異なる宗教とキリストのみ霊
コリント人への手紙(1):10章23節〜11章1節
「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。
あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。
わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましよう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
【講話】
夏期集会では、異言を伴うみ霊が、弱い人のためのみ霊であること、同時にそれが執り成しのみ霊であることをお話ししました。でも少し学問的すぎて難しかったかもしれません。今日の話は、その「執り成し」とつながりますが、学問的ではなくわかりやすく話します。
神々の都市コリント
そこで、今読んだところですが、パウロはここでいったいなにを言おうとしているのでしょうか? これを理解していただくには、コリントという都市のことからお話ししなければなりません。コリントはギリシアにある都市ですから、ユダヤの世界ではありません。そこは神々の世界、ユダヤ教やキリスト教から見れば全くの異教の世界です。しかも、コリントはアテネとは違って、決して文化的な都市とは言えません。まあ、商業都市というところでしょうね。そこへキリスト教が伝わったのです。ですから異教の世界という意味では、日本と似ているところがあります。コリントの町のあちこちには、当時の東地中海で信仰されていた神々の像が祀られていました。その頃、この町のマーケットで売られている食物は、現在のように生産者から流通して市場へと来るのではありませんでした。特に肉などは、必ず神々に一度お供えしてからでないと売りに出されなかったのです。昔の日本はどうであったか知りませんが、神社でお祓いをしてもらってから市場に出るといったところでしょうか。
クリスチャンと偶像の供え物
ところがクリスチャンは、ほかの神々を拝んではいけない。つまり偶像を拝んではいけない。こう教えられています。ですから、偶像に捧げたものをクリスチャンが食べてもいいんだろうか? こういうことを言うクリスチャンやユダヤ人がいたのです。ユダヤ教もキリスト教も偶像を嫌いますからね。でもそんなことを言っていたら。コリントの市場で食べ物を買うこともできないわけです。そこでパウロ先生に、いったいこの場合にどうしたらいいでしょうかと訊いてきたようです。これに対してパウロ先生が答えているのが、今お読みした箇所なんです。
そこでパウロは、まずクリスチャンには「すべてのことが許されている」、つまりクリスチャンは自由であると言うのです。けれども、自由だからと言って、自分のための自由だけを求めるのではなく、ほかの人たちのためにどうすればいいかを考えなさいと言うのです。私にはイエス様のみ霊にある強い信仰がある。だから、なんでも自由にやってかまわないんだ。こう主張するだけでなく周囲の人たちのことも考えてあげなさいよとパウロは言っているのです。
パウロ自身の立場はどうかと言えば、「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索する必要がありません」とあるように、自分だけのことであれば、なんでも食べてかまわないのです。だってそうでしょう。パウロにとっては、「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。そもそもパウロには、天の父なる神様だけがおられるわけですから、その他のもろもろの神々など存在していないのです。したがって、偶像などなんの意味もないわけです。ヘブライ語で「偶像」というのは「偽りのもの」「空虚なもの」という意味です。だからパウロには偶像はなんの意味も持たない。いろんな神々があっても、父なる神ただおひとり。だから、この万物の創造主である神様がくださるものはなんでも遠慮せずに食べてかまわないのです。私たちには、この父なる神様から遣わされたイエス様のみ霊が宿っているのです。だからジュピターの神殿への供え物であろうと、アルテミスの神様に捧げたものであろうと、ヘルメス教徒のお供え物であろうと、いっこうにかまわない。ああ、結構ですと言って食べればいいんです。これによって周囲の人たちと平和に暮らす。周りの人たちに対するこういう思いやりですね。これが愛というものではないですか。
み霊にある自由と愛
誤解がないように言っておきますが、偶像に捧げたものを拒否して食べなくても、それはそれでいっこうにかまいません。拒否したからといって、神様のみ前で間違っているわけでも不正でもない。あるいは偶像は悪霊であるから、断固として拒否するだけでなく、偶像を拝む宗教と断固として戦って、そのような宗教を屈服させるか抹殺しなければならない。堅くこう信じている人たちもいるでしょう。それはそれでその人の良心に基づくものですから、私は反対しません。でもちょっと待ちなさいとパウロは言うのです。あなたの良心はそれでいいかもしれないが、自分の自由のためだけを信じてやることが、ほかのすべて人の益になるわけではないのです。イエス様のみ霊を宿すクリスチャンは自由です。しかし自由だからと言って、「すべてのことが他人の益になるわけではない」のです。ですから、パウロはこう言います。もしも自分の傍に信仰に入ったばかりの「弱い」クリスチャンがいて、偶像に捧げたものを食べるのは気が咎めるというのなら、自分は自由だと言って平気で食べるようなことはしません。その弱い人への配慮から、「じゃあ、私も食べないよ」と言って食べるのを控えますとね。
あるいは、だれか異なる宗教の人が、パウロがクリスチャンであることを知っていて、また、クリスチャンというのは、偶像にお供えしたものを食べてはいけないのだと聞かされていて、親切な心遣いから、「この肉は実は偶像に捧げたものなんです」とわざわざパウロに忠告してくれたら、「これはどうもご親切に有り難う」と言って、その場合もその肉を食べないことにするのです。だけどそれは、パウロの良心の問題ではないのです。自分は食べても食べなくもかまわない。自分は自由だけれども、その人への思いやりから食べないようにする。「わたしがこの場合、『良心』と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです」とパウロが言うのはこの意味です。食べても文句を言う人がいれば、食べなくても文句を言う人がいます。自分の良心の自由を人に左右されるわけではない。その時その場で臨機応変。主のみ霊に導かれるがままに愛と配慮によって、それぞれの人に合わせていく。こういう自分からの自発的な姿勢が大事なのです。
いいですか。イエス様のみ霊は人格のみ霊なんです。人格に最も大切なのは、自由と愛です。このふたつのどちらかが欠けていれば、人格は人格として損なわれます。主のみ霊はペルソナですから自由のみ霊です。だからみ霊を宿すクリスチャンは自由なのです。「どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょうか」です。
私も仏教の葬式に時々行きます。私はお焼香をあげます。お香の煙は祈りの象徴ですからね。でも数珠で拝むことはしません。天の父にその人とそのご家族のために祈りを捧げます。今までこれでやってきて、人からとやかく言われたことは一度もありません。でも、もしも自分の傍にだれかクリスチャンの人がいて、自分はお焼香だけはあげたくないと思っている人がいれば、その人の良心のためを思って、私もお焼香をあげないようにする。こういう配慮は必要ですね。お焼香をあげでも文句を言う人がいるし、あげなくても文句を言う人がいるでしょう。でも私は主のみ霊の命じるがままにやります。それが信仰の自由というものですからね。ただ、自分の自由を振りかざしてなんでも思い通りにやることはしない。周囲の人たちのことを配慮して行動する。大事なのは人に愛を表すことであって、自分の自由をあくまで貫くことではない。み霊というのはそういうものなんです。「すべての点ですべての人を喜ばそうとしている」とパウロが言うのはこの意味です。でもこれは易しいことではないです。
あるクリスチャンの選択
この間あるクリスチャンの女性から便りをいただきました。彼女の夫は長男なので、夫の両親が一緒に住むために家を建て替えてくれました。ところがそこへ引っ越ししたとたんに、それまで病んでいた夫の父が病院で亡くなりました。彼女は長男の嫁として、お通夜、葬式、初七日などの仏事の世話をしなければなりません。「身近な人の死を初めて体験して、感じるものがあったのだけれども、あまりの仏事の多さに、家族みんなが悲しむどころではありません。それに家制度もいやというほど顔を出しました」と書いてきました。手紙には、聖書集会に出て「深呼吸をしたい」のだけれども、今はそんな余裕がないと書き添えてありました。
私は彼女に返事の便りを書きました。
「あなたが長男の嫁として、仏事の世話しなければならない立場はよくわかります。私はクリスチャンだから、仏事はいっさい行いません。あなたがこう家族に宣言して、聖書集会に出席するほうを選んでも、それはそれであなたの信仰の自由だから、いっこうに差し支えありません。神様はそのことであなたを責めないし、悪いことでもありません。けれども、長男の嫁として仏事をやらなければならないのなら、それをきちんと心をこめてやるという選択も大事なことです。
あなたはその場合、イエス様のみ名によって、祈りをこめながらやりなさい。仏事はうるさいことです。やりすぎても文句を言われるし、やらなさすぎればもっと言われます。嫁の立場は難しいものです。大変な心労でしょう。だからあなたは、自分の力ではなくて、イエス様に祈って主のみ霊に委ねて仏事の世話をしなさい。イエス様のみ霊は、きっとあなたを支えて、万事をうまく運んでくださいますから。あなたが心をこめて、与えられた勤めをきちんと果たすなら、周囲の人はあなたが立派な人であることがわかるでしょう。そしてクリスチャンとはこういうものかと認めて、集会に出席することも理解してくれるようになります。どうかこのことを信じておやりなさい。」
いわゆるキリスト教文化圏のクリスチャンたちは、彼女のような立場とは無縁ですから、こういう苦労はしなくても済むでしょうし、彼らはおそらく彼女の立場を理解することもできないでしょう。また、同じような立場に立たされた場合に、私はクリスチャンだから、仏事にかかわることはできません。それは私の良心の自由ですから、私はそのような仕事を拒否します。こう宣言しても、それはそれでその人の信仰の証しになります。主のみ前に決して悪いことではありません。その時、その場の事情によっては、こういう厳しい態度をとらなければならない場合もあるでしょう。
しかし、彼女のように、自ら進んで主のみ名によって仏事を世話するという選択も、クリスチャンの自由、しかも大事な自由なのです。この場合大切なのは、どこまでも、主のみ霊に委ねることですね。こうすることで、彼女は、周囲の人だけでなく彼らの宗教それ自体を「み霊によって担っている」のです。この「担い」ですね。これが、主イエスのみ霊が、異なる宗教への愛と寛容を示し、そうすることでそれらを「執り成す」のです。これは、黙って我慢して耐えることとも、いわゆる「妥協する」こととも違います。主のみ霊に委ねる信仰を貫くことと信仰を曲げて妥協することとは正反対です。妥協と宗教的寛容とを取り違えてはいけません。
妥協と執り成しの愛
「執り成しの愛」には強い信仰が要ります。これと妥協とを混同してはなりません。キリスト教それ自体を含めて、人間の宗教とは所詮相対的なものです。この地上に「絶対に正しい」と言える真理などあるわけがない。イエス・キリストのみ霊によって、執り成しの愛に生きること、これがクリスチャンであることの唯一の証しです。キリスト教の「正統性」を主張するのなら、こういう信仰こそまさにそれです。こういう執り成しの愛を否定するなら、いわゆる「正統」信仰など異端以外の何ものでもありません。
こういう宗教的寛容の信仰は、宗教だけではなく、世の中のあらゆる面でも共通します。家事、育児、教育、職場、政治、経済、その他いろいろな場合に、この国で生活しこの世に生きている限り、立場上どうしても避けられない矛盾や問題があります。そういうときに、これらの問題から逃げないで、イエス様のみ霊によって担い執り成していく、これが、「み霊自ら言い表せない呻きをもって私たちのために執り成してくださる」とパウロが言っていることの意味なのです。
今月の13日に、パレスチナをめぐるイスラエルとPLOとの契約期限が切れましたね。その際、両者の和解にとって最後まで障害として残っているのが、東エルサレムの一角をどちらの主権の下に置くかということなのです。その一角には、イスラム教の寺院とユダヤ教の聖地である嘆きの壁とキリスト教の聖堂の三つが存在しています。宗教の神殿と政治権力、世界の平和が成就されるかどうかは、結局このふたつの関係に絞られることをこの出来事は象徴しています。世界の人がひとつに結ばれるような宗教的価値観、それは「異なる宗教のためにも執り成す」主イエスのみ霊によって造り出されるのです。これが21世紀のキリスト教の課題です。
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