【注釈】
11【ケファがアンティオケアに来ていた時】2章17節では「ペトロ」でしたが、ここで再び通常パウロが用いる「ケファ」に変わっています。ここで語られている出来事は、エルサレムの使徒会議(48年/49年?)の後で起こりました(エルサレム使徒会議が何時行なわれたかは学説が分かれています。詳しくは、付記「パウロとエルサレム会議について」を参照)。ペトロが何時アンティオケアに来たかはっきりしません。おそらくエルサレム会議以後でしょう。また彼が、どういう目的でアンティオケアに来たのかも明らかではありません。しかし、この頃ペトロは、迫害のためエルサレムから離れていましたから、エルサレム以外の地で、キリスト信者が最も多かったアンティオケアに逃れて滞在していたと考えることができます。
   当時のアンティオケアは、ローマとアレクサンドリアに続いて、地中海世界の第三の都市で、人口は少なくとも30万以上(50万という説もある)でした。しかもここは、パレスチナ以外では、ユダヤ人が最も多かった都市で、6万人以上はいたと推定されます。この頃のアンティオケアは、ローマ皇帝の庇護を受けてヘレニズム化しており、美しい町並みで知られていました。ギリシア人を始め様々な民族が住んでいて、ユダヤ人には、特に宗教的な自治が認められていたのです。だが、そこに住むユダヤ人は、かなりの程度ヘレニズム化していたようです。したがって、ユダヤ人と異邦人との関係も良好でした。ところが、カリギュラ帝(在位37-41)が、エルサレムの神殿に自分の彫像を建てたことで、エルサレムで、ユダヤ人の反乱を招くことになり、このためアンティオケアでも、ユダヤ人に対する非難が起こりました。しかしこの騒乱も、クラウディオ帝(在位41-51)の頃には一応終息していたと思われます。だが、それ以後もユダヤ地方では、反ローマ的な気運が高まり、熱心党(ゼロータイ)と呼ばれるユダヤ民族主義の過激派などが活動を強めていたのです。このために、エルサレムでは、ギリシア化した仲間のユダヤ人への反感が強まり、彼らとユダヤ主義的な人たちとの間の亀裂が深まっていました。ペトロたちユダヤ人キリスト教徒たちが迫害を受けたのも、これが原因の一つです。これに呼応するように、ローマ統治下のアンティオケアでは、異邦人の側からユダヤ人への反感が強くなってきました。しかもその後で、パレスチナに厳しい飢饉が生じて、これがアンティオケア教会からエルサレム教会への資金援助の動機となったのです。
   アンティオケアでは、異邦人の間にキリストへの信仰が急速に広まり、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが混在していましたから、ここのユダヤ人キリスト教徒たちは、エルサレムとは異なった環境にいました。特にユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との関係は、エルサレムに比してはるかに良好であったと考えられます。ここで語られている出来事の背景に、エルサレムとアンティオケアとにおけるこのような背景の違いがあったのです。パウロの文面から見ると、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とは、大きな一つのまとまりを持つ集会を形成したようにもとれますが、おそらく実際は、ユダヤ人キリスト教徒たち、異邦人キリスト教徒たち、両者の混合というように幾つかのグループに分かれて日頃の定期的な集会が行なわれていたのでしょう。時折合同の交わりも持たれていたと思われます。この合同集会か、あるいは、これらのグループのひとつで、ペトロが示した行為が、全体に影響を及ぼす結果になったと思われます。
【面と向かって対抗した】原語は「対立した」「反対した」という意味。一般には、使徒言行録の記事に従って、アンティオケアでのペトロとパウロの衝突は、エルサレム使徒会議の後間もなくであって、パウロの第二回伝道旅行の直前のこととされています。わたしもこの説に従っています。けれども、二人の衝突は、パウロの第二回伝道旅行の後のことではないかとする説があります。そうなると、パウロの第三回伝道旅行の直前のことになりますから、パウロの第二回伝道旅行によって、伝道がかなり進んだ段階で生じたことになります(詳しくは付記「パウロのエルサレム訪問」を参照)。
【許しがたい】原語は完了形受動分詞で、意味はこの訳よりもさらに強く、「神の前で断罪/弾劾されるべき」です。したがって、これは、個人的なトラブルではなく、教会全体を巻き込む神学的/信仰的な対立を意味します。だから、パウロはここで、ペトロの個人的な行為の一貫性の欠如や彼の「信念の欠如」を批判しているというより、神の御心に照らして見た場合の教会全体への福音の啓示にかかわることとして問題にしたのです。
12【ある者たちがヤコブから遣わされて】この人たちは、先に出てきた「偽の兄弟たち」のことではないでしょう。しかし、アンティオケアでのユダヤ人キリスト教徒の行動に懸念を抱いたエルサレム教会が、律法に忠実であった「主の兄弟」ヤコブのもとから、ユダヤ人キリスト教徒たちをアンティオケアに派遣したと思われます。上に述べたように、この頃からユダヤでは、ユダヤ民族主義者たちによる異邦人やヘレニストのユダヤ人キリスト教徒への反感が高まりつつあったからです。アンティオケアとエルサレムとの間には、ユダヤ人の行き来が多かったから、アンティオケアのユダヤ人キリスト教徒たちの行き過ぎた(?)「律法からの逸脱」の噂が、エルサレムの住民にも聞こえてきたのでしょう。このために、エルサレムにいるユダヤ人たちが、エルサレムのキリスト教会に対して反感と迫害を引き起こす危険があったと思われます。またユダヤ主義的なユダヤ人キリスト教徒たちも、アンティオケアの教会のユダヤ人キリスト教徒たちに、「行き過ぎた」律法からの自由を戒めようと働きかけたと思われます。このような状態の中で、主の兄弟ヤコブを中心とするエルサレム教会は、アンティオケアにいるペトロのところへ何人かの人たちを遣わして、アンティオケアのキリストの教会が、律法を守るように働きかけたのです。パウロはここで、このことを頭に置きながら、この書簡の宛先であるガラテヤの教会の人たちのもとへも、おそらくエルサレム教会から? 「ある人たち」が遣わされてきたことを重ね合わせているのです。パウロは、アンティオケアで問題になった体験が、今またガラテヤの信徒たちの間でも繰り返されるのではないかと懸念しているのです。
   ただし、前回でお話しした使徒会議は、通説ではパウロの第二回伝道旅行の「前の」ことです。だからこの場合、会議のすぐ後で、ここでのペトロとの衝突が起こり、パウロはそこからバルナバと分かれて第二回の伝道旅行に出かけたことになります。エルサレム会議に続いてペトロとの衝突があり、第二回伝道旅行へというのは、使徒言行録の記事に従った説です。ところが、エルサレム使徒会議とこれに続くペトロとの衝突が、第二回伝道旅行の「後で」起こったという見方があります(詳しくは付記「パウロのエルサレム訪問について」を参照)。もしもそうだとすれば、この書簡が書かれたのは第三回伝道旅行の時ですから、パウロは衝突のすぐ後でこれを書いたことになります。これから判断しますと、パウロが、ガラテヤを通ってエフェソに着いたそのすぐ後で、ガラテヤの信徒たちのもとへユダヤ人キリスト教徒たちが来て、割礼を行なおうとしたことになります。とすれば、ガラテヤの信徒たちを訪れた人たちというのは、アンティオケアの時のようにエルサレム教会からではなく、アンティオケアの教会から遣わされた人たちではなかったかと推測できます。アンティオケアの教会は、パウロの伝える無割礼と律法からの自由の信仰に反対していましたから、パウロが教会を離れた以上、彼をアンティオケア教会が遣わす「使徒として」認めるわけにはいかないと判断したのかもしれません。だからこそ、書簡の冒頭で、パウロは自分の使徒職について弁明しているとも言えます。
【異邦人の信者たちと食事を共にしていた】この「食事」を聖餐のことだとする説もありますが、聖餐に限定せず通常の食事(と同時に聖餐も含む)を意味するのでしょう。ユダヤ教には厳しい食物規定があって、このためにユダヤ人キリスト教徒たちが、異邦人キリスト教徒たちと食卓を共にすることが難しかったのです。しかし、ペトロやアンティオケアのユダヤ人キリスト教徒たちは、そのような律法の規定に縛られることなく、日常的に異邦人と食卓を共にしていたと思われます。この場合、食卓とは宗教的な「交わり」をも意味しています。特に、ユダヤ教の律法で決められた「きよい」食べ物と「汚れた」ものとを区分する食物規定が問題になったのです(レビ記11章/17章10〜16節。ペトロが異邦人と交わる直接のきっかけになった出来事と食物規定との関わりについては、使徒言行録10章11〜15節を参照)。ただし、異邦人キリスト教徒に対する食物の規定については、すでにエルサレム会議で決定されて、「使徒教令」として伝えられていました(使徒言行録15章23〜29節)。「使徒教令」とパウロとの関係については、付記「パウロのエルサレム訪問について」を参照してください。
【次第に身を引いて離れようとした】これらの動詞の未完了形は、ペトロの行為が突然ではなく徐々に進行していったことを示しています。「離れる」は、食物規定などで、「汚れから離れる」ことです。ペトロのこのような態度には、熱心党やユダヤ主義者たちとエルサレム教会との間に緊張関係が生じることへの懸念もありました。エルサレムの教会は、ユダヤ人の反異教的な感情に敏感でした。だから、ペトロたちがアンティオケアで行なっているような「律法を無視した」行為が、エルサレムの人々に伝わるならば、エルサレム教会自体が、迫害にさらされる危険を感じ取っていたと思われます。ここでペトロが「割礼のある者たちに気兼ねした」とパウロが言うのは、ユダヤ人キリスト教徒たちのことではなくて、ユダヤ人(ユダヤ教徒)からの脅威のことではないかという説もあります。エルサレム教会は、このような懸念をもペトロに伝えるために、「ある人たち」をアンティオケアに遣わしたのです。遣わされた人たちは、ペトロに、アンティオケアのユダヤ人キリスト教徒が、もしもこのまま異邦人キリスト教徒との共同の食事を続けるなら、アンティオケア教会とエルサレム教会とは断絶しなければならなくなると言ったのかもしれません。しかしペトロのこの行為は重大な結果をもたらすことになります。なぜなら、ユダヤ人キリスト教徒が律法の食物規定を守る限り、異邦人キリスト教徒がユダヤ人キリスト教徒と食事の交わりを保つためには、今度は異邦人の側が、ユダヤ人キリスト教徒の食物規定に従わなければならなくなるからです。パウロが「異邦人をユダヤ教化するよう強要する」と言ったのはこのことです。
13【同じ偽善的な振舞】「偽善」の原語は、俳優が仮面を着けて演技することから出た言葉です。「偽善」とは通常、自分の悪意あるいは悪巧みを外面ではこれと正反対の装いをすることで内面の真意を隠すことです。しかし、旧約でも新約でも、「偽善」とは、基本的には、神の意図を知りつつもこれに従わず、場合によっては神の御心と反対の振舞をしながら、あたかも神に従っているかのように見せかけることを意味します。しかし、神の御心に気づかないままに、自分では神に従っていると思いこんで行なうこともやはり「偽善」になります。「偽善者よ、他人の目にあるおが屑を見ながら、自分の目にある丸太を見ない」とイエス様が非難したのも、このような偽善のことです。この指導者は、自分が神の御心に無知であることさえ気づいていないのです。こういう「神に従わない偽善」の意味は、日本語の「偽善」とはニュアンスが少し異なります。
   ここでは、「共に偽善を行なう」という動詞がここだけに用いられています。ペトロの行為が、アンティオケアにいるユダヤ人キリスト教徒たちに大きな影響を与えたことが読み取れます。彼らは、エルサレムのユダヤ人キリスト教徒たちよりも、異邦人に対しては、律法的にはるかに自由で開かれ立場にいたはずです。おそらく、ペトロの置かれた立場への配慮と彼に対する敬意から、彼らユダヤ人キリスト教徒も同様の行為にいたったのではないでしょうか。
【バルナバまでも偽善に合わせ始めた】新共同訳では「見せかけの行ないに引きずり込まれてしまいました」です。この訳し方は、パウロの見方に沿った訳であると思いますが、実際はそれほど単純ではありません。ここで用いられている動詞は、「誘惑に引きずり込む」と言うよりは、周囲の状況に「順応する」、ほかの人たちと「合わせる」という意味に近いのです。だから、バルナバもほかのユダヤ人キリスト教徒たちの行動に同調したことを意味します。しかしそれは、バルナバが「誘惑に負けた」からと言うよりも、彼自身もこの際にやむを得ないと判断したことを意味するのではないでしょうか。「バルナバまでも」とあるのは、彼が、福音の働きにおいてパウロと盟友であったからです(使徒言行録9章26〜27節)。後にパウロとバルナバとが別行動を採るようになった理由の一つにここでの出来事が影響しているとも言われています(使徒言行録15章39節)。
14【福音の真理に向かって真っ直ぐ】ペトロの「偽善」が「分かるに及んで」とあるのは、事態がかなり進行してから、堪りかねてパウロが発言したことを意味しています。なぜパウロがその間沈黙していたかについては、ペトロがアンティオケアに滞在していた前半にはパウロは不在であったらという説もあります。しかし、必ずしもそのように想定する必要がないでしょう。むしろ、ここで進行していた事態は、パウロ自身さえ簡単に判断できないほどの事態であるのを彼自身も察知していたからです。と言っても、その間パウロは苦々しい思いで事態の推移を見守っていたのは間違いありません。「真っ直ぐ進む」という方向性を示す動詞に注意。これは、「福音の真理」という目標に向けて、逡巡せずに直進する信仰の「路線」に関わる問題なのです。「福音の真理」については2章5節の注釈を参照。
【全員の面前で彼にこう言った】ユダヤ人キリスト教徒の間だけでなく「全部の人たちの前で」という意味。同時に、ペトロに「面と向かって」の意味もあります。集会が分裂の危機にある時や誰かを弾劾する場合には、公の場で全員の参加が要請されるからです(コリント第一11章18節/テモテ第一5章20節)。エルサレムでは、使徒たち全員が、自由に論議を尽くして、その話し合いの結果として、パウロたちに交わりの手がさしのべられました。このことから判断すると、アンティオケアでは、先にエルサレムの使徒会議で行なわれたことと違っていたようです。アンティオケアの場合は、そういう話し合いそれ自体が、拒否された形跡があります。ペトロを「対抗/弾劾した」とか「偽善」とか「強要する」とあるのを見ると、とてもそういう「話し合う」雰囲気ではなかったと推測されるのです。パウロは、このアンティオケアでの体験を今またガラテヤの信徒たちに対する律法主義的な割礼の強制と重ね合わせているのです。パウロは、ガラテヤ人への手紙で、律法それ自体がまるで「呪われている」かのように述べています。これは律法が、外側から強制される時には、キリストの御霊にある自由を奪う恐ろしい呪いに転じるからです。しかしパウロは、律法それ自体の意義を決して否定しているのではありません。その証拠に、ローマ人への手紙(7章7節以下)では、ユダヤ人キリスト教徒にとっては、割礼もまた信仰のしるしとして意味があることを認めています。
【ユダヤ人でありながら異邦人のように振る舞い】「あなたは、ユダヤ人キリスト教徒であっても、異邦人のように生活することができたではないか。それなのに、なぜ、今になって、異邦人キリスト教徒をしてユダヤ教徒のように生活させようと仕向けるのか。」前半は、仮定ではなく、ペトロの行為が正しいことを意味します。パウロのこの言い方は、おそらくペトロの異邦人キリスト教徒からの分離が、彼の信仰に基づく原理的な行為ではなく、一時的で便宜的なものであるのを見抜いているのでしょう。
   エルサレム会議では、異邦人がキリスト教徒に改宗する場合に、どの程度の律法規定が彼らに課せられるべきかが論じられました。この問題は、当然旧約の食物規定にもかかわることです。ところがアンティオケアでは、ペトロをめぐって、今度はユダヤ人キリスト教徒のほうが異邦人と交わる場合に、どの程度の律法規定からの自由が認められるべきかが問われることになったのです。これに対しては、何の取り決めもなされていませんでした。しかもここではそれが、単なる一時的な行為ではなく、ペトロの行動は、日常的な行為として理解されています(「食卓を共にする」という動詞は未完了形)。エルサレム会議では、異邦人キリスト教徒は律法の食物規定から自由であることが認められました。ところがここでペトロは、ユダヤ人キリスト教徒でありながら、異邦人に認められている律法からの自由をユダヤ人である自分の行動の規範としたのです。その結果、彼の行為は、ユダヤ人キリスト教徒が異邦人キリスト教徒並みに律法からの自由を取り込む道を開くことになったのです。ここにいたって、「割礼ある者たち」と「無割礼の者たち」との間に、相互にどの程度の律法規定への束縛あるいはそれからの自由が認められるかという問題が浮上することになりました。その結果、「この問題」が、同じユダヤ人キリスト教徒たちの間に分裂をもたらすことになったと思われます。ここで問われてくるのは、ユダヤ人キリスト教徒の「律法を遵守する義務」と異邦人キリスト教徒の「律法からの自由」という、このふたつの狭間に置かれたペトロの立場なのです。
【ユダヤ教化する】「ユダヤ教化する」というこの語は、この箇所以外に聖書には用いられていません。それだけに、ここでのキーワードです。これに似た言い方で、「ユダヤ人のようになる(生活する)」がありますが、「ユダヤ人」であることと「ユダヤ教徒」であることとは、事実上同じですから、「ユダヤ教化する」も「ユダヤ人のようになる(生活する)」も意味の上で共通します。ただ「ユダヤ教化する」のほうが強い意味です。「福音を伝える」と「福音化する」との違いに近いでしょうか。すなわち異邦人キリスト教徒が、ユダヤ人の宗教的文化的な規範を受け入れて、これに従うことです。しかしながら、この点に対するパウロの「辛辣な」非難は、以後の教父たちからも批判の的とされました。しかし、彼をしてこのように激怒させたのは、彼の福音理解、特に異邦人への福音について彼が受けた「啓示」とペトロの行為とが抵触するところがあったからです。たとえペトロの採った行為が、一時的で便宜的なものではあっても、パウロにはそれが「許しがたい」と映ったのです。
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