異言と弱い者と熱狂主義者
同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。〔ローマ 8:26-27〕
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。〔ローマ 8:34〕
【講話】
ケーゼマンの解釈
「ローマの信徒への手紙」8章の26節と27節は、これまでにも何度か採りあげてお話してきました。これまでも、この箇所はみ霊の働きと関連づけて話してきたのですが、今日は、同じみ霊の働きでも、「異言」と「執り成し」というこれまであまり考えてこなかった視点から、ここを読みたいと思います。なお26節と27節はひとまとまりに理解するほうがよいでしょう。わたしの手元にあって、日本語に訳された現代の「ローマの信徒への手紙」の注解の中で最も詳しいのが、EKKシリーズとケーゼマンというドイツの神学者のものです。そこで、まずケーゼマンによるこの箇所の注解を紹介したいと思います。
ケーゼマンはまず、この箇所に先立つ22節から25節までに注目します。ここでパウロは、十字架の恵みのもとにある人間存在とは、自分自身を主張する立場ではなく十字架の贖いのもとにあって、「万物を創造するみ霊」によって希望を抱いて生きる存在であると述べています。さらに、そういうキリスト者の生き方が、ただ教団や教会に奉仕するだけではなく、人間を含むあらゆる被造物に奉仕する生き方へとつながる必要がある。これがここでのパウロのメッセージであるとケーゼマンは解釈するのです。
その上でケーゼマンは、26〜27節にでてくる「霊」、「祈り」、「執り成し」などの鍵語の解釈へと進みます。ここは、原文の構文も内容もやや不自然でわかりにくいところですが、同時にとても大切なところです。ケーゼマンは、ここでパウロの言う「言葉に表せないうめきをもって」に注目します。そして、このような祈りは、教会の礼拝で一般に行われるような通常の祈りのことではなく、なにか特別なみ霊の働きによって発せられる祈りを指していると解釈するのです。特にここでは、「み霊にある祈り」が「執り成し」と結びつけられていることです。「み霊」と「執り成し」という結びつきについて言えば、ヨハネ福音書(15の26、他)には「パラクレートス」(弁護者・助け主・慰め主)としての聖霊の働きが語られています。しかし、これを別にすれば、「み霊」と「執り成し」が同時に語られることはありません。なぜなら、「執り成し」というのは、本来み霊自体の働きではなく、天上におられるキリストが、大祭司として地上の私たちのために執り成すというように限定されているからです。
またここでは、「み霊にある祈り」が、「言葉に表せない」と表現されていることにもケーゼマンは注目します。一般にはこのパウロの言葉は、神は直接に語ることはしないという意味で、「神は無言である」という意味に解釈されいます。しかし、ケーゼマンは、ここでパウロの言う「言葉に表せないうめき」というのは、そのような「無言の神」のことではなく、エクスタシー(恍惚状態)によるみ霊の働きを指すのではないか、特に教会で礼拝中に発せられる異言のことであると解釈するのです。実は、このように、ここでの「言い表せない呻き」を異言と解釈するのは、古代教父の時代に遡る説です。
このような「異言の祈り」は、実はキリスト教会の発祥に先立つクムラン宗団でも行われていて、この宗団の残された文書『感謝の祈り』などから、そのことが証しされています。また、パウロ以後でも、このような「異言の祈り」は、「エフェソの信徒への手紙」(6の18)や「ユダの手紙」(20)やさらに「ヨハネ黙示録」(22の17)でも語られているとケーゼマンは指摘するのです。ただしケーゼマンは、パウロがここで言う異言の祈りとは、個人に働くみ霊のことではなくて、教会の礼拝の中で働く全体へのみ霊の働きを指しているのだと解釈しています。この点は後で触れましょう。
ここでの祈りを「み霊にある異言の祈り」と解釈するのであれば、この箇所は当然「コリントの信徒への手紙一」(14の15)にでてくる異言の祈りと結びつくことになります。ただし、コリントの場合は、個人の異言と祈りが語られているのですが、「ローマへの手紙」では、そのような個人の異言ではなく礼拝中の祈りのことを指しているとケーゼマンは言うのです。また「言葉に言い表せない」とあるのも、「コリントの信徒への手紙二」(12の2)にでてくる「第三の天に引き上げられた」人が聞いた「言い表しえない言葉」と関係があると考えられています。ですから、「言い表せない」というのは、従来までの「無言の神」という解釈ではなく「地上の言葉では表現されない」という意味で、「天使の言葉」と言われた異言を指していることになります(1コリント13の1)。
コリントの教会とパウロ
以上のような解釈に基づいて、ケーゼマンは、さらに26〜27節の釈義を進めます。ところがここでケーゼマンは、コリントの教会が「異言」に対して与えていた意義付け、すなわち「天使の祈り」あるいは「天使の言葉」としての「霊的に高い」意義付けとは全く逆の意義付けをパウロはここで異言に与えていると言うのです。ここでパウロが言う「異言による祈り」について、ケーゼマンは次のように述べています。
キリスト者の集会の力や豊かさではなくて、その<弱さ>の現れである。われわれの祈りが神に喜ばれる内容を得るためには、み霊自らが介入する必要がある。礼拝においてさえ、み霊は、救われていない被造物に満ちていてしかも誘惑にさらされている者たちの体の贖いを渇望するあの呻きへとわれわれを導くほどまでも介入してくる。礼拝中の異言において、終末論的自由を求めての叫びが、この叫びによってキリスト者は苦悩の中にあるあらゆる被造物の代表者となっているが、この叫びが、われわれを祈りに駆り立てるみ霊の関心事をわれわれ自身が把握しないような奇妙な仕方で発せられるのである。〔エルンスト・ケーゼマン著/岩本修一訳『ローマ人への手紙』日本基督教団出版局、1980年、453〜57頁〕
神学者特有のわかりにくい言い方ですが、つまりここでケーゼマンが言うのは、イエスのみ霊が与える異言の祈りとは、コリントの人たちが言う「天使の言葉」や「特別にすぐれた人」に与えられる「霊の言葉」という意味ではなく、むしろその逆で、「弱い者」「誘惑のうちに苦しむ者」たちに与えられる「言い表すことのできない呻きの言葉」であると言うのです。ここで大事なことは、なぜパウロが、異言を「弱い者」への賜物としたのか? という点です。ケーゼマンが指摘するまでもなく、それはパウロの「十字架の贖い」からでています。このこと、すなわち異言を伴うみ霊の働きが、十字架の贖いという新約聖書の根元的な使信から湧き出ていることが、きわめて重要なのです。現代の聖霊運動がともすれば見失いがちになるのがまさにこの点だからです。私はこの点でケーゼマンの解釈に賛成です。み霊の働きを考えるときに、そこに含まれる様々な問題が、結局はこの点、<十字架の贖い>を再認識し、その意味を深めるというこの1点につながってくるのを私は実感します。
コリントの「熱狂主義」
ところで、上に述べたようなケーゼマンは、異言を「弱い人」を助けると解釈しましたね。実はコリントの教会での「異言」についてのケーゼマンのこのような解釈には、前提となるある背景があります。それは、コリント教会の「熱狂主義」です。この問題は非常に複雑で、簡単に説明することは難しいですが、できるだけわかりやすく説明します。コリントの教会では、聖霊の働きが非常に活発だったのですね。その結果、霊の働きに「熱狂して」、一部の人たちが霊的な傲慢に陥ったのです。
その人たちは、霊の働きによって「終末はすでに自分たちの内部で成就している」、こう考えるようになりました。しかも終末の成就は、自分たちに与えられた「霊的な知」によって達成されていると考えたのです。現在でも、「神霊」だとか「宇宙の霊知」だとかを語る宗教があります。またそういう著作が数多くでています。コリントの霊知エリート主義もこれに通じるものがあったのです。彼らは、霊知によって魂の救いが成就されると信じていましたから、キリストの十字架による罪からの贖いを軽視する傾向がありました。パウロがコリントの教会に宛てた書簡で、コリントの教会を批判したのは、まさにこの点だったのです。なぜなら、彼らは、異言や預言を含む霊の働きに夢中になって、終末はすでに実現したと語り、したがって救いも復活もすでに成就したと考えたからです。
実は異言とコリントのいわゆる「熱狂主義」との関係は今述べたほど簡単ではありません。もっと複雑な事情が背後にあります。しかし、この問題にこれ以上深入りすることは避けましょう。コリントの教会での異言を含む霊の働きをこういう「熱狂主義」という視点から批判的にとらえる見方は、今でも強く、現在の日本でもそうです。聖霊運動が「熱狂主義」として批判されているのは、このようなコリントの教会の行き過ぎとこれに対するパウロの批判があったからです。ケーゼマンが、ロマ書8章の「み霊の祈り」を異言と解釈しながらも、その異言の意味をコリントの教会の人たちとは正反対の見方から解釈したのはこの理由からです。彼の解釈は、コリントの霊的傲慢に対するパウロの批判を踏まえているのです。だから彼は、その釈義の中で「〔キリストの〕教団は〔十字架という〕このイエスの運命を引き継ぐのである。ところが、熱狂主義的狂信者たちは、自分自身の浄福のために十字架につけられたお方を否認しつつ、繰り返しその交わりを壊してしまう」と述べています。
ケーゼマンの解釈、すなわち26節と27節での「霊の祈り」とは、異言のことであるという解釈、しかもその異言が、従来考えられてきたコリントの熱狂主義的霊の傲慢ではなく、「弱いわたしたちを助けてくださる」み霊の働きであり、「言葉に表せないうめき」をもってわたしたちのために執り成してくださるという解釈は、このように見てくるととても大切な内容を照らし出していると思います。先の集会で、川口先生の異言体験についてお話した時にも、ママの異言解釈が「弱い者のため」ではないかと塚本先生に書き送ったとありましたね。これはとても鋭い洞察です。わたしが、ホームページの「異言を語る人も語らない人も」の中で伝えたいこともこのことです。
祈りと異言
ケーゼマンのこの箇所についての解釈には、当然反論があります。イギリスの聖書学者クランフィールドは、ICC注解シリーズのRomansの中で、ここでのみ霊の祈りが礼拝における「一般的な祈り」とは異なるというケーゼマンの前提は受け入れがたいと述べて、おおむね次のように言っています
執り成しの祈りが異言によるもので、一般的な祈りと区別されているというケーゼマンの解釈では、祈りそのものの意味と確かさが奪われてしまう。ケーゼマンの指摘するみ霊の祈りでは、祈りの言葉が理解されない。またここでの祈りに対して、弱さとみすぼらしさという逆説的な意義付けがなされているが、そのような祈りの逆説は、すべてのクリスチャンの祈りにも当てはまる。「"霊"自らが言葉に言い表せない呻きをもって」とあるが、ケーゼマンはこれをわたしたち人間の"霊"のことではないとして、「言い難い」をオリゲネスやクリュソストムと同様に、異言の祈りであると解釈する。しかし、「言葉に言い表せない」はキリスト者の願いのことであって異言ではない。異言は主として賛美を伴うからである。だから、「言い表せない」とはキリスト者自身の中の呻きのことである。聖霊自身の祈りは口にはでない。なぜなら、神は、言葉にでなくても、聖霊の意図を知るからである〔聖霊の祈りは人間には隠されていること〕。
〔C.E.B.Cranfield, Romans. Vol.T,the International Critical Commentary, Edinburgh: T.&T. Clark, 1975, pp.422〜24. 〕
簡単にまとめましたが、ここでのクランフィールドの意見は、パウロのこの箇所に対する従来の解釈を代表していると言えましょう。一見すると、クランフィールドは、ケーゼマンの異言説を全面的に否定しているように思われます。しかし、ここでの批判にもかかわらず、ケーゼマンの異言説は、パウロがここで言う<み霊の呻き>に、異言やその他の霊的に発せられる言語も含まれているという解釈に道を開くものとして、私にはとても重要だと思われます。クランフィールドは、一般の祈りと異言とを区別した上で、異言の祈りのみをここでの祈りに当てはめようとするケーゼマンの主張に反論しているのであって、パウロがここで述べている祈りに、異言のような霊的な祈りが含まれているとする解釈それ自体を否定しているのではないことに注意してください。
その上で私たちは、クランフィールドのケーゼマン説への批判にも、大切な意味がこめられているのを見逃してはなりません。それは、ケーゼマンが、パウロの言葉を解釈する前提として、「異言の祈り」と「一般的なキリスト者の祈り」とを区別したことです。私は、ケーゼマンが、この箇所の解釈にとても重要な貢献をしたと思っていますが、その論拠として、「異言」と「礼拝での一般の祈り」とを区別したことは適切でなかったと考えます。まさにこの点がクランフィールドの批判を招いたのです。ここはきわめて重要なポイントです。ケーゼマンは、ここでの祈りを「み霊の祈り」としてこれを「異言(のみ)」と結びつけました。ただし、先ほど説明したように、異言に対する意義付けは、コリント教会が異言に与えていたものとは全く逆でした。これに対してクランフィールドは、ここでの祈りを「わたしたちの霊」による祈りと解釈して、これを「キリスト者一般の祈り」と結びつけました。ちなみに、新共同訳では、ここが"霊"とクォテーションを付けて訳されていますが、これは聖霊とキリスト者自身の霊とを区別するためなのでしょうか? それとも両方の意味を含ませるためなのでしょうか?
くどいようですが、ケーゼマンは、ここでの祈りを異言に限定して、異言に従来とは全く異なる意義付けを行いました。私はケーゼマンが、せっかく大事な視点を導入しながら、彼が、み霊にある異言を一般の祈りから区別したこと、その上で、異言のみをここでの祈りに当てはめたことは、誤りであったと思うのです。もっともケーゼマン自身に異言の体験があるのかどうか私は知りません。彼は、ブルトマンの流れを汲むドイツを代表する聖書学者ですから、おそらくその体験はないと思います。ケーゼマンの誤りは、み霊にある異言をキリスト者一般の「霊」による祈りと区別したことです。この二つは切り離すことができません。パウロの言う<切なる呻き>には、言葉にならない異言もその他の霊的な祈りも自然な言語となるべき切なる呻きも、幅広く含まれていると見るほうが正しいのです。異言を語る人も語らない人も、この点を十分に理解する必要があります。
次にEKKシリーズの見方を紹介します。このシリーズは、カトリックとプロテスタントの両方の立場を考慮したシリーズです。このシリーズの『ローマ人への手紙』の著者ヴィルケンスは、26〜27節を23節からつながると見ています。さらに彼は、ここを8章15節と関連づけています。私たちの内に働く執り成しの「霊」が、聖霊なのか? それともわたしたちの霊なのか? という議論に対する答えとして、ヴィルケンスは「アバ父よ」と呼ぶみ霊の働きを(15節と16節)をあげているのです。彼もまた、ここでの祈りを異言と解釈するのは正しくないと言っています。しかし私の見るところでは、彼は、異言の祈りを全く排除することもしていないようです。以下に彼の見解をまとめておきましょう。
パウロはここで、私たちが、望んでいることを「言い表すことができない」と言っている。なぜなら、私たちの希望は「見えないもの」、実現されていないものを意味しているからである。そういう私たちの弱さの中にあってもみ霊は私たちを助けてくださるという意味である。これがみ霊が私たちのために「執り成し」てくださることの意味である。み霊は私たちの<通訳>である。したがって、パウロがここで異言のことを考えているという仮説は正しくない。1コリント14の15以下でパウロは、異言は教団のために理性的な言葉に通訳されなければならないと言っているが、ここではみ霊は私たちの自由にはならない。したがって「ローマの信徒への手紙」8の26〜27においては、すべてのキリスト教的祈りの本質をみ霊が異言に対応しつつ語るのである。み霊は人間の弱い言葉を神にふさわしい言葉に通訳し、そのようにしてキリスト者の祈りを言語的に表現しつつ神に至らしめる。天上でのキリストの執り成しに対する地上でのみ霊の執り成しは、ユダヤ教的に言えば「天上の大祭司が神のみ座の前で行うことの地上的反映なのである」。〔ウルリッヒ・ヴィルケンス著 岩本修一・朴憲郁訳『ローマ人への手紙』EKK新約聖書注解Y/2、教文館、1998年、227〜29頁より〕
執り成しのみ霊
実は今日のメッセージの一番大事なところはここからなのです。「ヘブライ人への手紙」7章(24〜25節)には、イエス・キリストこそ天上にあって私たちのために執り成してくださる永遠の大祭司であるとあります。ところがパウロは、この大祭司の執り成しの祈りが、<私たちの内で>み霊によって行われると言うのです。先ほど触れましたが、ケーゼマンは、パウロの言う異言とは、個人のものではなく、教会あるいは教団の中で語られる異言のことであると限定していました。ここでもケーゼマンは、個人の異言と教団全体に臨む異言とを区別しています。しかし異言をこのように教団のものと個人のものとに区別することはできません。ですから、み霊による祈りは、それが異言であっても自然の言語であっても、私たちの弱さを執り成してくださる点において、個人の場合も教会全体の場合も同じ質のものなのです。
ただし、ケーゼマンが、特にみ霊にある「執り成しの祈り」に関連して教団にこだわるのには、それなりに大事な理由が秘められていると私は見ています。それは、祈りにおいて、自分をも含めつつも、なお「ほかの人たちのために執り成す」ということです。おそらくケーゼマンが、「教団」のための異言と言うとき、彼はこの意味での執り成しを意識しているのでしょう。そうであれば、私たちは、彼の解釈に耳を傾けなければなりません。
ケーゼマンはドイツの教会を代表する神学者ですが、私たちにはそのような教会も教団もありません。しかしここでは、祈りによる執り成しが、教会や教団に属するのか、それとも個人のものかは、本質的な問題ではないのです。先に述べたように、彼は26〜27節は21節〜23節と深くかかわっています。すべての被造物が私たち自身の存在と深くかかわっていて、万物は共に呻き苦しんでいる。こういう壮大な人間環境論的神学をパウロはここで語っているのです。今日私が皆さんにお話したいのは、み霊にある祈りでは、「ほかの人のために執り成す」ことがとても大切だということです。どこまでが自分自身の霊でどこからがみ霊なのか、どこまでが自然の言葉なのかどこからが異言なのか、このような区別や議論よりももっと大切なのは、私たちの祈りがほかの人たちを執り成す祈りとなること、これなのです。これこそが、キリストのみ霊の最も重要な働きだということを皆さんに認識していただきたいのです。
私たちの内に働くみ霊は、人間を取り囲む宇宙とその中にある地球と自然、その内に住む人間と深くかかわりながら、創造の業を行っているのです。このように人間と地球と宇宙とを含む全体の中にあって、キリストのみ霊に与る私たちがそれらと<共に呻き>ながら、切なる祈りによってそれらを「執り成す」こと、これが私たちに求められているのです。今ここから見える琵琶湖の環境もその周囲に住む神を信じる人たちも信じない人たちもすべてが、このキリストのみ霊が呻く執り成しの対象なのです。
私たちは、「何をどう祈っていいのか」わかりません。それは「言葉に言い表せない」祈りであり、「切に呻く」祈りでもあります。それでも、私たちが自分と自分の周りの人たちのために執り成すならば、「み霊は弱いわたしたちを助けてくださる」のです。これはほんとうです。自分のために祈ることも大事です。しかし、世のため人のために祈ることはもっと大事です。そのような祈りは、パウロの言うように、この世界の生きとし生けるものすべてを支える祈りへとつながるからです。自分ひとりから目を離して、自分以外の人たちのために「執り成す」祈りをどうか始めてください。この姿勢が私たちひとりひとりの内に聖霊の働きを呼び込むからです。そういう祈りからは、自然に異言や預言が湧いてくるのです。どうかこれから、そういう祈りをしてください。
まとめ
以上お話したことをまとめると次のようになります。
(1)パウロの言う<み霊の切なる呻き>には、異言のような霊的な祈りが含まれている。
(2)異言は、十字架の贖いのもとにある人間の弱さに臨むみ霊の働きである。
(3)異言の祈りと自然な言語による祈りは、どちらもみ霊の働きであって、これらを区別することができない。
(4)み霊は、宇宙・地球・自然環境・人間など全被造物と深くかかわりながらこれらのために執り成しの祈りを行う。