(4)アンティオケアの出来事
【聖句】
■2章11〜14節
11ところが、ケファがアンティオケアに来ていた時に、わたしは彼に面と向かって対抗した。彼に許しがたいところがあったからである。
12と言うのは、ある者たちがヤコブから遣わされてアンティオケアを訪れるまでは、彼は異邦人の信者たちと食事を共にしていたのに、いざ彼らが来ると、割礼あるユダヤ人たちに気兼ねして、異邦人との食事から次第に身を引いて離れようとしたからである。
13すると、彼と共にいたほかのユダヤ人たちまでも彼と同じ偽善的な振舞に及び、とうとうバルナバまでもが、そのような偽善に合わせ始めたのである。
14ケファが福音の真理に向かって真っ直ぐ進んでいないと分かるに及んで、わたしは全員の面前で彼にこう言った。「あなたは、ユダヤ人でありながら異邦人のように振る舞い、もはやユダヤ教徒としての生き方をしていないのであれば、どうして、異邦人をユダヤ教化するように強要するのか。」
【講話】
(1)アンティオケアの事件
ペトロとパウロが、人間的に対照的な人物であったことは第二講の始めで述べました。ヴァティカンでは、イエス様が「わたしはこの岩(ギリシア語の「ペトロ」の意味)の上に教会を建てる」と言われたとおりに、ペトロが殉教した岩の上に聖ペトロ大聖堂が建っています。だからペトロは、カトリックでは、初代の教皇で、このことがカトリック教会の法王の権威の源とされています。天国の鍵を握っていますから。もっとも、このマタイ福音書の言葉は、イエス様が直接語ったかどうかは疑問です。マタイ福音書とアンティオケア教会とは、どちらもペトロとつながりが深いです。こういうペトロの権威は、2世紀になって、教会が制度化し始める頃に確立しました。
なぜこんなことを言うのかと言えば、前回はペトロとパウロが交わりの手を握った話でした。ところが今回は、このふたりが衝突した出来事です。ふたりの出会いはこれで三度目です。最初のエルサレムでの出会い。ここでは互いに意見を交換しています。二度目はエルサレム会議での出会い。ここでは割礼をめぐって交わりの一致が成立します。そして今度はアンティオケアでの衝突です。このふたりの関係は、新約聖書のキリスト教に大きな影響を及ぼすことになります。アンティオケアの出来事は実に厳しい事件でした。「あなたは福音の真理に背いている」と言って、パウロはペトロを「みんなのいる前で」弾劾しました。いったいふたりの間に何があったのでしょう? どちらが悪いのでしょう? ということになるわけです。
ペトロの権威が確立した頃の2世紀の教父たち、エイレナエオスやテルトゥリアヌスなどは、こともあろうに先輩の第一使徒に対して、パウロはずいぶん生意気なことをしたとパウロを批判しています。4世紀の教父クリュソストモスは、ペトロもパウロも権威ある使徒ですから、どちらを立てるか困ったのでしょうか、実はふたりが組んで、けんかのお芝居をやったのではないかと述べています。ところがアウグスティヌスは、この人はパウロの言う罪と律法からの自由とキリストの恩寵を唱えた人ですから、これはペトロのほうが悪いのではないかと言い出したのです。宗教改革になって、ルターもアウグスティヌスの説を継いで、ここではパウロが正しい。ペトロは「重大な誤りを犯した」と述べています。これ以後は、だいたいパウロが正しくてペトロが悪い、ということになっています。だから現在のガラテヤ人への手紙の注解書は、だいたいこの見方に立っています。しかし最近は風向きが少し変わってきたようです。ペトロはどちらかと言えばユダヤ教の立場を取り、パウロは律法からの自由を唱えています。わたしも律法からの自由を大事にします。けれども、はたしてペトロはそんなに「重大な誤り」を犯したのか? また、パウロの唱えた福音はそんなに「反」ユダヤ的で反律法的だったのか? パウロはいったいモーセ律法を始めとする旧約の律法を福音との関連でどうとらえていたのか? これらのことが改めて問われてきています。この前お話ししたように、この出来事も「ユダヤ人同士」の出来事です。だからよほど注意しないと、「外から見ている」わたしたちは、とんでもない誤解をしかねません。どちらが良いか悪いかではなく、いったいここで何が起こったのか? このことをじっくりと考えて見なければなりません。
(2)調停成立の後で
アンティオケアでの事件の背景には、第一に、旧約の律法をめぐって、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間に、それぞれが置かれた宗教的立場の違いがありました。このことは第二講で説明したとおりです。第二に、律法の中でも、特に割礼を異邦人キリスト教徒に行なうべきかどうかをめぐって、律法主義的なユダヤ人キリスト教徒と自由なヘレニストのユダヤ人キリスト教徒との間で意見の違いが起こり、これの調停のために、エルサレムで使徒会議が開かれました。その結果、割礼問題は一応の決着を見ました。これについては、第三講で述べましたのでこれ以上繰り返しません。しかしそれなら、なぜその会議の後になって、ペトロとパウロとが衝突する事件が起こったのでしょう?
皆さんは不思議に思うかもしれませんが、実は第三に、割礼をめぐる問題が解決しなかったからではなく、調停によって解決したからこそ、ふたりの衝突が起こったとも言えるのです。言い換えると、もしもエルサレム会議で、異邦人キリスト教徒への割礼をめぐって、律法派と自由派とが完全に対立したまま、決裂したとするならば、ユダヤ人キリスト教徒たちは、そこで二つに分裂したことでしょう。一方はユダヤ教の伝統を忠実に受け継ぐ側、他方はユダヤ教から分離した別個の「キリスト教」となる側の二つです。これに似た分裂は、キリスト教の歴史で幾度も起こりました。例えば、17世紀のイギリスでは、イングランド国教会派から分離独立する教派が生まれました。このように分裂して、その結果、分離独立したならば、教派同士の「対立」は残りますが、両者の「衝突」は起こりません。「衝突」は、分裂したからではなくて、分裂しない場合に起こるのです。同じ宗派の中で交わりを維持しようとするからこそ、衝突が生じるのです。ではそれはなぜでしょう?
それは、交わりを維持し、歩みを共にしようとする時には、「それまで隠されていた」問題が浮上するからです。ユダヤ人キリスト教徒の場合、事は割礼だけではありませんでした。律法には、「浄い」食べ物と「汚れた」食べ物という食物規定があって(レビ記11章)、これがユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが一緒に食事をする際の妨げになっていたのです。この点でも、エルサレムとアンティオケアとでは、対応の仕方が違っていました。厳格なユダヤ教徒は言うまでもなく、律法を尊重するユダヤ人キリスト教徒たちも、異邦人との「食卓の交わり」を避けていたのです。こういう状況の中で、ペトロの立場は微妙でした。彼はエルサレム教会に属していましたから、異邦人キリスト教徒に対してユダヤ教の立場から割礼を行なっていました。しかし、エルサレムからアンティオケアに来ると、そこは異邦人の世界ですから、彼もアンティオケアの比較的自由なユダヤ人キリスト教徒たちと共に、必ずしも食物規定にとらわれることなく、異邦人キリスト教徒たちと食事を共にしていたと思われます。パウロが、ペトロに「あなたは、ユダヤ人でありながら異邦人のように振る舞い、もはやユダヤ教徒としての生き方をしていないのであれば、」(2章14節)と言っているのはこのことです(この点については12節の注釈を参照)。
ところが、このペトロの行為がエルサレム教会に伝えられたのでしょうか、再びエルサレムから幾人かの人たちが派遣されて、律法を守って異邦人キリスト教徒との共同の食事を控えるようにとペトロを説得するために訪れたのです。今回の箇所には、このような背景があります。しかし、どうしてそれが「隠された」問題だったのでしょうか? それは、エルサレム会議では、異邦人キリスト教徒に対しては、割礼が免除されることと彼らに対する食物のガイドライン(使徒教令)が提示されました。しかし、ユダヤ人キリスト教徒に対しては、何一つ明確な基準が示されていなかったのです。異邦人キリスト教徒がどこまで律法を守るべきか、あるいは律法から自由なのかは、ある程度示されましたが、ユダヤ人キリスト教徒のほうに対しては、どこまで「律法からの自由」が認められるのか? この点が何一つ決められていなかったのです。ペトロは、バルナバやその他のアンティオケアのユダヤ人キリスト教徒たちと共に、思い切って異邦人と食卓を共にする交わりへと踏み切ったことになります。特にペトロのような立場の使徒は、周囲に大きな影響を与えますから、このように交わりを維持し続けていくと、「それまで出てこなかった」問題が浮かび上がってくるのです。
(3)交わりを妨げる者たち
エルサレム側からペトロに圧力がかかった理由として、第四に、エルサレム会議の決定を喜ばない人たちがいたからです。会議の結果として、パウロやバルナバたちの意見がある程度受け容れられて、異邦人キリスト教徒には、割礼が免除されることが、「公式に」決定されました。このために、ユダヤ人キリスト教徒には従来どおり割礼を伴う福音が語られ、異邦人キリスト教徒には割礼なしの福音が伝えられる道が開かれたことになります。この意味は、福音にとってきわめて大きかったと言えます。なぜなら、この決定によって、イエス・キリストの福音とその救いに与るために、割礼は「必ずしも必要でない」ことが、公式に認められたからです。
前回の講話で説明したように、割礼は、ユダヤ人の民族的な父祖であるアブラハム契約と結びつけられていました。だから割礼は、無割礼の民、すなわちアブラハム契約の「外にいる」異邦の諸民族には与えられていなかった神とイスラエルとの契約のしるしであり、アブラハムの神に選ばれたユダヤ人の「誇り」の証しでもあったのです。もしもイエス・キリストの福音において、無割礼の救いが認められるのであれば、「割礼があってもなくても問題ではなくなり」(ガラテヤ5章6節)ますから、ユダヤ人の民族的な誇りは、その根拠を失うことになります。これはパウロたちや異邦人キリスト教徒には喜ばしいことでしたが、先祖の宗教に執着して、アブラハム契約をユダヤ人の誇りとしてきた人たちにとっては耐え難いことでした。先に指摘したように、もしも会議が不成功に終わって、無割礼の福音が、自分たちとは全く別個に独立し分離した異邦人だけの教会に限定されたとすれば、律法的な人たちの反応も違ったでしょう。なぜなら、その場合に「無割礼の福音」は、少なくとも「彼ら自身の問題」ではなくなるからです。
ところが今や、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが、同じ主イエスの民として、割礼の者と無割礼の者とが平等に救いに与るだけでなく、互いに「交わる」道が開かれたのです。これによって、守旧的なユダヤ人キリスト教徒は、自分たちの信仰のあり方とその行く末に、危機感を抱くようになったのです。さらにその上に、アンティオケアのキリスト教会で、ペトロのような大使徒が、ユダヤ人にとって大事な食物規定までも無視していることは、律法を尊ぶユダヤ人キリスト教徒たちには容認できないことだったろうと思います。キリストの御霊が働いて、従来の宗教的慣習が打ち破られ、新しい展開を見せる時には、その上で、古い慣習の人も新しい人も、共に交わりの一致を維持していこうとする時には、これを妨げようとする人たちが出てくる。そのことが、「このようにして」起こるのです。ここでは、交わりが成立しなかったから衝突が生じたのではありません。交わりが成立したからこそ衝突が起こったのです。
ここにわたしたちが見るのは、イエス・キリストの御霊が働く際の御霊の創造的な働きの「多様性」です。御霊は神のみ業ですから、その働きは、神が創造されたこの世界と同じように多様で変化に富んでいます。しかし同時に、人間の側から見るならば、そのような神の御霊の多様な働きに「ついて行けない」人たちが現われることになります。その結果、エルサレム教会が意図したように、その多様な働きを権威や権力によって「統一しよう」とするならば、せっかく与えられた御霊の多様性と自由が、その力を失ってしまうことになります。特に、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間の食卓の交わりは、聖餐をも同時に兼ねていましたから、ペトロの「尻込み」は、せっかく成立しかけている両者の共同の「主にある聖餐」と「交わり」(コイノニア)を破壊することにつながるのです。
(4)ペトロの振舞
ペトロが異邦人キリスト教徒たちとの共同の食卓から身を引いた理由として、第五番目に、ユダヤ民族とローマ帝国との間の緊張が背景にありました。ガラテヤ人への手紙が書かれたのは、パウロの第三回伝道旅行の時で、エフェソ滞在中であるとされています。とすれば、その時期は53〜54年頃になります。ユダヤ民族がローマ帝国と闘ったユダヤ戦争は、64年頃から始まりますが、すでにこの書簡が書かれた頃には、現在のテロ組織に近い党派が暗躍していました(この点については11節の注釈を参照)。パウロも命をねらわれています。
こういう状況に置かれたペトロの苦衷は、察するにあまりあります。事は彼一人の問題ではありません。アンティオケアの教会全体、と言うよりもキリストの教会全体の問題が、彼の決断にかかっていたからです。ここでペトロが直面した事態は、一つの時代が終わって、新しい時代が始まる時に、その過程の最中に立たされた人がしばしば陥る困難です。ユダヤ教の旧約の時代から福音の新約の時代へと神の救済史が大きな転換を迎えていたのです。この渦中にある人間は、いったい神の御心はどこにあるのだろうと迷うのです。信仰者にとっての最大の試練は、何が正しくて、何が正しくないのか? これが分からなくなることだとキェルケゴールというキリスト教の哲学者が言いました。ペトロは、この救済史の転換期で、最大の試練に立たされた。そう思います。
アンティオケアの教会の思い、そこにいるユダヤ人キリスト教徒の思い、異邦人キリスト教徒の思い、エルサレム教会の思い、エルサレムのユダヤ人の思い、これら様々な人たちの思いが、ペトロの肩に重くのしかかりました。「人を恐れると罠に陥る」と言いますが、ペトロは身動きがとれなくなったのではないでしょうか? しかし、彼がほんとうに決断を迫られていたのは、誰を喜ばせ、誰を悲しませるのか? という人に対する思惑ではなかったでしょう。「もし今もなお人の気に入られようとするなら、わたしはキリストの僕ではない」(ガラテヤ1章10節)という思いは、パウロ一人だけではなく、ペトロにも同じ思いがあったのではないでしょうか。
ではいったい、ここで何が問われていたのでしょうか? ここでは、ユダヤ人キリスト教徒が、ユダヤ教の律法をどこまで守るべきか? あるいはどこまで律法から自由になれるのか? これが問われていたと言えます。キリストの福音と律法との関係が、ここではっきりと浮かび上がってきました。これがこの書簡のテーマです。ペトロが、律法に決められた食物規定を守らなくても、そのこと自体が主キリストと神のみ前に罪となるわけではありません。だからこそペトロは、今まで律法に対しても比較的自由に振る舞うことができたのです。しかし、この律法と福音の問題は、それだけではなく、もう少し違った側面から見ることができます。それは、ユダヤ人が伝統的に誇りとしていたアブラハム契約とこれに基づく割礼が、またこれに付随する食物規定などの律法が、イスラエル民族を異邦の諸民族から区別して、神に選ばれた民としての誇りを持たせる根拠だったということです。異邦人キリスト教徒との食卓の交わりは、「この誇り」と「この区別」を失わせることになるのです。はたしてそれは正しいのか? 実はこれこそが、ここでのペトロの最大の悩みだったと思われます。
彼は、律法を離れて、異邦人キリスト教徒と完全に対等な立場に身を置くのか、それとも異邦人キリスト教徒との交わりを離れて、ユダヤ人の宗教的誇りを守るのか、この二つの狭間に立たされたのです。彼はそのどちらかを選ばなければならない状況に追い込まれたのです。これはペトロにとって重い決断でした。また周囲の状況を考えると難しい選択でした。だからこそ迷うのです。結果として彼は、異邦人キリスト教徒との食卓から、次第に身を引いていったのです。するとほかのユダヤ人キリスト教徒たちも、ペトロにならって、同じように身を引いていったのです。彼らは彼の気持ちを察したのでしょうか、あるいはペトロの使徒としての立場に敬意を表したのかもしれません。
(5)パウロのしたこと
このような状況の中で、パウロは孤立状態に陥ったと考えられます。「バルナバまでもが、そのような偽善に合わせ始めた」とあるのがこのことを表わしています。しかしここでもパウロは、「福音の真理が、あなたがたと共にあるために、わたしは一瞬たりとも彼らの強制に屈服しなかった」(2章6節)という姿勢を貫いたのです。ただし、先の場合は成功して、エルサレムの使徒たちと交わりの手を握ることができましたが、今度の場合は、残念ながらそうはいきませんでした。結果としてパウロは、アンティオケアの教会を去ることになります。それまでは、アンティオケア教会のサポートを受けて伝道していましたが、この時からパウロは、自分と自分に従う人たちだけで伝道することになります。
事の結末を先にお話ししてしまいましたが、ではパウロは、なぜ、どのようにして、ペトロと衝突したのでしょうか? 彼がペトロに反対した理由は、
第一に、律法を強制されることが、キリストの御霊にある信仰の自由を奪うからです。人間は神の律法を守ろうとしても罪を犯します。だから、律法によって神の前に正しくなろうとしてもできません。どうしても、イエス様の十字架の罪の赦しによらなければなりません。それだけでなく、たとえ自分では律法を守っているつもりでも、それで心の中までほんとうに正しくなれるわけではありません。逆にそれを誇りにすることで、神に逆らう者にもなるのです。律法とイエス様の福音とのこの関係は、この書簡だけでなく、パウロの全生涯をかけた問題です。でもこれは、次の2章15節から21節までのテーマですから、これ以上は次回に譲りましょう。
第二に、ペトロは、律法を与えられているイスラエル民族の誇りと言うか、優越性ですね、これを守るほうが、異邦人キリスト教徒との交わりと律法からの自由よりも大事だと考えました。ところがパウロは、これとは逆に考えたのです。イエス様の御霊の福音と、これがもたらす自由のほうが、イスラエルの律法制度よりも「優先する」、こう考えたのです。パウロもユダヤ人です。それなのにどうして、ペトロと逆に考えたのでしょう? なぜならこれがイスラエルの神のご計画だからです。この神様のご計画のことを人類を救う神の「救済史」と言います。神の救済史によれば、これまでの過去の時代とは異なって、「今の時代には」、イスラエルの律法制度とこれに頼るユダヤ人の誇りよりも、ユダヤ人も異邦人も、全く平等に、イエス・キリストの恵みに与る信仰のほうが、「優先されるべきである」。こう考えたのです。だからパウロは割礼を断固として拒否しました。割礼は「あってもなくてもいいから」です。「あってもなくてもいい」のなら、「あってもいい」ではないか。皆さんは、こう思うかもしれません。しかしパウロは、割礼を「強制する」ことは、「あってはならない」と言うのです。なぜなら、「あってもなくてもいい」のなら、「ないほう」を選ぶほうがいいからです。これが神のご計画、救済史に沿った神様の御心だからです。パウロはこう考えました。だからパウロは、「イスラエル民族の誇り」よりも、「異邦人との平等」のほうを選びました。この問題は、3章15節以下に出てきます。
以上の二つが、パウロがペトロに反対した理由です。ではパウロは「どのようにして」ペトロと衝突したのでしょう? 次にこれを見てみましょう。
第一に、彼は全員の前で、ペトロに「面と向かって」抗議しました。なぜならこれはふたりの間の「私ごとの喧嘩」ではないからです。この問題は、キリストの福音のあり方とキリストの教会の進むべき方向に関わる「全員の問題」だからです。パウロのこういう態度は、先輩の使徒に対して失礼だ、という見方は、神のみ前では通用しません。パウロはこの場合、「私人」ではありません。イエス様の御霊に導かれている全体のメンバーの一人、すなわち集会を形成する「個人」なのです。イエス様の集会は私的な集まりではありません。神とキリストのみ名によって開かれる公的な集まりです。誰にでも開かれているのは、このためです。イエス様の集会を形成するのは、私人の集まりではない。そこで語られることは、私ごとのおしゃべりではないのです。集会は、イエス様を信じる個人の集まりです。だから、ペトロであろうとパウロであろうと、誰であろうと、イエス様のみ名によって、堂々と「自分」の考えを集会の中で個人として語ることができます。これが、キリストの御霊にある自由です。パウロはこの自由を実行しました。
第二に、その結果として、パウロは、アンティオケアの教会を去ることになります。教会は彼の意見を受け容れなかったようです。「ようです」というのは、よく分からないところがあるからです。ユダヤ教の食物規定を守るなら、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが共同の食事をするためには、今度は異邦人キリスト教徒のほうが、ユダヤ教の食物規定に従う以外に道がありません。これがペトロの選んだ方向でした。パウロは逆に、ユダヤ人キリスト教徒のほうが、異邦人キリスト教徒のほうに合わせるべきだと考えたのです。ペトロたちは、ユダヤ人キリスト教徒全員が、律法通りにすべきであると主張したのでしょうか? 「ペトロは次第に身を引いた」とあるので、始めはペトロと幾人かの人たちが、それからだんだんと、バルナバを含むユダヤ人キリスト教徒全員が、「ペトロにならって」身を引いたのでしょう。そこでパウロが、たまりかねてペトロに抗議したのです。後になって、ガラテヤにわざわざ幾人かが遣わされて、パウロの福音を覆そうとしたことを考え合わせると、ユダヤ人キリスト教徒たち全員が、パウロの意見を一致して退けた、というのが実体ではなかったかと思われます。
ですから、あるユダヤ人キリスト教徒は異邦人キリスト教徒と共同の食事を守り、ある者は守らない。確証はありませんが、こういう「選択の自由」はなかったのではないかと推測されます。すなわち、この件について、「個人の自由」は認められなかったようです。この点が、先の割礼の場合とは異なります。割礼問題では、少なくともパウロやバルナバたちが、異邦人キリスト教徒に割礼を行なわずに伝道する自由が認められました。こうして律法制度に「穴を開ける」ことができたのです。しかし、「ユダヤ人キリスト教徒のこと」に関しては、律法制度に穴を開けることはできなかったようです。
使徒会議で成功したことが、アンティオケアでは失敗したのはなぜでしょうか? 先に述べたような幾つかの難しい状況が背景にありました。このために、公然とした問題提起。これを自由に話し合う状況。そして、それぞれが、自分の信仰に従って、選択する自由。この三つが、アンティオケアでは揃わなかったのです。このことが亀裂を引き起こしたと思います。信仰の違いを乗り越えて、交わりを保つのは難しいことです。「互いに重荷を担う」(ガラテヤ6章2節)ことが必要です。このためには、お互いが率直に意見を述べ合って、相手の立場を理解する努力が必要です。「交わり」には、発言する自由と理解が欠かせません。しかし「自由」と「一致」は、集会の一人一人が、イエス様にある御霊の自由を知っていて、そこから生まれる「交わり」を創り出すところに成り立ちます。このために、祈りと愛と寛容が必要なのです。このことは6章で語られます。