イエスの原像:Q諸集会と『トマス福音書』
Qの人たちと洗礼者の会衆
Q2のテキストで、ある意味で最も重要な追加部分は、洗礼者ヨハネに関する部分であろう。ルカ福音書の3章1節〜9節と16節〜17節に当たる部分が、イエス様語録の冒頭に置かれている。さらにルカ福音書7章の1節〜35節までが(ただし11節〜17節を除く)Q2に含まれている。Q1では全く現われなかった洗礼者ヨハネに関する記事が、Q2になるとなぜこのように大きな部分を占めるのか。これもまだ解明されていない謎である。
洗礼者ヨハネは、イエスの先駆者であった。イエス自身も彼によって洗礼を受けた。しかも、洗礼者は、イエスがメシアであることを証しした。またイエスの最初の弟子たちは、洗礼者ヨハネの弟子たちであった。洗礼者がヘロデによって殉教した後に、イエスの本格的な伝道が開始された。これが、洗礼者ヨハネとイエスとの関係について四つの福音書が証ししていることの概要である。また、使徒言行録では、イエスの十字架刑の後に、洗礼者の会衆はキリスト教会に吸収されていったという印象を与える。
しかし、わたしたちは、洗礼者の扱い方が福音書によって少しずつ異なっているのに気がつく。マルコ福音書は、洗礼者ヨハネの伝道について簡単に述べ、イエスが彼によって洗礼を受けたと記している(1章4〜11節)。また、洗礼者の殉教の様子が語られている(6章14〜29節)。マタイ福音書では、洗礼者ヨハネはファリサイ派やサドカイ派を厳しく糾弾する(3章7〜9節)。ルカ福音書では(1章5節〜2章21節)、洗礼者の誕生予告とイエスの誕生予告、洗礼者の母エリザベトの賛歌とイエスの母マリアの賛歌、洗礼者の誕生に続くザカリアの賛歌とイエスの誕生に続く羊飼い・天使・シメオンの賛歌、のように両者の誕生物語が平行して進行しながら、旧約から新約への移行が語られる(例えばエリザベトは老女でマリアは若い処女である)。しかし、ルカは、イエスが洗礼者から洗礼を受けたことも、洗礼者の殉教についても語らない。ルカによれば、「神の国で最も小さな者でも、彼(洗礼者)よりは偉大」(7章28節)なのである。ヨハネ福音書では、洗礼者は自分がエリヤであることを否定する。ヨハネによれば、「あの方(イエス)は栄え、わたし(洗礼者)は衰えねばならない」(3章30節)。
洗礼者とクムラン宗団とのつながりを考えながら福音書のこのような証言を総合すると、クムラン宗団→洗礼者ヨハネ共同体→イエスの人たち→キリスト教会という系譜が浮かび上がってくる。この図式は以前から指摘されていて、大筋の流れとしては、今でも正しいとわたしは思っている。ただし、洗礼者とイエスとの関係についてはなお謎の部分が多い。例えばマックは、洗礼者が弟子たちからイエスのことを聞くまではイエスを知らなかったとして、洗礼者によるイエスの受洗を否定している〔Mack 155〕。これはマックが、イエスを犬儒派と結びつけて見ていることと無関係ではないであろう。さらに、洗礼者とイエスという個人の関係から離れて、それぞれの人物を始祖とする別個の「宗団」として見るならば、両者の生存中だけではなく、それ以後の宗団相互の関係をも含むことになる。その上、初期のキリスト教会には、クムラン宗団やエッセネ派の人たちもかかわっていると思われるから、問題はいっそう複雑になる。
Q2のこのテキストは、ルカ福音書では、洗礼者についてイエスが語る部分の終わりに出てくる。ルカは、洗礼者に関するイエスの証しの前に、イエスがやもめの息子を死人から生き返らせた話を置いて、「大預言者が我々の前に現われた」と人々に語らせている。また、引用したテキストの後には、罪深い女が、罪を赦された喜びのあまりイエスの足を香油で拭いた話が来る。ルカは、このように、洗礼者に関する記事の前後に、イエスが大預言者であることとイエスが罪を赦す話とを配置して、洗礼者とイエスを結びつけながらも二人を対照させようとしているのが分かる。
さて、引用したテキストでは、洗礼者は断食を行ない、「人の子」イエスは宴会を行なっている。洗礼者の断食は、ユダヤ教では「悔い改め」の行為を表わし、ここでは終末の裁きに備えよという洗礼者の呼びかけと一体になっていると解釈される。宴会は、これに対して、神の恵みが今すでに到来している喜びを表わし、しかも、徴税人や罪人をその仲間に入れている。その上で、このテキストは、イエスと洗礼者とを結びつけて、神が立てたこの二人を「今の時代」、すなわち民全体と対立させているのである〔レングストルフ 210〕。ここでは、洗礼者と人の子は、一方では、断食と宴会、悔い改めと喜び、終末への備え(未来)と神の訪れの到来(現在)によって対照させられているのに、他方では、二人は共通の使命を帯びて「今の時代」と対立している。
ルカ福音書には、洗礼者(の弟子たち)とイエス(の弟子たち)とを対照させているもう一つの記事がある(5章33〜35節)。ただしここはQ2のテキストにはない。洗礼者の弟子たちは、今度はファリサイ派の弟子たちと結びついて、イエスの弟子たちと対照されている。またここでは、洗礼者の会衆は、イエスの弟子たちからは独立した堅固な交わりを形成しているように見える〔レングストルフ 167〕。
ルカのこの部分では、「婚礼の日」とはメシアの到来の時を意味し、それは「喜びの日」である。洗礼者の会衆とファリサイ派は、その時が来るまで「断食と祈り」を守っている。ところが、イエスの人たちは、徴税人や罪人をわざわざ招いて宴会の喜びを祝っているのである(ルカは、ここで、すぐ前のレビによる宴会の場面を踏まえている)。そこには人の子が来たのは、「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため」だとある。いったい「悔い改め」とは、終末に備えるためなのか、それとも終末の到来を祝うためなのか? この疑問が、上のルカの記事でイエスとその弟子たちに向けられているのである。ここでも、悔い改めと断食によって終末を待つ洗礼者の会衆と罪人をも赦す神の恵みの訪れを喜ぶイエスの人たちとが対照されることになる。なお、ルカは、この断食問答をぶどう酒と革袋のたとえと結びつけ、その後に、イエスの弟子たちが安息日に麦畑で穂を摘んだ記事を続けている。
このように、洗礼者の会衆とイエスの人たちは、互いに対照されながら、他方では結びつけられているのである。しかも、洗礼者とその会衆だけについて言えば、洗礼者は、イエスの人たちと共通する立場にいるかと思うと、一方ではファリサイ派と結びついて現われる。だから、洗礼者の会衆に関する限り、福音書では、その立場が分裂している印象を読者に与える。わたしたちは、このようなねじれた描かれ方の中に、洗礼者の会衆とイエスの人たちとの結びつきと同時に、相互の対立をも推定しないわけにはいかない。
クムラン宗団において律法の解釈がどのように行なわれていたかについて、わたしたちはすで見てきた。クムラン宗団の律法解釈は、預言的な霊知を拠り所にしており、律法を霊的な内面性においてとらえようとする傾向があった。とりわけ、彼らの律法解釈の基本には、終末の裁きに向けて完全な「きよめ」に到達しようとする強い意志があった。このような釈義は、ローマ帝国との終末の戦闘を予見しつつ、現実に生起する社会・政治情勢をば、この終末に向かう出来事としてとらえ、聖書、とりわけ預言書との関連においてそれらの出来事を解釈しようとするものであった。したがってそれは、秘義的な律法解釈とも言うべきもので、字義的で実際的なファリサイ派の律法主義と対立するものであった。クムラン宗団のこの律法解釈は、これに伴うもう一つの特徴、すなわち聖と俗との厳しい二元論、あるいは二分法となって表われた。彼らは、律法によって心身を「きよめ」ることで、俗界から完全に分離した「完全な道」を目標としたのである。
洗礼者ヨハネは、このクムランの伝統を受け継ぎつつも、迫り来る終末の裁きに備えて、クムランの人たちが俗として忌避したまさにその人たちに悔い改めを説いた。この意味で、彼は、クムランの律法主義による二分法を克服していたと言える。社会的身分を問わず、すべての人に悔い改めと水の洗礼を呼びかけることによって、迫ってくる終末の裁きに備える。これが自分の使命であると洗礼者は自覚していたようである。ただし、エルサレムの神殿宗教への厳しい批判にもかかわらず、彼の立場は、基本的にはユダヤ教の枠を踏み越えるものではなかった。その意味で、洗礼者は、クムラン宗団と同じ路線上にあった。彼らの目指していたのは、ユダヤ教の改革ないしは覚醒であって、これの克服ではなかったからである。
Qの人たちの場合は、聖・俗二分法の克服と悔い改めによるきよめの信仰において、基本的には洗礼者の会衆と対立するところはなかった。洗礼者の会衆がクムラン宗団から引き継いでいたであろう律法の内面的・霊的な解釈でさえ、Qの人たちには受け入れ難いものではなかった。さらに、パレスチナ全土のイスラエルの民に向けた洗礼者の呼びかけも、Qの人たちの方向と矛盾するものではなかった。したがって、洗礼者とその人たちが、これらの様々な特質において、イエスの人たちへの先駆的な役割を担ったという福音書の証言は、その限りにおいて間違ってはいない。
Qの人たちと洗礼者の会衆とに異なる点があるとすれば、それは、終末の裁きに関するものであった。洗礼者が悔い改めの洗礼を呼びかけたのは、終末の到来とメシアの聖霊の火による完全なきよめを期待していたからである。ところが、Qの人たちの視座から見れば、神の国は、イエスというひとりの人格の言葉、振舞いに集約されてくるのである。さらに、メシアとしてのイエスへの信仰が自覚されるにつれて、神の国は「イエスの王国」としてすでに到来しているとの確信に至ったのである。おそらく、この点が、洗礼者の会衆をしてQの人たちの信仰を受け入れ難いものにしていたと考えられる。洗礼者の会衆とキリスト教会との間のこの溝は、後にいたるまでも尾を引いたと推定される。同時に、この問題は、イエスの人たちとの接触の過程で、洗礼者の会衆が分裂する要因にもなっていったと見ることができる。
Qの人たちと洗礼者の会衆との今一つの相違は、Qの人たちが、洗礼者の会衆よりもはるかに汎パレスチナ的であり、その性格においていっそうヘレニズム的であったことであろう。なぜなら、洗礼者ヨハネの運動は、基本的にはユダヤ教の伝統の枠を超えるものではなかったからである。彼の呼びかけにはギリシア人を含む異邦人は含まれていなかった。洗礼者ヨハネの運動は、その意味で、ファリサイ派と拮抗するものではあったが、その律法遵守の基本的な精神においては、ファリサイ派と根底から異質なものだとは言えない。
イエスの人たちは、この点でファリサイ派とは決定的に異質であった。ユダヤ教的な正統性は、律法とこれの遵守によるきよめと、その結果生じる聖なる民と俗なる民との「分離」(「ファリサイ」の語源)を基本としていた。したがって、クムラン宗団とファリサイ派では、律法の解釈や方法において違いはあっても、律法→きよめ→分離こそ「完全」に至る道であるとする基本線では一致していたと見ることができる。
これはQ1のテキストである。マタイのほうには、この後に、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」とある。マタイの人たちは、Qの人たちに最も近いとされているから、ここで言う「完全な者」は、Qの人たちの伝承を引き継いでいると考えてもよいであろう。しかしながら、このテキストは、律法から「きよめ」に至る「完全の道」について、その従来の基本理念を根底からくつがえす内容を秘めていることに気がつく。クムランでは、「完全な道」〔『宗規要覧』III 9〕とは、罪人や悪人から完全に分離することを意味している。一方、イエスの人たちでは、「完全」とは、善い者にも悪い者にも公正に愛を注ぐことなのである。ここには律法に基づく愛敵と憎敵の二分法は見られない。ここに見るのは敵を赦す愛であり、それは敵からの分離ではなく敵の包含なのである。イエスにあっては、「悔い改め」とは、それによって俗なる者から分離するための一歩ではなく、徴税人や罪人をも赦して包含するための一歩であった。わたしたちはここに、律法によって分離にいたる「完全」と赦しによって包含にいたる「完全」とが鋭く対立しているのを見ることができる。
洗礼者とファリサイ派の弟子たちは断食をするのに、イエスの弟子たちはなぜ宴会をするのかという非難は、断食と宴会という象徴的な行為によって、双方の本質的な違いをはっきりと浮き彫りにしている。終末は、神の国としてすでに到来しているというQの人たちの信仰は、洗礼者の会衆とファリサイ派の多くの人にはとうてい受け入れがたいものと映ったに違いない。
しかし、このような違いにもかかわらず、洗礼者の会衆の中からイエスの人たちの運動に加わる人たちがいたと推定される。特に、ユダヤ戦争の開始によって引き起こされた民族的な危機意識は、Qの人たちの信仰路線への反感と同時にこの運動への共感をも生み出したと考えられる。このような共感は、ファリサイ派とQの人たちとの違いによって、Qの人たちの抱く汎パレスチナ主義とヘレニズム的傾向が鮮明になるにつれて、洗礼者ヨハネ共同体の人たちを始め、Qの人たちに賛同する人たちの共感を呼んだと推定できる。ヨハネ福音書によれば、イエスの最初の弟子たちは洗礼者ヨハネの弟子たちであった。だが、この間の具体的な状況についてわたしたちは知ることができない。
洗礼者の会衆からQの人たちへの流入は、Qの人たち自体にも影響を与えずにはおかなかった。わたしたちは、この影響を、Q2の段階で顕著になるQの人たちの終末的傾向、特に黙示・預言的終末観に読みとることができる。これは、イエスの人たちの初期の段階には見られなかった傾向だからである。しかしながら、ここでも、わたしたちは、洗礼者ヨハネ共同体とQの人たちとの終末観の違いに注意しなければならないだろう。
洗礼者の会衆の終末観は、そのメシア待望の信仰においても、ファリサイ派のそれと本質において異質なものではなかったであろう。しかし、Qの人たちの終末観は、このどちらとも本質的に異なっていた。それは、Qの人たちが、終末の到来をイエスというひとりの人格に結びつけていたからである。洗礼者の会衆もファリサイ派も、終末の到来とこれに伴う神の裁きを恐れつつ待ち望んだ。しかし、彼らは、その裁き主がどのような存在なのか、その具体像を思い描くことはできなかった。ところが、Qの人たちは、自分たちの終末が成就する時には、だれが世界の裁き主であるかを明確に知っていたのである。洗礼者がイエスに向かって、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(ルカ福音書7章20節)と問いかけたとあるのは、まさに洗礼者の会衆がイエスの人たちに向けた問いと重なっている。そして、これに対する答えもまた、イエスの人たちからの応答であったと見るべきであろう。
洗礼者の会衆が、ファリサイ派とイエスの人たちとの狭間にあって、ユダヤ戦争を挟む危機にどのように対処していったかは不明である。ただ、少なからぬ人たちが、上にあげたイエスの人たちの返事に応じてこれに参加したことは推定できよう。このような過程を経て、Qの人たちが洗礼者ヨハネ共同体から引き継いだ黙示的終末観が、これ以後のキリスト教に及ぼした影響は計り知れないほど大きい。その影響は、はるか後のヨハネ黙示録(22章20節)の末尾に来る「アーメン、主イエスよ、来てください。」という一句にまで響いていると言えよう。
Q諸集会とイエスの原像
先に述べたように、イエス様語録のテキストは、現段階ではイエスの言葉伝承を最も正確に伝えてくれている。しかし、わたしたちがこのテキストをそのままイエスの実像に当てはめて判断するのはためらわれる。なぜなら、イエス様語録の段階では、すでにQの人たちとしての共同体が形成されており、文書として編集されたイエス様語録は、この人たちの生き方、すなわちその「生活の視座」を反映していると考えられるからである。この意味で、マックは、イエス様語録をあまりにもイエスの実像に近づけて見すぎているようにわたしには思われる。
それでは、イエスの本当の姿とはどのようなものだったのか。わたしたちは、ここで、イエス様語録を手がかりにして、できる限りイエスの原像に迫りたいと思う。イエス様語録を生み出した人々は、Q1の段階からすでにある程度まとまった共同体として存在していた。マックは、その最初期の段階がどのようなものであったかを推定するのは難しいとしながらも、社会基盤が揺れ動いている中で、家族、部族、既成の会堂制度などにとらわれない個人的な性格の強い人たちによる「交わり」が散在していたことを示唆している〔Mack 67-68〕。そこでは、月に一度ほどの例会と共同の食事が持たれ、生活や社会の問題などが話し合われたと考えられる。これが、時期的にイエスの生前に最も近い、いわば生前のイエスの教えに直結するグループの姿であったろうとマックは推定する。これらの諸グループを巡回の伝道者が訪れて教えるという方法がとられていたようである。
このような、言わばQの人たち以前の段階について、荒井献氏が一つの考察を試みておられる。荒井氏は、このグループを「Q教団」〔荒井『新約聖書とグノーシス』 67〕と区別して「Q集団」と呼んでおられるが〔荒井『新約聖書とグノーシス』 68〕、わたしは、これらの集会を「Qの人たち」と区別して「Q諸集会」と呼ぶことにしたい。現在の聖書学の段階では、Q諸集会が具体的にどのような状態であったかを立証することは難しい。しかし、荒井氏は、100匹の羊のたとえを手がかりにして、Q諸集会とイエスの実像についての考察を試みておられるので、これを紹介しながら、イエスの原像を洞察してみたいと思う。
これはQ2のテキストである。ルカは、イエスのこのたとえ話への導入として、「徴税人や罪人が、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(15章1〜2節)という序文をつけている。さらにこの話しの結びとしてこう加えてある、「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(15章7節)。これが、このたとえ話に対してルカが作った枠組である。
ところで、ルカのこの枠組みについては解釈が分かれている。荒井氏は、「悔い改める罪人」とは「徴税人や罪人」のことであり、「悔い改める必要のない人」とは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」(18章9節)、すなわちファリサイ派と律法学者を指すと解釈する〔荒井『新約聖書とグノーシス』 60-61〕。この解釈だと、ルカは、「悔い改め」の必要を強調しつつ、イエスの父に対して「真実の悔い改め」をしない99人よりも悔い改める一人のほうがずっと貴重であることを言おうとしていることになり、99匹「以上に」とはまさにこのことを指していることになる。
ところが、例えばレングストルフは、「悔い改める必要のない99人の正しい人」とは、字義どおりに「彼らについても天に喜びがあることをも、イエスは少しも皮肉を交えないで、全く認めておられる」〔レングストルフ 388〕と解釈する。その上で、失われた一人について、彼らも共に喜ぶべきことをルカは教えたいのだと解する。この解釈だと、99匹「以上に」1匹を喜ぶというのは、いわば、救われた喜びを共に分かち合うことを表現するためのルカの強調表現であることになる。ちなみに、『新共同訳 新約聖書注解T』(344)は、両説を紹介して結論を出していない。
マタイ福音書では、このたとえの締めくくりとして、「そのように、これら小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(18章14節)とあって、迷い出た1人が、罪を犯した信徒であることが分かるように配慮されている。また、マタイの「むしろ99匹以上に」という言葉は、Q2のテキストをルカよりも忠実に受け継いでいると思われる。マタイの教会は、Qの人たちと最も近い関係にあったと見ることができる。にもかかわらずか、それゆえにか、ここでマタイは、迷い出なかった教会の人たちに、迷い出た一人の罪人が悔い改めたならば、彼を喜んで受け入れてやりなさいと教えているのである。ここでは、教会の教えから迷い出た一人の「罪人」を救うという牧会的な意図がはっきりとうかがえる。彼の教会は、ユダヤ人キリスト教徒が主体であり、「キリスト教的律法主義」とでも呼ぶべき性格が強く、「異邦人」をキリストの弟子にすることをその使命としていた。
ルカは「悔い改め」を強調する。しかも、「ファリサイ派・律法学者」という表現は、ルカの場合はもはや歴史的な実体を伴うものではなく、「偽善者」を表わすタイプとして表象化して用いられているから、荒井氏の解釈のほうがより妥当であるようにわたしには思われる。
しかしながら、わたしがここで問題としたいのは、ルカのテキストがこのような二重の解釈を生むようになったのはいったいなぜなのか? その背景に何が潜んでいるのかが問われなければならない、ということである。荒井氏の指摘するように、ルカのテキストでは、取りようによっては、「義人を自認するファリサイ派・律法学者たちは、荒れ野に放り出しておいて、それよりもむしろ真に悔い改める一人を探し求める」という解釈が成り立つ〔荒井『新約聖書とグノーシス』 69〕。この解釈は、99人の「義人たち」に向けられた鋭い批判を含むと同時に、共同体から完全に見捨てられた者に向けてイエスの関心が集中していることを示している。荒井氏は、このようなルカのテキストの背後に、イエスの実像としての「振舞い」方とこれに近いQ諸集会のライフ・スタイルを洞察している〔荒井『新約聖書とグノーシス』 74-76〕。
『トマス福音書』
この問題に関しては、マタイとルカの他に、もう一つ『トマス福音書』がある。これの遺訓107に次のようにある〔ブルース 220-21〕。
『トマス福音書』の原本はシリア語で書かれていたと推定されている。ところが、これのコプト語訳がナグ・ハマディ写本(1945年に発見)の中から見つかった(1952年発表?)。この福音書の成立は、マックによれば紀元75〜100年と考えられ〔Mack 181〕、そのテキストの60%はQ1段階から出ていて、福音書としては最初期のものを含むと考えることができる。マックは、『トマス福音書』がキリスト教成立の原初段階での視座を含んでいると見て、この福音書の持つ意味を重視している〔Mack 181-83〕。しかし、この福音書の最初期の成立を1世紀中頃と見る説もあり〔Robinson 125〕、逆に荒井氏は、これの最終的な編集を遅くとも2世紀後半だとして、かなりの幅を持たせている〔荒井『トマスによる福音書』 29〕。『トマス福音書』は、これを生み出した共同体がいたと思われるシリアの北東部エデッサ地方で、ユダヤ人キリスト教徒によって編集されたと考えられている。
『トマス福音書』は、マルコ福音書ともまたイエス様語録とも異なる傾向を示している。このことは、この福音書を生み出した共同体が、Qの人たちともマルコの所属する共同体とも異なって、非常にはっきりした個性を持っていたことを示唆している。このためこの福音書は、2世紀後半頃にいわゆるグノーシス的傾向を持つ異端として排除され正典に入れられることがなかった。しかし、この福音書に含まれる伝承は共観福音書の成立をもたらした伝承と並ぶもので、イエス様語録と同じく伝承の最古層を含んでいると見られている〔荒井『トマスによる福音書』75〕。したがって、これの編集がグノーシス的な傾向を強く意識していたからといって、そこに含まれる伝承それ自体は必ずしもグノーシス的とは言えない。荒井氏も認めるとおり、それらはグノーシス的にもユダヤ人キリスト教的にも正統キリスト教的にもユダヤ教的にも解釈が可能である〔荒井『トマスによる福音書』50〕。しかもその内容は、Q諸集会時代に巡回していた霊能者たちの信仰をうかがわせる(例えば遺訓97、98)。
『トマス福音書』では、100匹の羊のたとえは、先にルカのテキストの背後に読みとった視点、つまり99匹よりも1匹を、という視点がはっきりと打ち出されているのが分かる。迷い出たのが「最も大きな羊」であるという表現は、このように解釈されるべきであろう。ただし、トマスのこのテキストの背後に、真の霊的な知恵を所有する一人のほうが霊的に無知な99人よりも神の前に尊いというグノーシス的な知的個人主義を読みとることもできる。
ルカの(メタ・)テキストと通じる『トマス福音書』のこの例から見て、またそれが生前のイエスに直結するグループに最も近い視座を含んでいることを考え合わせると、わたしたちは、ここに史的イエスの実像をある程度洞察することができると思う。それは、弱者に向けられた深い愛の立場から当時の宗教・社会体制に対して鋭い批判を向けて語りかける「霊知の賢者」である。ただし、このようなイエスの実像への試みは、福音書全体が証言するイエス像とはやや異なっている。ひとつには、ここで導き出されるイエス像が、主としてイエスの言葉伝承を伝えるテキストに基づいているという事情がある。したがって、イエスの行なった「行為それ自体」は、直接イエス様語録や『トマス福音書』からは浮かび上がってこない。だが、イエスの全体像を描き出すことが、わたしの論旨ではないから、この問題をこれ以上追求することは控えたい。
ただ、ここでどうしても指摘しておきたいのは、今述べたイエスの史的実像それ自体だけではなく、これの消息を伝える『トマス福音書』が、いわゆる「グノーシス的」な特徴を帯びているというまさにこの点である。「グノーシス」は、必ずしもユダヤ教の内部から出た傾向を指す言葉ではなく、むしろ東方の影響を受けて東地中海一帯に広まっていた思想を指している。この思想傾向が、2世紀以後にキリスト教と結んで独特の神話的な宇宙観を形成したために、キリスト教会から異端とされ、これに伴って「グノーシス」は、正統キリスト教と対立する思想を表わす用語として定着した。むしろ「正統」という呼び方それ自体が、「グノーシス」と対抗する意味を込めて造られたと言ってもよい。
したがって、『トマス福音書』やヨハネ福音書が編集された段階では、グノーシスか非グノーシスか、正統か異端かという分類ないし基準はあまり意味を持たないと考えるべきであろう。キリスト教がその最初期からどのような霊的な過程を経て成立したのかを問おうする場合には、このような詮索は逆に問題を見誤らせる危険を生じさせるからである。『トマス福音書』を成立させた人たちを、この段階で「グノーシス的な」ユダヤ人キリスト教徒と呼ぶときに、いったいそれはなにを指しているのか?もしも、2世紀後半以後の「正統」「異端」論争を、このような初期段階に投影させて解釈するならば、大きな誤りを犯すことになろう。『トマス福音書』の原伝承やヨハネ福音書を論じる際に、わたしがあえて「グノーシス」という言葉を避けて、ユダヤ教ないしはユダヤ人キリスト教徒の霊知を「知恵」と呼ぶのは、このような配慮からである。
確かに『トマス福音書』は、正典とされる四つの福音書とはかなり異なっている。この福音書をマルコ福音書と比較すると、まず全体の構成は遺訓集の形を取り、ややイエス様語録に似ていて、そこにはマルコに見られる歴史的な枠組みは存在しない。しかし、違いは、構成よりもむしろ内容のほうにある。この福音書では、ペトロよりもマグダラのマリアのほうがイエスの教えに近い。ペトロがマリアの存在にいらだちを感じると、イエスはペトロの誤りを指摘するのである〔遺訓114)。またイエスは、ペトロやマタイよりもむしろトマスに自分の秘義を教える〔遺訓13)。遺訓13では、イエスが「わたしは誰に似ているか」と尋ねると、これに対してマタイが「あなたは賢者、哲学者のようです」と答えているが、ここには、イエスの実際の風貌が伝えられているのかもし