【注釈】
1【使徒とされた】パウロは、12使徒のように、生前のイエス様の直弟子ではなかったので、このことが、ガラテヤを訪れたパウロの敵対者によって指摘されたこと。
【人々を介してでもなく】パウロの使徒職は、ペトロなどエルサレム教会の使徒たちからの任命に依存するものではないこと。
【人によるのでもなく】この「人」は単数で、パウロ自身のことも含んでいます。自分の使徒職は決して勝手な自薦ではないことを言おうとしているのです。
【復活させた】自分が出会ったのは、生前のイエス様ではなく、復活のキリストであったことを述べて、このことは、自分の使徒職を含めて、父なる神から出ていると言うのです。
2【共にいる兄弟たち全員から】パウロと共に伝道に携わる人たちのことで、「全員」とありますが、必ずしもエフェソの教会全員のことではありません。またその中にユダヤ人キリスト教徒たちも含まれています。パウロが第三回伝道旅行の時に、エフェソに滞在中したのは、52年〜54/55年です。ガラテヤ人への手紙がこの間に書かれた(54年か?)とすると、シラス(シルワノス)やテモテ(コロサイ1章1節)やテトスが、パウロと共に働いていたと思われます。またエパフラス(フィレモン23節)やマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカ(フィレモンへ24節)なども含まれかもしれません。パウロは、これらの人たちの代表としてガラテヤの信徒たちにこの手紙を宛てているのです。
【ガラテヤ地方の諸教会】古代には、ヨーロッパ中央部を中心に、ケルト民族が広い地域にわたって住んでいました。彼らは、西は現在のアイルランドやスコットランドから、東はトルコ北部にまたがっていたのです。ケルト民族は、背はあまり高くないが、その情熱的な性格で独特の文化を生み出しました。その中から、現在の小アジアのトルコに南下して来た人たちが、「ガラテヤ人」と呼ばれました。彼らは、現在のトルコ中部のアンキュラ(現在のアンカラ)地方に住み着いていました。ガラテヤ人は、前189年にローマに征服され、前25年に、皇帝アウグストゥスの時に、ローマ直属のガラテヤ州とされたのです。パウロがここで言う「ガラテヤ」については、2つの説があります。ひとつは本来ガラテヤ人が住んでいるアンキュラを中心とする地域を指すという説(北ガラテヤ説)であり、もうひとつは、ローマ帝国によって定められた州区分に従う「ガラテヤ州」のことだとする説です(南ガラテヤ説)。ローマの定めた「ガラテヤ州」だと、現在のトルコの東西のほぼ真ん中を北は黒海近くから南は地中海に近いところまでを縦断する形で広がっていたことになります。この手紙は諸集会へ回覧されて朗読されるために書かれています。したがって、南ガラテヤ説のガラテヤ州を指すとなると、手紙の受け手は、東からデルベ、イコニウム、そしてピシディアのアンティオキアにいたる広い地域になります。あまりにも範囲が広いため、おそらくパウロは、北のガラテヤ地方のことを指していると考えるのが北ガラテヤ説の根拠です。しかし、パウロの初期の伝道が、ガラテヤ州の南部であったことから、南ガラテヤ説を採る学者もいます。
  ところで、上記の北ガラテヤ説をとった場合に、パウロは、52年に、彼の第三回目の伝道旅行に出かけます。彼は、シリアのアンティオケアを出発して、現在のトルコの中央部であるカッパドキア地方を通り、トルコの中央部にあるガラテヤ地方(現在のアンカラ)を訪れています。そこから南西へと旅をして、52年にはエフェソへ到着しています。ところが、その直ぐ後に、律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちが、ガラテヤの信徒たちを訪れて、パウロの福音と彼の使徒職について、信徒たちに疑いを抱かせるようし向けて、パウロからの離反を促したのです。このことを知ったパウロは、エフェソに滞在中にガラテヤ人への手紙を書いたのです。執筆時期は53年から55年の間とされています。
3【恵みと平安】パウロの挨拶の定型句。
【ご自身を】パウロが、通常み子の犠牲に言及する時には、「父なる神」を主語にしますが、ここでは珍しくキリストが主語で、「ご自分を」献げたとあります。それだけキリストご自身の犠牲が、パウロにとって大切な意味を帯びていたからです。
4【罪のために】「罪」は複数で、私たちのもろもろの罪を指しています。
【悪の世】「悪」は単数。「世」は「時代(アイオーン)」の意味にもなります。「悪い世」という表現は、パウロでは異例ですが、この言葉の背景には、終末に比べて現在を「悪の時代」ととらえる黙示思想があります。黙示思想にはふたつの側面があります。ひとつは、「アイオーン」と呼ばれる現在の世の中(時代)は、終末を迎えて裁きを受け、やがて来るべき新しい時代に取って代わられるという思想です。もうひとつは、今現在起こっていることを終末へ向かう救済史のある特定の段階を示す「しるし」として見ることです。現在の出来事が、ちょうど時計の針のように、神の歴史の時刻を指し示していると考えるのです。ここでのパウロの「今の悪の世」にも、来るべき終末と現在始まっているキリストによる救いの出来事とが重ね合わされています。
【救出する】解放する。牢から救い出すこと。
6【驚いたことに】パウロが挨拶の直後にいきなりこのように言うのは異例です。彼がガラテヤの信徒たちの状況をいかに憂慮しているかがこのことからうかがうことができます。
【こんなにも早く】 パウロから教えを受けた信徒たちが、反対者の言うままにいとも簡単に信仰を変えていったことを指しています。
【キリストの恵みへ】キリストの恵みに「あって」。恵みにいつまでも「留まる」ことが大事であることを教えようとしているのです。
7【逆行しようと】居場所を変えようとすることですが、ここでは信仰的に「変節」して、今までの歩みとは逆の方向へ行こうとすること。
【惑わし】かき乱す、混乱させる。この言葉は、通常「異端」に引きずり込まれるときに使われます。ここでパウロは、「かき乱す」人たちとは誰のことなのかはっきりとは言いません。しかし、エルサレム教会を中心としたユダヤのユダヤ人キリスト教徒たちか、あるいはアンティオケアの教会からのユダヤ人キリスト教徒たちかもしれません。パウロの第二回伝道旅行の前に、アンティオケアでペトロと衝突したのであれば(ガラテヤ2章11節以下)、先にアンティオケアを訪れたユダヤ人キリスト教徒たちと同じように、エルサレム教会の側から来た人たちの可能性があります。しかしながら、もしも、使徒会議とこれに続くペトロとの衝突が第二回伝道旅行の後で起こった出来事だとすれば(付記「パウロのエルサレム訪問」参照)、第三回伝道旅行の直前にペトロと衝突したことになりますから、この場合は、アンティオケアの教会から派遣されたユダヤ人キリスト教徒たちであったと考えられます。なぜなら、パウロはそれまでアンティオケアの教会に支えられてガラテヤの信徒たちに伝道していたのですから、パウロが、アンティオケア教会から離れた今となっては、もはやガラテヤでのパウロの伝道を認めるわけに行かないと判断したと思われるからです。
【覆そうと】向きを変える、逆にする、変質させることです。敵対者はガラテヤの人たちの信仰を変質させようと「意図している」のですが、ガラテヤの人たちは、彼らの「意図」に気づいていません。
【キリストの福音】福音の「内容それ自体」が、救い主「キリスト」であるという意味です。
8【わたしたち自身であるにせよ】パウロは直接に自分に敵対する相手を名指しすることを避けて、間接的に自分のこととして語っているのです。
【わたしたちがあなたがたに告げ知らせた】北ガラテヤ説に従うと、パウロは第二回伝道旅行の際に、ガラテヤ地方を訪れています(49年頃?使徒16の6)。この際にパウロが伝える福音をこの地方の諸集会は、「十字架に付けられたイエスを眼前に見るように」(ガラテヤ3章1節)して受け入れたのでしょう。パウロはさらに、第三回の伝道旅行でも再びガラテヤ地方を訪れています(52年? 使徒18章23節)。だからパウロはガラテヤの諸教会を二度訪れていることになります(ガラテヤ4章13節/4章20節)。ところがその後にユダヤ主義のユダヤ人キリスト教徒たちがガラテヤに来ることになったために混乱が生じたので、これを聞いてパウロはこの手紙の書いたことになります(54年?)。書かれた場所はコリントという説もありますが、エフェソというのが妥当でしょう(使徒19章21節以下)。パウロ書簡の順序からするとこの書簡は、第一テサロニケ人への手紙の後で書かれたことになります。しかし、ガラテヤ人への手紙がパウロ書簡全体の中では、比較的初期のものだと考えられています。
【呪われる】パウロと敵対者たちとの対立は、単なる意見の違いや解釈の違いではありません。問題は、どちらの伝える福音が、本当に神からの祝福を受けることができるか? ということだからです。「祝福」の反対は「呪い」ですから、パウロはこのような強い言葉で、ガラテヤの信徒たちに迫っているのです。
9【受けた】「伝えられた」ことを受け入れたことですが、同時にパウロ自身もこの福音を受けて、それを伝えたことを言うのです。
【反する福音】 特にここではユダヤ教の律法制度をイエス・キリストの福音と結びつけて、両方を受け入れさせようとすることです。パウロは、そのような両立が、福音を失うことになると警告しているのです。
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