第2章 ひとり立ちの宗教
私のパソコン体験
はじめに自分の体験に基づいた一つの例をお話しします。と言っても、これは、パソコンを知らない人にはわかりにくいので、なるべくわかりやすく説明します。その上に、私のパソコン歴だけは、かなり長いので、今から10年以上も前の話になります〔この講演は1994年のものです〕。皆さんは、街でCDを買ってきても、そのCDが、自分の家にあるプレイヤーでうまくかかるかどうかを心配したことはないでしょう。外国のCDでさえ、日本製のプレイヤーで聴くことができます。どの会社のプレイヤーで聴いても、どのCDでもかかります。もしも、パイオニアのプレイヤーを買ったら、そのプレイヤー向けに作ったCDでなければ聴くことができない。全く同じCDを、ソニーの作ったプレイヤーで聴こうとすれば、もう一枚、ソニーのプレイヤー向けの同じCDを買わなければならない。こんなことになったら、ずいぶん不便だろうと思います。
ところが、ごく最近まで、日本では、パソコンの世界はこういう状態だったのです。パソコンでは、CDに当たるものを「ソフト」と言います。日本語を入力したり、計算したり、グラフにしたりするいろいろなソフトがあります。ところが、このソフトが、たとえばNEC(日本電気)製のパソコン(つまりプレイヤー)で使うためには、そのためだけに作ったソフトでなければならなかったのです。たとえば、一太郎という日本語を書くためのソフトがあります。これを東芝のパソコンで使おうと思えば、NECの一太郎とは別にもう一つそれ用の同じ一太郎を買わなければならなかったのです。NEC、東芝、日立、富士通などのパソコンがありますが、どれもバラバラで、しかも使い方まで違ったのです。ちょうど、トヨタの車を買ったら、その車の運転を習わなければならない。今度、日産の車に買い替えたら、もう一度、日産の車の運転を習わなければならない。こんな信じられないようなことが実際あったのです。
当然、どの会社も自分のパソコンをできるだけ多くの人に買わせようと躍起になります。一度NECのパソコンを買ったら、これで使えるソフトは、NEC系のソフトしかない。このソフトを使って、自分のデーターをつくり始めたら、もう途中で別の会社のパソコンに変わるのがめんどうになります。いろいろと便利なソフトがあっても、全部NEC用でなければならない。外国のもの、たとえばIBMの便利なソフトがあっても、NEC用に作り直したものが出なければ使えないのです。
NECは次々とより便利な新しいパソコンをつくります。これに対応して、一太郎のほうも、次々と新しく改善された便利なのが出ます(これをヴァージョン・アップと言います)。最新の物を使おうと思えば、今まで使っていたパソコンを全部捨てて、全く新しいパソコン本体から買わなければならない場合もあるのです。CDのレコードで、もっと音の良いレコードが出ると、これを聞きたければ今使っているプレイヤーを捨てて、もう一度、同じ会社のもっと高いプレイヤーを買わなければならないようなものです。これでは、どんなにソフトの使い心地がよくて便利でも、すごく高くつくのです。しかも、いくら高くても、よほどのことがないとほかの会社の物に乗り換えるのがめんどうですから、仕方なしに、次々と高い物を買わされます。
このように、日本のパソコン業界は、特定のメーカーの系列に組み込まれた流通と販売店とのタイアップによって、消費者にきめの細かいサーヴィスを提供してくれます。しかし、このために消費者は、ほとんど外国製品の倍近くの値段で買わされるのです。その上に、独特の系列化によって、一度その製品を買うと、それからはずっとその系列の製品を買わなければならない。その結果、高い物をいつまでも買わされる仕組みになっています。ほかの物に乗り替えるのが難しいですからね。なるほどサーヴィスはいいです。しかし、きめ細かいサーヴィスは高くつくのです。第一ほかの物を選ぶ自由がない。
アメリカが日本語のソフトを統一した
ところが、幸い最近事情が変わりました。今までは、それぞれの会社のパソコンに合わせたそれぞれの一太郎を買わなければならなかったのが、一つの一太郎さえ買えば、どの会社のパソコンでも使える仕組みができたのです。これが「ウィンドウズ」という仕組みです。ところが、このウィンドウズという仕組みを作ったのは、日本のパソコン業界ではない。ビル・ゲイツという人のマイクロソフトというアメリカのソフト会社だったのです。日本語を書くための日本人用のソフトを日本の国内で使うのに、日本のパソコン業界はパソコンの規格を統一することができませんでした。あるいはしませんでした。これを日本の国内で実行してくれたのは、アメリカの会社です。こういう、信じられないような愚かなことが、現在、日本のパソコン業界で起こっています。
日本のパソコンの技術は、アメリカに比べてそんなに低かったのでしょうか? そうではありません。日本の製品はそんなに悪かったのでしょうか? そうでもありません。昔買ったNECのパソコンはどこにも故障がないからです。けれども、もう使いものにならいほど古い型になってしまった。アメリカの会社のつくったウィンドウズに合わないからです。なぜこんなことになったのでしょうか? 日本のパソコン業界は、本気になって、日本全体のことを考えなかったからです。まして、パソコンを使う消費者の身になって考えなかった。自分の会社さえ儲かればそれでいい。これが本音だったのです。アメリカの会社は、こういう日本の会社の弱点を研究したのでしょうね。
私は今年になって、IBM系のパソコンに替えました。ずいぶん迷いました。なかなか決心がつかなかったからです。買ってみてわかりました。先ず安いのです。日本の同じようなパソコンの半分くらいです。ものによってはもっと安い。これは台湾製です。あわてて日本のパソコンも値段を下げました。私は二度びっくりした。今まで日本のパソコン会社が、値段をつり上げこそすれ、消費者のために下げたことなど一度もなかったからです。現在、東芝も富士通もアメリカのパソコンの規格に合うような製品を作り始めています。だから、IBM系のパソコンは、アメリカ製、日本製、台湾製、など実にいろいろあります。製品のいい物もあまりよくない物ものもあります。いい物は高い。良くない物は安い。あたりまえです。今まで日本では、どれもこれも似たり寄ったりだから、悪い物を買う心配はなかった。その代わり高かった。けれども今度は違います。先ず高い物にするか、安い物にするか、どの国の物にするか、自分で選ぶことができます。
もうひとつあります。今までは、新しい物が出たら、古い物は全部捨てて、全く新しく買い替えなければならなりませんでした。ところが、アメリカの製品は、部品が企画化されていて、全部買い替えなくても、その部品だけをいい物と取り替えれば、新しく出たもっといいソフトを使えるようにできているのです。極端に言えば、自分の好みと必要に合わせて、自分一人のためのパソコンを、いろいろな国の製品を組み合わせて作ってもらうことができます。だから、IBM系に替えてから、安くて、自分の必要に応じた物を選ぶことがしやすくなりました。その代わり、自分で選んだ責任は自分でとらなければならない。よけいなサーヴィスもありません。そんなものはなくても使えるようにできているのです。
最小限度のサーヴィスだけで、しかも、ある特定の製品だけではなく、自分の好みやニーズに合わせて自由にいろいろな製品を組み合わせたり選んだりできる。こんなシステムができるためには、世界に通用する普遍的な規格の製品を提供しなければなりません。そうすれば、消費者は、きわめて安くて個人の好みや必要に応じたものをその時々に利用できるのです。ただし、この場合は、個人個人の判断と選択が重要になります。
日本の宗教団体
長々とパソコンの話をしたのは、実はこれに似たことが、今日本のいろんな分野で起こっているからです。宗教においても同じことが言えます。日本の宗教団体は、人情に厚く、きめ細かく、丁寧に信者の面倒を見てくれます。つまりサーヴィスがいいのです。しかし、このことは、同時に、その人は、一生その宗教のしかもそのセクトに所属しなければならない状況に置かれることを意味します。しかも、このために、結果として多額のお金を要求されるようになります。懇切丁寧なサーヴィスに見合うだけのお金、いやそれ以上のお金を吸い上げられる結果になります。しかも、いったん入ってしまうと、人間関係やその他のことで、違った宗団や宗教に移ることがなかなかできない。宗団に長くいればいるほど、その宗団にいなければ信仰生活が営めないような仕組みになっていますから、自分で信仰を選ぶことができない。こうして、宗団は、その中にいないと信仰生活ができない状態に信者一人一人を育てていくのです。だから、宗団に長くいればいるほど、ひとり立ちできない人間になっていきます。このためにいつまでも同じ宗団にお金を献金する。しかもその献金がだんだん高くなっていきます。日本の宗教団体が多額の金を集めることができるのは、このような仕組みになっているからです。
さらに、日本型の宗教団体では、個人の自由が著しく制限されます。上層部の方針がすべてを決定し、これによって一斉に動かされる。販売、選挙、伝道、雑誌、集会、すべてがそうです。しかも、たいていの場合、その頂点には、一人の人物がいます。彼は、その背後に観音様だとか、お釈迦様だとか、あるいは、釈迦も神もキリストも一緒にしたような権威を帯びています。どうしてそんな便利なことができるのかと言えば、そういう背後の権威は、実はそれほど重要ではないからです。それよりも、現に生きている頂点の人間の方が重要なのです。「生き神様」という名のとおり、現在生きている人物、これに服従するのです。その人の命令どおりに動く人間にされること、これが日本の宗教団体の特徴です。一度そこに入ってしまえば、もう選ぶ自由はない。個人としての選択も、自分なりの判断もだんだん必要でなくなります。気がついたら、ひとりの人間の言うがままに動かされる自分にされています。
聖書の信仰
ところが、聖書の福音の世界では、かなり様子が違います。まず聖書のお言葉を聞く。そして祈ります。聖書を通じてイエス様を信じるようになります。このようにしてイエス様の霊、み霊ですね、これを自分の内に宿すのです。これが私たちの伝える福音の核心です。後は、聖書を読んで、祈って、自分に与えられたイエス様のみ霊の導きに従って生きる。突き詰めるとこれだけです。あまりにあっさりしているから、少し頼りないと感じるかもしれません。けれども基本的にはこれがすべてです。だから、キリスト教は安くつく! 法事も要らない。お布施も要らない。驚くほど高い祈祷料も要らない。その代わり余計なサーヴィスは一切ありません。聖書と祈りとその人に宿るみ霊、この三つさえしっかりと掴むならば、その人は、個人としてその人なりの信仰生活を保つことができます。言い換えると、その人が、ひとりでどんな宗教やどんな価値観の人たちの間にいても、それなりに自己の宗教的価値観を維持しながら生きていくことのできる能力を身につけることができるのです。
けれども、このような信仰の生き方ができるようになるためには、それなりの信仰の経験や聖書の知識、それにしっかりした祈りの姿勢がなければなりません。このためには、集会に来て聖書を学ばなければなりません。祈りを身につけなければなりません。強い個人になるための訓練が必要だからです。ですから、集会に出席します。祈ります。そして、イエス様とじかに接することのできる人間になるように努めます。このためには、信者同士の交わりが大切です。しかし、集会は、その集会にいなければ自分の信仰が全うできない人間になるためではないのです。まして、今生きている特定の「先生」の言うがままに動かされる人間にされるためではありません。たとえ自分一人でも、個人として、聖書と祈りによって信仰を貫くことができる人、そういう人に成長するためなのです。
運転免許を取った人は経験していると思います。仮免許の後のはじめての路上運転には、必ず添乗員が付き添ってくれます。そうでないと危ないからですね。しかし、添乗員は、自分が側にいないとその人が運転できないようにするためにいるのではありません。自分がいなくてもその人がひとりで運転できるようにするためにいるのです。だから厳しいですよね。自立したクリスチャンは、このように強い個人に育てられます。福音は、そういう人たちを育てることを目指すのです。これが、私たちが皆さんに伝えたい宗教のあり方です。ただし、これは後で述べますが、ひとりでいることが最善で最良のあり方だという意味ではありません。
神様から来る命の霊
それでは、このようにして形成される、福音的な個人とはどのような存在でしょう。新約聖書によれば、個人としての信仰は、イエス・キリストの聖霊、私たちはこれを「キリストのみ霊(たま)」と呼んでいますが、このみ霊を自分の内に受け入れることから始まります。イエス・キリストのみ霊は、人格的な霊ですが、現在身体を持って生きている人物の霊ではありません。では死んだ人の霊かというと、そうでもありません。それは、今もなお生きて私たちに働きかけてくださる「神のみ子」の聖霊と呼ばれています。
私たちは、大自然に働く命の恵みを受けて生きています。この命の源が神のみ霊なのです。大自然に働く神の命、これがイエス・キリストのみ霊の働きの基本になっています。だから、「神」をキリスト教の教義によって限定された狭い概念から解放して、もっと広い視野で、普遍的な神概念によって、「命のみ霊」を考えてもらって結構です。春になると命の躍動を感じる。これが、大自然に働く神の命ですね。私たちの肉体に働く命の力も同様です。
ところが、私たちは、いつもこのような命の力を感じているわけではない。病気になったり、精神的に落ち込んだりします。肉体の命もさまざまに歪むように、精神的にも、すなわち霊的にも(英語では「精神」と「霊」は同じ'spirit'です)病んだり歪んだりします。心がいじけると命の力が失われます。こういう時には、精神の病気の場合でも肉体の場合でも、いろいろと治療をします。けれども、根本のところでは、大自然に働く命の力がなければ治らないのです。肉体も精神も、ただあるがままの「自然」の状態では、必ずしも命が十分働かない場合があるのです。
このことは、自然というものが、それだけでは、真の意味で生きた力を与えてくれないことを教えています。絶えず自然に働きかけて、自然に命を吹き込む力、命を新しく創り出していく力が働かなければ、現象的な自然は滅んでしまいます。神のみ霊は、このように、私たちの内にも周りにも命を「創り出して」います。これがみ霊の働きです。ですからそれは、「創造するみ霊」と呼ばれています。神が「超」自然であるというのはこの意味ですね。「超」とは「創り出す」ことです。大自然に働く神のみ霊は創造のみ霊です。
イエス・キリストのみ霊とは?
ではイエス・キリストの聖霊とは何でしょう。先ほども言いましたが、それは人格的な霊です。神のみ霊には力があります。しかし、それはただ「力」だけではありません。それは、イエス様にある赦しと愛の力、私たちの自然な弱さをあるがままで赦してきよめてくださる力なのです。このみ霊は私たちに語りかけます。ただ「言葉」だけではありません。私たち人間は人格ですから、み霊は、理性にも意志にも感情にも肉体にも、全存在的に働きかけてくださるのです。こういう霊でなければ、本当の意味で人間を救うことができません。
この間ベニー・ヒンという人の『聖霊さま、おはようございます!』という本を買ってきました。この人は、朝起きた時と夜休む前に、「聖霊さま、おはようございます」「聖霊さま、お休みなさい」とお祈りをしているそうです。神のみ霊は、このように、ひとりの人格的なお方としてその人に接しているのがわかります。
この神が、全人格的に私たちに接してくださるとき、私たちはそのお方をイエス・キリストの聖霊、すなわち、み霊と呼ぶのです。このみ霊に接してイエス様のみ名によって神を愛し、神に愛されること、これが聖書と祈りによって得られる信仰の歩みです。み霊は人格ですから、このみ霊に接する私たちもひとりの人格となります。神様が私たちをこのように扱うのなら、私たちも互いにこのように接しなければなりません。人間はだれでも、神様の目から見るとき、その人格においては対等です。そして、このような人格こそ、「個人」を成り立たせる基になるのです。
なぜ個人の信仰なのか?
「個人主義」という言葉は、この国では良い意味にも悪い意味にもなります。良い意味では個性のある人。悪い意味では自分勝手な人ということになります。あるがままの自分は「自己」ではなくて「自我」ですね。「我を張る」というのはどこまでも自己を主張する人に対して言われます。これは、個性ではなく「我」です。人間は、その「自然な」本性(英語の"nature"には「自然」と「本性」の両方の意味があります)において神に従わない、神を信じない、神に反逆する傾向があります。いわゆる、アダムとエヴァの犯した「原罪」ですね。ですから、生まれながらの人間が、そのあるがままで神に是認されることはありません。人間にはだれでも、どうにもならない「我」という罪が潜んでいるからです。
しかし神様の命は、このような人間の「我」よりももっと強いのです。人間の「我」という罪に打ち勝って、命を働かせてくださいます。これが「罪の赦し」です。その赦しの力が、イエス・キリストのみ霊となって私たちの内に働きます。こうして、イエス・キリストのみ霊を受けることによって、新しい「自己」が誕生します。このようにして生まれた自己、すなわち「み霊の人」は、その人の内で成長し、その人を通して働きます。「我」によらず霊的な「自己」による人間、すなわち自由なひとり立ちの人間が、このようにして形成されるのです。その自由は、父なる神から来るのですから、何人もこれを奪うことができません。
しかし、このように「ひとり立ち」できる人たちが、一人だけでいるほうがよいのかというと、これは必ずしもそうではありません。「孤独」は大衆よりも付き合いやすいかもしれませんが、孤独は自由を生み出すことをしません。「自由」とは、人と人との間ではじめて意味を持つ言葉だからです。だから、ひとりでいることのできる人、こういう人たちこそ、少人数で集まることが大切です。芸術でも学問でも宗教でも技術でも同じですが、本当にクリエイティヴな仕事は、こういう「ひとり立ちできる人たちの集まり」から生まれるのです。古代でも中世でも現代でもこの事実は変わりません。人間の生き方を変えるような大きな創造的な仕事は、いつもこのような「一握りの人たち」の中から生まれるのです。だから、宗教的な交わりが、このように少人数のしっかりとした交わりを、数多く形成することがとても大切なのです。
メディア伝道の危険性
なぜ私が、このような交わりの形成を重要視するのかと言えば、メディアが発達するにつれて、宗教もこのメディアをその宣伝媒体として利用するようになってきているからです。このようなメディア伝道は、一人の人気のある「伝道者」が、大衆の人気を集めて直接に個人に向かって語りかけるようになります。これは一見個人伝道、すなわち、ひとり立ちを育てる伝道であるかのように見えます。しかし、必ずしもそうではないのです。ある特定の人物が、メディアを通じて大衆に語るためには、彼は、マスメディアの効果を知っていなければなりません。政治家が選挙運動をやるときのマスメディアの利用と基本的には同じです。しかし、真に創造的な真実が、大衆全部に理解されるなどということはありえません。彼は、大衆の最大公約の願望をうまく利用することで、自己の宗教活動を拡大する方策を採らざるをえなくなります。これなしには、メディア伝道にかかる莫大な費用をまかなうことが不可能だからです。この結果、孤独な個人が、その伝道者と直接に結びつくことによって、孤独な大衆がその人物を媒介にして集まるようになります。その結果、次第に「自分の信仰で考えることのできない」人間が形成されるおそれがあります。
現在アメリカの宗教伝道で起こっていることがこれです。アメリカ式のやり方も、これが支配的になると、大衆テレビ伝道方式に見られるように、伝道ビジネス化することによって、今度は個人個人に献金を求め、特定のタレント的な個人に大衆を引き付けるようになり、その結果、人と人との少数ながら意義深い交わりの基盤を掘り崩すおそれがあります。言い換えれば、大衆伝道は、注意しないと、それぞれの地方の教会がよって立つ基盤を、信徒の交わりという点でも財政的な面でも貧困化させる危険性を有しています。これからは、いろんな宗教が、マスメディアを通じての大衆伝道を盛んに利用すると思われますから、これに携わる指導者たちは、よくよくこの点に注意を払う必要があります。
なぜ「ひとり立ち」が大切か?
私は、これからの日本人には、ひとり立ちできる宗教が必要だと考えています。それは、この国では、高度の教育と知性を具えた人々、自分で物事を判断するだけの知識を具えた人が増えているからです。また、必要とあれば、そういう知識を自分で学ぶことができる環境が整いつつあるからです。こういう人たちを、未熟な子どもみたいに扱う必要はないのです。以下に具体的な問題を、二、三取りあげてみます。
【家庭】個人主義は家庭の崩壊をもたらす。こう考える日本人が少なくありません。この考え方の背後には、日本では、家庭的な家族関係が親密であり、それが社会の安定につながっているという見方があります。今までの日本であれば、この見方はある程度真実です。しかし、この見方の間違っているところは、現在の日本が、家庭的にも社会的にも親密な人間関係の上に成り立っているという前提です。実際の日本では、自分一人主義と甘やかされた家庭的な関係によって、非常に不安定な「自分」ができつつあるのが現状です。もしもこれに対応できる家庭教育がなされなければ、これから自分と他人との間に立って苦しむ子どもたちが増えていきます。
「20歳(はたち)過ぎたら子どもは他人」という言葉が日本にもありますが、逆に考えるなら、「20歳過ぎたら他人」になるように育てることが、本当の家庭教育であると言えます。それでは親の権威がなくなると考える人は、アメリカの子どもと日本の子どもとが、親をどう見ているかを調べた統計を見てください。現在、親の言うことをあまり聞かない子どもの率が、世界一高いのが日本です。アメリカの子どもは日本の子どもよりも親の意見に従うのです。
日本では、子どもを脅す時に、「家から出て行きなさい」と言います。これが日本の子どもにとってこわいのは、家族の集団から締め出されたら、自分一人では生きていくことができないようにしつけられているからです。アメリカでは、「自分の部屋から出てはいけない」と言って罰します。日本とは逆に、個人の自由を奪われるのがこわいのです。自由には危険と責任とが伴います。これに注意を払わないで、個人の自由を主張したときにはこの罰が待っています。しかし、ひとり立ちしていない父親や母親の下では、ひとり立ちできる子どもは育ちません。夫婦がまずひとり立ちすることがとても大切です。
【情報化社会】個人化の傾向を促すもう一つの要因は、情報化社会の出現です。インターネットは、世界中の個人をパソコンで結びます。そこでは、匿名で個人間の意見のやりとりが可能になり、その結果、考え方や価値観の同じ者同士が結びつくことが可能になります。これは、国家や民族や宗教の壁を超えて新しい価値観を生み出す基盤となるでしょう。ただしこれからは、このようなメディア媒体にアクセスできる人と、そうでない人との間には、文化的な格差が広がるでしょう。情報を利用できる人たちとできない人たちとの社会的な二重構造が、国内だけでなく、国際的な規模で生じてくるおそれがあります。
二重構造と言えば、情報交換の場合に、その媒体となる言語は、国際的には英語が重要な役割を演じるでしょう。日本社会は、外では英語内では日本語、外はドル内は円、のように二重生活が特徴です。西暦と元号、洋食と和食、洋服と和服などはすでになじみですね。国内政治の二重構造化(中央と地方)も必要になるでしょう。自分で情報を選び、積極的に自分の生活を切り開くことのできる人たち、すなわちひとり立ちできる人たちとそうでない人たちとの二重化が進むことが今後予想されます。
【民主主義】日本が、欧米の近代を克服しようとする思想は、かつて「大東亜共栄圏」という理念となって現われました。その基本となる哲学は、これを西田哲学に求めるべきかもしれません。しかし、この思想は、現実には欺瞞であり、ファシズムの悲劇をアジアに拡大するだけの結果に終わったのです。なぜこの思想が失敗したのでしょうか。それは、個人の自由が確立されていなかったからです。欧米の近代化の基礎になる「個人の自由と人権」、この思想を日本人の視点から、しっかり把握していなかったからです。
私たちの国は、平和憲法のもとで、いわゆる「戦後民主主義」を一つの理想として、国づくりをしてきました。今これが再検討されていますが、この「戦後民主主義」が、戦後の日本の大切な指針であったことは確かです。この民主主義は、「アメリカン・デモクラシー」と言い換えることもできます。そこでは、良くも悪くも、アメリカがそのモデルとして存在していたからです。この事情は、現在でもなおある程度続いています。
しかし、この「戦後民主主義」も、「もはや戦後ではない」という言葉の示すとおり、その輝きを失ってきています。一つには、国内的に、アメリカン・デモクラシーが、そのままではなかなか日本では定着しないという事情があります。今一つは、アメリカ自身が、かつて理想としていた価値観を喪失しつつあるという事態があり、当然そのような「理想」が私たちの目には色あせたものに映り始めています。
私は、アメリカの民主主義が、日本のメディアが騒ぎ立てているほど力を失って無力なものになっているとは思いません。しかし、今ここでそのことを論じるつもりはありません。問題は、「今この時点での」日本で、再び個人の自立や個性が叫ばれていることです。それは経済的には、規制緩和、職場では能力主義、企業や大学でも自由競争主義が盛んに唱えられていることに現われています。これは、戦後民主主義を旗印にして、ひたすら経済成長を続けていた時代にはなかったことです。
このような「個人の時代」の到来の背景には、東西の冷戦の消滅や日米の経済関係の変化などがあげられるでしょう。日本は、再び、戦後とは違った意味で、アメリカの挑戦を受けているのかもしれません。ただ一つ戦後と現在とでは、はっきりと異なる点があります。それは、今度は、アメリカをモデルにするにせよしないにせよ、その選択は、かつてのように、アメリカ側から来るのではなく、私たち日本人の手に握られているということです。
一つの良い例が平和憲法です。これはかつて、アメリカ側から、言わば「押しつけられた」憲法であると一部の人たちから非難されてきました。確かに、そのような一面が、現在の憲法にあるのは事実でしょう。しかし、憲法の戦争放棄の9条を破るように「押しつけて」、現在の自衛隊をつくったのもアメリカです。そして、今、アメリカは、日本に、常任理事国入りと引き替えに、自衛隊の海外派兵を求めてきています。社会党〔現在の社民党〕が、戦争放棄の憲法解釈を変更しましたが、これは、アメリカの押しつけではありません。完全に日本人の選択によって行なわれたことです。もしも、今この時点で、憲法の戦争放棄を「アメリカの意向にあえて逆らってまで」選びとるなら、その選択は、完全に日本人自身から出たものとなります。平和憲法は、その時はじめて、日本人が自ら選んだ憲法だと証明されます。原爆と平和憲法、この二つは、世界平和の理念を打ち立てる基礎として位置づけられています。私たちは、これらの理想を自らの手で選択することによって、アメリカの押しつけではなく、私たち日本人によって行なわれたと高らかに宣言することができます。
どちらを選びとるのか。これが現在私たちの選択に委ねられています。このこと、戦後のいわゆるアメリカン・デモクラシーをも含めた価値観を受け継ぐのか、捨てるのか、受け継ぐとすれば、何をどのように受け継ぐのか。捨てるとすれば、これに代わるものはなんなのか。これが現在「私たちの選択に」かかっている、ここが、戦後と現在の事態との決定的に違う点です。今私たちは、個人の自由を「捨てる自由」さえ持っています。日本自体が、本当の意味で「ひとり立ち」して歩み始めることができるのか、これが今問われています。
これらすべてを考慮に入れた上で、今最も大切なこと、私たち日本人がやらなければならないことは、世界に通用する、少なくともアジア全体が共有できるような「価値観」の創造です。これなしには、日本も、日本語も、日本の文化も、世界的に見れば、狭いローカルな存在に限定され、やがて失われていくおそれがあります。私たち一人一人が「ひとり立ち」すれば、日本も「ひとり立ち」できる国になります。これによって、日本とその文化は生き残ることができます。
少数派の宗教
個人の自由を支える信仰のあり方についてお話ししましたので、これをお聞きになった皆さんは、私の言う「ひとり立ちの宗教」とは、いろんな意味で「強い人間」を育てる宗教であるという印象を持たれたと思います。そもそも「ひとり立ち」とは、強くならなければできないことですから、この印象は当たっています。今この国では、たとえ少数でも、しっかりした個人が必要であるというのが私の信念です。このように言うと、私の唱える宗教とは、強者の宗教であって弱者には向かない、あるいは弱者を省みない、こう受け取る人がいるかもしれません。しかし、それは違います。
私は先に、日本では、情報にアクセスできる人、自分で考えることのできる「ひとり立ち」する人と、これができない人との二重構造の社会になるだろうと言いました。日本は、いろんな意味で二重基準の国だと言えます。内と外という基準を使うなら、日本人は、内では日本語、外では英語を使っています。さしずめ、英語を使える人は、有利な立場にある強い人、使えない人は不利な立場にいる弱い人、ということになるのでしょう。
ところが、問題はそう簡単ではありません。現在の日本では、英語を読めない人は決して「弱い」人ではありません。たとえば、文学の分野では、中国やギリシア・ラテンの古典から南アメリカ、さらにアフリカ、アジアの現代の文学まで、世界のほとんどの文学が日本語で読めます。英文学では、シェイクスピアの研究などは、日本語の文献だけでも十分できるほどです。聖書学や神学の分野でも、日本語だけでほとんどカバーできると言ってもいいほどです。現在の日本では、日本語だけの世界で、重要な仕事をしている人がいくらでもいます。村山首相だって英語ができるかどうかあやしいものです。
どうして英語がうまくなくても、首相が務まるのでしょうか? それは、英語からラテン語、ギリシア語にいたるまで、世界中の言葉を日本語に訳してくれる人がいるからです。日本人は、内と外との二重文化のためにずいぶん苦労してきました。しかし、どんなに苦しくても、どちらかを取ってどちらかを捨てるわけにはいかなかったのです。このために、その溝を埋めるために血の出る思いをしてきた人が大勢います。たとえば、この間、筑波大学のある先生が、『悪魔の詩』という本をアラビア語から日本語に訳したために、殺されるという事件がありました。この本が、イスラム教の国では、発禁になっているからです。しかし、この先生のおかげで、私たちは、イスラム世界でさえ読むことのできない詩を日本語で読めるのです。外国語のできる人がいるからこそ、外国語のできない人が、日本語だけで世界の文化に触れることができます。このことから、日本の普通の人が高度に知的な生活を営むことができています。これが、二重文化の特徴です。
では外国語のできる人は「強い」のでしょうか? そうかもしれません。しかし、この人たちが、努力して「強く」ならなければ、外国語に「弱い」人が強くなれないのです。極端に言えば、外国語に強い人がいるから、日本語だけの世界が、世界の文化に遅れないですんでいる。遅れないどころか、川端康成のように、日本語の世界が英語になって、世界に発信することもできます。だから、どちらかが強くて、どちらかが弱い。こういう考えが誤っているのがわかります。外に向かう人がいるために、内の世界が守られているというのが、日本の二重基準のありかたです。
私はこのやり方が基本的に正しいと思っています。しかも、これは不幸なことではなく、幸いなことです。もしもどちらかを選ばなければならなくなったら、その時は日本が大変不幸な時です。たとえば、だれでもが英語を使わなければ生活できないように状態は、日本人にとって不幸な時です。同じことが「ひとり立ち」についても言えます。「ひとり立ちの宗教」を信じる人が日本人の大多数を占めるなどということは、少なくとも当分はありえないと思います。考えてみてください。もしも今、日本人だれでもが、ひとりひとりで、それぞれに何事も自分で決めなければ生きていくことさえできない。こんな状態に迫られるとしたら、それは日本に大きな動乱が起こって、国中が大混乱に陥った時ですよ。明治以来、洋食と和食、洋服と和服のような二重基準が融合しつつ調和するまでには、それなりの時間がかかりました。個人の自立においても同じことが言えます。特に、宗教や社会の価値観の基本的な部分で、個人の自立が日本人全体に行きわたるにはもう少し時間がかかると思われます。
ところが時代は、日本社会の内部でも外部でも急速に動いていっています。私が今日本に、しっかりした個性のある人たちが数多く生まれてこなければならないと考えるのは、この点です。社会のあらゆる分野にわたって、今こういう人たちが求められています。これからの国際社会で、日本がやらなければならないことをやりとげるには、そういう日本人が必要です。この意味で、日本人は余っていません。少ないのです。本当に個性的に振舞える日本人が、今ほど必要な時は過去になかったと言えます。
国や民族が大きな変革をとげるとしても、いきなりやっては衝撃が大きすぎます。大型バスがギアをチェンジするときには、ダブル・クラッチを使いますね。一度にやらないで二段階に分けてやるのです。高速道路で急にギアをチェンジするときには、まずギアを切り離せ。それからアクセルを踏んでエンジンの回転を高めてからゆっくりとつなげ。昔こう教えられたのを思い出します。まずギアを切り離します。こうして、少数の人たちが新しい価値観に基づく行動を起こすのです。それからゆっくりとつなぐ。この二段階方式こそ二重基準の日本にふさわしいと思います。
個性のある人は偏った人か?
ではここで、「個人」ということを改めて考えてみましょう。イエス様のお話しになった「善いサマリア人」という有名な話があります。あるユダヤ人が、ユダヤの国を旅していて、強盗に遭って持ち物を取られ、傷を受けました。しかし、ユダヤの指導層の人たちは、だれも彼を助けてくれませんでした。ところが、ユダヤ人とは仲の悪い隣の国のサマリア人が、たまたま通りかかつて、彼を助けてやったという話です。この話は、いろいろなことを教えてくれます。第一に、国や人種が違っていても、人間としてだれでもが助け合うという愛の精神が大切なことを教えてくれます。それは、民族や宗教や地域や身分を超えた普遍的な愛の姿です。
こういうサマリアの人が、実際にいたのかどうか私は知りません。しかし、こういう人が本当にいたと私は考えています。けれども、そういうサマリアの人は、サマリアでは、やはり「少数の人」でしょうね。だから、こういう人は、サマリアでは、かなり「個性的な」人であったろうと私は思います。普段憎み合っているユダヤ人をわざわざだれが助けてやるものか! おそらくこれが、「普通の」サマリア人の考え方でしょう。ところが、彼はそう考えませんでした。自分がサマリア人で、相手がユダヤ人だから、何もこの自分が助けてやらなくてもいいとは思わなかったのです。彼は、「ひとりの人間」として、ごく自然にあたりまえのことをするつもりでそのユダヤ人を助けてやったのです。自分がサマリア人であることも、国や地域や人種や宗教の違いも意識しませんでした。彼はただ、ひとりの人間になったのです。これはとても個性的な人です。
現在、かなりの日本人が、海外でNGO(民間海外援助団体)のメンバーとして援助活動をしています。こういう人たちはとても個性的な人たちだと思います。この人たちは、自分が所属している国や人種や宗教の違いを乗り越えた普遍的な考え方をする人たちです。逆に、もしも自衛隊が、日本の国と日本の国威を外国に印象づけるためにPKO活動をやっているとすれば、このような活動は、現地の人たちの心に訴えることはないでしょう。また、外国から賞賛されることもないでしょう。せいぜい、日本製の車を売るために、その地均しに来ているぐらいにしか見られないでしょう。あるいは、常任理事国入りのためのPR作戦だとしか評価されないでしょう。PKOが、ほんとうに海外で意味を持つのは、自分の国意識を超えた普遍的な価値観に立って行動しているときだけです。
誤解された個人主義
皆さんは、個人的な人、個性的な人とは、自分勝手な行動をする人だと誤解しているかもしれません。人のことなどかまわずに、やりたいようにやる人が個人的だ。こう考えているかもしれません。ところが、今おわかりになったと思いますが、個性的な人になることは、最も普遍的な価値観を持つ人、極端に言えば人類全体のことを考える人になることなのです。
このように言うと、生涯日本で暮らして、生まれた地域以外に出たこともない人は、個性的になれない。皆さんはこう思われるかもしれません。ところが日本にも、比較的狭い地域で暮らしていながら外国でも認められる芸術家や宗教家がいます。この人たちの世界は、そのままで世界に通用するのです。けれども、そういう人たちだって、その地域ではずいぶん個性的な人だと思いますよ。イエス様は、生涯パレスチナの地域から外へは出ませんでした。広い外国の知識を持っておられたわけでもないし、外国語が読めたわけでもありません。けれども、その生き方は全世界の人に影響を与えています。一つだけ確かなこと、それは、イエス様が、パレスチナではずいぶん「個性的な」人だったということです。このように、真の意味で個性的な人は、その人のうちに普遍的な価値を宿しているのです。
ところが、一般には、「個人主義」というのは、自分主義で、人と仲良くやることをしないことだ。こう受け取られています。これには、それなりの理由があります。私の大学には、ずいぶん大勢の外人の先生方がいます。辞めていった人、来年から来る人を含めると数え切れないほどの外人と付き合ってきました。今年の夏に、一緒に研修旅行に行った英語科の女の書記さんは、いつも外人の先生たちと付き合っています。私が、アメリカ人やイギリス人やオーストラリア人やカナダ人など、いろんな国の人と付き合うのだから大変でしょうと言いますと、彼女は、「どこの国の何人などということは、私たちにはあまり関係ありませんよ。それぞれ一人一人が違った個人ですから、ダレソレ先生ということで、やらせてもらっています」という返事でした。そのとおりだと思います。付き合いやすい外人の先生もいれば、付き合いにくい日本人の先生もいるのです。
けれども、外人の先生の中で、日本人の先生や学生に評判のいい先生とよくない先生とがいるのも事実です。よくない先生には、いろんな理由がありますが、中でもよくあるタイプがあります。それは、日本人の考え方、日本人の価値観ですね、これを理解しようともしなければ尊重しようともしない人です。こういう人は、当然、日本語を熱心にやらないから、日本語も下手です。日本語ができなくても英会話の先生は務まりますから、別に問題はないのです。しかし、こういう姿勢では、日本の学生の気持ちを理解することはできません。こういう先生に忠告すると、きまってこう答えます。「私は日本人ではありませんから、違っているのは当然でしょう。私は自分の考え方や価値観を大切にしていますから、これを変えたり、日本の人に合わせようとは思いません。私は私ですから。」皆さんは、おそらく、こういう考え方や生き方をする人が、「個人主義」なのだと考えているのではないでしょうか。
欧米の近代、とくに17世紀以降の「個人主義」には、確かにこういう一面があるのは事実です。「個人主義」(individualism)は、英語の「分かつ・分離する」(in + divide)から出ています。家族や会社などの人間の集団をこれ以上分けられないところまでバラバラに分かつことです。その結果出てきたのが「個人」です。ちょうど物質をどこまでも分けていって、分子から原子という概念に行き着いたのと似ています。この個人は、「自分は他人とは違う」という考え方、人と自分とを区別する価値観を基礎にしています。このような意識を持つ「個人」が、自己の権利をどこまでも主張するならば、違った価値観を持つ人たちとの間に摩擦が生じるのは当然です。
私の大学では、期末試験が終わった後でも、病気などで試験を受けられなかった学生のために、追試験を行っています。ところが正規の試験期間が終わると、連絡先も言わずに海外へ出かける外人の先生がいます。これでは、追試験を受けられない四年生が卒業できなくなるおそれがあります。ところが、正規の試験期間の後はどうしようと私の権利だから、そのような制限は受け入れられないと言う先生がいました。これでは、日本の大学で一緒にやっていくことはできません。ところが日本の先生たちは、こういうタイプの先生たちのことを決まってこう言います、「彼(彼女)は、典型的なアメリカ人だからナー」。日本人だけでなく、たとえばイギリス人でも、「彼は、まあ、アメリカ人だからね。しかたないよ」なんて言います。「典型的なアメリカ人」、この場合、この言葉は、その人の行為や価値観が、アメリカという国民の一般の価値観から一歩も出ていない。自国の価値観以外の考え方を理解しようとしないことを意味します。こういう人は「典型的な」人、決まり切った人ですね。だから、少しも「個性的な」人ではありません。
これに対して、日本語ができて、日本人と付き合うことのできる外人の先生は、「なかなか面白い人だな。アメリカ人としては、ちょっと変わっている」などと言われます。「ちょっと変わったアメリカ人」、このことは、その人が、いわゆるアメリカ人のステレオタイプに当てはまらない人、すなわち、とても個性的なアメリカ人だということを意味します。このことは、外国で暮らす私たち日本人に対しても当てはまるのは言うまでもありません。あなたは、外国では、「典型的な日本人」と呼ばれたいですか。それとも「変わった、面白い日本人だ」と思われる方を選びますか。
これでわかることは、本当に「個性的な」人というのは、欧米であろうと日本であろうと、自分の国の価値観や考え方をどこまでも主張する人ではなくて、自分の周りにいる違った考え方をする違った人種や宗教の人たちの気持ちや考え方を理解しようとする人のことだということです。みなさんは、今まで、自己を他の人たちから切り離して、自分の考え方や価値観をどこまでも固く通す人を「個人的な」人、個性のある人だと思ってきたかもしれません。また、そういう生き方を「個人主義」だと考えてきたかもしれません。しかし、そういう「個人主義」は、現在では「決まり切った・典型的な」タイプなのです。少しも新しくもないし個性的でもありません。そうではなく、いろんな考え方や価値観の人たちと、人種や国や宗教にこだわらないで理解し合って暮らしていける人、こういう人こそ、今現代の最も「個性的な」人です。
こういう付き合いをする人は、相手を、何人だとか、何の宗教の人だとか、人種や宗団に所属する人としては見ないで、そのような帰属集団を含めながらも、その人がいろんな要素を具えている「ひとりの人間」として付き合うのです。先ほどの書記さんの言うとおり、「アメリカ人」と付き合うのではない。誰々さんというひとりの人として付き合うのです。こういう人たち、こういう付き合い方が、これからは大切になります。
重層的な個性
こういう人は、自分は他の人とは違った別の人間であるという「分離意識」よりも、自己がさまざまな人間関係との結びつきによって形成されているという見方をします。自分自身をできるだけいろんな人と「重ね合わせて見る」ことのできる人です。その人の内では、「自分自身である」ことが、すでにその中に、いろんな「自分自身」を含んでいます。つまり、自己のアイデンティティが、いろいろな違った価値観の人のアイデンティティと重層的に重なり合っているのです。このような「自分観」は、他人と分離した強固な自己を持ち、しかも互いにその違いを確認し、違いを認め合った上で、お互いの溝を理性的な抑制によって克服しようとする、従来のアメリカ型の個人主義とは異なっています。これは、お互いが、切り離され「分けられた」存在ではなく、重なり合って、その重なり合いの一つの焦点に自分という存在があるという考え方です。だから、これは、「分離的な個人性」(individuality)ではなくて「重層的な個性」(multi-identity)です。
最近では、アメリカでも、互いの人種的な違いや個性を主張し合い衝突させることで社会を成り立たせようとするのではなく、互いの人種的個人的な差異を、いわば自己形成の原理そのものとしようとする考え方に移ってきていると聞きます。自己とは、無制限に拡張されるべきものではない。それは、他者の存在それ自体を自己形成の内に取り込むことによって、心情的に自然な融和を目指すことなのです。このように、孤立した個人主義ではなく、ひとつの共同体を作り上げていくための個性主義という考え方が、これからのアメリカでも要求されると思います。
私たちは、ここで、自分と違った宗教や価値観の人を受け入れるためには、個性的な人間にならなければならないことに気がつきます。これはとても大切です。なぜなら、これからは、とくに日本を取り囲むアジアでは、違った宗教、違った考え方、違った人種、違った習慣の人たちと一緒に暮らしていくことが、日本だけでなくアジア全体としても絶対に必要だからです。そうでないと、アジアの経済力が増し、これにつれて軍事力が増大するにつれて、中東や旧ユーゴスラヴィアのような戦乱に巻き込まれるおそれがあります。
実は、このような多重な個性主義は、ユダヤ教からキリスト教が生まれてくるときにも、パレスチナからギリシアにいたる東地中海一帯で生じたことなのです。イエス様の生まれたガリラヤという所は、まさにこのようなさまざまな種類の人が住んでいる所でした。それまでのユダヤ教は、自分の立場を変えることをしないで、異邦人をユダヤ教に改宗させようとばかり考えていました。しかし、イエス様をはじめとして、イエス様の教えに従った人たちは、ある意味でとても「個性的な」人たちでした。パウロは、タルソというギリシア文化のまっただ中にある都市に生まれ育ちましたが、彼とその家族はユダヤ教徒でした。しかも、彼はローマの市民権を持っていました。その上、エルサレムで最も厳格なユダヤ教の律法教育を受けました。ギリシア文化の中で育ち、ローマの市民権を持ち、ユダヤ教の伝統的な教育を受けた人、こういう人が、回心してイエス・キリストを信じる人になったのです。彼はまさに、「重層的な個性」の人でした。だから、彼は、宗教的な寛容を考える時に、「ユダヤ教の立場に立って」寛容を説くことをしませんでした。彼には、「ユダヤ人もギリシア人も」全く同じでした。どちらも自分の一部だったのです。
宗教的な寛容とは?
私たちは、ここまで来て、はじめて、「宗教的な寛容」ということを考えることができます。従来までの「宗教的な寛容」は、とくにキリスト教の視点からは、さまざまな宗教の違いを、互いの異質性、互いの違いをしっかりと認識しながら、それでも、互いに争いを避けて共存していこう。こういう考え方であったと言えます。この考え方に立つならば、キリスト教が他の宗教に対して「寛容」であるとは、この言葉の文字どおりに「我慢する」という姿勢をも含みます。このような姿勢には、キリスト教は世界でもっとも優れた宗教である、だから、「寛容」であれば、やがて世界はキリスト教に統一されるという考え方がその背後にあります。自分と他との違いを強く認識することから出発するとは、一面では、自分自身を変えることを拒否する姿勢を意味します。自分を変えることをしないで寛容を説くことは、だから、他の宗教から見るならば、キリスト教は、自分自身を変えることをしないで、やがて、他の宗教が、キリスト教の中に統一されていく時を待っているのだと映ります。宗教と宗教との調和は、お互いに、自分の立場を変えることなしに、相手を自分の中に統一していこうとする姿勢が見えている間は成功しません。
だから、宗教団体や組織同士が、いくら融和や協調をはかっても、それだけでは、内容のある平和や一致を創り出すことができないのです。それは、国家権力を基礎にした国と国とが、いくら話し合っても、本当の調和や一致に至ることが難しいのと同じです。真の意味の平和とは、人と人との間で、すなわち個人と個人との間で創り出されていくものです。「平和を創り出す人は幸いである。その人は神の子と呼ばれる」(マタイ五・九)とあるイエス様のこの言葉は、そういう人間になりなさいと私たちに語りかけているのです。
自分は何々教の信者だ、ドコソコ宗団の所属だ。こういうことを優先させたり誇りにしている人たちは、個人としても、自分と違った宗教や考え方をする人たちと付き合っていくことが難しいのです。自分を教団や団体の一部と考える人、あるいは、国家や会社や組織の単位とみなす人、そういう人は、違った国や違った人種や違った宗教の人を自分の内に受け入れることが難しいのです。自分の国、自分の宗教はもちろん自分の一部です。しかし、自分はそれだけではない、もっと大きないろいろなものを含むことのできる存在なのだ、こういうことを知ることが大切です。これができる人こそ、本当の意味で個性的な人ですね。私は、イエス様が、そういう人であったと信じています。なぜなら、私が、イエス様のみ霊に導かれるときに、自分がそういう者に変えられていくのを覚えるからです。「主のみ霊のご臨在には自由がある」(2コリント3の17)のです。
私たちの集会は、今は小さいです。なきに等しい存在です。しかし、私たちは、このような小さな存在から出発したいのです。メディアを媒体にした大衆伝道的なやり方は今後ますます盛んになって行くでしょう。しかし、盛んになればなるほど、キリスト教は、今私がお話しした意味での個人の重要性の問題に必ず突き当たります。30年後か50年後かそれはわからない。いずれにせよその時には、私はもうこの世にいないでしょう。しかし、私たちのみ霊の福音が、どんなに大切な意味を帯びていたかを人々が悟る時が今にきっと来ます。私たちが追求し切り開こうとしている霊性が、その時に人々に大きな指針となるでしょう。そういう時が、このコイノニア会に必ず訪れます。