第4章 日常生活とみ霊
宗教と非日常性
宗教というと、皆さんはなんとなく怖いような、あるいは不気味な感じを持つ方が多いのではないかと思います。昔から、「触らぬカミにたたり無し」といって、宗教を敬遠する向きが日本では多いようです。確かに、宗教には、日常生活を超えたところと言いますか、とにかく非日常的なところがあります。これは当然であって、その非日常性こそ宗教の生命なのです。お祭りがお祭りなのは、いつもと違う何か特別の日だ、という一種の解放感があるからで、このように日常を破るものがなかったら、私たちは日常生活を持ちこたえることができないわけです。祭りとまではいかなくても、スポーツを観る、映画に行く、若い人たちがコンサートで熱狂する。このように、日常の裏にあって日常を支えている世界、こういうものが人間には必要なんです。宗教というものは、こういう日常を破るもの、日常を超えるもの、この領域に関わっています。
人間は、見たとおりの肉体だけの存在ではないので、この肉体、私たちの「からだ」ですね、これは、見えない力を持つ私たちの心、いや、私たちの心でもどうにもできないようなある不思議な力、これを「霊力」と呼んでもいいのでしょうが、こういうものに支配されています。この「もの」という言葉自体が、「もののけ」などと呼ばれて昔から恐れられていました。「もの思いに沈む」「ものにつかれたように」「ものものしい」などの「もの」ですね。この「もの」は、「者」にもなり「物」にもなったりで、いろいろな姿をとります。
キリストのみ霊
宗教、特にキリスト教では、このような「霊」の働きは、「キリストの霊」として理解されていて、これを「聖霊」あるいは「み霊(たま)」と呼んでいます。私たちの会の名前も「コイノニア」で、これはギリシア語で「交わり」という意味です。「イエス様のみ霊にある交わり」という意味ですね。言わば、私たちの会は、このイエス様のみ霊がその原体験となっています。しかし、この原体験は、これを伝えるのがなかなか難しいのです。それは、このような体験が何か「カミがかり」の状態を指すのではないか、うっかりそのようなものに巻き込まれると精神状態がおかしくなるのではないか、こういう誤解あるいは懸念が先立つからではないかと思います。これはある意味で当然なことです。しかし、同時にそういう何かすごい体験がなければ、信仰とか宗教は、その力も働きも弱められて、ひいてはその意義さえも失われる危険があるわけです。ここに宗教の持つ二面性、その日常性と非日常性とが裏表になっている難しさがあります。私がこれからお話しするのもこの点についてです。
み霊の働きとからだ
では、そのみ霊の働きはどんなふうに与えられるかと言いますと、それは「見る」「聞く」「読む」「祈る」を通じてです。まず聖書の言葉を耳で聞く、目で読む、そして祈ることです。聞くのは耳、読むのは目、祈るのは心です。これを身体的に言い換えると「からだ」で祈ったり、読んだり、聞いたりするわけです。心と「からだ」の両方を働かせて聴く、観る、そしてイエス様のみ霊を祈り求めるのです(ルカ11:9〜13)。み霊は「霊」ですから「からだ」や心よりももっと深いところ、私たちの最も奥深いところに宿ります。ここが狂っていると何をやってもうまくいかない。イエス様のたとえにある「善い樹と悪い樹」のように、その人の霊によってその人のほんとうの有り様が決まります。
「からだ」と「心」と「霊」、この3つで人間は成り立っています。聖書では人間存在をおおよそこう考えています。ですから、肉眼だけでなく霊眼で主を観る、肉体の耳で聞くだけでなく霊の耳でも聴く、「からだ」で祈るだけでなくて霊でも祈ることになります。そうやってだんだんとイエス様に近づいていく、別の言い方をすると「引き寄せられていく」のです。つまり「この世離れ」するわけです。こんな楽しいことはありませんよ。どんどんと「引き上げられる」と、もうなんにも要らなくなります。こうして非日常の世界へと入り込んでいくわけです。
この世離れとその危険性
こう言うと、そろそろ「カミがかってきた」と思う方もいるでしょう。でも、たとえばコンサートなんかで、熱狂して踊り出す、あるいは、自分一人で音楽なんかを聞いてこの世離れする、こんなことは、だれでもそれなりにやっているわけです。ただし、こういう「この世離れ」には、確かに怖い面があります。うっかり、自分一人の世界に閉じ込もって、空想に耽ったり、妄想にとりつかれたり、自分かってなイメージに身を任せるのは、危険を伴うのも事実です。人間には、想像力があって、それがこのような場合に重要な働きをしますが、実は、ある種の麻薬には、この想像力と非常に似た作用を脳に及ぼす効果があるということです。言うまでもなくこれは、人工の、つくられた想像力であって、ほんものではない。偽の「想像力」です。偉大な詩人の持つ想像力と似てはいますが、本質的に違ったものです。この「似ている」ということ、これが、偽物の本質なんですね。この偽の働き、麻薬的な働き、これが宗教的な形をとると、いわゆる呪いのような呪術的なものやオカルト的なものに転落することになります。
逆に言えば、そういう人間の霊的な営みに潜む危険性をしっかりと見つめることが重要です。石につまずくのは、その石から目を離したときです。だから、怖いと言わずに、その怖さが何かをしっかりと理解することが大切だと思います。宗教には偽物が多いからうっかり乗れない。こう言う人に向かって、パスカルというフランスの哲学者、「人間は考える葦である」と言った人ですね、そのパスカルが言いました、「偽物があるのなら、ほんものがあるはずです。だから、私たちはよく考えようではないか」とね。
宗教の何が危険なのか?
そこで、私たちも考えましょう。いったい何が危険で、どこが狂うとそうなるのでしょう。たとえば、麻薬の場合です。この場合は、薬が切れるともう興奮や熱狂が続かなくなります。今までの空想的な熱狂がどこかへ行ってしまうのです。それだけではありません。次に同じような刺激を得ようと思えば、前よりももっと多くの薬を用いなければならない。つまり、偽の非日常性は、その時が過ぎ去ると、何も産み出すことをしないのです。ある事に熱狂する。それはいいでしょう。しかし、その熱狂が、単に一時的なもので、それが終わると後になんにも残らない。もう1度それを得ようと思えば、いっそう大きな刺激を求めなければならなくなります。このような「終わった後の空しさ」ですね、この不毛性が、その非日常性がほんものかどうかを判断する大事な目安になると言えます。
そういう麻薬的な熱狂とは少し違いますが、聖書のみ霊の働きとは異なる霊的な熱狂状態があります。ある霊的な熱狂に入ると、その人は、その霊的な陶酔にのめり込んで、日常の世界から離れていきます。しかも、どこまでもそれにはまりこんで、いわば「上昇」し続けるのです。こうなりますと、うっかりするともう日常の世界に戻れなくなってしまうのです。いわゆる「カミがかり」の状態です。こうなると、その人は、その「カミ」と一体になって、カミと自分との区別がつかなくなるのです。「ワレハ、ドコソコノナニナニノカミゾ」という事態になります。
こういう状態が一概に「悪い」とは言えません。ある意味で、霊的な宗教の世界には、日常の道徳を踏み越えたところがありますから、そこは、善悪の基準それ自体が意味を持たない世界だとも言えます。もうおわかりかと思いますが、日本では、こういう「教祖様」がたくさんいます。しかし、このような教祖的な存在は、自分とカミとの区別がつかない、言い換えると「自分をカミとひとつに」しているわけです。しかも、こういう人のコトバは、宗教のコトバですから、そこにいろいろな不思議や奇跡が起こります。こうなりますと、ある絶対的な権威を帯びたその人の言葉が、これを信じる人に絶対の権威を持って迫ります。ここに霊能的な宗教に潜む怖さがあります。実を言いますと、キリスト教の歴史の中でも、こういう例がいろいろあるのです。特に、ユダヤ人に対する迫害、それと「異教徒」に対する迫害、こういうときに、キリスト教の怖さが悪魔的な様相を帯びる場合が幾度となくありました。
政治権力でも宗教的な権威でも自己を絶対化し始めると、必ずと言っていいほど堕落します。特に宗教的な権威の場合には、この堕落が2つの面に現われてきます。一つは、富、つまりお金ですね。これを要求するようになるのです。カミの名において、金や財産を無制限に要求します。イエス様が、「神と金とに兼ね仕えることはできない」と言われたのもこの点です。ヨーロッパのキリスト教の歴史を調べてみても、教会が堕落したときには、必ずこういう傾向が現われます。
もう一つの特徴は、人間、特に「個人の価値」を認めなくなるという点です。私のよく知っている人で、知的レベルの高い女性がいます。彼女は、研究をして論文を書いたりしている人ですが、この人にいろいろと不幸が重なって、精神的に不安でたまらなくなったのです。とうとうある新興宗教に救いを求めました。すると、精神的に落ちつきを取り戻し、やや、安定した状態になりました。ところが、その人はインテリですから、自分のやっている状態を自分である程度判断することができます。彼女は、確かにこれで私の精神状態は落ちつきを取り戻すことができたが、心配なのは、このままこの教団にとどまると、自分というものを完全に見失ってしまう。教団全体の霊力、それは「教祖様」の霊能そのものですが、これに自分を完全に同化させてしまわなければ、この教団に留まり続けることができないと言うのです。
このように、教祖的なカミがかり宗団では、その教祖とその団体に完全に一体化して、その人の個性とか自主性とかが抹殺されるまで同化することが要求されるわけです。これが、無制限な上昇によって自分とカミとが一体化するときに生じる霊能的な宗教の危険性です。逆に考えると、この二つ、金や権力に汚染されないこと、ひとりひとりがそれなりの個性を発揮できる状態を保つこと、これが、正しい霊的な状態のあり方を示す指標であると言っていいと思います。
キリストのみ霊の場合
ではいったい、どうすればこのような弊害を防ぐことができるでしょうか。繰り返すようですが、こういう非日常の世界は、私たちにとって大切な意味を持っています。この点を踏まえながら、今度は、聖書の福音を考えてみましょう。先ほど言いましたように、福音の場合でも、イエス様のみ霊によって満たされるという体験があります。これはクリスチャンの間で「み霊のバプテスマ」と呼ばれています。しかし、クリスチャンでもこういう体験を嫌う人がいます。そういう人たちは、おそらく、今私がお話ししたような悪い例が原因となって、そういう霊的な福音の有り様を敬遠している、あるいはこれに対して偏見を抱いているのだと思います。確かに、キリスト教の場合でも、そういう熱狂に陥ってコントロールが効かなくなる場合が、ないとは言えません。またそこまでいかなくても、はじめてみ霊のバプテスマを受ける時に、かなり激しい体験をする人もいます。
しかし、問題は、そういう激しさでもなければ、強烈な体験があるかないかということでもないのです。大事なのは、その霊がイエス・キリストから来たものかどうかということです。その霊がイエス様から来たものであることを確かめるために、キリスト教では「主イエス様のみ名」を呼ぶことを教えています。なぜ「イエス様のみ名」がそんなに重要なのかを今ここで説明することは控えます。次に、聖書によって、自分に働くみ霊の世界を深く知ることが求められます。主イエスのみ名とそのみ言葉、つまり祈りと聖書ですね、この2つによってイエス様のみ霊の世界を学び知っていくことがとても大切になります。
もしその人が、どこまでもイエス様のみ霊に導かれて忠実に歩み続けていくならば、その人の魂と言いますか、その人の内面がだんだんイエス様のみ霊に導かれて引き上げられていきます。ところが、こうして引き上げられていくと、そこで不思議なことが起こります。それは、イエス様のみ名によって上がりつめていくと、きっと起こる現象ですが、あるところまで来ると、今度は逆に降り始めるのです。上がりつめたところで降下が始まる。ここですね。もう1度地上の世界に帰るわけです。これは非常に大切なんです。なぜなら、もしも、ここでどこまでも上がってしまうと、自分と「カミ」とが一つになってしまう。こうなるともう降りて来ることができなくなる。「われこそはキリストなり」になるわけです。これが、神と自分との見分けがつかなくなる状態です。この状態では、神と人間との間にはっきりとしたけじめが存在しなくなります。神様と人間とのけじめがなくなること、キリスト教が最も警戒するのはこのことなんです。
人間は神になれない
聖書によれば、人間はどんなに偉くても神にはなれない。人間どころか天使さえも神にはなれません。聖書が伝えるところでは、サタン〔悪魔と呼ばれて、悪霊どもの頭とされています〕は、かつて最高位の天使だったのです。ところが、この天使が神になろうとしたために、堕落して悪霊の頭にされたとあります。17世紀のイギリスの詩人ジョン・ミルトンは、『楽園喪失』という長編の叙事詩を書きましたが、その中には、サタンとその手下どもが蛇の姿に変身する描写があります。あの偉大なモーセでさえも、神のみ前では、罪を犯すただの人間に過ぎないのが聖書の世界なのです。
福音書を読んでみますと、イエス様は、ある人に向かっては、「私について来なさい」というように、日常の世界からその人を連れ出します。ところが、別の人に対しては、「家へお帰りなさい」と言って、その人の住んでいる町とその家族のいる所、つまり日常の世界へと帰らせています。また、同じ人でも、ある時は高い山の上に連れて行くかと思うと、次にはもう、ごみごみした人のいっぱいいる日常の世界へ連れ戻すのです。イエス様はどうしてそういうことをされるのでしょうね? ひとつ皆さんも考えてみてください。
ただ、ここで大切なことは、上りつめたところで降りる、あるいは戻ると言っても、それは、先ほどの麻薬の例のように、過ぎ去ればなんにも残らないという状態ではないことです。どこまでも上昇していくようで、あるところまで来ると降り始めるのは、いわば、その上昇した状態が、そのままで再び日常へと戻ってくることを意味するのです。つまり、自分の内面には非日常の世界を内に宿しながら、すなわち霊的な体験を心の奥に秘めながら、日常の世界へ戻ることなのです。ですから、その「日常」は、み霊によって上がる以前と以後とでは、同じではありません。どこがどう違うかを説明するのはとても難しいのですが、確かに、何かがその人の内面で変わり始めるのです。先ほど言いましたように、急激に劇的な変化をとげる人もいますが、大方の場合はそうではなくて、少しずつですが、そういう事態がその人の内で進行していきます。
今お話していることを神学的に説明しようとすれば、とても難しくなります。「グノーシス」とか「霊・肉の存在論」とか「超在と内在」とか「理性と信仰」などの問題が絡んできますから。ただ一つ言えること、それは、福音の世界では、人間が直接に神のところへ近づくということがないことです。これは、聖書の神の本質に関わる問題なので、これ以上詳しくお話しすることができません。とにかく、人は、神のみ子であるイエス様を通じて、間接的にしか神を知ることができないのです。イエス様のみ霊に導かれて上昇すると、イエス様という「人格・ペルソナ」に到達します。これ以上は、絶対に超えることができません。イエス様は「神の子」と呼ばれています。それは、イエス様が、人間であると同時に神ご自身を顕わしているという意味です。ですからイエス様の内に神を観る、あるいはイエス様にあって神を知るのであって、人間にはこの人格の神としてのイエス・キリストを超えることが許されていないのです。だから「安心して」祈りを深めることができます。「イエス様のみ名によって祈る」というのは、こういうことを意味しているのです。
以上福音的な角度からお話ししましたが、こういう霊的な消息は、必ずしも福音に限らないのもかもしれません。禅の場合でも、言葉は違いますが、日常と非日常とを表裏一体にとらえているのではないかと思います。あるお坊さんが、「禅の心は?」と聞かれて、「平常心」と答えたという話がありますが、そのお坊さんの言いたいことは、私が今お話ししていることにつながるのかもしれません。
「からだ」と霊的日常
ここまで話を進めますと、私たちの「日常」が、全く新しい意味を帯びて私たちの前に姿を顕わすことになります。少なくとも、そういう「日常」が存在するということだけでも、わかっていただきたいのです。この新しい意味での日常ということをもう少し考えてみましょう。
今お話したように、霊的な上昇をとげると、今度は、日常の世界へ戻ってきます。ところで「日常の」世界とはなんだろうかと考えますと、先に私は、見る、聞く、読む、祈るときに、「からだ」と心を働かせると言いましたね、この「からだ」こそ私たちの「日常」なのです。このことは、私たちの一日を考えればすぐわかります。朝起きてから夜寝るまで、私たちの「からだ」があるところ、そこが私たちにとっての日常そのものなんです。通勤、職場、台所、どこであろうとも、自分の「からだ」の存在する場、そこが自分の日常だということです。もちろん、存在すると言うのは、ただそこに在る、ということではなくて、「からだ」を通じてさまざまな生活の営みをすることです。私たちは自分の日常生活を「からだ」を通じて行なっているのです。
だから、私たちの非日常の世界が霊的な世界であるとすれば、日常の世界は「からだ」の世界であると言うことができます。こう見てくると、日常と非日常とは、「からだ」と霊との関係に置き換えることができます。つまり、私たちの「からだ」を通じて、私たちの内に宿る霊が働くのです。逆に言えば、イエス様のみ霊は、私たちの体によって、はじめて外に向かって行為として現われるのです。この場合、「からだ」は、「心」とさらにその奥に宿る「み霊」の現れであると言うことができます。よく信仰は精神であって肉体ではないと言う人がいますが、それは違います。霊的な宗教体験を多少とも知っている人なら、そのことがよくわかります。霊とからだを切り離すことはできません。
行為の象徴性
キリストの福音では、「み霊」と「からだ」の関係がとても大切で、この2つを正しく調和させることが必要になってきます。しかし、調和させると言っても、たとえば心の目と肉眼、心の耳と「からだ」の耳、この霊と肉体を足して2で割るわけにはいきません。そうではなくて、「からだ」は心の「現われ」なのです。見えるからだは見えない霊を「映し出して」いるのです。ですから、私たちの肉眼は、その内に霊眼が潜んでいることを外に向かって現しています。この意味で、肉眼は霊眼の「しるし」なのです。いわば、霊的な目の象徴ですね。ですから人は、私たちの肉眼を見て、内に潜む霊眼を通じて人格としての「私」がものを「観ている」ことを悟ります。すなわち、「からだ」は、その内に宿っている霊を「象徴的に」現わしている、こう言うことができます。したがって、「からだ」の行為も、そのうちに宿る霊の働きを象徴していることになります。
この点を強調するのは、霊と「からだ」との関係は、そのまま、霊と私たちの日常の行為そのものと関係していることをわかっていただきたいからです。たとえば、イエス様のみ霊にある愛、これも、「からだ」を通してみ霊の愛が働くのでなければ、日常のどこにもみ霊は働いたことにはなりません。目に見えない霊の働きが、「からだ」を通じて見える行為となって現実するのですから。霊と「からだ」の2つは、このように本体とこれの現われと言ってもいいと思います。すなわち体の行為は、そのうちに宿る霊を「象徴する行為」だということです。
小事を大事に
注意してほしいのは、このように霊的なものを象徴する世界では、日常の小さな行為でも、それが、外に見えている部分だけでなく、ある霊的な意味を帯びてくることです。少なくとも人の目から見れば日常の些細な行為、一見なんの意味もないと見えることが、実はその背後に大きな意味を秘めている。こういう場合があることを皆さんに悟っていただきたいのです。他人の目にはそれはなんの意味もないことに映るかもしれません。しかし、それを行なう本人には、実に大きな意味を帯びてくるのです。禅宗のお坊さんの修行にもこれが当てはまるのではないでしょうか。たとえば、掃除をする、ご飯を食べる、こういう行為までが大切な意味を帯びてくる、そういう世界ではないかと思うのです。これを福音的に言うと、日常の小さな行為にもみ霊の働きの「しるし」を観ることなのです。
み霊にある生活
福音書を読んでいると、イエス様が、さまざまな人にさまざまな語りかけや奇跡的な病気の癒しを行なっておられます。ところが、不思議なことに、大勢の人に福音を語りながら、そこにいる病気の人全員を癒してやるのかと思うと、そうではないのです。イエス様は、大勢の人の中から、たいていは見捨てられた人、要するに人の目からみて神様から1番遠いところにいるような人のところへまっすぐに行かれて、その人だけを癒してやる。こういうことをなさっています。そんなに力があるのなら、そこにいる人をみんな治してやれば、薬代が助かって、人気者になって、信者も大勢増えるのに。皆さんは、こう思うかもしれません。しかし、イエス様はそうなさらなかった。それは、イエス様のされている行為が、単に、医者の代わりの信仰療法とか、人助けの手っとり早い方法ではなかったことを意味しています。神様の目からみて、どんな人が最も神様の心にかかるのか、どんな人を救いたいと神様が願っておられるのか、このことを人々に示そうとされた行為だったのです。すなわち、イエス様のなさる行為は、霊的な意味を帯びた象徴的な行為だったのです。
人々は、イエス様のされることを見てびっくりしました。およそ、教会や神学の先生が教えていることとは、かけ離れた行為だったからです。イエス様のされたことは、いわば、それまでの常識的な価値観をひっくり返すような行為だったのです。一つ一つの行為が、それだけの意味を持つのは、それが、数ある行為の一つではなく、ただ同じことの繰り返しではなく、そこにはそれぞれに、ある霊的な意味がこめられていたのです。
マリアの香油
ここで、ヨハネによる福音書にある話を紹介させてください。イエス様が、十字架にかけられる1週間ほど前に、ある家に泊まられました。すると、その家のマリアという女性が、貴重な香油(香水用の油)の壺を持ってきて、それを砕いて、その中身をイエス様の足とおからだに塗ったのです。香油の香りが部屋いっぱいに広がったとあります。ところが、側にいたユダという弟子が、これを見て批判しました。「そんな貴重な香油なら、300デナリには売れただろう。そうすれば、どれだけ沢山の貧しい人を助けてやれたかわからないのに。もったいない」とね。1デナリは、その頃の労働者一日分の給料ですから、300デナリというのは、現在の500万円位になるのでしょうか。するとイエス様はこう言われました、「貧しい人はいつでも助けてやれる。この人は、私の埋葬の準備をしてくれたのだ。今に世界中の人がこの話を聞くようになるだろう」。一見なんの意味もないような行為でも、心からの愛をこめて行なう時に、その行為が、実は大きな意味を帯びてくることをこの話は教えてくれます。
ユダの考え方は、ある意味できわめて合理的です。第一に、効率的です。300デナリでどれだけの数の人を養えるか。どうすればもっと効率的にお金を運用できるか。これが重要なのです。彼の視点からすれば、行為の質は問題にはなりません。そこにどんなに深い想いがこめられているのかなどは、彼の目に入らないのです。人間の数とお金の額、これの計算から割り出した、最も効率的で人々にもよくわかる「効果的」方法です。これはきわめて現代的ですね。効果と効率第一の今の世の中にぴったりの考え方です。
大衆社会と個人
一人の人間のする些細な行為。そんなものは、今の世の中ではなんの意味も持ちません。マスコミも取り上げないし人の注目も集めません。現在私たちはそういう世の中に住んでいます。何かやろうと思えば、できるだけ大勢の人を集めて、大きな「イベント」にする。テレビで騒がれ、雑誌に写真が載らなければ意味がない、こういう考え方のまかりとおっている世の中です。個人の存在する価値、その個人が行なう他人にはわからない「無意味な」行為、こういうものがどうすれば、その本来の意味を取り戻せるのか? これが今私たちに問われているのです。私たちひとりひとりの行なう小さな営みが、評価されてもされなくても、それだけで絶対的な価値を持つ、そういう世界が存在するのかしないのか、そういう生き方ができるのかできないのか、要するに、会社とか、組織とか、団体とか、そういう歯車の一つにならないと個人の行為は意味を持つことができないのか? こういう問題点がここに浮かび上がってきます。
確かに私たちは、肉体的で物理的な存在です。肉体的な存在は、数で数量的に処理できます。何万人中の一人としてね。しかし、私たちは、人格的な人間であって量や数ではない。自分の生き方を自分だけでほんとうに納得できる、そういう生き方をしようと思えば、どうしても、この霊的な人間存在の有り様にぶつからなければならないのです。宗教的な生き方、霊的な生き方、それが持つ大きな大きな意味が、ここにあると思います。