ソロモン王と知恵の時代
ダビデ王朝
  ダビデ王(在位紀元前997~965年)とソロモン王(在位紀元前965~926年)の治世にあたる約70年間は、ダビデ王朝の最盛期であるだけでなく、イスラエル全体の歴史において、その宗教、文化、軍事、行政のすべての分野にわたって絶頂期にあったと言えます。この時期と南北王朝の滅亡によるバビロンの捕囚、さらに下って紀元後70年のユダヤの滅亡とは、出エジプト体験と共に、ユダヤ民族が忘れることのできない4つの出来事であり、同時にこれら4つの出来事は、旧新約聖書の歴史観を形成する軸となっています。
  しかし私たちは今、ダビデ王朝の全貌をたどるのが目的ではなく、預言活動を含むみ霊の働きに焦点を当てて、この視点から王朝時代を見ようとしています。この視点から見るならば、ダビデ王の時代に培われた霊性は、ソロモン王の時代になって初めて、その霊性の開花を見たと言えます。ダビデが、イスラエルの歴史において、王として決定的に重要な位置を占めることができたのは、ひとえに彼がヤハウェのみ霊に忠実であったこと、すなわちその「ヤハウェ主義」にあります。ダビデ独自の自在な霊性が、ヤハウェ主義という軸によって支えられていたからこそ、それ以後の歴史において、イスラエルの名君としての栄誉を確かなものにすることができたのです。だから、申命記作家(たち)は、南北の歴代の王たちを評価するにあたって、一貫して「父祖ダビデが行ったように、ヤハウェの目にかなう正しいことをことごとく行った」(列王記下18の3)かどうかを、その評価の基準にしているのです。
  ダビデが目指した王国、それはエルサレムを首都として、そこに置かれたヤハウェの神殿を中心とする強力な統一王国でした。この父の遺志を継いでこれを成就したのがソロモン王です。ダビデがその土台を作り、ソロモンがその上にヤハウェ王国という神殿を築いたのです。ですから私はここで、ダビデよりもむしろソロモンの治世に焦点を当てることで、この王国が成し遂げた霊的な意味を探ろうと思います。
ソロモンの即位
  ソロモンの即位については、サムエル記下9章~20章と列王記上1章~2章とを結んで、ダビデ王位継承物語としてひとまとまりの物語を形成しているという見方が提唱されました(1926年)。ちなみに七十人訳ギリシア語聖書では、サムエル記(上・下)と列王記(上・下)とは、ひとまとまりに「王国」と題されていて、全体をⅠ巻からⅣ巻に分けて語られています。ただし、このダビデ王位継承物語説は、そこに描かれるダビデ像が、必ずしもダビデに好意的でなく、かえってソロモンに好意的であったり、全体としてダビデ=ソロモンの王位継承を正当化するために作られた物語としては不自然なところがあるという批判がなされています。ただその資料については、編集の跡があるにもかかわらず、「列王記」全体も「サムエル記」と同様に、イスラエルの最古の歴史資料を用いて書かれていると見られています。
  ダビデ王の死期が迫ると、ダビデの4男で「容姿が非常に立派な」アドニヤが(列王記上1の6)、ダビデの腹心の将軍であったヨアブと祭司アビアタルの支持を受けて王位につこうとします。これに対して、ソロモンの母バト・シェバは、預言者ナタンと祭司ツァドクとダビデの戦友であり勇士として知られたベナヤ、シムイ、レイたちと互いに図って、ソロモンを世継ぎとする旨をダビデに誓約させることに成功します(列王記上1の30)。その後ソロモンは、アドニヤとヨアブを粛正することで王位を確立しました。
  王位をめぐるこの騒動では、どちらの側も、政治権力と祭司と軍のそれぞれを代表する人たちが互いに組んで国家の主権をめぐって対立しています。このことは、政治権力と宗教と軍隊、これら3つの代表者たちが、国家の主権を構成していることをよく表しています。ところでこの両者の対立をよく見ますと、アドニヤ=アビアタル=ヨアブのグループは、ダビデがヘブロンで王位にあった頃からの仲間であり、これに対して、バト・シェバ=ナタン=ツァドクの組み合わせは、ダビデがエルサレムを首都とした後に登場する人たちであるのに気がつきます(列王記上2の11参照)。この対立を宗教的な視点から見ますと、ヘブロン時代のヤハウェ主義者たちとエルサレム時代以降の勢力との対立としてとらえることができるでしょう。エルサレムは、ダビデによって占領されるまでは、カナンの先住民エブス人の町でした(サムエル記下5の8)。このことから、両者の争いをヘブロン時代のヤハウェ主義者たちとエブス=カナン文化を背景にするエルサレム時代の人たちとの対立と見る説もあります。
   しかし、このようなヤハウェ主義対エブス=カナン宗教という解釈は、先に「受容と拒否」の項で述べた見方(「サムエルからサウル王へ」の章の「受容と拒否」を参照)に照らしてみるならば、両者の対立をあまりにも図式化してとらえていると言えます。なぜならそこにはもっと複雑な両者の関わり合いが存在しているからです。宗教的な対立は、文化的なレベルからさらに霊的なレベルまで洞察するならば、異なる宗教的霊性同士の出合いがあるところには必ず、その出合いの結果生じる両者の融合が生まれるのです。そしてそれらの融合が達成されると、それまで吸収されてきた「古い」宗教が(この場合それはエブス=カナン宗教になります)、今度は逆に排除され拒否される段階が来るのです。それをしないと、せっかく達成できた新しい霊的な創造が、その力を十分に発揮することができないのです。すなわち両者が融合した結果、それまでの伝統的なヤハウェ主義には新たな可能性と転機が生まれ、同時に、それまでのカナン文化は、もはや不要なものとして排除と拒否の対象になるということが起こるのです。ヤハウェ主義は変容を遂げ、カナンの霊性はその役目を終えたのです。
  したがって、預言者ナタンがエブス=カナン主義者で、彼がソロモンの即位を図ったからと言って、彼がヤハウェ主義に背を向けて、カナン文化に傾いたというのは、単純に図式化した皮相な見方であると言わなければなりせん。そうではなく、王権交代という危機的な状況にあって、ヤハウェ主義それ自体が、ひとつの大きな転機を迎えたと見るほうが正しいのです。ダビデがイスラエルの王として揺るぎない名声を獲得したのは、宗教的にはそのヤハウェ主義にあります。彼がどのようなときにも、常にヤハウェの霊により頼んだこと、これこそダビデをして、イスラエルの王とならしめた原動力でした。しかし、ダビデの死期を契機に、ヤハウェ主義がこれからどのような方向に向かうべきなのか? このことが改めて問われたのです。ヘブロン時代からのヤハウェ主義をそのまま固守するのか? それとも王権交代を契機に、新しいヤハウェ主義へ向けて発展するのか? ダビデ王朝の宗教的霊性の有り様が、この時その岐路に立たされたのです。
  ではヤハウェによる「新しい宗教的霊性」とは、いったいなにを意味したのでしょうか? それは、エルサレムを中心として、カナン文化の徹底的な「ヤハウェ化」を目指すことでした。本来土地を持たないヤハウェの霊は、カナン文化を吸収することによって、今度は逆にカナンを「ヤハウェ化する」理念と力を発揮できるまでに成長していました。ソロモンが王位を継承することによって、イスラエルは、まさにこのこと、エルサレムを中心として、カナン文化圏一帯のヤハウェ化を強力に推進し、カナン文化をヤハウェのみ霊によって変質変貌させることを目指すことになったのです。ソロモンは、この事業を成し遂げることによって、一大ヤハウェ王国を築くことに成功したと言えましょう。ソロモンの即位に際して起こった跡目相続をめぐる騒動の裏には、このような宗教的な次元での選択も潜んでいたと見ることができます。
  ソロモンの即位によって、ヤハウェ信仰は、「父祖ダビデ」のヤハウェ主義を継承しつつも、新しい転機を迎えました。列王記上3章6節~9節のソロモンの祈りは、それまでのイスラエルのだれもが予想しなかった事態にソロモン王が直面していることを表しています。この祈りは、古代帝国の王たちが、神あるいは神々から啓示を受けたという伝承の影響を受けています。しかし彼の祈りには、ソロモンが、これまで地上を支配してきたもろもろの帝国とこれらの諸帝国で崇められた神々の伝承を受け継ぎつつ、それらの集大成としてヤハウェの一大王国を地上に実現させようという願いがこめられています。彼が見た夢はまさにこのことでした。
  ちなみに「ソロモン」という名前は、「ヤハウェに愛された者」を意味するとありますが(サムエル記下12の24~25)、これはメソポタミアの古代の王たちが神から特別の庇護を受けているという伝承に基づいていて、「ソロモン」の本来の意味は、「最初の者に替わる者」という意味で、ベト・シェバとダビデの間に生まれた最初の子どもが死んだので、「これに替わる者」という意味であったようです。しかし、預言者ナタンは「ヤハウェのために」、ソロモンにあえて「エディドヤ」(ヤハウェに愛される者)という名前をつけたのです。
ソロモンの行政
  ソロモンが王位についてからまず始めたのが、王国を12の行政区に分けることでした(図参照。彼は父ダビデがその支配を確立した地域を、カナンの都市制度にならって大きな行政区に再整理したのです。その上で、12名の知事を各区域に配置しました。ただし、エルサレムが存在するユダだけは、例外としてこの行政区に含めませんでした。行政区を設置した目的のひとつが課税でしたから、ユダ部族の地域には免税の特権が与えられたようです。彼は、ユダ部族とエルサレムを中心として、イスラエルの12部族の結束を図り、その上で周辺の諸国へと影響力を拡大しよう意図したのです。エルサレムには、ソロモン王と9名の側近たちとがいて、全国を統治していました(列王記上4の1~6)。注目されるのは、ダビデの側近には軍人が多かったのに対し、ソロモンの側近には祭司が3人含まれていることです。ここにもソロモンの行政の意図がはっきりとうかがわれます。
  行政区を設置した目的は第一に税でした。この点で彼はかなり厳しい税を各地区に課したようです(列王記上4の7)。これは後に述べる神殿建築と宮殿建築のためでもありますが、同時に、各地区に砦を築いて軍隊を配備することも忘れませんでした(列王記上5の6/10の26)。ソロモンは、軍よりも文の王であり、どちらかと言えば優柔不断で軟弱な王であったという印象が強いようですが、この見方は誤りです。彼が行政区を設置したのは、ユダ部族以外のイスラエルの部族を統治するためだけでなく、周辺諸国に対して確固とした力を示すためでもあったのです。このために、膨大な建築費に加えて軍備の出費が王国の財政に重くのしかかり、これが税となって各行政区に課せられ、さらに諸外国との貿易へと発展することになります。
  税制と軍隊の配備と同時に、中央の大祭司たちを頂点として、各行政区に対する宗教的な教化政策が推し進められました。ダビデ時代の軍事優先から、税と経済活動、さらに宗教的な教化へと政策を転換させること、これがソロモンの行政のスタートだったのです。ところが、ユダだけは課税から免れるという特権が与えられていたのです。これが後に王国分裂の一因となりました。ソロモンのこのエルサレム中心の集権的な体制は、カナンを文化的にヤハウェ化しようとする政策に沿ったものでした。
ソロモンの外交政策
  ソロモンは、自国の版図をダビデ時代からさらに拡大することはしませんでした。むしろ彼は周辺諸国との提携を図ったのです。したがって、彼はフェリシテを征服することもせず、ツロの王ヒラムとは対等な条約を結んでいます(列王記上5の26)。彼の軍事力は、周辺諸国との国境を安定させるためであり、同時に周辺諸国と提携を進めるための大きな力となりました。こういうソロモンの政策からは、エルサレムを中心とする中央集権的な祭政一致国家を形成し、そうすることでイスラエルをヤハウェ化し、そのヤハウェ文化をさらに周辺に広げて、パレスチナにヤハウェ文化圏を形成しようとする彼の意図を読みとることができます。 
  ソロモンの外交は、条約だけでなく、広範囲な結婚によって周辺諸国と結ばれるという政策となって表れました。彼はまず、エジプトとの関係を安定させるために、ファラオの娘を自国の宮廷に迎えることに成功しました(列王記上9の24)。その後次々と諸部族から貴女を迎え入れて(列王記上)、周辺諸国との関係の安定を図りました。 
  国の内外を安定させたソロモンは、国際貿易へと手を広げました。彼は、航海と貿易の国ツロの王ヒラムと組んで紅海(アカバ湾)への出口を獲得し、そこからアラビア半島沿岸の全域との貿易路を確保したのです(列王記上9の26)。これによって彼は、オフィルの黄金に代表される(列王記上9の28)莫大な利益をあげることに成功しました。シェバの女王が財宝を積んだ駱駝をともなってソロモンを訪れたという話は(列王記上10章)、このようなソロモンの外交と貿易政策の観点からも理解されなければなりません。この物語は、ソロモンの知恵と愛の物語に彩られていますが、そこには、イスラエルとの提携とこれに伴う貿易の拡大を目指す女王の政策的な意図があったのは間違いありません。このようにして、国内でのヤハウェ化の徹底とその国力をバックにした広い国際的な提携がソロモンの統治政策の要(かなめ)でした。
ソロモンの神殿
  古代から神殿は、その国の宗教と文化を象徴する建物と見なされてきました。このことは、例えばロンドンのウェストミンスター寺院を見ればよくわかります。この寺院には、良くも悪くも、イギリスの歴史のすべてが刻み込まれていると言ってもいいほどです。ですから、ソロモンは、父ダビデが完成できなかった神殿の建築にあたって、慎重に準備を進めました(列王記上5の15~32)。それはまさにソロモンの時代を象徴する国家的事業だったのです。しかし、ソロモンの神殿建築は、父ダビデの遺志を抜きには考えることができません。なぜなら、エルサレムを全イスラエルの首都として、そこに祭政一致の中心として神殿を築くという政治的・宗教的な土台は、ダビデ王によって据えられたからです。ソロモンは、その父の遺志を実行に移したのです。
  ソロモンの神殿建築の記事は、列王記上の6章全体と7章の13節から51節までに語られています。完成までに前962年から前955年の約7年間かかりました(6の37)。しかしここに不思議なことがあります。それは、神殿建築の記事に挟まれて、ソロモンの宮殿建築の記事が短く述べられていることです(列王記上7の1~12)。しかも6章2節と7章2節とを比べてみますと、神殿より宮殿のほうがはるかに大きく、これの完成に13年間もかかっているのです。イギリスの王室の館や貴族の館には、必ず礼拝堂があり専属の司祭がいましたが、規模の大きさから見ると、神殿がまるで王宮の「礼拝堂」のように見えるとも言えます。この規模の違いと、規模に反比例する記事の扱い方、いったいこれはどうしてでしょう?
結論を先に言いますと、神殿が王宮に付属しているのではなく、逆に宮殿のほうが神殿に付属しているのです。イギリスの王侯の館では、礼拝堂は明確に館の一部に組み込まれています。しかし、ソロモンの神殿はそうではありません。神殿は王宮の一部ではなく、はっきりと独立して建てられています。それは、王の宮殿が神殿と密接につながっていることを示すもので、決してその逆ではないのです。列王記上の神殿建築の記事が、宮殿建築に比べてはるかに詳細なのはこのためです。
  実は神殿と王宮とのこのような関係は、カナンの神殿建築の様式から来ています。テル・テーイナートからでた宮殿図では(図参照)、一見すると神殿(赤の部分)は宮殿に付属しているように見えます。しかし見ればわかるように、神殿は宮殿から独立して建てられています。ただしこの場合、はたしてどちらがどちらに「付属している」のかを見分けるのは難しいようです。確かなことは、王宮と神殿とが密接不可分な関係にあることを示していることです。こういうカナン様式の神殿の源がどこから来たのかははっきりしません。おそらく、こういう神殿様式の源をたどるなら、エブラからマリを経由して南メソポタミアのシュメールあるいはアッカドの時代へと遡るのではないでしょうか? いずれにせよ、このような配置は、カナンの神殿様式に準じたものです。
 ソロモンの場合にも、王とヤハウェとの深いつながりがはっきりと読みとれます。しかし、ここでは、王が主なる神に仕えるのであって、決してその逆ではありません。しかし、王宮が神殿と隣り合っているという配置は、ソロモンが、父ダビデに授けられたヤハウェの契約に基づいて、ヤハウェの権威を帯びて統治に臨もうとする姿勢を示しているのです。列王記上3章のソロモンの祈りは、まさにこの理念を物語っています。このことは、神殿建築に続く8章にもはっきりと示されています。そこでは、王が民のために主なる神にいけにえを献げる記事がでてきます。ここでのソロモンは、今までのイスラエルの王のだれよりも祭司に近い地位にあるのです(列王記上8の5、14、22以下)。
  16世紀から17世紀にかけてのイングランドでも、王/女王が教会の首長となる完全な祭政一致の統治形態が生まれました。やがてこれがピューリタン革命を経て、19世紀のヴィクトリア朝に大英帝国の統治形態となります。前10世紀のパレスチナの国家と19世紀の世界規模の帝国とを比較することはできないかもしれません。しかし、ソロモンの統治と19世紀の大英帝国とは、その政治・宗教の形態において相通じるものがあるように私には思われます。
  神殿に戻りますと、神殿建築の時期を語る月の名前もカナンの暦によっています。ただしその開始が、「出エジプトから数えて480年目」(6の1)とあるのが注目されます。神殿の内部も、カナンの様式を採り入れています。メギドにあるカナン神殿(前800年?)は(図参照、ソロモンの神殿(図参照)の断面とよく似ているのがわかります。ソロモンの神殿は至聖所(空色の部分)と聖所(黄色)と前室(紫色)とにわかれています。断面図で見るように至聖所が一段高くなっているのはシリア様式です。このように、ソロモンの神殿はカナン=フェニキア様式に従っているのです。
 7章には神殿の内装とそこに置かれる備品が詳しく語られています。入り口に立つ2本の柱、ヤキンとボアズ(7の21)を初め、これらの備品はすべてツロから招かれた青銅工芸の職人ヒラム(7の14)と彼のもとにいる職人たちの手で製作されていて、それらは当時のカナン文化の粋を集めたものであったろうと思われます。
 ヤキンとボアズの2本の柱(緑色)は、これもカナンの様式で、神殿の聖所の前に置かれたものです。柱がもともとなにを象徴していたのかはっきりしませんが、イスラエルでは聖火をともすためだったのかもしれません。柱頭を飾る百合の花は、古代メソポタミアでは月の神を表し、特に女神・女王を象徴していました(16世紀のイングランドでも百合はエリザベス女王の象徴でした)。イスラエルでは、百合は清浄な花嫁の表象として用いられたようです(「雅歌」2の2)。白い百合と対照的な赤い石榴(ざくろ)は、もともと豊穣の女神を表していましたが、永遠の生命の象徴としてアッシリアの宮殿にも植えられていました。出エジプト記28章33節の石榴もこの意味を帯びていて、この神殿の柱頭を飾る石榴もおそらくこれと同じ意味を表しています。
  青銅の「海」(7の25)は、12頭の牛に支えられていて、これも百合の形をしています。これは清めの水という実用的な目的のためだけでなく、この「海」はおそらく、古代メソポタミアやエジプトの神話に見られるように、生命の起源を意味する「原始の海」とつながっているのでしょう。
 10台の台車はケルビムと獅子となつめやしで飾られています。ケルビムとなつめやしは、台車ばかりでなく、神殿の内装とさらに扉にも用いられています(6の29、32)。なつめやしは、古代メソポタミア時代から聖なる樹として崇高な気高さを表しています。エジプトでは長寿を意味しますが、ここでは、おそらく「命の樹」を意味し、ヤハウェの栄光を現す表象として用いられているのでしょう。
  ケルビムはケルブの複数形です。これは契約の箱にも用いられ、イスラエルでは大事な表象です。翼を持つこの姿は、もともとは超人間的な存在で、神々と人間とをつなぐ役割を担っていたと思われます。古代メソポタミアでは、「カリブ」は超人間的な存在として、神聖な領域に入ることを許されていました。しかし、イスラエルでは、このような神と人間とを結ぶ祭祀的な役割ではなく、聖なる領域を護る守護の役目を担うようになります。人間が罪を犯して追放された後のエデンの園は、このケルビムに守られていました(「創世記」3の24)。
  このように、ソロモンの神殿は、その様式から内装、備品に至るまで、ことごとく古代から受け継がれてきたカナン文化に彩られています。しかし、この神殿は、紛れもなく「ヤハウェの栄光を示す神殿」(列王記上9の1~9)なのです。先に指摘したように、神殿とはその国と文化の粋を集めてその国の宗教性を表象するものです。もしそうであるなら、ここに見られるのは、カナン文化のヤハウェ化です。この神殿は、ソロモンの王権と不可分であり、ここに、エルサレムの神殿を中心とするヤハウェの祭政一致国家が成立したのです。
  イスラエルの聖所は、これまでもカナンの聖所、いわゆる「高台」の跡に置かれていました。エルサレムの場合でも例外ではありません。ダビデがエルサレムを選んだのは、その地勢的な条件にもよるのでしょうが、そこがカナンの聖地であったからです(サムエル記下5の6~9)。しかしダビデが、ここをイスラエルの聖地とするためには、その上に神殿を建てることがどうしても必要でした。今ソロモンの手によってエルサレムに神殿が建築されることで、ヤハウェとダビデ王朝との契約が、このエルサレムにおいて確認されたのです。こうして、この町は「ダビデの町」として永遠に残ることになりました。 
ソロモンの知恵
   「ソロモンの知恵」という言い方は、聖書でほとんど常套句となるほどソロモンと「知恵」とが結びつけられています。いったいここで言う「知恵」とはどのようなものでしょうか? 普通「知恵」という言葉は、律法と異なって、日常生活に密着した生活の処世術という意味で遣われることが多いようです。しかし、ソロモンと知恵とを結びつける場合には、こういう「知恵」の理解では、とうていその真意をとらえることができません。
   「知恵」の伝統は、律法と同じくらい、あるいはそれ以上に古いと言えます。すでにエジプト第5王朝時代に(前2400年頃)、当時の宰相がまとめた教訓集があり、これが以後の知恵文学に大きな影響を与えたと言われています。このエジプトの宰相の教訓を一貫するのは、「マート」と呼ばれる「正義」であり、これが世界に秩序をもたらすと考えられていました。旧約聖書の箴言は、この「マート」の流れを汲んでいて、イスラエルの知恵の集大成であると言われますが、箴言の内容は、ソロモンの宮廷時代に遡ると見ることができます。そこで語られる「知恵」は単なる処世訓の域を超えていて、その起源は天地創造にも及んでいるのです(箴言8の22~31)。
  したがって、ソロモンの知恵は、明らかに宗教的な領域に及ぶ内容を含んでいて、この意味で「知恵」は「預言」と並ぶ霊的な働きをすると見なされました。知恵は、主から授与される預言と同じに、主の霊に導かれたみ霊の賜物だったのです。後にイザヤが、ユダ王国の為政者たちを厳しく責めますが、それは彼らが、イスラエルがかつて有していたこのような知恵(イザヤ書11の2)を見失ったからです(イザヤ書5の19~22)。ちなみに、イエスが「知恵」(ルカ7の35)と言うときには、まさにこの意味です。
  ソロモンの知恵は、列王記上10章で、シバの女王の来訪物語でも語られます。この物語は、ソロモンの知恵を語るための創作であるという説もありますが、アラビア半島の南西部にはシェバ王国が実在したと考えられていて、先に述べた通り、そこから交易のために女王が訪れたというのは歴史的な事実であろう思われます〔John Gray, Ⅰ&Ⅱ Kings, SCM Press, 259. 〕。
  知恵は、ヤハウェの言葉を直接に伝える預言とは異なり、実際の行政に携わる人や職人の工芸技術にも及んでいます。ですから現代の「技術」や「管理能力」と同じような内容を含んでいると言ってよいでしょう。したがって、このような知恵の霊は、それが授与されるひとりひとりの才能あるいは個性と切り離すことができません。このことから、知恵は、ともすれば「み霊の世俗化」と誤解される傾向があります。繰り返すようですが、旧約聖書の「知恵」は、神のみ霊の働きと切り離すことができません。すなわち、それは、み霊の世俗化ではなくて、むしろその反対の、あらゆる技術や能力の「ヤハウェ化」を意図していたのです。この意味で、ソロモン時代の知恵は、ほとんどヨーロッパ中世の神学に等しいと言えましょう。「主を畏れることは知恵の初め」という箴言(1の7)の言葉は、このように理解されるべきです。
 ソロモンの知恵の働きは、彼の知識の広さを語る列王記上5章(9~14)でも語られています。ここでの知恵は、国家の管理能力や工芸技術の分野だけではなく、あらゆる分野にわたる百科辞典的な知識に及んでいます。すなわち、ソロモンの知恵が目指していたのは、当時の学問、芸術、技術、職能全域におよぶカナン文化をヤハウェのみ霊によって管理すること、すなわち「カナン文化のヤハウェ化」にあったことを物語っています。
ソロモン王国の矛盾
  列王記上11章では、ソロモンの治世に内蔵されていた矛盾が暴かれています。ここで注意したいのは、この章に「敵対する者」という言葉が3度も表れることです(11の14、23、25)。「敵対する者」のヘブライ語は「サタン」で、これが転じて神に敵対する悪魔「サタン」を意味するようになりました。かつてダビデとその軍隊によって滅ぼされ殺された部族の逃亡者が、ソロモンに対して「敵対した」のです。仏教に「因果応報」という言葉がありますが、これで見ると「サタン」は、王国成立の過程それ自体に内蔵されていたことになります。いわばサタンは、ダビデ=ソロモン王朝の権力構造の内部に潜んでいたのです。王国の成立とその繁栄のためでしょうか、ソロモンは、このことに気づかなかったようです。
  ただし11章には、捕囚以後の申命記史家の編集が入っています(11の1~3、31~39)。サムエル記と列王記には、王制を支持する姿勢と逆にこれを批判する姿勢とが微妙に入り交じっています。このアンバランスは、王制が結果としてもたらした亡国と捕囚を体験した史家たちが、その体験からかつての南北の王制を反省し、さらに遡って、サウル以来の王制に対しても批判的な見方を強めたからです。しかもその一方では、ダビデ王朝の繁栄を慕う気持ちがあり、この両方が交錯してアンバランスが生じたのです。
  王国の衰退は第一は霊的な分裂から始まりました。ソロモン王は、カナンのヤハウェ化を成就したことによって、それまで支配してきたカナンの神々への警戒心を解いて「気を許した」ようです。このことが、申命記史家たちから「偶像礼拝」に溺れたと批判される原因となりました。おそらくソロモン自身の目には、王妃たちを愛することがカナンの神々への「逆戻り」(backslide=背教)とはとうてい考えられなかったのでしょう。預言者アヒヤが自分の外套を12切れに裂いたとあるのは(列王記上11の30)霊的な分裂を象徴しています。「衣」は霊の働きを表象するからです。
  11章(5~7)には、アシュトレトとミルコムとケモシュというカナンの神々の名があげられています。アシュトレトはアシュタロテという豊穣の女神ですが(旧約聖書のアシェラと混同しないでください)、ここではその呼び名が「恥ずべき女」とでも訳せる意味の「アシュトレト」に変形されています。アシュタロテは、カナンでは一般的に豊穣の女神として広く崇拝されていて、神殿で性的な行為をともなう儀礼も行われていました。この女神は、メソポタミアの女神イシュタルを起源としています。カナンでは、男神バアルの女神として祀られる場合が多かったようです。
  ミルコムも同じように「マルク=王」を意味する神の名前をもじったものです。ミルコムもケモシュも、これらの名前は、もともと特定の星の名、特に金星と結びついていたのではないか思われます〔John Gray, Ⅰ&Ⅱ Kings, 275 〕。金星はローマ神話では愛の女神ヴィーナスとして知られていて、これのギリシア名はアプロディテーです。アプロディテーは、もともとクレタ島の女神でしたから、アシュタロテ→アプロディーテー→ヴィーナスという系譜をたどることができます。
  「知恵」はギリシア語で「ソフィア」とう女性名詞で表されています。これは「英知」とも訳されますが、この「ソフィア」には、もともと女性的な要素が含まれていて、この語は、七十人訳では「神の言葉」を意味するギリシア語「ロゴス」と対比されています。「知恵」を愛したソロモンが「女性を愛した」(11の2)とあるのも、この点で符合するようです。しかもここでは、男神バアルと女神アシュタロテというカナンの聖婚の神話が結びついています。またこれらの神々が星と関連していて、メソポタミアの神話とつながっていることにも注意しなければなりません。古代メソポタミアでは天文・占星術が発達していましたから、ここでのソロモンの世界が、男神と女神の聖婚によって宇宙が生まれたという考え方、東洋の陰陽道と占星術にも通じる宇宙観へと拡散していた可能性があります。知識と技術の広がりが、ヤハウェのみ霊を離れて感覚的にとらえることのできる範囲での自然と宇宙のみに注目するという傾向が広まっていたのです。
 イスラエルは、出エジプト以来、ヤハウェのみ霊によって歴史の中を歩むように導かれてきました。したがって、自分を取り囲む自然や宇宙へ関心を向けることはあまりなかったのです。しかし、王国が成立し、知恵に導かれてカナンの文化とそれまでの知識や技術を採り入れることで、信仰によって歴史を歩む道から、感覚によって宇宙をとらえる世界へといつの間にかそれていったのです。王国が滅亡し、バビロニアで捕囚となった申命記史家たちが、ソロモンの時代を振り返って見たときに、彼らの目に映ったのは、このようなソロモンのヤハウェ信仰からの「堕落」でした。彼らが、厳しい目を晩年のソロモンに向けているのはこのためです。
  ソロモンの犯した誤りの第二に、その過酷な賦役と重税がありました。王国はもともと北部のイスラエル10部族と南のユダ族との連合から成り立っていました。これは、ダビデと北部イスラエルの部族の長たちとの間に結ばれた契約に基づく連合でした(サムエル記下5の1~3)。ところがヤハウェの名の下に結ばれた対等な契約関係をソロモンは無視したのです。このために、北イスラエルの部族に税と重い労役が課せられました。南北分裂の直接の原因を作ったヤロブアムが、北の出身でありながら、エルサレムの砦を修復する労役の管理者であったというのは決して偶然ではありません(列王記上11の28)。ソロモンの国家統一は、それまでのイスラエルの部族主義を宗教的・政治的・経済的レベルで崩壊させるものでした。しかし、まさにこのことが、課税の不公平感と相まって、国家規模での権力闘争への引き金となったのです。このように、外国の多様な文化を取り込む融和策とユダ部族を優先する税の過重負担という政策が、ソロモンの王国の分裂を招く結果になったと言えましょう。
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