「律法と自由」:二種類の誤りについて
パウロはガラテヤ人への手紙2章19節で、律法による死から「免れて」キリストを信じたと言っているのではありません。肉にありながら、それでもイエス様の御霊に生きている者は、律法によって律法に死んだことを深く自覚しているからです。すなわち律法は、御霊の働きの内に成就されて生きている。モーセ律法は御霊の中に活かされている。キリストは律法の成就者であって、律法の破棄者ではないのです。だからわたしたちは、パウロの福音理解において、二種類の誤解に注意しなければなりません。
(1)「律法からキリストへ」ということがしばしば言われます。これは、律法に頼る生き方からキリストに頼る生き方へと転向することだと受け取られる場合が多いようです。しかしこの言い方は、ともすれば、律法によっては死ぬほかない「わたし」が、そうならないためにキリストを信じる、という意味に理解/誤解される傾向があるのです。このような解釈は、ここでパウロの言わんとすることからそれるでしょう。なぜなら、この場合は、キリストへ目を向けるのは、「わたし」が、律法によって死ぬことから免れるためだからです。だからこれは、「わたし」が律法によって「死なない」ために転向するのであって、律法によって「死んだ」結果ではないことになります。この考えが誤りなのは、キリストを信じるのは律法に「死なない」ためだと誤解するからです。
律法に死ぬことをせずに律法から自由になろうとすれば、律法を破棄してこれを拒否し、あたかも律法が存在しないかのように生きるほかありません。しかし、律法が無くなれば、罪も無くなる、ということではないのです。病と同様に、罪はこれを自覚することなしに取り除くことができないからです。律法の目的は人をして罪を自覚させることです(ローマ3章20節/7章7節)。この「罪の自覚」こそが、人をして律法から解放されたいと願わせる力なのです。しかも律法から解放されるためには、「律法によって死ぬ」ことがその裏になければなりません。これなしに人は律法から解放されることも「神に生きる」こともできないからです。
律法の成就者であるイエス・キリストが、「わたしたちのために」十字架で死んでくださったことの意味が、ここまで来て初めて自分との関係において把握できるようになります。なぜなら、わたしたちにはできない「律法によって律法に死ぬ」ことを現実にわたしたちの身において成し遂げてくださるのが十字架の贖いから来るキリストの御霊だからです。だが人は、はたしてどこまで、イエス・キリストにあって「律法に死ぬ」ことを求め続けるでしょう? 御霊の導きにどこまでも従って、自分の欲や想いにとらわれることなく、自分の律法の諸行に「死ぬ」ことをどこまで真剣に求めるでしょう? イエス・キリストの信仰に生きる人の歩みが、人それぞれに異なるのは、この点をどこまで自覚するかにかかっていると言えます。このことをはっきりと指摘しているのがフィリピ人への手紙です。「人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求める」からです(フィリピ2章21節)。
イエス・キリストの御霊にあっては、律法からの解放が、先ず初めに生じることを忘れてはなりません。同時に、律法からの解放には、律法の終焉が、すなわち律法に死ぬという側面もキリストの御霊の働きに含まれていることを見落としてはならないのです。だからキリストの御霊に歩む人は、御霊の導きに歩むことを通じて、己の律法の諸行に死ぬということも、同時進行的に裏面で生じることが分かります。パウロも他のキリスト教徒も、人は先ずイエス様の御霊にあってイエス様に出会うことから信仰の歩みを始めます。そこから、御霊にあって、パウロが達し得た「福音の真理」に少しずつ近づくのです。その道程は、どこまでもイエス・キリストにある御霊の導きに委ねる歩みです。人はそれぞれ、自分に与えられたところに応じて歩むことを赦されているのですから。
(2)キリストにあって「十字架されている」ことは、イエス・キリストの御霊にあって初めて可能になります。ここではキリストの御霊の働きが優先します。なぜなら「十字架される」状態は、御霊の働きに与ることによって初めて生じる事態だからで、その逆ではありません。この順序を逆転させて、「十字架されること」によって御霊の働きが得られると理解/誤解してはならないのです。もしもこのような誤解に走るなら、そこに働くのは、もはやキリストの愛と赦しの恵みではなくなります。そのような「霊」は、もはやキリストの御霊ではなく、厳しい裁きと死をもたらす「律法の霊」にほかならないのです。聖霊の名の下に、あるいはイエスの御霊の働きと称して、人を糾弾し裁く霊は、たとえどのような「奇跡」を伴おうとも、断じてイエス・キリストの恵みの御霊ではありません。この点は、よくよく注意しなければならないのです。
もしも、「律法によって律法に死ぬ」ことが先に来なければ、律法から解放されて、キリストの十字架に与ることができないととらえるなら、これは大きな誤解であり、本末転倒になります。また、律法による罪の自覚それ自体が、十字架のキリストへの信仰に結びつくのでもありません。律法は人間の罪を暴くだけです。だから、人は律法に導かれてキリストへ来るのではありません。律法に殺されて初めてキリストへ来る。と言うよりも、キリストへ来ることで初めて律法に対して「死ぬ」ということがその人に生じるのです。神の意志の表示である律法は人を裁き殺す。しかし、人はキリストに「救われることによって殺される」のであって、その逆ではないのです。だからパウロはここで、律法による罪の自覚が自分をキリストへ導いたと言っているのではありません。キリストの十字架が啓示され、その啓示によって自分が「律法によって」殺されているのを発見し、その啓示によって律法の目的を悟ったと言っているのです。パウロが律法を否定するのは、キリストの十字架を根拠とするからであって(ローマ2章21節)、律法否定が彼をキリストへ導いたからではありません。律法は人を罪へと釘付けにする。これがパウロの律法観の本質なのです。彼はこの意味で「律法」を「命の御霊」と対立させます。「文字は殺し、霊は活かす」のです(コリント第二3章6節)。だから律法から自由にされるには御霊の働きによらなければならないのです。キリストの御霊にある律法からの自由。同時にキリストの御霊にある放縦や罪性からの自由。パウロはこの書簡を通じて、一見すると相反するように見えるこれらふたつの自由を語っています。このどちらも、イエス・キリストのペルソナ(人格)を具えた聖霊の創造的な働きから出ていることをわたしたちは心に留めておかなければなりません。