(2)パウロの福音
【聖句】
■1章11節〜21節
11だから兄弟たちよ、分かっていただきたい。わたしが伝えた福音は、人間から出たものではない。
12なぜなら自分から人間によってこれを受けたのでも、教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示を通して受けたからである。
13と言うのは、わたしがかつてユダヤ教にいた頃の振舞をあなたがたは聞いたはずである。わたしが神の教会をひどく迫害して、これを滅ぼそうとしたこと、
14また、わたしと同年代の多くの仲間たちに抜きんでてユダヤ教に精進し、わたしの父祖たちからの伝承に忠実で、人一倍熱心であったことである。
15ところが、神は御心によって、まだ母の胎内にいる時からわたしを選び分かち、さらにその恵みによって召し出してくださり、
16さらに異邦の諸民族に御子を福音するためにとわたしの内に御子を啓示してくださった。その時わたしは、まず血肉を具えた人間に相談することなどせず、
17またエルサレムにいる先輩の使徒たちのもとへ上ることもせず、すぐにアラビアへ出ていった。そこから再びダマスコへ戻ったのである。
18そして3年目に、わたしはケファを訪ねてエルサレムへ上り、彼のもとで15日間滞在した。
19だが、主の兄弟ヤコブのほか、使徒には誰にも会わなかった。
20わたしが神の御前で偽っていないことをここに誓って書いておく。
21その後、わたしはシリア地方およびキリキア地方へ行った。
22ただし、キリストにあるユダヤの諸教会には、顔を知られていなかった。
23ただ、かつては自分たちを迫害していた者が、今は滅ぼそうとしたその福音を伝えていると聞かされていたので、
24わたしのことで神に栄光を帰したのである。
ヴァティカンの聖ペトロ大聖堂の前の広場に、二つの大きな立像があります。一つの像は鍵を持っています。もう一つは剣を持っています。鍵を持っているのがペトロで、剣を持っているのがパウロです。鍵は天国の鍵(マタイ16章19節)。剣は御言葉の剣、すなわち御霊の働きです(エフェソ6章17節)。このふたりはいろいろな意味で対照的です。ペトロはイエス様の第一の直弟子です。年齢もイエス様とそんなに変わらないのではないでしょうか。これに対してパウロは、生前のイエス様には一度も出会ったことがありません。年齢的には、はっきりしませんが、イエス様よりもひとまわり(12年?)くらいは若かったと思うのです。彼は、始めイエス様の教会を迫害していました。ところが復活のイエス様が彼に顕われて、ひっくり返って使徒になりました。ペトロはガリラヤの素朴な漁師です。こう言っては失礼だが、あまり学問がある、知識が豊かであるとは言えません。これに対してパウロは、エルサレムで、ガマリエルというユダヤ教の先生のもとで律法の勉強をしたから、神学の専門知識を持っています。ペトロは、生まれも育ちもガリラヤのユダヤ人です。パウロが生まれ育ったのは、ギリシア文化の盛んな異邦人の土地タルソです。そこからエルサレムへ留学していたのですね。ふたりともユダヤ人キリスト教徒ですが、この前お話ししたように、ペトロはエルサレム教会に所属して、主としてユダヤ人にイエス様を伝えていました。パウロは、アンティオケアの教会に属して、異邦人に福音を伝えていました。ペトロは、当時のユダヤ人キリスト教徒のやり方に従って、異邦人でイエス様を信じた人たちにも、ユダヤ教の律法で定められた割礼を行なっていたと思われます。ところがパウロは、異邦人がイエス様を信じた場合に、洗礼は受けさせましたが割礼は受けさせませんでした。この頃はまだ、キリストの教会は、ユダヤ教の一派だと見なされていたのですね。今回は、このふたりの最初に出会った時のことです。この後で、ふたりは、さらに二度の出会いを持ちますが、それらはまた、幸いな出会いともなり、また不幸な出会いともなりました。
(2)先祖の宗教
1章12節〜14節までを読みます。12節でパウロは、イエス・キリストの福音が、啓示によって与えられたと語っています。ところが13節では、自分はかつて徹底的に神の教会を迫害したと語ります。さらに14節では、先祖からの伝承を守ることに人一倍熱心であったと言っています。この三つのこと。福音が啓示されたこと。神の教会を迫害したこと。先祖からの伝承を守るのに熱心であったこと。これらは、どんなふうにつながるのでしょうね。三つは決してバラバラではありません。
まず、14節の先祖からの伝承に熱心であったことから始めましょう。パウロをめぐる複雑な宗教的状況は、前回お話ししましたから繰り返しません。キリスト教徒であろうと他のどんな宗教の人であろうと同じですが、一般に宗教は、過去から伝えられてきたものを理屈なしに、なぜかと問うことなしに、伝えられた通りに守ります。これが伝承された宗教の特徴です。だから、宗教は人間を過去に引き戻す。日本にもさまざまな宗教があります。けれども、新興宗教を含めて日本人の宗教には、ひとつ共通点があります。それは、先祖を敬い、先祖を崇めることです。これには先祖の祟りも含まれています。「あがめる」も「たたり」も同じ漢字ですね。先祖の因縁もよく言われます。
かつての私の大学の同僚の娘が、精神的な病気にかかって自殺しようとした。すると天理教の指導者から、それはあなたの先祖が罪を犯したことからくる因縁だと告げられたのです。そこで毎朝、夫婦で天理教の教会の拭き掃除をして、先祖の因縁を浄めてもらおうとしていました。昔よく言われたことに、「今のお前は先祖のおかげだ。私市家の先祖の名を汚さないようにしなければならない」というのがありました。「今のお前はお前ではない、先祖から来たお前だ。」これが、日本人の宗教の基本的な有り様です。
家庭に不幸な出来事があると、必ず新興宗教の信者さんがやってきて、あなたの家の不幸は、先祖の供養が足りないからだと言う。だから、私の教団に入って先祖の供養をすれば、その不幸はなくなると。いろいろな宗教があるけれども、基本的にはこの点で共通しています。先祖の宗教を言わないのは、日本では新約聖書の信仰だけです。宗教は、このようにして、儀式や教えやしきたりを伝えます。こうして、本当の自分は先祖からの自分であることをしっかりとたたき込む。今の自分が自分でないのなら、「今のあなた」は、ほんとうの「あなた」ではなくなります。先祖の生まれ変わりですから。
パウロは、先祖からの宗教に人一倍熱心であった。これは旧約聖書を中心にしたイスラエルの律法のことです。だから、パウロの場合、「律法」というのは「先祖の宗教」と同じです。だから、先祖の教えに背く信仰が現れたとき、特にそれが、同じユダヤ人の中から起こったときに、彼はそれを絶対に認めることができませんでした。イエス様を信じる(ヘレニストの)ユダヤ人キリスト教徒たちは、先祖の宗教である律法から自由になろうとしたからです。彼がだれよりも激しく神の教会を迫害した理由がこれです。宗教は、自分を過去へ引き戻す。ですから、そういう伝承宗教に支配されている人間は、自分が属する宗教と異なる考え方、それと違う宗教と相容れることができません。
「今」は先祖の時とは違う「とき」です。その「今の時」に、どのように決断するのか? ここにあなたという「自分が」あるのです。実は、そういう判断を今の時に下す自分のあり方に、過去の先祖がほんとうに活きてくるのですね。伝承にこだわるとこれができない。博物館の陳列みたいに変わりようがないからです。私は過去の伝承が間違っているとか誤っているとか、そういうことを言っているのではありませんよ。しかし、伝承に忠実であることが、他の宗教を攻撃する最も根本的な理由になるのです。
(3)啓示されたキリスト
1章15節〜17節を読みます。16節には、「御子を私の内に啓示してくださった」とあり、続けて、異邦人に福音を告げ知らせるようにしてくださった時に、彼は血肉に相談するようなことはしなかったと言うのです。だからパウロは、エルサレムの指導者の所へ行って、これからキリストの使徒として働きますからどうぞよろしくと頭を下げることもしなかった。その代わりひとりでアラビアへ、これは当時のナバテア王国のある所ですが、そこへ出ていって自分の伝道を始めたのです。
パウロが、福音を直接イエス・キリストから啓示されたと言うときに、彼は何にも知らないままにイエス・キリストから福音を直に受け取ったと考えてはいけません。なぜなら彼は、ダマスコでイエス・キリストを信じる体験をした後で、ダマスコにいるクリスチャンから按手の祈りを受けて、それからしばらくは、そのクリスチャンたちとともに生活して、彼らから教えを受けたからです。ですからパウロは、イエス・キリストの教え、十字架や復活、それに御霊などをいろいろと聞かされたと思います。こうして、イエス・キリストの福音とはどういうものであるのかをパウロは初めて聞いたのです。
それなのにパウロは、神様が御子をわたしに「啓示」してくださったと言うのです。いったいこれはなぜでしょう? 人々から教えられ伝えられた。でもただそれだけではほんとうに自分自身のものにはならなかった。十字架のこと、復活のこと、御霊のこと、これを学んで知るのは大事なことです。福音は聞かなければ学ぶことができませんからね。伝えられなければ伝わりません。しかし、聞いて教えられても、はい、そうですかというわけにはゆかないのです。その聞いたこと教えられたことが、御霊によって自分の内面に啓示される。これが大事なんです。イエス様が、人格の御霊として、その人の内に啓示されて、その交わりがだんだんと深くなる。これがなければ霊的な成長は望めません。
パウロにイエス・キリストが啓示されたからこそ、迫害者が迫害される者に赦されてひっくり返った。それまでの人間サウロは全面否定です。でも実はこの「全面否定」は、神様からの赦しという「全面肯定」なんです。自分の全く知らない新たな事態が生起した。サウロはなにがなんだから分からない。なんにも見えない。こういうときは全面ストップです。動くに動けない。だから下手に動いてはいけません。私たちクリスチャンは動きすぎです。やらなさすぎるのではなく、自分勝手に「やりすぎる」のです。いいですか。「神様の御前」に出たら動いていけない。自分なんかいなくなって死んだようになるのが一番です。サウロは、アナニアという先輩のキリスト信者に按手してもらうと目から鱗が落ちた。するとなんだか様子が違う。世界が違うのです。何よりも「自分自身を見る目」がすっかり変わった。今まで自分がやってきたことがはっきり見えてきたのです。なんという愚かなこと、なんというひどいことを自分はしていたんだとね、まるで催眠術から覚めたように、自分のしていたことがはっきり見えてきた。
イエス・キリストが、十字架にかかって、罪の赦しのみ業を成し遂げ、復活してくださった。この事態がパウロには、直接御霊によって啓示されたのです。時間的な順序としては、まずイエス様の誕生があり、十字架があり、死の中からの復活があり、その後で聖霊が降るという出来事の順番です。けれどもそれは、出来事の起こった順番であって、実際の体験はそうではありません。パウロの場合もまず復活のイエス・キリストに出会った。そして罪の赦しが与えられた。それからイエス・キリストの御霊をいただいた。御霊が宿るということはそういうことです。罪が赦されていなければ御霊は降らない。御霊が働いてくださるということ、そのこと自体が、罪の赦しそのものがあなたの内に成就していることなのですよ。ここでパウロは初めて、十字架のイエス様が、ただの殉教者でなかったことを悟った。ただの歴史的なイエスではなかった。イエス様が、パウロにとって救い主イエスになったのです。
これは復活のイエス・キリストからの御霊の働きです。パウロには何が見えたのか? 新しい世界です。でもはっきりとではない。何かが「始まった」。このことが見えたのです。第一コリント人への手紙2章7〜10節を読みましょう。「栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」とあるのは自分のことです。サウロはイエス様に出会ってパウロになりました。このパウロは、それまでの人間サウロから見ると全く別の存在です。パウロはサウロから「新しく創造された」のです。第二コリント人への手紙5章17節を読みましょう。御霊は命ですから、絶えず新たに創造する。「三一浄風是無言之新教」という言葉が、中国で発掘された景教碑文にあります。「三位一体の聖霊語らずして教えを新たにす」です。
ガラテヤの人たちの所へ来た人たち、パウロに批判的なユダヤ主義のキリスト教徒たちは、たぶんこう言ったのでしょうね。あのパウロは、たくさんのクリスチャンを逮捕して、牢屋に入れてしまった。それだけではなく、わざわざエルサレムの大祭司のところに頼み込んで、逮捕令状を手に入れて、ダマスコのクリスチャンたちを逮捕して、エルサレムへ連れて来ようと出かけていった。あんな奴に、イエス・キリストが顕れて、彼が救われて、しかも使徒になるなど、絶対にありえない。おそらくパウロに批判的なキリスト教徒たちはそう言ったと思います。
ところがです。その絶対にありえないことが起こったのです。これは誰よりもパウロ自身が一番よく知っています。自分のような者にイエス・キリストの恵みが与えられるなどということはありえない。その、ありえないことが起こった。パウロはこれを指して「恵み」と言うのです。これはパウロだけでなく、人間なら誰ひとり想像もできないことだった。ところが、神様はこのありえないことを行うのを「よしとされた」のです。これが「み心のままに」とある意味です。神様はそういうパウロをわざわざ選んで、使徒としてくださった。こういう意味です。伝道の仕事というものは、やりたがり屋はやらないほうがいい。やりたくない人、自分なんかふさわしくない。こう思っている人に神様が語りかけてくださる。聖書で神様に召命された人たちは皆そうです。だからこれは自分でやるものではない。やらされるものです。でもやらずにおれない。これもパウロの言うとおりです。なんにもしないどころか、逆に神様の教会を迫害している。そんなパウロにイエス様は十字架の贖いによって罪の赦しを授与された。そしてユダヤ民族以外には全く無縁であったギリシア人やローマ人たちにも平等に伝えられる福音をパウロに啓示されたのです。これは、ガラテヤに来てパウロを批判するユダヤ主義のキリスト教たちには絶対に理解できないことです。
(4)捨てたら与えられる
だからパウロは、ユダヤ教への精進と律法への熱意をキリストのゆえに捨てました。パウロにとって、宗教とはイスラエルの律法でした。これを追求するのが人間パウロの誇りでした。これによって、彼は、自分が異邦の諸民族よりも上だと信じることができたからです。ところが、自分が今までやって来たこと全部が、括弧にくくられて、これにマイナスの記号が付けられた。自分の誇りが、そのままマイナスになったのです。それでもかまわない。こうパウロは思った。フィリピ人への手紙3章5〜9節前半を読みましょう。
ところがです、いったんマイナスを付けて捨て去ったはずの自分の過去を、キリストは、彼のいっさいの知識と熱意とを福音のために用いて、福音の真理を解き明かし、キリスト教神学の基礎を作る仕事に用いてくださったのです。パウロは先祖の宗教を捨てたと言いました。ところが、その捨てたはずの宗教が、何倍にもなって戻ってきたのです。イエス様は、パウロが捨てたものを新たに復活させてくださったのです。もしもパウロがいなかったら、キリストの福音は全世界に広まらなかったかもしれません。そうすれば、旧約聖書も現在のように世界中で読まれることもなかったかもしれません。キリストのために捨てたものは、十倍になって戻ってくるのです。ルカ福音書18章29〜30節を読みましょう。
パウロが読んでいたそれまでの聖書がすっかり変わった。彼がファリサイ派で勉強していた時の聖書と全く違った読み方が見えてきたのです。聖書の言葉だけを読んで、教義を信じるだけで、自分の内に霊的な祈りがないと、私たちの場合も同じです。ただ聖書から教えられた「十字架の伝承」だけでは、聖書は自己を過去へ引き戻す働きしかしなくなります。だから聖書を文字通りに信じて、伝統的なキリスト教に執着して、聖書の言葉を過去からのこととして受け止めるだけでは危険です。今現在にあって、私たちと共に働いてくださるイエス様の御霊を信じる信仰が大切なのはここです。これがないとキリスト教の新しい展開は望めません。十字架の出来事を遠い過去のこととしてはならないのです。
(5)ペトロとパウロ
次は1章18節からです。たぶん回心してから3年目のことですが、パウロはエルサレムに上って15日間もペトロのもとに滞在します。これは大きな出来事でした。なんとペテロとパウロとが2週間、一緒に暮らしたのです。二人の出会いは幸いな出会いと不幸な出会いの2回のみでした。ヴァティカンの広場にふたりの彫像があります。おそらくこの間に、ユダヤ教と福音のあり方、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との関係、なによりも十字架の意味について、復活について、ペトロとパウロは話し合ったでしょう。ペトロはおそらく、生前のイエス様が、どのようなお方だったかを伝えたでしょう。さすがにペトロは、学問はなかったけれどもイエス様の直弟子でした。パウロに与えられた啓示が分かったようです。これは以後のキリスト教にとってすごく大事な出来事でした。この時に、十字架・復活・聖霊の三位一体が、福音の核として二人の間で確認されたかもしれません。ただし、この話し合いは、二人だけの間で行われた可能性があります。しかし、この出会いは、相互に影響を与えたが、二人の違いもまた大きかった。とくにヤコブとパウロとの違いは大きかった。このために、ここでの話し合いの結果、後でペトロとパウロとの間にトラブルが生じることにもなります。大事なことは、それにもかかわらず、交わりの手が差し伸べられたことです。このことは次回でお話しします。