人知と霊知
■論理から霊知へ
 コンピューターを例にとって、人間に働く理性から神からの啓示によって与えられる霊知までの間の領域について考えることにします。コンピューターを動かす根本原理は+と−の論理(logic)です。その論理で組み立てられたプログラムが理論(theory)です。その理論に基づいてコンピューターで物事を作り出す人間の能力が理性(reason)です。このようなコンピューターの働きによって達成された結果をどのように用いるのが正しいのかを判断するのが知性(intellect)です。この「知性」によってすばらしい働きを実現させるのは人間の技能(art)です。「アート」には「人工/技術/巧み/秘訣/芸術」など広い意味があります。人間の技能によって創り出された結果を正しく導くのが啓示を受けた霊知/叡智です。技能による方法ではなく、人や動物に生まれつき具わる本能的な能力を自然/本性(nature)と言い、これは持って生まれた「本性」のことですからnatureはしばしばartと比較対照されます。一方でartは啓示された霊感(inspiration)による霊知とも対比対照されます。人の知性は、素直で巧まざる自然の本能と啓示に霊感されて発揮する能力の間を動いているからです。
 霊感を受けた知性は、理性に働きかけて、論理とその論理に基づく理論とその理論を用いて作り出す事物(例えば製品)の持つ限界と有効性をあらゆる側面から判断します。だから知性とは、理性によってコンピューターの作る製品の適切な用い方を見いだす能力です。
 これで分かるように、理性の働きは理論ではなく、その理論とその結果生じた様々な相反する問題を全体として適切に判断するための比率/割合(ratio)を知ることであり、その判断によって人の知性はある種の調和(harmony)に到達するのです。オーケストラを指揮する指揮者の技能は彼の理性と知性によって、それぞれの楽器の奏者の出す音の<比率を調和させる>ことで美しい音色を奏でます。これが理性による「比率/配分」から生じる指揮者の知性です。アメリカのNASAによる宇宙ロケット打ち上げを記録したテレビ番組で、全体の総指揮者が、「わたしがやったことは一人一人の旋律を引き出して全体を綜合するオーケストラの指揮者のようだ」と言っています。自然科学や産業技術の分野でも、人間の知性の働きは同じであることが分かります。しかし、知性はそれが霊感を受けることで初めて、人の心を揺り動かす働きかけを聴衆に与えることができるのです。
■知性による躓きと霊知
 ここで問題になるのが、宗教的・霊的な事柄を扱う神学的な霊知です。なぜならエクレシアの指導者にとって最も注意深く最も警戒しなければならないのが「神学的な」躓きを与えることだからです。宗教的・神学的な分野では人間的な知性の働きが神の御霊の働きと密接に関係し合います。イエス様は神のロゴス/み言(ことば)と呼ばれています(ヨハネ1章1節/同14節)。「ことば」には理性・知性が含まれますから、神からのみ言と人間の知性(ギリシア語「ヌース」)の関わりが問われてくるのです。もしもその人間の理性と知性が「永遠の霊の命」を知らず、これを悟ることもできない場合、当然そこから生じる学問は神からの命へいたる霊的な成長を支えることもうながすこともできません。
 ただし人の理性と知性の営みそれ自体が直接霊的な有り様を妨げたり躓かせたりするとは限りません。なぜなら、人間の理性と知性が作り出すものは、医学にせよ、技術にせよ、また自然科学にせよ、それらは直接人間の霊性にかかわろうとはしないからです。したがって、自然科学が生み出すものは、人間の霊的な成長にも大事な働きするだけでなく、大切なことを教えてくます。自然と宇宙は、神が人間にお与えになった「第二の聖書」だというのはこの意味です。人はこの自然と宇宙からも啓示を受けることができるからです。
 ただし、人の理性や知性が、己の能力では霊的な事柄、とりわけ神が与える永遠の命を理解することができないという理由から、「永遠の命」を含む霊的な事柄を否定したり批判したりする場合は、その知的な営みが霊的な成長の妨げになり躓きに転じます。こういう場合は、人の理性や知性が己の能力を超えた分野、言い換えると自己の知らない分野に踏み込んであえて批判を犯すという不遜な高ぶりに陥るからです。人の理性・知性が厳に戒めなければならないのがこれです。
 ところがここに逆の場合が生じるおそれがあります。すなわち霊的な指導者たちが、己の霊的な営みを人々が理解しない/理解できないという理由で、科学的あるいは学問的な理性と知性の営みを否定したり、その結果を非難したりする場合です。霊的な知性の持ち主がほんとうに「永遠の命」を知っているのであれば、彼は決してこのような誤りを犯しません。「永遠の命」を知る者は、己の知的な営みをも含めて、この世におけるいっさいの営みが、仮の姿であり過ぎゆくものであって、自分自身を含むすべてのものが絶対的でないことを霊的に洞察するからです。
 聖書が証しする「永遠の命」には、正義と不義、幸いと禍という<正邪を見分ける>価値観が具わっています。この点がここでとても大事になってきます。なぜなら現代の学問的な理性と知性は、正義と不義、幸いと禍などの価値意識と直接的な関わりを持たないからです。現代の学問的な理性は理論(theory)によって進められます。理論それ自体に正邪は存在しません。しかも現在の学問は理論それ自体を絶対化する誘惑に陥りやすいので、ここに重大な落とし穴があります。これを防ぐためには、理論が理論それ自体を否定するという営みが絶えず行なわれていなければならないのですが、これが人間にはとても難しいのです。人がもしも己の理性と知性の営みのこの弱点を悟っていない場合は、非常に危険なことが起こります。とりわけ、「霊的な分野」の問題を学問的に否定したり批判したりする場合がこれにあたります。  
 ヨーロッパでは、17世紀の頃まで「正しい理性」"the right reason"/「誤った理性」"the wrong reason" という言葉が用いられていました。しかし近代科学の発達に伴ってこの言い方が逆転して、現代ではこのような言い方をせず、もっぱら「理性は正しい」"The reason is right ." という言い方をします。ここに現在の人間の理性的な営みの危険性が潜んでいるのです。なぜなら、このような学問的な理性・知性は「憐れみ」とか「愛」が表わす人格性を具えていないからです。
  聖書が証しする霊的な領域では、暗喩(メタファー)や寓意(アレゴリー)など、人間が表象としてイメージする比喩的な言い方が用いられます。身体的な五感に基づく事実認識では、人間よりもチンパンジーなどの動物のほうが優っていると言われています。しかし、比喩的な言語になると、猿を始め動物は人間にはるかに及ばないそうです。わたしたちは、人間の理性や知性の営みを、人間の「想像力」(imagination)の分野まで広げて、比喩的な言い方をも含む分野、現在「霊的」と呼ばれている分野での理性や知性の営みを解明していくことが、今後問われることになるでしょう。
■真理を立証する
 真理を正しく立証する学問的な方法は、大きく分けて三通りあります。(1)理論(theory)、(2)実験/体験(experiment/experience)、(3)数量(statistics)です。これに支えられて初めて、ほんとうの(4)啓示と証し(testimony)が可能になります。理論と実証によって論証され、数量的な裏付けが与えられて初めて、それが「テスト」<TEST>に合格したことになります。例えば、イエスの語録集(Q)は、理論としてありましたが、ナグ・ハマディ文書によって文書の実在が実証されるまでは、その存在は立証されませんでした。しかし、共観福音書を実際に数量的%で計って見ると、口伝の存在と影響が大きいことが示されますから、語録集の文書としての存在は、現在ではその周辺がぼやけていることが分かってきました。
■啓示と人知
 学問的な理性と知性の営みには、「まこと」と「真理」と「真相」の三つが関係してきます。ここでは、これら三つをわたしなりに限定した意味で用いることにします。
(1)「真(まこと)」とは、「誠実さ」「信頼できる」ことを表わします。これがヘブライ語の「真理」に近く、神が「真理」であるとは「信頼できる誠実性」を具えていることで、「アーメン」もさかのぼるとこの意味から来ています。
(2)「真理」はここで現在学問的な意味で用いられる場合の用語です。これは実験と観察に基づいて組み立てられ論理的に整合性を持つ理論のことで、事実に対する判断が「真理」か「誤り」かを立証するための手段です。この意味での「真理」は理性に基づく営みで、ほんらいギリシア哲学から発達した学問的方法です。
(3)「真相」は、人間の誠実さ、あるいは学問的な真理のさらにその奥に潜む隠されたほんとうの姿のことです。外からはうかがい知れない物事の裏に潜む実際の姿のことであり、学問的な手段で到達した理論のさらにその奥に潜む事実のことです。
 人間の理性と知性の営みとしての理論それ自体を乗り越えさせる力となるのが(1)の「まこと」です。どこまでも真実を誠実に追求する姿勢です。その結果近づくことができるのが(3)の「真相」です。これは霊的な事柄と直接かかわりを持たない学問的な分野においても言えることですが、それ以上に、霊的な事柄に携わるエクレシアの指導者たちにとってもきわめて大切です。なぜなら、霊的な指導は人の理性と知性が神の啓示に接することで行なわれるべき営みですから、信頼できる誠実性がその指導者の知的な判断にとって不可欠なのです。啓示は、人間の知的な能力を超えたところから来るものです。だから聖書では啓示が「奇跡的な」出来事として描かれたり語られたりします。
 こういう場合、人の知性は、自己の能力を超えた事柄であることを自覚しながら自己の能力で判断するというきわめて不思議で難しい状況に置かれることになります。言い換えると、神の御言葉を観たり聴いたりすることで「知る」能力、「観る」「聴く」「知る」の三つの営みが、ここでは「見せられる」「聴かされる」「知らされる」という受動態に変わるのです。しかもこの知的な営みは、観るように仕向けられ聴かされて、その結果知らしめられる事態にあって「受動的に行なう」ことですから、その知性は「受動的能動」という不思議な状況に置かれることになります。だからこのような状況においては、「観る」「聴く」「判断する」という行為だけでなく、そのような営みを行なう知性それ自体もまた「神から啓示される」ことを悟らなければなりません。すなわち神から「与えられ続ける」ことで初めて霊知が可能になるのです。
■御霊にある人格的変容
 こういう受動的能動の状態の中では、人の理性と知性それ自体も<啓示される>のですから、人間の側から意図して能動的に働きかけることができません。「見えてくる」「聞こえる」「知らされ告げられる」とは、直接的ではなく間接的な仕方で表わされることです。言い換えると、直接に知覚するのではなく「鏡に映って」反射してくるものを「観る」のです。パウロが言うように「鏡の中でおぼろに/やや謎めいて見る」すなわち「啓示に向いて肉眼では見えない霊的な姿を間接的に見る」のです(第一コリント13章12節)。あるいはヤコブ書が言うように「イエス様の御霊の霊法が鏡のように啓示する真の自己の姿をじっと見つめる」(ヤコブ1章23節)のです。ヤコブ書のこの箇所には、いろいろうがった解釈があるようですが、単純に理解して「世間一般の人は鏡に映った己の素顔を見ても、立ち去ればすぐにその素顔を忘れるが、御霊の霊法が啓示してくださる鏡に映じる己の霊的な姿を見つめ続ける人は忍耐してその場を離れることがない」という意味でしょう〔TDNT(2)696〕。鏡がイエス様を啓示する御言葉であると解釈して「生まれつき」の罪人はせっかくその鏡で自分の罪を示されても立ち去って悔い改めることをしない、という解釈もありますが〔フランシスコ会訳聖書ヤコブ1章23節(注)6〕。どちらにせよ、自分に完全な自由を与えてくれる御霊の霊法からどこまでも目を離さずにこれに従い続けることによって、御霊の啓示が与える自由に与る者になりなさい。そうすることで初めて、神の御言葉を聞くだけでなく実際に生きる人間に変容されるという意味に変わりありません。
 このようにして「イエス様の御霊の霊法」の鏡に映る栄光の自己像から目を離さず歩み続けるなら、「わたしたちは皆、主の栄光のお姿を鏡に映し出すように観ることによって、わたしたちもまた栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていくのです。これは主の御霊のお働きによることです」(第二コリント3章18節)。ここは「わたしたちが鏡であるかのように主のお姿を映す」という解釈もありますが〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳〕、ここはわたしたち主を信じる者すべてが、主のお姿を「鏡に映った姿を見るように」間接的に観ると解釈する方が適切なようです(第一ヨハネ3章2節と同じ意味で)。どちらの解釈にせよ、主の御霊のお働きであることに変わりありません。主の御霊を宿すわたしたち自身が鏡となるにせよ、主の御霊のほうが鏡に映るようにわたしたちに顕われてくださるにせよ、御霊はわたしたちを主のお姿へと変容させてくださるのです。ただし、先の第一コリント人への手紙とヤコブの手紙の鏡は現在わたしたちに生じる出来事ですが、第二コリント人への手紙のほうは将来の出来事です〔TDNT(2)696〕。
 ここで大事なのが「お姿」です。これは、ここで与えられる啓示が、知的な理論ではなく<人格性を具えている>ことを意味します。だから啓示される霊知は「栄光を帯びた人格」となってわたしたちの現実世界に顕現するのです。福音書に描かれるイエス様の人格には、ある種の透徹した厳しさの裏に、イギリスの文芸批評家マシュー・アーノルドの言葉を借りるなら"sweet reasonableness"とも言うべき不思議な暖かみを帯びた合理的一貫性が潜んでいるのを覚えます。
 そこで生起するのは神の御霊にある創造の業ですから、これは常に動いて止まない時空一如の働きであり、これを悟るのは人の主観と客観を超えた主客一如の霊的な領域で働く霊知です。これはわたしたちが御霊に導かれて<祈る時>に働く霊知です。 異言や預言を生じさせる基となる霊知です。エクスタシーを伴う場合もありますが、たとえエクスタシーに導入されても、霊知の働きは健全ですから、不思議なことにその気になればいつでもエクスタシーから抜け出すことができます。御霊に導かれる受動にはその裏にその人の能動的な意思が包含されているのです。
 このようにして、人格的な霊性を帯びた姿が「鏡に映る」ように間接的に啓示されるというのが霊的なことを扱う指導者に与えられる霊知です。「主はわが光なり」です。したがって、このような理性と知性の有り様に与る者は、二つのことを心がけなければなりません。一つは、そのような霊知が与えられることで「自ら能動的に」その霊知を通じて何らかの論理に基づく理論を引き出すことに慎重でなければならないことです。もう一つは、そこで啓示されるものが「おぼろである」こと、言い換えると絶対的なものではありえないことを洞察することです。真相は常に知りえた知識のさらに奥にあることを覚知することです。だからパウロは「神が各自に量り与えられた信仰の度合いに応じて慎み深く歩む」ことを勧めているのです(ローマ12章3節)。
 知性それ自体には絶対に妥協を許さない暴力性が具わっています。いわゆる「知の暴力」です。したがって、霊的人格性を喪失した理論は、たとえそれが「霊的な知能」だと思われても、否、それゆえにこそいっそう恐ろしい暴力性を帯びるからです。「躓かせる」ことの中には、神学的な躓きを与えることも含まれますから、聖書解釈に携わる者はよほど警戒して自己を戒めなければなりません。
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