名古屋集会講話
2006年7月16日 名古屋サミットホテルで

ガラテヤ3章
3あなたがたは、それほど悟りが鈍いのか? 
霊によって始まったのに、今肉によって仕上がるのか。
4あれほどの体験をしたのは、無駄だったのか? 
もしもそれを無駄と言うのなら。
ガラテヤ5章
1このような自由へと、キリストはわたしたちを自由にしてくださった。
それだから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛をかけられないようにしなさい。
ローマ14章
11キリストが死に、そして生きたのは、
死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
(1)もったいないです
  今日は、わずか2〜3人ですが、全く思いがけず、こうしてお集まりができて、ほんとうに嬉しいです。この場所は、あまり立派とは言えませんが、ここを選んだ理由はふたつ、周囲のどのホテルの会議室よりも安いこと、そしてどのホテルよりも駅に近いことです。でも、どうしてわずか2〜3人のために、往復の旅費と会議室の使用料2万2千円をかけて、こういう集会をするのだろうと不思議に思うかもしれません。これから名古屋で、大勢の人を集めて集会をやるつもりだろう。こう思っておられるかもしれません。でもそれは違います。
  聞くところでは、ここにおられる方々は、もう何年もイエス様を信じておられる。その上に、信仰の経験も聖霊の体験も持っておられます。そのような方が、この交わりへお出でくださったのは、どういうわけでしょうか? 現在の教会のあり方に疑問を抱いておられる。あるいは信仰的に自分の居場所が分からない。自分の信仰を活かす場所が与えられていない。このような気持ちを抱いておられるからではないかと思うのです。実は、あなたがたのような方、すなわち信仰歴も長く霊的な体験もありながら、「行き場のない」キリスト者の方々が結構おられるのです。もったいないと思いますよ。現在この国で、クリスチャンと呼ばれる人は、全体の1%にも満たないほどです。その中で、何年も信仰生活を送ってきた人は、さらに少ないです。そのわずかの人の中で、イエス様の聖霊体験を受けた人は、ごくごく少数なのです。あなたがたはこの意味で貴重な方々です。そんな人たちが、自分の居場所が分からないと言って、せっかく与えられたものをほんとうに活かすことができない。これほどもったいないことはありません。これが、わたしがここにいる理由です。
  だから、ここに来たのは、信者を集めて、教会堂を建てて、自分の教会を作るためではありません。イエス様を信じる人の数を増やすのも大事です。けれども、現在の日本では、問題はイエス様を信じるかどうかではないのです。少なくとも、これと同じくらいに、信じた「後が」問題なのです。今日ここにお出でになって、自分はイエス様の証し人になろう。たとえひとりでも、こう決心してくだされば、わたしが今日ここへ来た甲斐があったのです。イエス様の御霊は、このためにこの集会をお与えくださった。こう思います。おひとりおひとりが、それぞれに置かれた立場で、主様を証しする人になれば、それでこの交わりの目的な達せられたのです。それぞれが、この交わりの中から、自分の道を見出してくださればそれでいいのです。
  ところがわたしの言うことがなかなか信じてもらえない。そうは言うけれども、本心では、ここで教会をつくるためだと思い込んでいる人がいるからです。そうではなく、あなたが自分でイエス様を証しする人になってほしい。これがわたしの願いです。ひょっとしたらここにおられる方は、教団とか教会とかを離れて、あなた自身の信仰の有り様をじっくりと祈り、語り合い、あなた自身の霊的な成長を心から祈り求める。そういうことを教えてくれる人に出会ったことがないのではないでしょうか? 教会や牧師さんたちから、そういう扱われ方をされたことがないのではないでしょうか? 先ず教会、先ず教団、先ず奉仕。こういうことばかり聞かされてきたのではないでしょうか? 自分とイエス様との交わりを第一にする。これこそが、イエス様が最初にあなたに接してくださった時にしてくださったことではありませんか? あなたが、イエス様を信じて洗礼を受けようと決心したのは、そういうイエス様に出会ったからではありませんか? 「初心忘るべからず。」〔世阿弥〕です。このことが、イエス様を信じる一番大事な目的です。
  わたしたちはここで、この一番大事なことを一番にするのです。コイノニア会というのは、このための交わりですから。あなたは、イエス様によって、せっかく自由を与えられているのだから、その自由を活かして、御霊の体験を人々に証ししなさいよ。こうパウロは、ガラテヤ人への手紙3章のはじめで言っているのです。
(2)先祖の呪縛
  ところで先ほど、先祖の因縁とそこから来る霊力に悩まされている人の話がでました。そういう問題は、わたしが今お話ししたコイノニア会の精神とは関係ない。こう思うかもしれません。でもそれはちょっと違います。お話ししたことでお分かりと思いますが、イエス様は、あなたを十把一絡げに「みんな」として扱うことを決してしません。イエス様は、「人格」です。英語で言う“person”です。ラテン語の「ペルソナ」です。人格の神様は、あなたという一人の人格に語りかけるのです。これが、聖書の福音の特徴です。だからそういうことが嫌いな人、自分をひとりの人間として人格的に扱われることが苦手な人には、聖書の福音は向いていません。コイノニア会にはむかない人です。なんでもみんな一緒になってやる。日本の宗教は、数は多くても、この点ではほとんどが同じですから、そういう宗教へ行くほうがいいです。
  そういう人は、クリスマスより新年を祝うほうがいいです。新年はカレンダーで一年がめぐると必ず来ます。しかも、全員に同じように来るのです。新しい年が明けました。おめでとうございます。こう言って祝います。しかし、それは「あなた」個人とは、直接なんの関係もありません。新年は、世界中の人にみんな一緒に来るからです。あなたがいてもいなくても、全く変わらない。あなたが善いことをしても、悪いことをしても、新年は関係なく来ます。「おめでとうございます」となります。あなたが死んでも新年は来ます。だから新年のお祝いに個人のあなたは要らないのです。
  でも、クリスマスはそうではありません。これはイエス様のお誕生を祝う祭りです。誕生日は、みんな一緒に来るのではありません。あなたの誕生日は、あなた一人のものです。だからこれをお祝いしてくれる人がいると嬉しいのですね。あなたがこの世に生まれてきた。これが大事です。逆に死ねば、もうあなたの誕生を祝う人はいなくなるかもしれません。このように、クリスマスは、イエス様というひとりの個人の誕生を祝う祭りです。だから、あなたがイエス様を信じることは、あなたの誕生にたとえることができます。実は、イエス様を信じることを霊的に「新しく生まれる」と言うのです。だから、イエス様を信じることは、「あなた」という「個人の誕生」なのです。これはほんとうですよ。
 でも、人はなかなかイエス様を信じない。いろいろな理由がありますけれども、一番大きいのは、人を恐れることです。自分一人になってイエス様を信じる。これが怖いのです。一人になるのが怖いのではない。あなたの周囲の人たちが、これをはたしてどう思うだろうか? これが怖いのです。人を恐れていてはあなた個人の誕生はできません。流産します。
  キリスト教は先祖を粗末にするからダメだ。よくこういうことを言う人がいますが、それは違います。確かに聖書は、「今のあなた」を大事にします。あなたは、神様に愛されているひとりの人間ですからね。「先祖、先祖」という人たちは、そうではない。彼らに言わせると「今のあなた」は「あなた」ではないのです。今のあなたは「過去の先祖」と結ばれているのです。彼らが、あなたになって今生きている。だからあなた自身の「今」はない。「今」は、「過去」の先祖とつながるからです。だから「あなた」は「あなた」でない。あなたは先祖です。だから、あなたの不幸はあなたのせいではない。不幸は「先祖の因縁」だからです。要するに「あなた」はいないのです。いるのは先祖です。
 でも「あなた」は先祖ではない。別の人間です。あなたの幸いも不幸も、あなたから出ているのであって、先祖のせいではありません。これ、先祖を「敬う」かどうかの問題ではありませんよ。先祖に「縛られる」かどうかの問題なのです。クリスチャンは、自分の先祖を大事にします。でも、イエス様を信じる者は、なによりも「自由」を大事にします。先祖を大事にし、これを尊敬することと、先祖の祟りを恐れてこれに縛られることとは全く違う。正反対だと言ってもいいです。だから、ガラテヤ人への手紙5章で、パウロは、先祖からの束縛から自由になりなさいと言っているのです。では先祖はどうなるのか? 大丈夫です。イエス様は、過去に死んだ人たちと、現在生きている人たち、これら全部を支配されている「主」だからです。ローマ人への手紙14章に「死んだ人にも生きている人にも主となられた」とあるのは、このことです。あなたの先祖は、イエス様にお任せしてください。そして、あなたは、一人の人格として活きてください。そうすれば、先祖もちゃんと浮かばれます。心配は要りません。
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