【注釈】
11【兄弟たちよ】ユダヤ人も互いに「兄弟たち」と呼び合い、イエスも弟子たちをこう読んでいました(マタイ23章8節)。パウロもユダヤ人キリスト教徒をこう呼んでいますが、ここでは特に、異邦人キリスト教徒たちのことです。
【わたしが伝えた福音】原文は「私が福音した福音」。パウロの福音は「十字架のイエス・キリスト」の福音です。ただしこれは、エルサレムの使徒たちとも共有している福音でした。しかし彼の福音は、この書簡のテーマである「律法からの自由」という点で、独特の性格を帯びています。だからパウロはこれを「わたしの福音」(ローマ2章16節)と呼んでいます。
【人間から出た】この言い方は次の節の「人間による/人間的に従った」と並んで注目されています。パウロの伝える福音の出所が「人間から」ではなく神からのものであること、またその内容も「人間的な考え方に従った」ものではなく、神の目から見たものであることです。1章~2章は、福音が「人間から」のものではないこと、3章~6章は、「人間による」ものではないことを語っているという見方があります。
12【自分から人間によって】彼の福音は、彼自身が進んで、誰かの教師や使徒から教えを受けることで与えられたものではないこと。
【イエス・キリストの啓示】「イエス・キリストから受けた啓示」という意味と「イエス・キリストそれ自体を彼に啓示した」というふたとおりの解釈ができます。使徒言行録9章のパウロの回心の記事から見れば、イエスが、彼に福音を啓示したと受け取ることができます。しかし、冒頭で述べたように、彼への福音の啓示の有り様とその福音の内容とは、切り離すことができません。したがってここでは、啓示の内容それ自体が、「十字架されたイエス・キリスト」であることをも意味しています。ただしパウロが、律法制度からの自由をこの時に初めて、誰からも教えられずに知ったという意味ではないでしょう。彼はすでにキリスト教徒からそのことについては教えられていたからです。ただ、そのことが、福音の最も大切な真理であることを彼自身が、人によらず、直接にイエス・キリストによって示されて悟ったという意味です。
13【ユダヤ教にいた頃】この言い方は、パウロが「かつて」ユダヤ教徒であったことを指すと同時に、今ではそのようなユダヤ主義を反省して、これを乗り越えていることを意味しています。確かにパウロは、自分の福音が「人間から出た」ものではないことを強調しています。しかし、彼がファリサイ派としてエルサレムで受けた教育が、彼の福音理解、特に律法と福音との関係を理解する上で大きな意味を持つたことは、その書簡を読めば分かります。パウロが、キリスト教神学の基礎を築いたと言われるのも、彼の旧約聖書を中心としたユダヤ教の訓練があったからだと言えます。
【聞いたはすである】パウロについてのユダヤ教側からの批判や中傷が、2世紀のユダヤ教の文書に残っていますが、おそらくこのような中傷や批判が、ガラテヤの信徒たちの耳にも届いていたと思われます。ユダヤ教の側からすれば、ダマスコ途上でキリストを信じた彼の行為は、許し難い「裏切り」と映ったことでしょう。また、キリストを信じてからも、パウロの福音理解には、「律法からの自由」という点では、おおかたのユダヤ人キリスト教徒たちの理解を超えるところがあったと思われます。パウロに敵対するユダヤ人キリスト教徒たちは、キリスト教もユダヤ教の延長にあるという見方をしていたからです。「聞いたはずである」と彼が言うのは、おそらく、パウロに対する敵意から、そのようなさまざまなことを言う人たちがいたのでしょう。
【神の教会を迫害】「教会」は単数で、神の教会全体を総称しています。先に「ガラテヤの諸教会」とあるように、まだこの頃は、イスラエルの伝統的な「カハール」(会衆)の考え方に従って、地域ごとの箇々の「集会」が意識されていたと考えられます。だから、パウロの言う「教会」も、その地域の諸集会を意味することが多かったのです。しかし、最初期のエルサレムのイエス=メシア宗団は、自分たちが終末に成就する唯一の「神の会衆」(「カハール・エール」)であるという自覚に立っていました。パウロが、「神の教会」を迫害したと言うのは、このエルサレム宗団を意味するとも考えられます。しかし、彼がダマスコまで迫害の足を伸ばそうとしたのは、単に地域の教会に限定した言い方ではなく、より広い意味で「神のエクレシア(教会)」を全体として見ていたとるほうが適切でしょう。だとすれば、パウロがここでのように教会(エクレシア)全体を単数で総称するのは最初期の用法として重要です。単数の「神のエクレシア」は、その後、「イエス・キリストの体」として、例えばエフェソ人への手紙では中心的な主題になります(エフェソ1章22~23節)。
「敵対していた」とは、自分が「ユダヤ教徒」として「神の教会」の外にいたことを意識し、神に逆らった自分の過去を反省しているからです。だから、彼の内では、すでに「ユダヤ教」と「神の教会」とがはっきり区別されていたことが分かります。もっとも、パウロが迫害したのは、主としてユダヤ人キリスト教徒の教会でした。彼らは、ユダヤ人キリスト教徒として、ユダヤ教の律法を順守していたと考えられます。そのようなユダヤ人キリスト教徒でさえも迫害したのですから、キリストの啓示を受けた後のパウロの転換が、いかに大きかったかがうかがわれます。なお「滅ぼそうと」とあるのは抹殺しようと努めることで、「神に呪われた」ものとして滅ぼし尽くすことです。
14【ユダヤ教に精進し】パウロはガマリエルという当時の著名なラビの下で律法の研鑽に励んでいました(使徒言行録22章3節)。彼はファリサイ派に属していましたから、特別に過激な党派に属していたのではありません。
【先祖たちからの伝承】捕囚以後の第二神殿の時代、すなわちエズラの頃(前5世紀)から、「トーラー」(律法)としての(旧約)聖書の研究と解釈が盛んになりました。聖書の語句や聖句の解釈は「ミドラシュ」(探求)と呼ばれましたが、モーセ律法に含まれない日常生活や社会生活に関するもの、あるいは口伝のものは「ハラハー」と呼ばれました。これに対して、物語や逸話や格言などの解釈は「ハガダー」(現代ユダヤ教では「アガダー」)と呼ばれました。パウロの時代には、このように、トーラーの研究とともに、ミドラシュ・ハラハーとミドラシュ・ハガダーを学ぶことがユダヤ教のラビとなるために要求されていたのです。これらは後に、ユダヤ教の「ミシュナー」(3世紀頃)となり、さらに「タルムード」(5世紀)として集大成されていきます。
【人一倍熱心で】パウロは、自分が律法に熱心であったことを誇るためにこのように言うのではありません。しかし、彼が大回心を経験したのは、イエス・キリストからの啓示によってですが、彼が後で述べる「福音の真理」を誰よりも深く霊的に把握できたのは、彼が先祖の宗教に不熱心だったからではなくて、逆にその律法的な宗教を徹底しようとしたことから来ているのを見落としてはなりません。このことは、先に教会を「徹底的に迫害した」ことと併せて、パウロの律法と福音との関係を理解する上で、とても大事なことです。
15【御心によって】原文は「神はあえてそれをよしとされた」。この句は節の始めに来て強調されています。神に敵対しその教会を絶滅させようとする者に神がイエス・キリストを啓示するなどということは絶対にあり得ない。こういう反論に対するものです。神はあえて、このようなパウロを選び、使徒としてくださった。ここには、パウロの「恵み・恩寵」の神髄を見ることができます。
【選び分かち】旧約聖書では、これは、神への犠牲の捧げ物を選ぶ時の言葉です。ただし、この場合選ぶのは人間です。しかしここでは、選ぶのは神のほうで、しかも生まれる前からのことです。ここでは、パウロがキリストを信じることと使徒職へ任命されることとが区別されていないように見えますが、次の「召し出す」で、具体的に使徒職への任命が意識されているのです。「母の胎内にいる時から」の「選び分かち」は、旧約の預言者からの伝統に根ざしています(イザヤ49章5節)。パウロも自分の使徒職をこの伝統に立って理解しています(ローマ1章1節)。だから、すべてがパウロの意志ではなく、神の摂理によるのです。
【恵みによって】この言い方はパウロでは、「イエス・キリストを通して/にあって」と同じ意味です。
16
【異邦の諸民族に】パウロは回心以前には、異邦人をユダヤ教に改宗させようと努力していたと思われます。ところがダマスコへの途上の回心で、今度はイエス・キリストを伝えるようになったのです。ただし、パウロはユダヤ人にも福音を伝えようと努力していることも見落としてはならないと思います。「異邦人への使徒」というパウロの自覚は、一回限りのことではなく、回心の体験を反省する中から生まれたと見るべきです。なお「御子を福音する」という言い方は異例です。「キリスト」の代わりに「御子」と言う時、パウロは、父なる神によって復活し彼に顕現した方としてのイエスを指しています。
【御子を啓示して】原文は「御子を私の内に啓示した」。イエス・キリストを「神の子」あるいは「御子」と呼ぶのは原初キリスト教会からパウロに伝えられたものです。したがって、パウロも彼に反対するユダヤ人キリスト教徒たちも共通して、イエス・キリストをこのように呼んでいました。これらの呼び方は、パウロの書簡(第一テサロニケ/ガラテヤ/第一と第二コリント/ローマ)には用いられていますが、後の牧会書簡(第一と第二テモテ/テトス)には表われません。この言い方は、もともとユダヤ教の「メシア」を指す言葉から来ています(ラテン語エズラ記7章28節:ただし新共同訳の続編ではここは「イエス」となっています。これは本来「メシア」であったのが、キリスト教の立場から訂正されたのです。)ガラテヤ人への手紙では、「神の子/御子」は、2章20節/4章4節と6節に出てきますが、これらは信仰告白的な響きを帯びています。なお「啓示した」とあるのは、一回限りのことではなくて、御霊にあって「わたしの内に」幾度かにわたって啓示されたと思われます。
ただしここで、パウロの回心の契機となったダマスコ途上でのイエスとの出会い体験(使徒言行録9章3~5節)について触れておきます。パウロにとって、この時の体験はよほど強烈であったと見えて、彼は繰り返しこの体験を語っています(使徒言行録22章6~8節/同26章13節)。その際彼は、「強い光が差す」「太陽よりも明るく」という言い方をしていますが、つうじょうこれは、パウロがすでに復活しているキリストに出会ったことを指すと理解されているようです。時間的に見れば、パウロが生前のイエスに出会うことはなかったのですから、この理解は当然だと思われましょう。しかし、ここでパウロが言う「太陽」や「強い光」のような描写は、四福音書では、復活のキリストについてではなく、イエスの山上の変貌記事に共通しています。イエスの顔が「太陽のように耀く」(マタイ17章2節)、「真っ白の耀く/ちかちかときらめく」(ルカ9章29節)などに近いのです。これに対して復活したイエスの描き方はむしろおぼろであったり、それとは気が付かなかったり、人の姿そのままに近く、変貌記事とは異なっています。イエスの変貌は復活のキリストのことではなく、共観福音書が意図するのは、<地上のイエス>が神の子であり、そのイエスに宿る霊性がモーセやエリヤが証しした神の臨在であることを伝えようとしています。
このことから理解すると、パウロがここで言おうとしているのは、自分が出会ったのは、復活のイエス・キリストではなく、「地上のイエスにあるその霊的な神性」を自分も見たと証ししていると受け取るほうが適切でしょう。使徒言行録9章で、パウロが「あなたはどなたですか?」と問うと、「わたしは<イエス>である」と答えが与えられるのも、このことを伝えていると理解することができます。だからこそ彼は、自分も大使徒と同等の使徒であるという確信が与えられたのです。考えてみれば、パウロが伝える復活したキリストを信じている人たちがいる時に、その人たちに向かってキリストの姿を描いて見せるのはおかしなことです。彼は、復活したキリストを信じている人たち(あるいはまだ信じられない人たち)に向かって、わたしは神の聖霊を宿して復活するべく定められた<地上のイエスに宿る神の霊性>をこの目で見たと証しするほうが自然だと思われます。
【血肉】神に対照させて「人間」を意味する言い方です。たとえどのように「偉い」人たちであっても弱い被造物の人間にすぎないことをここで言いたいのです。
17【エルサレムにいる先輩の使徒たち】「エルサレムの使徒たち」というのは、ペトロを含む使徒たち(第一コリント15章7節)、それに「主の兄弟ヤコブ」を念頭に置いているのです。エルサレム教会は、原初教会の中心であり伝道の拠点でもありました。しかしここは、後で出てくるように、主の兄弟ヤコブを中心として、ユダヤ教の律法順守を厳格に守り、異邦人キリスト教徒にも割礼を施すことを伝道の方針としていました。「先輩の」とある原語は「私の前の」です。だから、「先輩」と言うより、単に時間的に自分よりも先に使徒となったという含みもあります。ガラテヤを訪れたユダヤ人キリスト教徒たちが、エルサレム教会から遣わされたのかどうかははっきりしませんが、かつてアンティオケアの教会へ同様の使者たちが訪れて、その結果ペトロとパウロとが衝突することになった事態を想いつつ、パウロはこれらエルサレムの使徒たちと自分とを対等に置いているのです。
なお、「エルサレム」は「イエロソリュマ」というギリシア的な書き方と「イエルサレーム」というヘブライ的な表記とがあり、新約ではほぼ半々で用いられています。ここは「イエロソリュマ」で、パウロは、単に地理的な場所として異邦人に分かる表記をしたのでしょう。4章26節では「イエルサレーム」です。
【アラビアに出て行った】「アラビア」とあるのは、当時死海の東方から東南にかけて広がっていたナバテア地方のことで、ここには前1世紀から後1世紀にかけてナバテア王国がありました。ここの民は、アラブ系の民族の中でもイシュマエルの子孫とつながりがあり、比較的ユダヤ人にはなじみがありました。ナバテア語はアラム語と同系統なのでギリシア語もアラム語も通じる地域でした。首都は死海南東のペトラで、地中海からダマスコを通り南下してアカバ湾に出てインド洋に通じる交易ルートの重要な拠点になります。宗教的には一神教への傾向が強い所ですが、神は、「いと高き神」「至高の神」などの名前でも呼ばれましたから、必ずしも旧約の神だけの唯一神教ではなかったようです。またユダヤ人の会堂もかなりあったと思われます。パウロがどこそこへ「行った」というのは、通常伝道に出かけることを意味します。彼がこの地を最初の宣教の地に選んだのは、この民がユダヤ人に近い「異邦人」であり、またおそらくこの地域には、福音が伝えられていなかったからでしょう。パウロはここで、初めはユダヤ人の会堂での証しから始まり、さらに異邦人にも、「イエスは神の子である」(使徒言行録9章20節)ことを伝え、それ以後の伝道の基礎となる教えと方法を身につけたと思われます。4章25節に出てくるアブラハムの女奴隷ハガルの比喩もこの地の伝承からヒントを得たのかもしれません。
ナバテア王国は、4代目のアレタ4世の治世(前9/8~後40/41)に最盛期を迎えました。この長い治世の間に、北のほうはダマスコを含む南シリア地方までをその支配下に置いていたようです。彼は近隣の王室と婚姻関係を結び、その娘のひとりは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの妻となりました。ヘロデは後に離婚して、義弟の妻ヘロデヤを后としたために洗礼者ヨハネの批判を受け、このため洗礼者は殉教しました(マタイ14章)。アレタ王は、これがもとでヘロデの領土に攻め入りますが(36年)、これに対してローマが介入し、逆にアレタ王の身が危うくなります。パウロがダマスコに戻ったのは、この政情不安がひとつの原因ではなかったかと考えらえます。おそらくアレタ王はユダヤ人とその活動に政治的不安を抱いたのでしょう。彼がナバテアにどれくらい滞在したかは不明です。1年ほどでしょうか? とすれば、パウロは、ダマスコから離れてそれほど遠くまで南下したとは思えません。
【ダマスコへ戻った】ダマスコは交易の拠点として栄えていた都市です。パレスチナで、ローマから都市としてのある程度の自治権を認められていた10都市のひとつであり、ヘレニズム文化が浸透していました。66年のユダヤ戦争の頃、そこに住んでいたユダヤ人は1万人あまりで、当時の反ユダヤ主義によって、ユダヤ人に対する虐殺が行なわれたと伝えられています。パウロは、ダマスコへ戻った後も、彼をユダヤ教からの裏切り者と見る人たちの陰謀によって、ダマスコのアレタ王の代官に逮捕されそうになり、ダマスコを脱出することになります。
なお、パウロのダマスコでの「籠による脱出」については、使徒言行録9章23~25節と第二コリント11章32~33節とに出てきます(明らかに二つは同じ出来事です)。使徒言行録では、この脱出がパウロの回心直後のこととされています。ところが、第二コリント人への手紙以下では、この事件が「アレタ王の代官」による逮捕の手を逃れるためであったとパウロは語っています。とすれば、この出来事は、パウロがナバテアからダマスコへ戻った後の二度目のダマスコ滞在の終わりに起こった可能性があります。このために、これをパウロの回心直後の出来事とする説と二度目のダマスコ滞在の最後のこととするふたとおりの説があります。私は、この出来事が、ナバテアからダマスコへ戻った二度目の滞在の終わりのことだと考えます。なぜなら、もしもアレタ王の代官に逮捕されそうになったのであれば、たとえそれがユダヤ人の陰謀から出たとしても、パウロがそこからわざわざアレタ王の統治するナバテアへ行くとは考えられないからです。それに、第二コリント11章32節で、パウロがわざわざ「アレタ王」の名を出しているのは、それがパウロのナバテアでの出来事の後であることを示唆するからです。使徒言行録9章25節には、パウロをダマスコから籠に乗せて脱出させたのは「彼の弟子たち」だとあります(ルカは伝承ほんらいの読みを保持している)。すなわち、パウロ自身の伝道によって信仰に入った人たちに助けられたのですから、このことも、パウロがダマスコへ戻ってから、ある程度の滞在期間がなければありえないことです。ただし、パウロの回心直後に、ダマスコのユダヤ人たちが、彼を裏切り者と見なして、パウロを迫害する陰謀を企てることはありえないことではありません。おそらくルカは、第一回目と第二回目のダマスコ滞在でのユダヤ人によるパウロへの迫害をひとつに重ねて、「籠による脱出」をパウロの回心直後のこととしたと思われます。
18【そして3年目に】「そして」は、回心の際に「まず」血肉に相談しなかったこと(16節)と関連づけて、回心の時から数えて3年目と解釈するのが一般的です。また「3年目」とあるのはあしかけ3年という意味です(マルコ8章31節の「三日の後に」と比較)。とすれば回心してから2年半有余の間に、アラビア滞在とダマスコ滞在とがあったことになりますから、それぞれの滞在がどれくらいの期間になるかは不明です。ただし「そして」は、21節と2章1節にも表われます。この二つの場合は、どちらもすぐ前の出来事を指していますので、18節のここも「その後で」と訳して、これをダマスコへ戻ってから後の3年目とする説もあります。これだとダマスコに2年半以上はいたことになります。けれどもパウロがダマスコから「脱出」しなければならない状態の下では、おそらく「ダマスコへ戻ってから」3年目の意味ではないだろうと思います。
【ケファを訪ねて】パウロは2章7節以外では、ヘブライ式の「ケファ」を用いています。「訪ねて」の原語は「知り合いになる/近づきになる」という意味です。パウロがここでペトロと親密な話し合いを持ったという見方と、単に「知り合った」と見る説とがあります。すぐ後で出てくるペトロとの衝突事件との関係から、少なくともここでパウロが言いたいのは、ペトロから宣教の方針で指導を受けたとか、彼から自分の使徒職を承認してもらったということでないのは確かです。しかし2週間もの間ペトロの所に滞在したのであれば、その間このイエスの直弟子から、イエスについていろいろ貴重な体験や情報を直接聞くことができたと思います。またパウロのほうからも自分の回心と召命について、ペトロに「説明した」と考えられます。特に福音の根本的な問題について二人の間で話し合われたことでしょう(第一コリント15章3~7節)。ガラテヤ人への手紙で扱われる律法と福音との関係について言えば、特に異邦人キリスト教徒が律法から自由であるとするパウロの考えをペトロに伝えたと考えられます。
ここでの彼とペトロとの出会い、それにヤコブとの面識は、以後のキリスト教のあり方にとってきわめて重要な結果をもたらすことになります。パウロとこの二人との出会いは、後のエルサレム会議に大きく影響してきます。しかし、ここで割礼問題がもちだされたり、ユダヤ教の律法をどの程度まで異邦人キリスト教徒に適用するのかという問題に立ち入ることはなかったようです。イエスをメシアと信じる福音が、ユダヤ教から完全に独立した信仰であるという認識は、まだペトロにはなく、ましてヤコブはこの点では、パウロとは反対の立場にあったからです。
【15日間滞在】エルサレムはパウロにとって決して安全なところではなかったので、パウロの滞在は、公然とは知らされず、個人的な交わりに留まったようです。
19【主の兄弟ヤコブのほか、使徒には誰にも】イエスの「兄弟」ヤコブのことです(マルコ6章3節)。この頃、12使徒のゼベダイの子ヤコブはすでに殉教していました(使徒言行録12章1節)。「兄弟」とあるのは従兄弟のことだという説もありますが、これには「処女マリア」伝承が関係しています。ヤコブは、イエスの復活とその顕現に接して教会に加わったと言われています。「使徒」ではありませんが、ユダヤ教の律法を遵守したので「義人ヤコブ」と呼ばれ、尊敬をこめて使徒と並び称されたのです。使徒ヤコブが殉教し、その際にペトロもエルサレムを離れましたので、エルサレム教会には「柱となる」人たちがいなくなり、このために義人ヤコブは、エルサレム原初教会の中心人物となります。彼が律法に熱心であったのでユダヤ人からも尊敬されていたからです。ペトロがパウロをヤコブに引き合わせたのは、このためでしょう。ここでのパウロの言い方は、「主の兄弟ヤコブ以外の使徒には」とも読むこともできますが、これだとヤコブも「使徒」と見なされていたことになります。しかし、ここは、ヤコブと使徒とを区別して理解するほうがいいと思います。このヤコブも後に殉教します(62年)。
20【神の御前で偽っていない】パウロは、ここまで、自分の使徒職がエルサレムの使徒たちの権威から出たものではなく、復活したイエスの父なる神によって直接授与されたこと、さらに、その後の自分の活動もエルサレム教会からの指導や指示とは関係なく行なってきたと述べて、そのことを神の御前で誓うのです。このことは、逆に見るなら、ガラテヤを訪れたユダヤ人キリスト教徒たちが、パウロの使徒職とその活動は、エルサレムの使徒たちの権威に基づくものであり、したがって、エルサレム教会からの指導に従って異邦人キリスト教徒も割礼を受ける必要があるとガラテヤの信徒たちに説いていたことをうかがわせます。ひょっとするとガラテヤのユダヤ人キリスト教徒たちは、ペトロとヤコブの名前を自分たちの主張の裏付けとして出していたのかもしれません。パウロはこれに断固として反対するのです。もしも彼の使徒職がエルサレムの使徒たちの権威に依存するものなら、これに逆らうことは許されないばかりか、使徒として違反行為と見なされます。だからこそパウロは、自分の使徒職と自分の福音とを切り離すことができないのです。ほんらいならば、エルサレム教会の権威に依存して、その権威の下に宣教活動をするほうが、はるかに容易であり、またパウロへの「信頼」も「名声」も高くなるはずです。また実際そのようにしている伝道者たちがいました。ところがパウロは、これと正反対の道を歩むのです。しかも、エルサレム教会との連携を断たれないように配慮しなければなりません。この点について、使徒言行録9章26~30節を併せて読むなら、ここでパウロの置かれていた立場の難しさが分かります。
21【シリア地方およびキリキア地方】「シリア」とは、シリア北部とパウロが初期の宣教の拠点とした都市アンティオケアの周辺地域を指します。また、キリキアは、この地域と隣接する西の地方で、そこにはパウロの故郷タルソスがあります。アンティオケアでもタルソスでも、パウロの宣教は必ずしも異邦人に限られていたわけではありません。パウロが「異邦人への福音」と言うのは、「異邦の諸民族の国々へ」の福音という意味が含まれていて、当然そこにはユダヤ人も大勢住んでいました。だから、ユダヤ人に「ではなく」異邦人に、という意味ではありません。
22【キリストにあるユダヤの諸教会】「キリストにある」という言い方は、特にパウロが好んで用いる表現で、キリストと信仰者との関係を表わす重要な言葉です。ガラテヤ人への手紙にも8回ほど出てきます。「ユダヤ」は、エルサレムを拠点とするユダヤとサマリアとガリラヤ地方を指します。この言い方はテサロニケ人への第一の手紙2章14節にも出ていますが、そこでは、キリストの諸教会が迫害を受けていたことが語られています。しかし、「ユダヤの諸教会」は、ガラテヤの信徒たちとは異なって、律法を順守する生活を守っていました。このためにパウロの伝える福音には好意的でなかったと思われます(使徒言行録9章29節/20章22~23節)。かつてイエスが歩いた地方全体が、今はパウロの敵にまわったのです。
【顔を知られていなかった】「顔を」というのは、名前はともかく個人的にも私的にも知り合いではなかったという意味です。エルサレムへの2度の訪問にもかかわらず、パウロは、この地方では、「顔を知られる」交わりを持つことがなかったと言えます。ガラテヤを訪れていたユダヤ人キリスト教徒たちも「ユダヤの諸教会」から来たと思われますから、パウロはここで、彼らが自分について言われていることは、風聞にすぎないと言うのです。パウロがわざわざここでこのような言葉を加えていることから判断すると、ガラテヤを訪れていたユダヤ人キリスト教徒というのは、あるいはパウロと会ったことのないこの地方の人たちではないか? エルサレム教会説、アンティオケア教会説と並んで、このような説もあります。
23【その福音を伝えている】原文は「その信仰を福音している」。これはおそらくユダヤの諸教会がパウロについて語っていた言葉をそのまま引用しているのでしょう。とすれば、「信仰」「福音する」という言い方が、最初期からなされていたことを証ししています。
24【わたしのことで神に栄光を帰した】この言い方は、イザヤ書49章3節でメシアとしての「主の僕」について語られている箇所を踏まえています(1章5節)。「わたしのことで」の原文は「わたしにあって」です。「わたしにあって」(2章20節)も「キリストにあって」もパウロがよく用いる言い方です。ここでパウロは、ユダヤの諸教会が、パウロの回心を「神のみ業」だと認めていたことを言いたいのです。ユダヤ教では、迫害者は、通常神に呪われて惨めな末路を迎えると信じられていましたから、「かつて私たちを迫害した」者が、福音の使徒とされることは神の働きであり奇跡として驚きを持って迎えられたのです。