(5)律法の諸行とキリストの信仰
【聖句】

2章15~21節

15わたしたちは生れながらユダヤ人であって、罪人と言われる異邦人の出ではない。
16しかしながら、人が義とされるのは、律法の諸行からではなく、イエス・キリストの信仰によるほかないのを知ったので、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。これは、キリストの信仰によって義とされるためで、律法の諸行によるのではない。なぜなら、律法の諸行によっては、「肉なる人間はだれ一人義とされない」からである。
17もしもキリストにあって義とされることを求めているこのわたしたちが、それでもなお人であると見なされるのなら、キリストは罪をもたらす者になるのだろうか。そんなことはない。
18もしわたしが、自分で壊しておきながら再びそれを建てようとするなら、自らを違反者だと証しすることになろう。
19このわたしは、律法によって律法に死んだ。神に生きるためである。わたしはキリストと共に十字架につけられている。
20だから、生きているのはもはやわたしでない。生きているのはわたしにあるキリストである。今肉によって生きているこの命は、神の御子の信実にあって生きている。
わたしを愛し、わたしのためにご自分を与えてくださったからである。
21わたしは、神のこの恵みを無にはしない。もしも律法によって義が得られるのなら、キリストは無意味に死んだことになろう。

【注釈】

【講話】

(1)コイノニア会

 今日は、石川県から来られた方、また愛知県からご夫妻で来られた方がいます。遠くからわざわざお出でくださいました。わたしたちの集まりは、こうしてこの場所で、月に一度の交わりを持っております。しかしこれは、『キリスト教年鑑』に出ているような教団、会堂があって会員数何名とある組織的な「教会」ではないのですね。一回一回が一期一会、遠くから近くからお集まりいただいたこの場の交わり、これが今日のコイノニア会なんです。ですから、わたしたちの交わりには、お客さんは一人もいません。全員が、この場における交わり、御霊の交わり、コイノニアのかけがえのないメンバー(体の一部)、こういうことです。月に一度の集会、これは決して多い数とは言えません。否、最低の数でしょうね。これ以上少なくしたら、もう集会がなくなってしまう。ぎりぎり最小限度の回数です。だから、月に二回、あるいは月に四回、あるいは月に十回、集会の数が多いことは、少ないよりもいいのだろうと思います。しかしわたしは、皆さんご承知の通り、神学校を出て資格を持った牧師さんではない。ただの勤め人、仕事を持った人間です。ですから月に一回の午後からの集会、これがまあ限度です。参加される方々もけっこう忙しい。日本人は忙しい。なかなか出てこれない。やるほうも来るほうもなかなか集まれない。こういう状況の中でやってきたわけです。多ければ、それに越したことはないけれども、やれる範囲でやってきました。その結果がこのようにあるわけです。かつては、ここにその頃の方々がおられますが、午前に集会をやり、午後は読書会を丸一日を潰してやっていたこともあります。それ以後はずっと月に一度の集会を守っております。
  それでも、ここにおられる方で、まだ高校生の頃からの方、あるいは大学生の頃からの方も、延々何十年も続いておられる方々がおられます。一回一回、今日は何人来るか、誰が来るか、分からない。昨日も久子とお配りするハンドをコピーする時に、さて何人分用意すればいいだろう? そんなことを相談したわけです。こういうことで、一回一回、その時その時に、集まることのできる人たちで集まる。全員これ素人。教会の言葉を使えば、全員これ「平信徒」。こういうのがもう何十年も続いています。でも、不思議につぶれもしないで続いてきて、そのうちにだんだん、東京から、あるいは和歌山から、あるいは姫路から、神戸から、あるいは愛知県から、石川県から、いろんな所からね、失礼ですが費用も大変、時間も大変だと思うのですが、こうして来てくださる。これはね、イエス様がなさっていることなんです。神様がなさっていることなんです。そうでなければ絶対に続かない。わたしはそれでいいと思っています。だからイエス様が、神様が、働かなくなったら、この集会は何時終わりになるか分からない。ああ、もうお終いか? こう思ったこともないわけではないのです。ところがこうして、今日まで続けさせられています。「られている」この集会。これは主様が働いてくださる。神様が主様の御霊を通して働いていてくださる。ただそれだけです。組織もないし、会堂もないし、なんにもない。資格もないし強制もない。なんにもない。不思議ですね。でも、わたしはそれでいいと思います。イエス様の御霊が働かなくなったら、この集会はなくなるほうがいいよ。イエス様のおられないキリスト教の集会、そんなものをやるくらいなら、集会、消えてしまうほうがいいよ。わたしはそう思っています。でもどっこいなくならない。不思議です。ほんとに不思議です。ですからこの集会は、いわばひとつの「モデルケース」。「模範」という言い方はよくありません。モデルです。どういう意味のモデルなのかよく分かりませんが、こういうやり方でもできるんだよという、最低限度のモデルです。だからどなたでもやることができます。これほんとうです。こういうことです。先ほどもある人と話し合っていたのですが、「こんな罪人でも救われました」、こう言えば、それならわたしでも救われると皆さん思ってくださるでしょう。上から偉そうに説教していたら、自分はだめな人間だからとうてい信仰は持てない。救われない。こう思う人がいると思うんですね。でもこんな人間でも、最低限度の人間でも、何とかイエス様に救われましたと、こう証しできれば、それならわたしでも救われる。こう思う人が出てくるわけです。これと同じでね。こんなやり方でもイエス様はこうしてご臨在してくださった。こういう証が立てられるなら、ああ、それだったらわたしもやれると、皆さん思ってくださる。これがこの集会の存在価値なんですね。わたしはこういう気持ちでやっています。

(2)御言葉を読む

 今お手元に重いハンドをお配りしました。全部で28頁。どうしてこんなにたくさんなのか。せっかくこんなに勉強してきたのだから、皆さんしっかり読んでくださいよと、そういう権威付けのためではないのです。中には恐れをなしている方もおられるかもしれません。決してそういうつもりではないんです。言うべきこと、書くべきこと、特に知識に関することがらをきちんと書いてお渡ししておくなら、後は自由に話ができる。あれも話さなくてはいけない。これも伝えなくてはいけない。こう心配することなしに、その時与えられるままに、み言(ことば)を語ることができる。そう思って、こんなに多くの注釈をお渡ししたわけです。それにしても多すぎますね。今回はちょっと多すぎます。もうこんなにたくさん書くことをしないつもりです。ただ、今回、こんなにたくさんの注釈になったのは、実はわけがあるのです。
   今日のところは、ガラテヤ人への手紙のメッセージの最も中心になるところと言いますか、書簡全体がここで一つにまとめられて語られているところなんです。ガラテヤ人への手紙と言うよりは、むしろパウロの福音が、ここに凝縮している。2章15節から21節までです。パウロの福音と言うよりは、新約聖書のイエス様の福音が、ここにまとめられている。こう言ってもいいと思うんです。少し大げさな言い方になりますけれども、ここが分かれば、キリスト教が分かる。ここがほんとうに掴めたら、イエス様の福音を掴んだことになる。こう言ってもいいようなところです。それでつい張り切って、長々と注釈を付けてお渡ししてしまったのです。このハンドをお持ち帰りいただいて、ガラテヤ人への手紙のあの部分はいったいどういう意味なんだろうかと、後になって、こういう疑問を抱いた時に、もう一度読み返していただく。そのためにとっておいてください。できるだけ分かりやすく書いてありますので、皆さんなら、十分理解できると思います。ただ、もう少し簡単に書くようにしたいとは思っています。
   聖書のこの箇所の、このひと言葉、この一句は、いったいどういうことを言っているのだろうか? こういう時にこの注釈をだしてお読みいただければいいんです。注釈には、何章何節のどの言葉、と見出しにありますので、その箇所を開いて、そこだけお読みくださってもいいようになっています。皆さんに理解できないような難しいことが書かれているわけではありません。ただし、聖書からの引用は、かなりたくさんしてあります。ほかの注釈でもそうですが、特にわたしは、聖書は聖書を通して解釈する。聖書の分からないところは聖書のほかの箇所を通して読む。これが大事なやり方だと思っていますので、聖書の引用は丁寧にしてあります。聖書の引用箇所を読みながら、じっくり読んでいただけると、よく分かると思います。皆さんどうぞ、この注釈を読むのは、この注釈を読むのではなく、ご自分で聖書を読む、そのための注釈だと思ってください。コイノニア会のホームページを見て、今日も遠くから来てくださった。有り難いことです。ホームページを見て、わたしの話を聞こうと思ってこられた。嬉しくないといえば嘘になります。でも、コイノニアのホームページは、あのホームページを通して、皆さん方が聖書を読む時に、どういう読み方をすればいいのか、どういうところに注意すればいいのか、実はそういうことも学び取ってほしいという願いが込められているのです。
   わたしもいつ何時皆さんとお別れするか分からない。第一、わたしが今語っているガラテヤ人への手紙の講話は、2005年2月20日午後1時からの講話なんです。永遠の御言葉でも、それを読む人間は、その時その場に限定されて読んでいますから、当然その時その場の状況に左右されていることになります。皆さん方は若いから、これからいろんな状況の中で、人それぞれが自分の置かれた状況の中で、御言葉を読んでいかなければなりません。また読んでいってください。そういう時に、今日のわたしの話だけでは、皆さん方の時には違った状況が生まれてきていますから、わたしの話したり書いたりした内容だけでなく、どういう風にして聖書を読めばいいのか? 聖書を読む読み方をね、ご参考にしていただければ、ほんとうに有り難いです。ここは少し理屈っぽい。これは余計なことだ。そうお感じになったら、それぞれご自分で自分なりの聖書の読み方を形成していく。そういう読み方のヒントになる、あるいはたたき台になる、こう言っていいのでしょうかね。どうぞそういうつもりでご利用いただければ、有り難いです。ああ、もう注解書は要らない。自分で聖書を読もう。こう思うようになったら、それで注釈の役目は終わったのです。自分で直接御言葉を読む。それが目的なんです。それぞれがそれぞれに、立場は違い、状況は違っても、自分なりに御言葉を直接読むことができるようになる。これがこのコイノニア会の目的なんです。御言葉に接することは、イエス様に直に接すること。難しければ、イエス様が難しい。一言でも分かれば、イエス様からの語りかけ。どうぞ皆さん、そういうつもりで御言葉に接してください。

(3)霊的な御言葉

 それでは、今日の聖句(15節~21節)をお読みします。訳はわたしの訳です。ここには先ほどもお話ししたように、パウロの全福音が缶詰のように凝縮しています。ぎっしり詰まっている。だから難しい。どうしてこんなに難しいのかと言いますと、これは「霊的なこと」を語っているからです。霊の出来事を伝えようとしている。だから難しい。「わたしはキリストと共に十字架に付けられている。」なんのことだろう? この言葉をクリスチャンでもなんでもない人に向かって言ってごらんなさい。「あなた、ちょっとおかしいんじゃない?」そう思われますよね。「わたしは律法によって律法に死んだ。」これも難しい。どうして霊のことはこんなに難しいのか? 実はこれは一つの「たとえ」だからです。「わたしはキリストと共に十字架に付けられている。」これを聞いて、パウロはほんとうに死んだと思ってはいけません。パウロは生きているのです。だからこれは「たとえ」なんです。なーんだ、ただのたとえか。皆さん、そう思うかもしれませんが、実はそうではないんです。「ただのたとえ」ではない。キリストと共に十字架されるということが、霊的にですよ、パウロにあって「実現」しているのです。霊の事態が現実している。だから難しい。ですからこれは、たとえでも、独特のたとえです。学問的には「隠喩/暗喩」(英語のメタファー metaphor)という独特のたとえの形式です。聖書には、このような暗喩の手法が多いのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。」どうしてイエス様が「道路」なんだろう。「わたしはぶどうの樹、あなたがたは枝である。」イエス様が葡萄の樹だとはどういう意味だろう。これは皆、暗喩です。霊的な現実、霊的なこと、これを深く伝えようとする時には、こういうたとえが用いられます。
  ここにおられる方は、信仰を持っていますから、「わたしはキリストと共に十字架に付けられた」と聞いても、その意味はお分かりだと思います。けれども、「私市先生、ほんとうにこの言葉、分かっていますか?」こう言われますとね。ほんとうに分かっていると言えるかどうか。なかなかこれは言えない。「生きているのは、わたしでない。キリストがわたしにあって生きている。」こんな言葉を霊的に現実にして言えるようになるには、わたしはまだまだダメですね。まだまだ足りない。難しいと言えば難しい。しかし霊的なことは決して難しくないのです。
(4)ユダヤ人
   まず始めに「ユダヤ人」という言葉が出てきます。これもいろいろに解釈できます。今現在、パレスチナのイスラエルの国にいるあの人たちのこと、「ユダヤ人」と聞くと皆さんはこれを思い浮かべるかもしれません。あるいはクリスチャンの方なら、この言葉を聞くと「旧約聖書の民」のことだ、こう思う。でも新約聖書は異邦人のものだ。こう考えるでしょう。あるいはイエス様を十字架に付けた悪い民族だ。ここにはこういう風に考える方はいないと思いますけれども、残念ながら人によっては、こう思う人もいます。あるいは聖書を持ち、ヤハウェの神を信じている民、これすなわち「ユダヤ人」、こう理解する人もいると思います。これは間違いではありません。でもね、これは旧約の民ことだけではない。新約をも含めて、聖書を信じている人全部のこと、聖書の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を信じている人たちは、すなわちこれ「ユダヤ人」、こう解釈するのです。ですから内村鑑三は、「ユダヤ人」とは、現代で言うクリスチャンのことで、またここでパウロが「割礼」というのは、現代で言えば「洗礼」のことだと解釈したのです。このために彼はずいぶん誤解されました。教会を侮辱している。教会を否定している。このように批判されました。でもこれは誤解ですね。晩年になって内村鑑三は、ホーリネスの中田重治と一緒に再臨運動をやりました。内村鑑三は決して教会を侮辱したのでも、否定したのでもありません。バルトのローマ人への手紙の釈義にも同じ思想が読み取れます。パウロも同じように、ユダヤ人を侮辱している。律法を否定している。こう言われて非難されました。同じことが何時の時代でも起こるんです。ヨハネ福音書にも「ユダヤ人」が出てきます。「ユダヤ人はイエスを殺そうとした」とあります。でも考えてみるとおかしい。なぜならイエス様も弟子たちもユダヤ人です。この福音書を書いた人もユダヤ人です。ですから、ヨハネ福音書で言う「ユダヤ人」は、ユダヤ人の指導者たちのことなんです。イエス様を十字架に付けたユダヤ教の指導者たちのことをヨハネ福音書では「ユダヤ人」と言うのです。同じ「ユダヤ人」でも、いろいろな解釈ができるのですね。人によっていろいろな受け取り方をするのです。
(5)神に義とされる
 またここに「人が神に義とされる」とあります。「義とされる」。正しい人間になる。教会へ行く。聖書を読む。お祈りをする。こういう意味に理解する人もいます。これは間違いではありません。でもね、義と「される」のだから、義と「なる」のではない。こう考える人もいるんです。義と「される」のだから、どんなに罪深い人間でも、神様がその人を受け容れて、その人の罪を赦してくださったならば、その人は義とされたのだ。こう読むこともできるのです。こういう解釈ができるんです。神様が受け容れてくださることを「義とされる」と言うのです。逆に、どんなに正しい行ないをしていても、どんなに立派な振舞いを見せていても、神様が受け容れてくださらないなら、その人は義とされなかった。こういうことになるんです。だから義とされるか、されないかは、人が決めることではない。神様がお決めになることなんですね。だから神の義とはすなわち神の憐れみのこと。神の恵みのこと。神の赦しのこと。こう読むこともできるんですね。
  どこかの教会の信者さんがね、ここにいる人の一人に向かって、月に一度の集会しかやらないところなんか、信用できない。そんなやり方はとんでもないことだ。こういう意味のことを言ったそうです。そこで彼女が電話をかけてきて、月に一回の集会なんかとんでもないのでしょうか? と尋ねてきました。家内が一生懸命説明して、彼女は納得してくださった。でもね、降りかかる火の粉は払わなければならない。そうでないと彼女の髪の毛が焦げてしまう。そういうわけではありませんが、先ほどお話ししたようなことを彼女に書きました。
   でも、その信者さんのことで、ちょっと気になることがあります。月に一回の集会なんかとんでもない。もしその人がそう言ったのなら、その人はおそらく月に何回も集会に出ている。あるいは集会をやっているに違いない。つまりその人は、自分はこんなに集会に出ている。こんなに集会をやっている。そういうことを誇りに思っている人ではないのか。そうでなければ、そんなことは言わないだろうと思うんです。信仰が長くなり、熱心になり、宗教活動をやっているうちに、自分はこんなにやっているんだ、だんだんこう思うようになった。そうではないかと思うんです。でもね皆さん、どうぞ考えてほしいのです。人が義とされるのは、その人が何かをしたからではない。イエス様に罪赦されて、そのままでいいんだよ。罪人のままで来なさい。こう言われて、イエス様に罪赦される。すなわち人が義とされるとは、神の恵みであり、神の憐れみのこと、これが、イエス・キリストの一番大事なことなのです。
    皆さん、洗礼を受けた時のことを思い出してください。あなたが何かをやったから、洗礼を受けて救われたのではない。なんにも知らなかった。なんにもやっていない。ただ、イエス様、よろしくお願いします。あなたはわたしの救い主ですと言って、主様を告白し、主様により頼んだ。ただより頼んだのです。罪人のまま、あるがままでね。そうしたらイエス様は、ああよく来たとね、そういって洗礼を受けさせてくださった。そうではありませんか。それが出発点なんです。パウロは言いましたよ。「霊によって始まったのなら、霊によって終わりなさい」と。御霊によって始めたものは、御霊によって終わりなさいと。であるのなら、最後までそれで行くべきです。最後までそれで終わるべきです。世阿弥の言うように「初心、忘るべからず」です。でもいつの間にか、自分はこれだけ集会に出ている。これをやった。あれをやった。そういうことがその人の誇りになっているとするならば、そういうことによって、自分は神に受け容れられていると思うのなら、ああ、それはちょっとおかしい。だいぶおかしいです。根本からおかしい。皆さん、そう思いませんか? イエス様は、「罪の赦しの福音」を伝えてくださったのです。これ、大事なことなんです。だからわたしは思うんです。これだけやった、あれだけやったと、そういうことを誇る集会を月に十回やるよりは、月に一回、主イエス様の罪の赦し、神の恵み、これだけを伝え、これだけを確認する集会を、繰り返し、繰り返し、同じところに留まりながら、歩んでいく。こういう月に一度の集会のほうがいいのですと。こういう言い方はその方に失礼かも分かりませんが、その人は、いつの間にか、イエス様の福音から離れて、自分の信仰、自分の業を誇っている。そういう人になってしまっているのではないか。わたしはそう思うのです。注意しなければなりません。わたしたちクリスチャンは。信仰歴が長いほどね。
(6)律法の諸行
   またここに「律法の諸行」という言葉が出てきます。「律法」とはなにか? これもいろいろあります。「殺すな」「盗むな」とあるあのモーセの十戒。「律法」と言えば皆さんは、これを思い浮かべる方が多いと思います。でも、旧約聖書はモーセの十戒だけではありませんよ。安息日の規定、あるいはいろいろな献げ物、動物の献げ物、穀物の献げ物、燔祭あり罪祭あり、食べ物の規定、これはこの前出てきました。レビ記を読みますといろいろあります。「祭儀律法」と言うんですが、実に細々とした教えがあります。これも「律法」に含めると、旧約聖書全体がすなわち律法。こう考えることができます。クリスチャンの中には、律法は旧約聖書のことであって、新約のクリスチャンにはもう関係がない。新約はイエス様の恵みの時代だから、旧約は古いユダヤの民のことだ。だから、もう律法は終わっている。こんな風に思っている方もおられるかもしれません。でもね、イエス様の教えにありますよ。情欲を抱いて女性を見るなら、心の内で姦淫を犯しているとね。これでは、女子大の先生は務まりません。右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい。そんなことはわたしにはできないから、わたしはクリスチャンにはなれない。かつてある学生が、クリスチャンの家庭に育った学生ですがね、わたしにこう言いました。ではあなたは一生クリスチャンにはなれないね。わたしはそう返事をしたんです。この学生にとっては、イエス様の教えは「律法」なんです。「わたしが」これを行なう。そうなんです。人間がこれを行なおうとする時、イエス様の教えは「律法」になるんです。たとえ新約聖書の教えでも、人がそれを自分で実行しようとする時、それは律法になるのです。だから、旧約聖書、新約聖書を含めて、聖書の教え全体も、受け取りようによっては「律法」になるのですね。こういう解釈も成り立ちます。
    いや、それだけではない。ギリシア人にはギリシア人の宗教あり。ローマ人にはローマ人の宗教あり。それぞれの民族、それぞれの時代に応じて、いろいろな宗教があります。日本にも中国にも韓国にもあります。これらの宗教は、旧約聖書や新約聖書の宗教とは違いますけれども、広い意味で言うならば、実はこれらの宗教もここでいう「律法」に入る。パウロの律法の考え方には、これは後のほうでお話ししますが、こういうことも含まれてくるんですね。こうなりますと、「律法」とは「宗教」のことになります。ですから「律法の諸行」とはすなわちこれ「宗教的な諸行」のこと。現代で言えば、宗教的な営み、宗教的な行ない、これ実は「律法の諸行」なんです。ずいぶん広い意味になってくるんです。人が正しくなろうとする、その宗教的な営み、これすなわち律法の諸行なのです。だったら、ここにいる人たちは、みんな律法の諸行だ。こういうことになってくるんですね。ですから、人間が神様の前に正しくなろうとして行なういっさいの営みが、これ律法の諸行です。しかもです。この3行目にあるとおり、人が義とされるのは律法の諸行からではないのです。ただイエス・キリストの信仰によるほかはないのです。こうパウロは言うのですね。日本の国内だけでも、キリスト教あり、仏教あり、天理教あり、神道あり、様々な宗教がありますけれども、またそれぞれに違いますけれども、近頃は、聖書を引用したり採り入れたりしている宗教がいろいろあります。オウム真理教の麻原でも、「ハルマゲドン」などと聖書の考えを採り入れています。キリスト教の中にも、カトリックあり、プロテスタントあり、聖霊派あり、純福音派あり、様々な教派、様々な宗派があります。それらはことごとく皆、律法の諸行、こういうことになってくるんですね。
    こうなりますと、聖書の御言葉は、その人の霊的な段階に応じて、それぞれ理解が違ってくるのです。「わたしはキリストと共に十字架に付けられた」、この言葉はパウロが、ぎりぎり行き着いたところ、これ以上は行けないという、言わばパウロの到達点なんです。なかなかわたしには、そこまで行き着くことはできません。おそらく無理でしょう。でもそれでいいんです。皆さん、それでいいんです。なぜなら、パウロは言っています。人はそれぞれ、与えられたところに応じて、それぞれが、それぞれの達しえたところに従って歩んで行きなさいとね。それでいいんです。一歩一歩、半歩半歩と、イエス様はあなたを導いていてくださっていますから、それでいいんです。これが霊的な御言葉を読む世界ですね。理解も人それぞれです。どこまで行っても奥行きが深いですよ。「我は道なり、真理なり、命なり。」イエス様の教えはすなわちイエス様の道。外から眺めるものでもなければ、知識として知っているだけのものでもない。一歩一歩、半歩半歩と歩んでいく。ああ、そうだったんだ。そういうことなんだ。こういう風にして悟っていく。これが聖書の読み方であり、これが霊のことを理解する道なんですね。だから律法の諸行ではない。だから人と比べなくてもいいんです。自分が達しえたところに応じて、ただ歩んでいく。それでいいんです。ほかのことはどうでもいいです。
(7)イエス・キリストの信仰
   あるいはここに「イエス・キリストの信仰」とあります。「キリストの信仰」とあるからイエス様を信じることだ。では、イエス様を信じるためにはどうすればいいのか? 聖書を読む。お祈りをする。教会へ行く。これでイエス様を信じることができるのか? でもなかなかイエス様を信じたという気持ちになれない。もっと聖書。もっとお祈り。もっと教会。これでも、ほんとうにイエス様を信じた。心からそう思える気持ちにはなれない。信仰生活の長いある信者さんが言いました。自分は長い間信仰生活をしているけれども、ほんとうに救われた。ほんとうにイエス様を信じている。これがどうしても言えない。でも、教会の人たちの前で、今さらそんなこと、恥ずかしくて言えない。わたしはその人に、なんにも恥ずかしいことはないよ、当然のことなんですと言いました。どんなに努力しても、どんなに一生懸命になっても、信仰を生み出すこと、信仰を造り出すこと、これは人間にはできないのです。
    ところがある時、ふっと、なんにもしない。なんにも思わない。そんな時、自分はいったいこの何十年間何をやってきたのだろう。そんなことを思っていますとね、ふと、どこからともなく風が吹いてきて、なんだか不思議な主様の御霊のご臨在を感じる。そういうことが、実はあるんですね。自分で信じる。自分で祈る。自分で聖書を読む。このように自分でやること、すなわちこれ律法の諸行。すなわちこれ宗教の諸行。それでは到達できなかったこと。それでは得られなかったこと。これがすなわち神の義。これがすなわち信仰。ところがそれがね、もう諦めてしまったその時に、ああ、もう自分はダメだ、何やってるんだろう? こんな風になんにもできない、なんにも思わない。無念無想。そんな時にふと気がつく。「ああ、そうなんだ」とね。その時にふと、どこからともなく主様の御霊が働いて、なにかが、すーっと、解けてくる。見えてくる。ああ、そうなんだ。今まで自分がやってきたこと。そんなこととは、これはなんの関係もないことなんだ。神様は働いてくださっているのだとね。
    ちょうど、あのエマオの途上のふたりの弟子のよう。彼らはたぶんイエス様の話を聞こうとして、エルサレムへ行ったと思うんです。でも、肝心のイエス様は、十字架にかけられてお亡くなりになってしまった。弟子たちは、ペトロもヨハネもヤコブたちも、散り散りバラバラ。みんなユダヤ人を怖がって、逃げてしまった。しょうがないから、わたしたちもエマオへ帰ろう。たぶんこのふたりはエマオの出身だったと思うのですね。そこでふたりはとぼとぼと歩きながら、ああでもない、こうでもないと議論をしていたわけです。するとそこへイエス様が、すーっと顕われて、一緒に歩いてくださった。でもそんなことは弟子たちには全く分からない。自分たちの考え、自分たちの見ていること、自分たちのやっていることに気を取られているからです。わたしたちはなんのためにエルサレムへ行ったのだろう? これからどうすればいいんだろう? 自分たちの言葉、自分たちの思いに取り憑かれている。ですから分からない。でもね、その間もイエス様は、その人たちと一緒に歩いていてくださった。ふっと気がついて。なんだかおかしい。誰かがいるような気がする。そこで日が暮れて暗くなった。何にも見えない。仕方がないから宿で泊まろうとした。どうぞあなたも泊まってください。弟子たちはどういう人なのか分からないけれども、その人に言いました。そうして食卓について、パンを裂こうとした。これは聖餐のたとえですね。そこで初めて、はっと、気がついた。そうなんだ。イエス様がいらっしゃった。レンブラントのあのエマオのキリストの絵を思い出します。暗い中で、ぼーっと、イエス様のお姿が見えてきた。あ、イエス様はこの私と一緒にいてくださったんだ。なんにも知らなかった。こういうことなんです。
   今までやってきたこと、これはいったい何だったのだろう? まあ、こういうわけです。「風」はギリシア語で「霊」と同じ。この霊の風は、思いのままに吹く。どこから来て、どこへ行くのか。誰も知らない。イエス様がそうおっしゃった。その霊の風が吹いてくる。もっと信仰。もっと教会。もっとお祈り。これをやっている間は、イエス様が見えなかった。ふっと気がつくとね。イエス様はそこにいらっしゃった。イエス様が自分と一緒にいてくださったことが、急に目が開かれて、見えるようになったのです。これが「イエス・キリストの信仰」。ですから、「イエス・キリストの」の、この「の」と言うのは、これはイエス様を信じる信仰。実はそう思っていたところが、それは違っていた。違ってはいないんだけれどもね。違っているんだね。イエス様「から」来る信仰。イエス様のほうから、わたしたちに与えてくださる信仰。なんにもしない。なんにも思わない。なんにもできない。そういう時に、見えてくる。これがイエス様から来る信仰なんですね。だから、人が義とされるのは、律法の諸行によるのではないのです。宗教的な行ないをいくら積み重ねても、神様から降るこの「イエス・キリストの信仰」、「からの信仰」ですね。これをとらえることができない。わたしたちは「とらえる」ほうではない。わたしたちは「とらえられる」ほうなんです。わたしたちが信じる行為ではない。わたしたちが信じるように「なる」ほうなんです。そう「させていただく」ほうなんです。信仰は神様からの授かりもの。有り難いものです。イエス様は言われた。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と。そうなんですね。選ばれたのだから僕は偉いんだ。そういうことではないんですよ。ですからこれは、わたしたちが「する」世界ではないんだね。わたしたちが「される」世界なんだね。イエス様を「見る」世界ではないんですね。イエス様が「見える」、「見させていただく」世界。日本語の「られる」世界。神様は「おられる」のです。自分の力で信じるのではない。自分の律法の諸行によって到達するのではない。徹頭徹尾、神様の不思議なお働きによって「られて」行く。そういう世界なんです。
    この集会も、今まで支えられてきたのは、わたしたちの力ではない。主様の御霊に支えられ導かれて来たわけです。だからこれは奇跡。信仰は奇跡。バルトという偉い神学者が言いました。「信仰は奇跡である」とね。異言も不思議です。癒しも不思議です。でも、一番大きな奇跡は信仰。神様のみ業なくして、信仰は生まれてこないのです。神様のみ業なくして、集会はないのです。立つも倒れるも、ただ神の憐れみ、神の恵み。御霊のお働き。聖霊のお導き。創造する御霊のお働き。これがわたしたちの存在の根源であり、かつまたこのコイノニア会の根底であり、存在の根拠です。ほかになんにもない。律法の諸行ではないんです。宗教活動ではないのです。そんなもの、どうでもいいのです。こんなことを言うと、教会に一生懸命行っている人たちを馬鹿にしている。侮辱している。あるいは教会の活動を否定している。皆さん、そう思われるかもしれませんが、決してそうではないんです。月に何回も集会をやる。それは立派なことです。でも、一番大事なことはそれではないんだよ。一番の根本はそれではないんだよ。自分はなんにもしないで、主様にお委ねして歩む世界。宗教生活は、主様の御霊が創り出すもの。これを忘れると本末転倒。行ないの「宗教」になってしまうのです。どうぞ皆さん。そのことを忘れないでください。
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