本日の講演の題名に、「宗教する人」といういささか妙な表現を用いましたが、別に奇をてらったわけではありません。今までに(2000年)「宗教する人」という用語を以下に述べる意味で使われたのをわたしは聞いたことがありませんから、誰かほかにこういう言い方を(そのラテン語とともに)しているのかどうか知りません〔ラテン語は
homo rerigiosus(ホモ・レリギオースゥス)〕。「宗教する人」と聞くと皆さんは、「宗教的な人」あるいは「信心深い人」と受け取るかもしれません。クリスチャンなら「敬虔なクリスチャン」を連想するかもしれません。でも、私の意味は少し違います。
人間はいろいろな営みをします。食べたり性の営みをするだけでなく、学んだり、物を作ったり、お金を貯めたり使ったり、選挙や社会運動を通じて政治や社会にかかわったり、遊んだりします。これらのすべてを総合して「人間」、ラテン語で「ホモ」 "homo" と言います。ですから「ホモ」にはいろんな側面があります。人間は頭脳を使って学んだり道具を使ったりしますから、そういう営みをする人間のことを「英知の人/ホモ・サピエンス」(homo sapience)と言います。人間は物を作りますから、こういう人間性を「作る人/ホモ・ファベル」(homo faber)と言います。同じようにして、人間は経済活動をしますから「経済する人/ホモ・エコノミクス」(homo economics)です。人間は言語を語りますから「(言葉を)話す人/ ホモ・ロクエンス」(homo loquens)です。「遊ぶ人」は「ホモ・ルーデンス」(homo ludence)です。すべての人間は何かを信じて生きていますから、わたしはその意味で「宗教する人・ホモ・レリギオースゥス」(homo religiosus)という言い方をしたのです(ラテン語の理論上の読みでは「ホモ・レリギオースス」ですが、実際の発音では語尾を「スゥス」とするほうが適切でしょう)。現在では「ホモ・レリギオースゥス」は人類の進化の過程と関連づけられて、「進化人類学」の分野に入るようです。しかしこの用語は、近世以降に、人間の自然科学的な営みと宗教的な営みが分離され、その結果、科学と宗教が対立あるいは分裂してしまったことから、自然科学と宗教の営みを再結合しようという意図の基に用いられる傾向があり、わたしもそのような方向で「ホモ・レリギオーサス」を考えています。
良心的兵役拒否
ですから、「宗教する人」というのは、必ずしも特定の宗教を信じている人、あるいは特定の宗教団体に入って宗教活動をしている人のことだけではありません。もちろんそういう「信心深い人」も「宗教する人」に入ります。けれども一見そうでない人でも、人間である以上なんらかの意味で「宗教する人」なのです。
現在の日本には、平和憲法のおかげで徴兵制度がありませんが、日本以外の国では徴兵制度すなわち兵役があります。ところがモーセの十戒には「殺してはならない」という戒めがあります。本来この戒めは、戦争で人を殺すことを禁じたものではなかったのですが、キリスト教の時代になりますと、モーセのこの教えは、「どんな人間でも殺してはならない」という意味に理解されるようになりました。この伝統は宗教改革の時代まで受け継がれて、16世紀のヨーロッパでは、メノナイトと呼ばれるキリスト教の宗団が、たとえ国家の命じる戦争でも人を殺すことはしないという信仰から兵役を拒否したのです。当時はこのような行為は殉教を意味しました。17世紀のイギリスでは、アナバプティストたちやクエーカー教徒やフレンド派のクリスチャンたちが兵役を拒否しました。このように宗教的な理由で兵役を拒否することを「良心的兵役拒否」(Conscientious Objection)と言います。
メノナイトやクエーカーやフレンド派の兵役拒否は、アメリカでも南北戦争の頃から見られます。しかし、これが注目されるようになったのは、20世紀に入って第二次世界大戦のアメリカにおいてです。日本でも太平洋戦争中に、明石順三というエホバの証人の信者が兵役を拒否しました。アメリカでも当初は、クエーカーやフレンド派など、ある特定のキリスト教団体に所属していて、しかもはっきりとした信仰的理由から兵役を拒否する場合に限って、これを認め、その代わりに彼らには重労働が課せられました。
ところがこの兵役拒否は、特定のキリスト教団体だけでなく、キリスト教のどの教派でも、宗教的な理由で兵役を拒否する者に適用されるようになりました。こうなりますと今度は、キリスト教だけではなく、仏教徒やイスラム教徒などキリスト教以外の宗教に属する人でも、自分の宗教的理由を根拠に兵役拒否が認められるよう要求されることになります。このようにして、1940年にアメリカで良心的兵役拒否が法律で認められました。
アメリカでは1940年代以降、特にヴェトナム戦争を境にして、良心的兵役拒否が広く認められるようになりました。したがって、現在では「良心的」とあるように、特定の宗教を信じていなくても、自分の「良心」に従って兵役を拒否することが認められるようになったのです。現在ドイツでは、良心的兵役拒否者は、その代わりとして一定の社会的奉仕活動を行うことが義務づけられています。ちなみに日本でも、最近若い人たちに社会奉仕活動を義務づける法案が国会に提出されましたね。これに対して社民党の土井党首が「これは徴兵制への準備ではないか」と森総理に迫る場面がありました。
このことからわかるように、「宗教を信じる」ことと、特定の宗教は信じないけれども、人間としての良心に基づいて行動することとの間に、それほど判然とした境界が存在するわけではないのです。ですから人間には、特定の宗教を信じる信じないにかかわらず、何らかの良心が具わっていて、これによって行動する場合に、その人は「宗教する人」として行動していると考えることができます。
疑似宗教について
今お話ししたことからわかるように、一見宗教を信じていないように見える人、あるいは自分は無宗教であると思っている人、そういう人たちでも、いろいろな場合に宗教的な言葉で語ったり、宗教的な行為を行うことがあります。それはちょうど、お金や経済に無関心な人でも、物を買うときにはできるだけ安い物を買う。あるいは同じ仕事をするのなら賃金のより高い方を選ぶというように、お金に関する限りは、どんな人でも「経済する人」として行為するのと同じで、これはほとんど無意識的におこなっているわけです。「宗教する人」の場合も同じです。ただ自分ではそれが宗教的であるとは少しも意識していないのです。
現代にはいろいろな価値観や考え方や道徳があります。それらは一見宗教とは無関係に見えます。ところが、そういう価値観や考え方や道徳が、政治、経済、社会、教育、道徳、その他もろもろの生活に入り込んできますと、「宗教」とは無関係なはずなのに、「事実上は」宗教と同じように機能して、人々の生活を規制したり束縛したりする場合があるのです。この場合、それを押しつけている人たち自身が、自分たちのおこなっていることが宗教的な行為であることに気がつかないばかりか、規制される側もそのことに気がつかないのです。もしも初めから宗教であることがはっきりとわかっていれば、信仰の自由という観点から、押しつけを拒否したり、逆にそのことを承知の上で、自分の意志で積極的に参加することができます。ところが無宗教的な装いをつけている場合は、する側もされる側もそのことに気がつかないのです。こういう形で、ある価値観や考え方を押しつけられると、信じたくない宗教を強制されたと同じような息苦しさを生じる結果になります。このように、一見宗教ではないように見えていても、事実上は宗教と同じように機能して、人々の生活に影響を与える場合に、これを「疑似宗教」と呼びます。
マルクス主義は宗教でない?
私が大学に入った頃は、まだマルクス主義が盛んな時代でした。学生たちはインターナショナルの歌を歌いながら、デモに参加して警官隊に追いかけられたりしていました。そんな雰囲気でしたから、私がキリスト教を信じる者であると教室で言いますと、「ほほう」と驚きとも軽蔑ともつかない声が聞かれたのを覚えています。マルクス主義は、神の存在を否定する無神論に立つ政治・経済理論であるから、マルクスの理論は「科学的」であり、したがって、宗教からは最も遠いところにあると学生たちは思っていたからでしょう。
マルクス主義は宗教的には中立である。だからマルクス主義の社会では、宗教は自由であると言われました。ところが、実際に社会主義革命が行われた旧ソビエト連邦では、ロシア正教を初め宗教活動は厳しい制限を受けて、これに反対した人たちはソビエト政権によって弾圧されました。全く同じことが、現在中国でも北朝鮮でも行われています。つまり、「科学的」であり宗教的には中立であるはずの社会・経済理論が、実際は宗教と同じように、しかも最も厳しい祭政一致の宗教国家と同じように、人々の生活だけでなく、その良心や思想までも厳しく監視する機能を有していたのです。なぜこのようなことが生じるのでしょう。それは人間とは「宗教する人」だからです。たとえ科学的に考え行動していても、生き方の価値観のような根本的な領域になると、人は「宗教する人」として行為します。その場合一見宗教とは無関係に見えますが、現実には宗教と同じ機能を果たすのです。これが疑似宗教です。
現在この国では、いろいろな疑似宗教がはびこっています。疑似宗教では、自分たちの教えや考えは決して「宗教ではない」と言います。あるいはこれは宗教とは無関係な「道徳」であるとか「科学」であると主張します。アメリカを初め世界中で、現在ナントカ・サイエンスというのが大流行で、日本でもこれが広がる気配を見せています。その上近頃では、はっきりとした宗教団体でありながら、自分たちの正体をできるだけ隠して、表向き、宗教とは無関係な政治活動や社会運動や奉仕活動、さらにビジネスの装いを付ける傾向さえあります。
もちろん宗教としてはっきり自分の立場を出せばよいというわけではありません。例えばオウム真理教は、はっきりとした宗教です。しかし、もしもあれが、宗教であることを隠して、社会奉仕や政治活動やビジネスの装いを付けて広まったら、どんなに恐ろしいことになったでしょう。その意味で、オウムは自分たちの活動が宗教であることをはっきりと表明しているだけ、まだわかりやすいです。
このように考えますと、人間とは「宗教する人」であることをはっきりと自覚し、かつそういう認識に立って人間の言動を理解することがとても重要だと気がつくのです。このためには、「宗教する人」とはどのような特徴を有しているのか、また「宗教する人」にはどのような危険性がつきまとうのかも知らなければなりません。学問的に言えば、これは宗教学の分野に属するのでしょう。
未来を察知する人
「宗教する人」の特徴はいろいろあって、その全体像をここで取りあげることはとてもできません。信頼できる誠実さ、正義感、公正、慈愛、これらは「宗教する人」の大事な特質です。しかしこれらの特徴の中でも、特に「宗教する」ことを特徴づけるものがあります。それは「未来を予知する」ということです。これは皆さんが、宗教に入るきっかけ、あるいは動機を考えてみれば、すぐにわかります。夜の街角で見られる手相見やいろいろな占いから「お告げ」を授ける宗教まで、これらは人間の将来に対する漠然とした不安とその意味を解き明かして安心を与える役割を演じています。ですからいつの時代でも、世の中が混沌として未来が見えにくくなり、何か恐ろしい災難が襲ってくる、そんな予感がするときに、人々は宗教に向かうのです。それは自分の未来を知りたい、あるいは自分の未来を導いてほしい、こういう願いから生まれてくるのです。そこで「宗教する人」のこの特徴について考えてみたいのです。
「自分はこれからどうすればいいのか?」これを知りたいという強い願いに支えられて宗教が存在すると言いました。ここで言う未来には、「死後の世界」という大きな深淵も含まれているのは言うまでもありません。「今までの自分」と「今の自分」、これに対して「これからの自分」を考えるときに、「未来を知りたい」「将来を予知したい」という「宗教する人」が目覚めてくるのです。皆さんはここで、「宗教する人」が目覚めるというのは、ある特定の宗教団体に入ることだろうと思うかもしれません。しかし、私が「宗教する人」が目覚めるというのは、必ずしもそういう意味だけではありません。
例えば経済について考えてみましょう。経済と宗教する人とはどのように関連するでしょうか? 経済活動をする人は、現在を頭において動いているのではありません。株価は、「現在の状態」を映しているのではなくて、「未来の値段」を予測して動いているのです。だから、ビジネスをしている人は、常に何日か何ヶ月か何年か先のことを予測しながらお金を動かさなければなりません。これは大きなリスク(危険)を伴いますね。しかしこのリスクをあえて取らなければリターン(儲け)は得られないのです。経済活動は未来を読みとることと密接に関係します。ですから未来を予知するという意味で「宗教する人」は、「経済する人」と表裏一体なのです。政治の世界でも同じです。21世紀の世界がどうなるのか? これを的確に読みとって日本の国を導く、こういう総理大臣が今ほど日本に必要なときはありません。
教育でも同じです。特に教育は、現在の価値観で子どもを教育するという誤りを犯しがちです。子供たちに必要なのは、これからの世の中で通用する価値観であって、今のそれではないのです。このように見てくると、宗教する人、私はこれを「霊的な人」と呼ぶのですが、この霊的な人は、それ以外の分野で、いろいろな人間の活動を支える大事な役割を担っていることがわかります。
「時」を知る人
未来を察知する人は、あらかじめ予測した未来に向けて、国なり、企業なり、自分なりの全体の構想を立てることができます。これは、未来への構想力、すなわちグランドデザインを設計する能力です。国家を動かす政治家、大企業を動かす実業家には、このようなグランドデザインを描く能力が要求されます。建築をするためには、まず設計図をきちんと描かなければなりません。その上で、初めて建築の仕事が実行できるのですから。
ところが、せっかくよい設計図ができても、これを実行に移さなければなんにもなりません。日本はバブル崩壊後10年以上も、経済問題で悩み続けています。ところが、バブルが崩壊する以前に、これからの日本経済をどう変革しなければならないか、日本の経済のグランドデザインですね、これをちゃんと書いた人がいるのです。前川という人です。彼は、委員会を設置して、短いけれども的確なレポートをまとめました。「前川レポート」と呼ばれるものです。その頃NHKがドイツの蔵相にインタビューして、日本の経済をどうすればよいかを尋ねていました。するとそのドイツの蔵相は、なぜドイツの私のところへ尋ねてくるのか、あなたの国には、「前川レポート」があるではないか。私もそれを読んだが、そのとおりにやればいい。こう答えていたのを思い出します。
日本は、なにをどうすればいいのか、ちゃんと知っていた。ただそれをやらなかったのです。自分の利権に固執する政治家や官僚たちが、せっかくのよいグランドデザインを実行させなかったのです。官僚が政治家の立案した政策を潰すときには、これはダメダとは決して言いません。いろんな理由を付けて、「今はまだ早い」と言うのです。先延ばし作戦ですね。これは官僚が、ある政策を止めさせるときに必ず使う手です。個人の場合でもそうです。せっかく良いアイデアやいいアドバイスを受けても、「ああ、そうですかわかりました」と言ったきり、実行しない。どんなに未来を予知しても、それに従って実行しないなら、なんにもなりません。
その時を知る
では実行するためにはなにが必要でしょう? 実行する「時」、タイミングですね。これを見抜くことがとても重要です。何かを実行するには、必ずそのタイミングがあります。それより早くても遅くてもだめです。ピッチャーは、自分の投げる球をそのタイミングで決めます。ストライクを投げるとき、カーブを投げるとき、内角を攻めるとき、ボールを投げるとき、一回一回はそのタイミングで決まりますね。一球ごとに、次に投げる球が変わります。その「とき」なにを投げるか? このタイミングを間違えると大きな失敗をします。
「時のうごき」を察知して、素早くそれをつかむ人、そういう人が成功する人です。先に「宗教する人」は未来を予知すると言いましたが、ここでは「その時を知る」ことが要求されてきます。「今がその時だ」と知る人が、ものごとを実行する、あるいは実行できる人なのです。場合によっては一瞬のうちに大きな判断をしなければなりません。ですから「時を知る」ためには、予めその「とき」を待ちかまえていなければなりません。将来に向けてだいたいの予測を立ててから、その目的に向かって「じっと待つ」こと。そして時が来たときに素早くこれを「つかむ」。「待つ」ことと「つかむ」こと、この両方が必要です。
こういう「時」は、人間の力で創り出せるものではありません。それこそ「天の時」であり、神が備えてくださる「時」なのです。この「時を知らせる」のが「神の声」ですね。「天の声」です。宗教する人は時を知る人です。昔聖人のことを「ひじり」と言いました。「ひじり」とは「日知り」のことで「日を知っている」ことです。田植えをする日、刈り入れをする日、農作物を育てるためには、このように「日を知る」ことが絶対に必要です。これをはずすと命にかかわるからですね。これは個人の場合も職場や社会全体の場合でも同じです。
しかしながら、人間が未来の構想を描くときには、ともすれば、「現在の利害」に左右されたり、「過去の経験」に頼りがちになります。特に日本ではそうです。すぐに前例を持ち出す人、過去と今の状態しか目に入らない人、こういう人がいますね。これでは、抜群の予知能力を具えた個性ある人物がその才能を発揮することができません。未来に向けての構想には、必ずリスクがともないます。人々は言います「もし〜したらどうする?」と。しかし、なにかをするリスクもあれば、なにもしないリスクもあるのです。どちらが大きいかは難しい判断です。だから、「もし〜したらどうする」式の安全志向からは未来への構想を描くことができません。「もし〜したらどうするか」を真剣に考えるのは、それをやらない人ではなくて、リスクをあえて取る人のほうなのです。彼こそ、危険を一番よく知っていて、「もし〜したらどうすればよいか」を最も真剣に考えている人です。宗教する人の霊的な能力とは、この予知能力にあります。同時に彼は、実行する時を知っています。これにはリスクが伴います。ですからリスクに対して敏感に反応します。だから祈るのです。
このように見てきますと、現在の日本に欠けているのは、
(1)未来を洞察してグランドデザインを描く能力。
(2)大胆な発想で個性を発揮する力。
(3)これを行動に移す勇気と実行力。
この三つです。このように「宗教する」ことは、個人としても社会全体としても、人間の未来に深くかかわっています。しかも、ただ未来だけではなく、宗教とは、人間の価値観を求めるものですから、「未来へ向けての価値観」を追求する営みを意味しています。人間は、未来への価値観の追求を抜きにしては存在できないのです。この意味で、「宗教すること」は、人間のさまざまな営みを総合して、これを将来へ結びつける最も高度な営みであると言えましょう。
守旧する人
「宗教する人」は、未来を展望し、未来へ向かって進む勇気と力を具える人だと言いました。ところが、その同じ「宗教する人」が、最も頑迷で、自己の考えや利害やプライドに固執して、いっさいの改革を拒否する人に変質する場合があります。ここでは人間の宗教性が、先に述べた真の意味での宗教性とちょうど逆に作用します。これが「守旧する人」です。ここで私の言う「守旧」とは、未来に向かってよい伝統を保持していこうとするいわゆる「保守」のことではありません。「守旧する人」は、未来への洞察を欠くために展望を持つことができず、これを妨げる人たちです。現状と自己の安全と利益しか目に入らないために、ひたすら従来までのやり方にしがみついて、これが正しいと信じ込む人たちです。こういう人は、今まで信奉してきた「教義」にしがみつく宗教の信者と非常によく似た行動をします。自分の考え方以外に、いっさいの価値観を受け付けない。この態度は、自分が信じる宗教以外の宗教を信じる人の考えや価値観を全く受け付けない信者の態度と不思議なほどよく似ています。人間の宗教性は、それが正しく作用しないときには、恐ろしい結果を産み出すのです。それは、人間の経済性が、人を犠牲にして自己の利益だけを追求するときに恐ろしい結果を産み出すのと同じです。
エルサレムで起こっていること
人類の文明は、自然崇拝の宗教(アニミズム)から、仏教、キリスト教、イスラム教など、民族を超えた世界的な宗教を生んできました。元来、宗教は心の平安を神への信仰によって得ようとするものですから、異教徒や異民族への殺戮を奨励するものであってはならないのです。けれども時の権力者や世俗化した聖職者が、宗教を殺戮の手段に利用した例が数多くあるのです。私たちは、セルビア系の指導者ミロシェビッチのもとで、コソボのアルバニア系住民やイスラム教徒が虐殺されたことを知っています。
今パレスチナで、イスラエルとアラブとが戦争状態に近づいています。東エルサレムは北西のキリスト教徒地区、北東のイスラム教徒地区、南東のユダヤ人地区、南西のアルメニア人(東方キリスト教)地区に4分割されています。ユダヤ地区とイスラム地区との接点にある東西250m、南北500mほどの一角が「神殿の丘」と呼ばれています。このごく小さな一角をめぐるイスラエルとアラブとの対立が、今世界中を危機に陥れようとしています。
朝日新聞(2000年9月1日)の伝えるところでは、パレスチナ和平交渉で最大の難関となっているエルサレムの帰属問題で、9月30日、オルメルト・エルサレム市長が、旧市街内のイスラム、ユダヤ両教の聖地は「神に主権がある」とする案に理解を示す発言をして注目されました。エルサレムをめぐっては、占領地である東エルサレムからイスラエルは撤退すべきだとするパレスチナ側と、不可分の自国の首都と主張するイスラエル側が互いに譲らない状態が続いています。特に、イスラム教第三の聖地アルアクサ・モスクのある「神殿の丘」は、イエスの時代にユダヤ教の神殿が建っていた丘です。この丘の境にはユダヤ教の聖地「嘆きの壁」があります。また神殿の丘近くにはキリスト教の聖墳墓教会があって、神殿の丘という小さな一角には、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つの聖地が並存しているのです。
イスラエルとパレスチナとは、どちらも相手にここ神殿の丘の主権を渡すのを拒んでいます。「神の主権」案はイスラエル、パレスチナ双方の知識人らが提案したものです。<宗教は異なるが主権は共通する神のもの>と解釈すればいいという考え方です。実は、この問題をめぐっては、クリントンの仲介によって、アラファト議長とバラク首相とが長時間交渉したが、ついに妥協に至らなかったのです。どちらも自分たちの宗教の聖地に相手の主権を認めなかったからです。
イスラエルとPLOとは、クリントンの仲介によって、和平交渉をかなりの点まで煮詰めることができました。しかし、最後の東エルサレムに存在する聖地の一角が、どちらの国家主権の下に置かれるかで、折り合いを付けることができませんでした。それでも、交渉それ自体はさらに続けられる見通しでした。未来に向かって未知の領域に進むことは、このように決して易しいことではないのです。
ところが、10月2日に、イスラエルのリクード党という守旧派のシャロン党首が、大勢のイスラエルの警官に守られてイスラムの聖地である「神殿の丘」に足を踏み入れたのです。彼は進行中の和平交渉を邪魔するためと、これによって和平派のバラク政権を揺さぶるためにこのようなことをおこなったと見られています。シャロンの思惑どおりに、彼の行為はパレスチナ側の住民を刺激し、このために暴動が起こり、この暴動が今や全面戦争へと発展しそうな気配を見せています。
先にイスラエルのラビン首相によって和平が進展したときにも、彼は射殺されました。ラビンの後を継いだバラクも今同じような状況におかれています。このように、未来の平和に向かって足を踏み出そうとするイスラエルの人たちに対して、これに不安を覚える同じイスラエルの人たちが、故意にアラブ側を刺激することで争いを起こさせ、現状を固定しようとするという過程が繰り返されてきました。未来を切り開こうとする力とこれを妨げようとする守旧派との対立が、今エルサレムをめぐって典型的な姿を見せているのです。
宗教と国家との関係だけに限って言えば、エルサレムのこの一角を「創造の神」の聖地として、完全に国家の主権、すなわち政治権力と切り離すことが必要です。現在のカトリックの本山があるヴァティカンのように治外法権の土地として、イスラム教、ユダヤ教、ローマ・カトリック教会、ギリシア正統教会及びロシア正教、アルメニア教会、エチオピア・コプト教会、それぞれが、自分の信じる「神」の聖地として、そこで礼拝をおこなえばよいと思います。私たちはこのことから、「宗教する人」が、今後の世界で目指す道は、宗教的な自由と寛容を押し進めることであるのを知る必要があります。
旧ボルネオで起こっていること
インドネシアはイスラム教の国です。これに対してフィリピンはカトリック・キリスト教の国です。フィリッピンとインドネシアとが海を挟んで最も近いところが、インドネシアの旧ボルネオ島です。この島の北東部には、フィリピンから渡ってきたキリスト教徒が大勢住んでいます。フィリピン南部のミンダナオ島とボルネオ島との間では、このようにキリスト教徒とイスラム教徒とが入り交じって暮らしています。
この地帯では、イスラム教徒が会堂を建築するときには、その土地のキリスト教徒もそのために援助の献金をおこない、逆にキリスト教徒が会堂を建築するときには、イスラム教徒もそのために献金をおこなってきました。こうして、互いが平和に暮らす知恵を身につけてきたのです。ところが、近頃インドネシアの政情が不安になると、政府の指導者の一部にあやつられて、イスラムの過激派がボルネオの東北部に入り込んできて、イスラム教徒を扇動し、キリスト教徒を襲わせて虐殺させたのです。昨日までの平和なイスラムの隣人たちが、今日は恐ろしい暴徒となって、キリスト教徒を襲ったのです。こうして現在、ミンダナオ島とボルネオ島との間では、イスラム教徒とキリスト教徒との間で暴行が繰り返されています。ここでも「宗教する人」が、一部の政治家と過激派に利用されて、恐ろしい争いを繰り返しているのです。
マザー・テレサ
私は、宗教する人の視点から見て、20世紀の最も偉大な人たちは、インドのガンジーとアメリカのキング牧師、それにインドで貧しい人たちのために奉仕活動を始めたマザー・テレサであると信じています。今は天に召されたマザー・テレサは、ヒンズー教徒であれ、仏教徒であれ、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、死の間際にあるひとりひとりのために、それぞれの宗教でみとってあげるように配慮しました。マザーは、主イエス・キリストの父なる神を信じていました。それでも、あらゆる宗教の人たちをそれぞれの宗教でその最後を全うさせるようにとりはからったのです。これは、マザーに宿るイエス・キリストのみ霊の愛がそうさせたのです。だからこそ、マザーが召天したときに、なんとヒンズー教の国インドが、彼女のために国葬を行ったのです。これがイエスのみ霊にある愛のほんとうの姿です。
美智子皇后陛下のこと
実は私には、密かに思うことがあります。それは皇后陛下のことです。現在の美智子皇后が、皇太子妃に選ばれたときに、美智子さんが聖心女子大の出身であることが、問題になりました。その時、美智子さんを推薦していた小泉信三という人が、たとえキリスト教の教育を受けていても、洗礼を受けていないのだからかまわないではないかと言って、美智子さんの婚約が決まったと聞いています。しかし、美智子皇太子妃は、自分が受けたキリスト教の教育を決して軽く考えておられませんでした。その証拠は色々あります。皇后になられてから、フランスの有名なカトリックの哲学者を招かれて、熱心に講義を聴かれて、宗教と信仰について質問されています。
皇室にお入りになるとは、神道の儀式を司る最高の家柄に嫁入りすることを意味します。しかし、現在の皇后陛下は、天皇家のさまざまな儀式を執りおこなうに際しても、どうぞ自分の勤めを全うさせてくださいと密かに神に祈りを捧げておられたと私は推察しています。何年か前に、皇后陛下がイタリアを訪問されたときに、ピアノを演奏されてイタリアの人々に感銘をお与えになったことがあります。その時に、美智子皇后のたっての願いで、ローマのあるカトリック寺院を「見学」することが急に決まりました。美智子皇后は、その寺院にただひとりで入られて「ご見学」をなさいました。その際に、日本の新聞などは、皇后様は「ご見学」ではなく、お祈りをされたのではないかと騒ぎ立てました。皇后様はそのことについて、そうであるともないともなにもおしゃいませんでした。
私は思います。たとえ皇后であろうとも、一人の人間として、信仰の自由は認められるべきであり、自分が心から信じる神に祈ることは、人間としての大事な権利であると。しかも皇后陛下は、長年天皇家の神事をば誠意をこめて執りおこなってこられました。私は、美智子皇后が、心に深く信じておられる天の父に、ご自分の長年の苦労を支えてくださったことで、感謝と祈りをお捧げになったに違いないと信じています。美智子皇后は、日本の神事の最高位にある天皇家をご自分の主にある信仰によって支え担ってこられた。そうすることで、日本と天皇家のために執り成してこられたのです。私はそう信じています。
時代は遡りますが、皇后陛下のこのような「宗教する人」としての執り成しの祈りは、徳川幕府の恐ろしい迫害のもとで隠れキリシタンとして生き延びた人たちの信仰につながるものがあります。彼らは、何代にもわたって、強制された仏教のもとで、天主キリストへの信仰を守り続けました。
人間の宗教を執り成すみ霊
以上をまとめますと、「宗教する人」というのは、まず総合的な人です。総合的であるというのは、ひとりの人格として統一されている、その人自身の内に破綻がないということです。つまりその人が個人として独立した存在であることを意味しています。こういう独立した人格をその人の「霊性」あるいは「霊的な人格」と言います。すべての人にはひとりの例外もなく、このような霊的な人格が具わっています。しかしその霊的な人格が、先ほども指摘しましたように、歪んだ形で、時には自己の霊的な人格を殺すという破滅的な形で現れる場合もあるのです。
イエス様のみ霊は、人の霊的人格に命を与え、その人を活かす働きをします。「ヨハネによる福音書」の5章で、イエス様が「私を信じる者は死から命へ移っている」と現在形で語られているのはそういう意味です。個人個人が、愛と命に満たされて生きるようになること、このことが宗教それ自体の最も基本的な目的であると言えます。自分の内にある「宗教する人」を愛と命によって育み自由に展開させること、これが、新約聖書が私たちに与える最も大事なメッセージなのです。
人間には、家族、社会的身分、人種、国籍、宗教的文化、その他のさまざまな要素があります。けれどもこれらの一番根底に存在しているのが、この「宗教する人」なのです。こういう人を個人として育てていくこと、そのために家族があり、社会があり、教育があり、国家があり、民族があり、宗教組織があるということ、この点をしっかりとおさえておかなければなりません。もしもこの序列を逆転させて、国家であれ、宗教団体であれ、民族集団であれ、家族であれ、これを個人の霊的な人格の上に置くことは、価値観の倒錯につながるのです。この意味において、信仰の自由こそ、人間の社会において最も大事な価値観であるということができます。この真理は時代が変わっても変わりません。この価値観こそ、21世紀においてますます大事な人類の指導原理となるでしょうし、またそうならなければならないのです。
人間は個人として、自分の置かれた状況の中で、周囲の人たちへの執り成しの愛を持って生きることができます。パウロが、「愛し合うことのほか互いに何も借りがあってはならない」(ローマ13の8)と言ったのはこのことです。また彼は、「互いに重荷を担いなさい」(ガラテヤ6の2)とも言っています。もしも人が、自分自身が負わなければならない重荷を放棄するならば、その人は自分自身を放棄したことになります。「十字架を負って私に従いなさい」とイエス様が言われたのはそういう意味なのです。現在のように社会、政治、経済、教育のあらゆる面で混沌としている時代には、ひとりひとりが、イエス様のみ霊にある愛の生き方を貫くことが、最も確かで大事な点です。このようなひとりひとりの生き方こそ、平和を地上に造り出す根源の力なのですから。
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