イエス様の霊性とその出来事
東京集会講話:2008年10月12日 アルカディア私学会館
■マスター・キーの信仰
前回はこの席で、「これありて福音あり、これなくば福音なし」と申し上げて、コイノニア会の信仰をホテルのマスター・キーにたとえました。現在世界には、「キリスト教」と名のつく大きなホテルが三つあります。プロテスタント・ホテルとカトリック・ホテルと東方教会ホテルです。それぞれのホテルには、大小様々の多くの部屋があって、どの部屋にも、それぞれに教派や宗団が入っています。どこかの部屋に入ろうとすれば、当然その部屋だけの鍵を使わなければ入れてもらえません。ところがホテルには、マスター・キーというのがあって、これを使えば、どの部屋でも自由に入ることができます。わたしは、コイノニア会の信仰は、このマスター・キーのようなものだと言いました。最小限、これだけあればキリスト教の福音として通用するからです。ただし、どこかの部屋に入ったら、その部屋のしきたりや形式に従わなければなりません。
コイノニア会の信仰は、カトリックでも十分通用します。この間、今のローマ法王ベデディクト16世が最近書いた『ナザレのイエス』を読みました。驚いたことに、現在の法王が信じている「ナザレのイエス様」は、わたしの信じているイエス様と全くと言っていいほど変わらないのです。ただ、法王(本名ヨーゼフ・ラッツィンガー)は、「教会と伝統」"the Church and tradition"ということを言います。「教会とその伝統」は、カトリック教会では聖書と並ぶ重要な意味を持つ言葉で、わたし流に言い換えると、「交わり(コイノニア)と御霊」ということでしょう。これ以外は、法王の信仰は、わたしの信仰とほとんど変わりません。法王は、ナザレのイエス様の出来事を神様からの「啓示の出来事」だと見ているからです。懐疑的なプロテスタントの神学者の書くものよりも、彼のほうがずっとわたしに近いのを知って、とても不思議な想いをしました。
■人間の出来事として
わたしがよく口にすることですが、キリスト教は、ナザレのイエス様という「出来事」を源にする宗教です。出来事ですから、実際に歴史上で起こったことです。出来事は、理論ではありませんから、説明しようとしてもなかなかできないのです。しかも、この出来事は普通の歴史的な出来事ではありません。神様からの「啓示の出来事」なのです。
普通の歴史的な出来事であれば、客観的に外から見て、それが起こった時代や状況を調べて、そこから出来事の性質を判断したり、分析したりすることもできます。このようにして、出来事とその意味を現在のわたしたちにも分かるように説明してくれるのが、歴史学の仕事です。NHKで、「その時歴史は動いた」という番組があって、わたしも妻と二人でよくこの番組を見るのですが、歴史上の様々な出来事が、現在から見ると「実はこうだった」とその真相が初めて分かるおもしろい番組です。実は、現代の聖書学は、こういう歴史学的な方法を用いて、聖書が証しするナザレのイエス様の出来事を現在の人たちに分かるように説明することを意図しています。
学問的に説明することは、言い換えると、客観的に観ることです。ですから、ちょうど数学や自然科学のように、だれが聞いても理解できる「事実」でなければなりません。このように、だれが聞いても納得できる歴史的で客観的な方法が可能であるためには、それが「人間の」出来事として扱われることがどうしても必要です。そうであればこそ、わたしたちも、人間として合理的に理解できるからです。例えば、「イエスは神の御子である」と言っても、一般には通用しません。しかし、「イエスは神の御子である」と「信じている人たちがいます」、こう言えば、だれでも納得できます。なぜなら、これは目に見える事実だからです。このように、ナザレのイエス様を歴史的、客観的な出来事として人々に説明するためには、イエス様を人類共通の一人の「人間」として扱い、その出来事を解釈しなければなりません。こういう立場からの説明なら、クリスチャンでなくても、仏教徒でも無神論者でも、だれでも<信仰抜きで>納得できます。社会科の教科書に出ている「イエス」がこれですね。現在の日本の聖書学は、おおざっぱに言えば、こういう学問的な方法を用いて、だれにでも分かるようにナザレのイエスを提示しようとしているのです。
■啓示の出来事として
ところがここで、困ったことが起こります。それは、先ほど言いましたように、ナザレのイエス様の出来事は、「啓示の」出来事だからです。「啓示」というのは、神様が人間に顕われて、人間の知性や理解では及ばない知恵/智慧や悟り、あるいはヴィジョンを与えたり見せたりなさることです。実はこれが、福音書を初めとして、聖書がわたしたちに伝えようとしているイエス・キリストの「出来事」なのです。福音書は、ナザレのイエス様の出来事を神様からの「啓示」として伝えているのです。「啓示」ですから、これは現在の歴史学的な方法論では説明も理解もできません。そもそも、人間の理解能力を超えた世界の出来事だからです。
だからこれは、だれでもが納得できるような客観的で目に見える「事実」ではありません。この出来事は、その啓示に与(あずか)る人たちにだけ「啓(ひら)かれる」からです。「啓示」は神から来るものですが、「出来事」は現実に起こったことです。このふたつ、「啓示」と「出来事」は、だから簡単には結びつかないのです。人間の出来事なら、だれにでも理解できる仕方で説明できます。しかし、「啓示」はだれでもが分かるもの、納得できるものではありません。人間の出来事なら、外から客観的に観て、その意味がある程度判断できます。しかし啓示は、これを受けた人、あるはこれを分かち合う人たち以外に、外からは全く理解できないのです。これは、「霊的な」出来事だからです。同じように見える出来事でも、クリスチャンはそれが神様のお働きだと分かりますが、人の目からはそのことは隠されているのですね。現在この国で出版されている聖書解釈は、ほとんどがイエス様のことを「人間の出来事」として見る傾向があります。しかし、聖書を啓示の出来事として見るならば、学問的な方法では、どうにも説明できません。そもそも、説明できることなら「啓示」ではないからです。これは信仰によってのみ「知る/悟る」ことができるからです。
■霊的な出来事として
わたしが「ナザレのイエス様の出来事」というのは、こういう啓示の出来事として見ている言い方です。啓示の出来事としてイエス様を見る場合には、当然、イエス様を「ただの」人間として見るのではありません。福音書には、イエス様が背が高かったか低かったか、太っていたか痩せていたかなど、イエス様の外見的なことは何一つ出てきません。歴史的、人間的に研究する場合に一番知りたいことが福音書には何も書かれていないのです。これは決して偶然ではありません。福音書が伝えるのは、「イエス様の霊性の出来事」だからです。福音書は、イエス様を神から遣わされた神の御子として描いているからです。
また、それは出来事ですから、アマテラスやスサノオや、ジュピターやヴィーナスのような架空の神話的な人物のことではありません。福音書は、イエス様について、疲れを覚えられたとか、憤られたとか、嘆かれたなど、人間としてのお姿も描いています。しかし、ただの人間イエスなら、「啓示の出来事」ではありませんね。だから、その人間イエスの内面が大事なのです。そこには、人には理解できない神からの啓示が宿っていたからです。これがわたしの言う「イエス様の霊性」です。
でも、イエス様の霊性は、一般の人々は言うまでなく、その弟子たちでさえ、なかなか分かりませんでした。イエス様の在世中には、最後まで、はっきりとは分からなかった。こう言ってもいいと思います。イエス様の霊性を通して顕わされた神の御栄光は、癒しやその他の奇跡的なしるしをもたらしましたが、それらの「しるし」の本当の意味は、イエス様の在世当時はだれにも正しく理解されませんでした。十字架の出来事の後になって、イエス様が復活された時に初めて、イエス様の霊性が、どのようなものであったのかが、弟子たちに啓示されたのです。
復活と昇天、これに続く聖霊の降臨/授与を通じて、弟子たちは初めて、イエス様がどのようなお方であったのか、その霊性を知ることができました。ナザレのイエス様が復活されて、今もわたしたち一人一人と共に御臨在くださる。これがわたしの伝える福音の核心です。この福音は、歴史的で合理主義的な聖書解釈からは生まれてきません。イエス様の出来事を啓示の出来事として、イエス様の霊性とその意義を伝える聖書の証言を受け入れて、これを信じて祈るところに御臨在が顕われるからです。そこに「インマヌエル」(神わたしたちと共にいます)という出来事が起こるからです。これさえあれば、それ以外のことは、それぞれの教団や教会で、自由におやりになればいいのです。
■啓示の意味
歴史的、客観的には説明できないけれども、信仰によって知ることができる啓示、皆さんの中には、こう言うと、「客観」に対する「主観」を思い出して、啓示とは主観的なこと、はっきり言えば、客観的には根拠のない「思いこみ」だと誤解する方がいるかもしれません。ところが「啓示」は、人間の主観的な思いこみとは全く違うのです。なぜなら、
(1)啓示は、主観と客観との両方を含むからです。イスラエルの預言者たちは、啓示によって、普通の人には分からない物事の真相を見抜くことができました。また、通常では予測できない未来をも見通すことができました。イザヤは、彼の時代のユダ王国のだれよりも冷静に、王国が置かれていた政治的、軍事的な状況を見抜きました。だから彼は、ユダの王に国が滅びると警告したのです。主観と客観とが一つになったところに、祈りが生まれます。単なる主観的な思いこみからは、祈りは実現しません。祈りが現実になるのは、主客一如(主観と客観とがひとつになっている)の出来事として成就するからです。
(2)啓示は、その人の私的な思いこみではなく、共同体的な性質を持っています。だから祈りによって与えられる啓示は、単なる個人の「願い事」ではありません。その人を通じて、その人の周囲の人たちにも影響する問題や出来事にかかわるからです。だから、啓示を受けた人は、それを自分のこととしてだけではなく、みんなのこととして、語り伝えるのです。
■啓示の危険性
では逆に、啓示の危険性についてもお話ししましょう。啓示が、その人だけに示される場合には、これを外から見ると、はたしてそれがほんとうに神様から来た啓示なのかどうかがはっきりしません。ここに偽預言者の出る危険が潜んでいます。自分勝手な思いこみや、感情から出たことを「啓示」だと言う場合があるのです。わたしは、啓示を受けたと言って、奥さんを捨てて別の女性と出ていった伝道者のことを聞いたことがあります。自分に示されていることが、はたしてほんとうに神の御霊によるのか、それとも自分の思いこみから来るのか? これを見分けるためには祈りと信仰生活の体験が必要です。では、どうすればいいのでしょうか?
(1)先ず「イエス様のみ名によって」祈ることです。そこにイエス様の御霊が働きます。御霊はイエス様を啓示します。御霊は、父なる神のお働きによって祈る人に与えられるからです。祈ったならば、それが実現するかどうかを「自分のことで」確かめてください。日常の小さなことでいいのです。自分のことなら、はたしてその通りになったかどうか、自分で確かめられます。また、たとえ間違ったとしても、人の迷惑にはなりません。だから、自分の小事を大事にして祈ってください。
(2)辛いこと、苦しいことは、祈りによって乗り越えられます。その時こそ、自分のうちに潜む弱点や罪やさまざまな欲望が、御霊によってはっきりと示されますから、これから逃げないで、まっすぐ御霊にある祈りによって立ち向かってください。自力ではなく、イエス様の御霊に導かれるのです。そこから新たな自己発見と自己変容が始まります。主様の御前に弱くなることが強くなる秘訣です。
(3)不安や恐れや憎しみなどは、御霊から出たものではありません。啓示を受けたと言いながら、憎しみや恐れをもたらす霊は、神の御霊の働きではありませんから、そういう人の言うことに従ってはいけません。<愛と喜びと平安>、この三つが、御霊にある啓示の最も大事な基準であり特長です。あなたが人を愛するなら、あなたの受けている啓示は神からのものです。「神は愛」だからです。「
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は死に留まっています」(第一ヨハネの手紙3章14節)。
(4)たとえば病気の癒しの場合に、祈りだけでなく適切な医療が必要です。金融ビジネスを祈りだけで行なうことはできません。できるだけ正しい情報とこれを分析する能力が必要です。これらに併せて、御霊にある判断が大事です。同じように、祈りだけでは神からの啓示を正しく知ることができません。聖書のお言葉を学び、そこで語られる出来事を歴史的にも正しく読み解く心構えが必要です。これに基づいて祈りを通して働く御霊の導きに正しく従うことができるからです。学問的な聖書研究は、このためにあるのです。
■御霊の御臨在
だから、御霊の御臨在は、聖書が証しするナザレのイエス様からのみ来ることをしっかりと理解してください。神話的な「カミ」や、人間的なイエス像や、現実離れした天界のキリストや、空想的な霊界の啓示など、そのようなものから、地上を歩まれたナザレのイエス様の御霊の御臨在は働きません。イエス様の十字架の死と御復活、そこから降るイエス様の御霊、このイエス様の御霊の御臨在こそ、わたしたちと共に働いてくださるのです。御霊の働きの実は愛です。主客一如(主観と客観が一つになった姿)の祈りです。信行一如(信仰と行ないが一つになった姿)の愛です。どうかこのことを悟ってください。
戻る