死」であり、それは同時に「罪に対する」自己の死でもあるのです。ですから、ここガラテヤ人への手紙2章で、パウロは、死んだのは「律法によって断罪された罪のわたし」であると言っているのであって、「わたし」という自己の人格的な存在それ自体が消滅したと言っているのではありませんから注意してください。
  こう言うのは、この節を「自分」そのものが死んで、言わば個人としての「わたし」は消滅して、キリストの体である「教会」に属することだと解釈する説があるからです。この解釈の場合、「キリスト=教会」という図式が背景になっているのは言うまでもありません。この解釈では、個人としての自己はもはや存在しなくなります(少なくともわたしにはそのように思われます)。しかし、パウロはすぐ「わたしは死んだ」に続けて、今生きているのは「わたしにある」キリストであると言うのです。いったい「わたしにあるキリスト」とは、「わたし」が存在しなくなって、その代わりにキリスト=教会があることでしょうか? それとも「わたし」が存在していて、その「わたし」の内にキリストが宿ることでしょうか? それとも、単数の「わたし」が存在して、そこが「キリスト」の宿りの場であると同時に「教会」なのでしょうか? 「わたし」の代わりにキリスト=教会が存在するという解釈に基づくなら、個人としての「わたし」は存在しなくなります。教会論者は言うでしょう。「生きているのは、わたしにあるキリストである」と言う時の「わたし」とは、教会のメンバーのことであると(このmember は「体の一部」という本来の意味であって、いわゆる「会員」のことではありません)。わたしは、キリストにある個々の信仰者が、教会の「メンバー」であることを否定するつもりはありません。けれども、パウロはここで、そのような教会の有り様を念頭に置いているのではなく、あくまでも、「わたし」という個人の有り様を、他のすべてのキリスト教徒と重ねながら語っているのです。もしもここを「わたし」が律法に対して死んだことによって、「わたし」という人格的な個人が「もはや存在しなくなる」と考えるならば、それは誤りです。このことは、次の20~21節で明らかになります。
【生きているのはわたしにあるキリストである】これが原文の語順です。ここでは「生きている」→「わたしにあって」→「キリストが」という一連のつながりを読み取ることができます。通常ここは、もはや自分が生きているのではなく、キリストが自分に代わって自分の内で生きている、のように理解されるようです(新共同訳もこのように読むことができます)。
    しかしわたしたちは、ここでもローマ人への手紙6章5~11節から7章でのパウロの言説を思い出す必要があります。「十字架された自分」とは「罪の奴隷」となっている「わたし」のことであって、人間の全人格的な存在としての「わたし」のことではありません。だからこそパウロは、「もしわたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのはもはやこのわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪である」(ローマ7章20節)と言い切ることができたのです。7章20節で言う「このわたし」とは、先のガラテヤ人への手紙2章19節で「わたしは律法を通して」断罪されたの「わたし」とは異なっていることに注意してください。なぜなら7章20節では、望まないことを行なわせている罪とは別の存在として「このわたし」が「生きている」からです。「生きているのはわたしにあるキリストである」と言う時の「わたし」もここと同じ「わたし」なのです。それは「律法によって殺されたわたし」ではありません。したがって、「律法によって殺されたわたし」あるいは「罪の奴隷であるわたし」と「わたしにあってキリストが生きている」と言う時の「わたし」とは、同じではないのです。むしろパウロは「罪を行なうわたし」はもはや「わたし」ではないと言っているのです。だから「十字架されて死んだわたし」を今生きている人格的な存在である「わたし」と同一視することはできません。「律法に唆されて罪を行なう」ほうの「わたし」について、ルターは次のように言っています。


  ルターはここで、「わたし」という人格存在それ自体が「死と地獄」に属すると言っているのではありません。そうではなく、彼がキリストと結ばれた「わたし」にあって「すべてこれらは消滅する」と言う時に、消滅するのは、「律法に結ばれたわたし」であり、これがルターの言う「罪」です。だから彼は続けてこう言うのです。


   ここでルターの言っていることは、パウロが言う「罪のわたしは律法によって死んだ」こと、また、罪のわたしは「キリストによって共に十字架されてしまった」とあるのと同じです。「生きているのはもはやわたしではない」の「わたし」は、徹頭徹尾律法によって断罪された「わたし」のことであり、「キリストにあるわたし」のほうは生きているのです。こういう事態を「肉にあるわたし」と「霊にあるわたし」との対立としてとらえるなら、そこには二元論的な人間理解が生じることになります。しかし、このような二元論的な理解の仕方は、パウロをもルターをも誤読することになると思います。なぜなら、「キリストがわたしにあって生きている」は「わたしがキリストにあって生きている」と読み替えることをも可能にするからです。パウロは続けてこう言います。
【今肉によって生きているこの命は・・・神の御子の信実による命である】この部分を訳し直すと次のようになります。「だからわたしが現在の肉体にあって(それを)生きている(その存在は)、・・・神の御子の信実による(交わりにあって)生きているのである。」「それを」とある目的格を「肉にあって生きている」主体は、「わたし」です。こういう「肉にある存在のわたし」が、「神の御子の信実にある交わり」によって可能にされた、というのがパウロの真意です。わたしたちがここに見るのは、霊肉の二元論でもなければ、「肉」の現実から身を引いて、密かに「霊」の内面性へと沈潜する神秘主義でもありません。むしろ「あらゆる事態に対処する」術(すべ)を心得た人間パウロが、キリストの信仰によって、様々な現実に対応して生きるあり方が見えてきます。わたしはこのような生き方を「知恵の御霊の働き」と呼んでいます。ルターもこの辺の消息を次のように述べています。

 
  ここに見るのは、キリストの十字架にあって、わたしという肉の罪を赦されて、イエス様の御霊にあって歩み続ける人間の有り様です。その歩みは動きであり、その動きは、常に万物を創造し、今も創造を続けている神の御霊に支えられています。御霊は、霊と肉との矛盾を統合する動きとして働いています。このような「わたし」を一貫させるダイナミズムを「十字架されたわたし」と「キリストにあるわたし」というように二元論的に理解/誤解してはなりません。この「わたし」は、神の霊によって創造され続けていく人格的統合としての「わたし」としてとらえられなければならないのです。
【わたしを愛しわたしのためにご自分を与えてくださった神の御子】この句をまとめると書簡の冒頭に出てきた「わたしたちの罪のためにご自分を献げてくださった主イエス・キリスト」(1章4節)になります。この一句はこの書簡のタイトルです。パウロはこの「主イエス・キリスト」を「律法による諸行」と鋭く対立させて呈示しました。この鋭い対立は、パウロのように律法を真剣に追い求めた者、そして、自己の罪深さに驚かされた者にして初めて洞察できるのです。ただし、主イエス・キリストを信じ受け入れる信仰それ自体は、必ずしもこのような自己洞察を前提条件とはしません。だから「律法の諸行」と「キリストの信仰」との間に潜む深い亀裂を意識しなくても信仰の歩みそのものは成り立つのです(ローマ12章3節)。だからこそパウロは、多くの異邦人キリスト教徒たちやユダヤ人キリスト教徒たちと信仰を分かち合うことができたのでしょう。しかし、ここで語られている「律法の諸行」と「キリストの信仰」との関係を洞察することなしには、パウロの言う「福音の真理」を悟ることができないのです。もっとも、補注(2)で指摘するように、「十字架されているわたし」のほうをあまり強調しすぎないように配慮する必要があります。この点から見ると、19節と20節との間には、「死」と「生」との均衡が保たれているのが分かります。そうでなければ、20節は21節へとうまくつながらないのです。
21【わたしは神のこの恵みを無にしない】「無にしない」は、人間の心には、「律法の諸行」を求め、これに頼り、これを誇ろうとする欲求がいかに根強いかを、このためにわたしたちがいかに十字架の恵みを「無にする」性癖が強いかを逆に示しています。これに対して「この恵み」とは、律法にある罪のわたしから解放された「キリストにある命」の恵みのことです。言うまでもなくこの恵みは、「十字架されてしまったわたし」と表裏をなしています。しかし、自分が「十字架された」そのことを直接に「恵み」だと言っているのではありません。「キリストにある命」は、ルターが主張するように、死に打ち勝ち生き生きと働く御霊の御臨在です。このことが、次の章で明らかにされることになります。
【補注】この注釈には、次の二つの〔付記〕を参照してください。
    「2章19節『神に生きる』:パウロとユダヤ教との違い」。
     「律法と自由:二つの誤り」。
     
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