第1章 自由と神
「自然のまま」はよいことか?
新約聖書の第二コリント人への手紙3章17節に、「ここでいう主とは、霊のことですが、主の霊のおられるところに自由があります」という言葉があります。「主とは、霊のことですが」は後で説明しますが、今日は、まず後半の「自由」ということについてお話ししたいと思います。今聖書から引用した中に「主の霊のおられるところに自由がある」という言葉があります。「主の霊」とはイエス様のみ霊(たま)のことですが、このみ霊のご臨在するところには自由があるとこの聖句は言っています。
ところで、皆さんは、今日のテーマである「自由と神」というタイトルを見て、どう感じるでしょうか。「自由」という言葉と「神」という言葉とが、はたして皆さんの中ですんなりと結びつくかどうか。案外、この2つの言葉は対立しているのではないでしょうか。神を信じることは束縛を意味し、いつも神に監視されているようで堅苦しい。むしろ神から「自由」になって、自分の思うとおりに生きるほうがいい。こう考えておられる方がこの中にもきっとおられると思います。実は、その危惧は、案外、的を突いているので、今日の話もその辺が問題になります。今申し上げた「自分の思うとおりに」というのは、いわば、無理をしないで「自然にあるがままに」ということなので、その辺から入っていきたいと思うのです。
まず私たちの人間関係から始めましょう。私たちには、いろいろな人間関係、たとえば、親子、友人、職場の同僚などの関係があります。もちろん、これらの関係は、その重要性においても、その質においても、それぞれに違っています。しかし、そこには、ある一定の共通した性質があることに気がつきます。たとえば、親子関係を例にとってみましょう。親が子を愛するのはごく自然な感情です。しかし、親と子が、絶対に離れられないほどに密着してしまうと、これはもう正常な関係とは言えません。異常です。不自然です。友人同士でも同じで、お互いが、どうしても離れられないような関係になってしまうと、これは明らかに異常です。このように見てくると、人間にとって最も大切な関係でさえも、ある点を越えると、それが、正常から異常へと転落することがわかります。言い替えると、「自然な関係」も、それが自然だからといって、どこまでもその関係を延長していくと、あるところから不自然なものへと変化する、こういうことがわかります。
そこで、私たちは、いろいろな人間関係を保ちながら、どれか1つの関係だけを絶対的なものにしないように注意しなければならないわけです。言い替えれば、親子関係を友人関係で時々断ち切る、あるいは友人関係を親子のつながりで時折切断するというように、絶えず自分を取り囲むさまざまな関係を互いに切断し合うことによって、「自分」という存在を他の誰とも区別するようにして生活しているのです。つまり「自然な」関係とは、それが自然であろうとするならば、絶えずなんらかの力でその「自然」が断ち切られていなければならない。こういう不思議な逆説が成り立つのです。
もしも、友人同士が、あいつは俺の友達なんだから、これぐらい大目にみてくれるのが「あたりまえだ」と考える人がいれば、その「あたりまえ」(英語で「natural・自然・当然」)は、かえって二人の関係を危うくするかもしれません。「あたりまえ」ではない、それは「ありがたい」こと、文字どおりに「有り・難い」ことなのだ、いつもそう思っていなければ、2人の関係は長続きしません。こう考えますと、自分をめぐる人間関係は、それらが常に何か外からの力で、絶えず断ち切られていなければ、その自然さを保って生き生きした関係を保つことができないことに気がつきます。つまり、自然なものが自然であるためには、何か超自然(スーパーナチュラル)なもので、これを断ち切っていかなければ、その自然さを保っていくことができない、不自然(アンナチュラル)なものになっていく。こういうことがわかります。
ところが、私たちが、自分でこれをやろうとすると大変に難しい。夏目漱石の『草枕』の1節ではありませんが、「知に働けば角が立つ、情に竿させば流される、とかく人の世は住みにくい」というわけで、自分の力でこれをやろうとしてもなかなかうまくいかないものです。こういう自然な人間関係を常に生き生きと保つために働く超自然の力、これが、私たちの言うイエス様のみ霊なのです。
イエス様のみ霊は、私たちに働きかけて、私たちの心をまず何よりもイエス様に向けるように導きます。このことは、よく誤解されるように、人の事などどうでもいい、自分一人だけが信じて行動すれば、それが神の自由なのだという、自己中心的な、悪くすれば独善的な生き方だととられがちです。しかし、私たちは人間ですから、ひとりでは、人間になることはできません。
「人」がいてはじめて自分も「人・間」になれます。人がいて、自分がいて、その間に神がおられて、はじめて、私たちはほんとうの自由を知るのです。ですから、私たちが「自由」であるためには、必ず「人」が要ります。そうでないと孤独になるだけですから。自由は孤独とは違います。自由とは、人と人との間に神のみ霊が働いて、これによって、人が自然に自分のあるがままを生きる、こういう状態だと思います。個人の自由とは、このような意味で考えられるべきです。主のみ霊の宿るところ、そこには、「人と人との間に」真の自由が存在する、これが、先ほど引用した聖書のお言葉の意味です。
自由な「自分」とは何か?
さて、今度は、私たちと他人の関係から、私たち自身へと目を移しましょう。先ず私たちの肉体に目を向けます。すると、ここでも先ほどと同じように、自然な関係と不自然な関係とが成り立つことに気がつきます。たとえば、私は、食べたい、飲みたい、眠りたいと思います。これは「自然な」欲求です。しかし、いくら自然な欲求でも、それの命じるままに食べたり飲んだりしていたら、きっと体を悪くすると思います。私の体をいつも健康な状態に保っておくためには、私は、自分の内に宿る自然な欲求をコントロールする、言い替えると、常に欲求を断ち切っていかなければならない。つまり、私は、自分の体から自由にならなければ、自分の体をほんとうの意味で健康にしていくことができないのです。
次に、もっと内面に入って、私たちの意志について考えてみましょう。意志が強いことはよいことですが、何がなんでも自分の意志を通さなければ気が済まないという人がいますね。これは困った人です。自分の意志よりももっと大切なものがあることがわからない。だが、これよりも、もっと困った人がいます。それは、感情だけに頼る人です。自分の気持ちだけが一番大切な人、こういう人は、一番扱いにくい。「それでは私の気が済まない」「それでは気が治まらない」、二言目にはこう言う人です。自分の感情は大切です。しかし、それだけにしがみついて生きていくと、ずいぶん人に迷惑をかけると思います。これは自分の「気持ち」に縛られている人です。私たちは、自分の意志や感情からも自由にされてはじめて、正しく人を見、自分を見ることができます。
けれども、これよりもっと強い、そして高い能力が私たちに具わっています。それは理性です。理性は人間の内に宿る最高の能力だとされてきました。古代では理性には神が宿るとさえ言われていたのです。しかし、ほかならぬこの理性が、今人類を破滅の一歩手前まで追いつめているのは皆さんご存知のとおりです。仮に21世紀の終わりまで核戦争がなかったと考えますと、コンピューターはずいぶん発達するだろうと思います。今でもすでに、人間の頭脳の何億倍もの計算能力を持ったコンピューターが出現しています。仮に、理性で考えられる最高の知能を持ったコンピューターが、21世紀末にできたとしましょう。これ以上のコンピューターは存在しない、そんな究極のコンピューターです。そこで、そのコンピューターに向かって、究極の質問をしてみましょう。
「神は存在するか?」
「存在する」
「どこに存在するか?」
「ここに存在する」
これはブラック・ユーモアですが、単なる笑い事ではすまされないものがあります。人間が核戦争を免れて生き残れたとしても、人類はこの問題から逃れることはもうできないのです。私たちの意志も感情も、そして理性も超えたところから降る神の霊、すなわちイエス様のみ霊を私たちが求めるわけが、おわかりいただけるでしょうか? 自分を超えた力で自分をコントロールする。こうすることで自分をほんとうに活かす。人間は、自分自身から自由にされたときに、はじめて自分と最もうまく付き合うことができる、こう言ってもいいのかもしれません。
自由は本当に必要か?
私は、イエス様のみ霊が私たちにどういう意味を持つのか、という点からお話ししてきましたが、ここで少し視点を変えてみましょう。つまり、「あなたのおっしゃることは、もっともだ。だが、そんなにまでして、自由自由と言わなくでもいいではないか。求めたい人は、求めればいいので、私は、自分のやりたいようにやっていくまでです。適当にこの世を楽しく過ごせたらそれでいいではないですか」――こういう人です。実は、後で述べるように、このような考え方にも一理あります。しかしダンテは、『神曲』の中で、こういう「良いことも悪いこともしなかった人々」が、雪のようにハラハラと地獄に落ちて行くありさまを描写しています。こういう気ままに暮らす自由のよさを私は否定しません。しかし、そこには自ずとある限界があります。この点を理解していただくために、逆に考えて、私が、なぜこんなに真剣に自由を求めるのか、そのわけをお話ししたいと思います。
私が、かつて勤めていた大学で、1度担任のクラスの学生に面接をしたことがあります。一人一人を呼んで、学生にいろいろと尋ねるわけです。
「どうですか、君はこの大学に来て楽しいですか?」
「あんまり楽しくありません。朝学校へ来て、講義を受けて、帰って寝る。また学校へ来る。ただこれだけで何もすることがないんです」
大体こんなやりとりが多かったのですが、中には、「この大学に来て、良かったと思います。すごく充実した毎日を送っています」と答える学生もいました。そこで、「どんな内容の授業がそんなに面白いのかね」と尋ねますと、「クラブです」と言うのです。
それも、いい加減なクラブではだめなんですね。空手とか柔道のようにとにかく先輩にうんとしごかれるクラブでないといけません。こういうクラブに入ると朝から晩まで練習させられます。冬でも素足でかけ声をあげながら走っているああいうクラブです。一方では、しごきもない、病気でもない、貧乏でもない、アルバイトをしなくてもいい、特別悩みもない。こういう学生は特にすることがない、関西弁で言う「しょうもない」という顔をしているんです。「なんにもない」は「しようもない」につながるのですね。ところが、朝から晩までしごかれる厳しいクラブの学生は、充実感を味わっているのです。いったいこれはどうしたわけでしょう。
朝から晩までしごかれるのは、厳しい束縛に身を置くことです。もしも、のんびりと過ごすのが一番楽しくて楽なことなら、この学生たちは、どうしてそうしないのでしょう? どうして、だれからも強制されないのに、自ら進んで厳しい束縛に自分を置きたがるのでしょう。答えはこうです。彼は<充実した生き方>をしたいからです。言い替えると、彼は、自分の自由を最大限に活かして用いたいのです。悩みも苦しみもない。ないないづくしは「しようもない」。それだけでは、せっかくの自分の自由が活きてこない。死んでいるのです。
人生を充実させて生きるということは、最も大きな自由の中で、最も厳しい束縛に自ら進んで身を委ねることだ、こう言ってもさしつかえないのかもしれません。何一つ真剣に追求するものがない。自分には「これといってすることが何もない」、これは人間には耐えられないことなのです。仕方がないからいろいろな方法で暇をつぶす。与えられた時間、自分の自由の中身を「つぶす」のです。英語で考えるともっとよくわかります。「暇をつぶす」は"kill time"、時間を「殺す」ことですね。自分の自由を活かさないで殺すのです。
では、なぜ人間は、そんなにまでして、自分の自由を充実させたいと願うのでしょうね。アウグスティヌスという人は、それは、私たちの内には、永遠性を求める魂の欲求があるからだと説明しています。そうかもしれません。私たちが自分の生を充実させたいと願うのは、何か、自分の内に不滅なものを宿したい、という深い願いが潜んでいるからかもしれません。そうなると、私たちがこの世を去るときに、自分の生涯がどこまで本物であったかという「死ぬことの意味」にまでつながってきます。
最大限の自由を最大限に充実させて生きること、そのことが、その人のもっとも深い生きがいにつながり、それが永遠性につながる、この点についてイエス様は「人は、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得になるだろうか」と言われました。ここまできますと、「自由」とは、人間の死とも関係してくるようです。ここで、「死」というのは、肉体の死のことだけではありません。私たちは、この世で生活していても「死んでいる」ことがありうるのです。ダンテが見た「雪のようにハラハラと落ちてくる人々」は、このような人たちではなかったでしょうか。これだけはほんとうに自分自身のものだ、こう密かに誇りを抱いてこの世を去ることができれば、それが生の充実だと思うのです。
先ほど述べましたように、自由を充実させて生きることには苦労が伴います。生きるということは苦しむことだ、こうも言えそうですね。だからと言って私たちは死にたいとは思わない。苦しみは歓びに変わるからです。ちょうど子どもを生むときのお母さんのようにね。もちろん、のんびり過ごす、楽しい時を持つのは大切なことです。しかし、そういう楽しいときは、こういう生産的な営みの合間に訪れるときにほんとうに活きてくるのです。ミルトンというイギリスの詩人が、気晴らしや快楽は、これをコントロールする合間に用いられたときに、はじめてその意味を持つと言っています。
今まで私のお話ししたことを通じて、私たちが「自由」に生きるためには、ある種のコントロール、神のみ霊による「介入」が必要なので、それなしには、自分の生き方それ自体が、惰性に流されて真に充実したものにならない、こういうことがご理解いただけたと思います。
自由と束縛は対立するか?
この辺で、最初に提起した問題に戻りたいと思います。「自由と神」、この二つは、互いに対立するのではないか。神を信じるとは、人間にとって自由の喪失を意味するのではないか。こういう疑問です。そのような疑問はある程度的を射ている、こう申し上げました。そのわけを説明します。
もうお気づきのように、このような「自由」には、ある種の厳しさが伴います。この厳しさを、自分の良心と呼んでも、自律的な主体性と呼んでもいいのですが、こういうものが自由にはどうしても必要なことがわかります。こういう「自己を律する」という考え方は、いわゆる、ギリシアの昔から伝わる「禁欲主義」につながるわけです。禅宗の人たちの修行もこのような宗教的な「禁欲」に通じると言っていいでしょう。特に聖書の場合は、自分の意志や決意ではなく、自分を超えた霊的な力によって自分をコントロールするわけですから、もしもこれが、自分の内面でほんとうに納得されていないならば、「強制」あるいは「押しつけ」と受け取られても仕方がないことになります。「自分を超えた存在」にコントロールされる「自分」、この「超えた存在」が、もしも全く自分と無関係な、他者からの働きかけであるとすれば、それが、神であろうと親であろうと、先生であろうと教会であろうと、あるいは為政者であろうと、強制になり押しつけになります。
どんなにそのことが自分のためになると言い聞かされたところで、自分がほんとうに心から納得していなければ、それは自由ではありませんね。束縛以外の何物でもない。まして、それが神の名によってなされたり、親や先生の「お前のためだ」式の押しつけになると、されるほうはいっそう厳しい内面の束縛を感じます。つまり、「お前のためだ」という名のもとに束縛と強制が正当化される、こういうことが起こります。
なぜそうなるのかと言えば、「自分を超えた存在」が、自分とは無関係な離れた存在として自分の目に映るからです。だから、今まで私がお話ししてきた自由をほんとうの意味での自由とするためには、自分を超えたところからきて自分をコントロールする存在それ自体もまた、なんらかの意味で、自分自身の一部となる、「自分の自由な意志」による行為となる、こういうことがその人の内面にはっきりと意識されなければなりません。その時はじめて、人はほんとうに自分自身の主体性によって、あるいは良心によって行動できる、こう言っていいと思います。
皆さんは、神のことを自分とはかけ離れた超越的な存在、こう思っておられるのではないでしょうか。皆さんが、そう思っておられる間は、どんなに私が自由を説いても、それは押しつけだ、悪くすると強制だと受け取られるのは避けられないのです。しかし、皆さんは、こう思われるでしょう。「自分を超えた存在」を「自分自身の一部」だと意識するとはどういうことなのか、と。今お話しした「神と自由」、この二つを結びつける鍵は、まさにこの点にあります。私たちが、「イエス様のみ霊」を強調するのも、実はこの点に関係しています。
なぜイエス様のみ霊なのか?
この問題は、聖書の神の本質に関わるので、説明するのがなかなか難しいです。先ず最初に言わなければならないのは、人間と神、これは互いに異質だということです。神が、ほんとうの意味で(ということは、人間が自分の都合に合わせてつくったカミではなく)神であればあるほど、この断絶は絶対的です。そうでなければ、言葉のほんとうの意味での「神」とは言えないからです。そういう絶対的な異質性を突き破って、人間と神とを結ぶ。しかも、神が神であることをやめず、人間も人間であることをやめずにこの事を成就する。二つの互いに超えられない壁を1つに結ぶこと(英語の「宗教」の語源にあたるラテン語のreligioは「固く結ぶ」という意味です)、これが、神でありながら人間となって地上に来られた「神のみ子イエス・キリスト」の意味です。私たちが、イエス様という人格の内に神を見ると言うとき、それは、このような存在、すなわち、イエス様にあって、人間が、はじめて神と真の意味での交わりを持つ、神と人間の「コイノニア・交わり」ですね、これが可能になったことを意味します。人間が人間であることをやめないで、また、神が神であることをやめないで、互いに交わりを持つようになるために、イエス様は、ご自身の全存在を犠牲にして、人と神とを1つに結んでくださった(これを「贖い」と言います)と聖書は証言しています。
しかし、それはずいぶん大胆な矛盾ではないか。皆さんは、きっとそう思われるでしょう。人間と同次元の低い神ならいざ知らず、超越的な神が、人間存在、それも、日常の生身の肉体的な存在である私たちの内に宿るというのは、確かに大きな逆説であり、人間の理解を超えた「奇跡」であると言えましょう。その奇跡の鍵が、「イエス様のみ霊」です。私たちが、イエス様の十字架とこれに続く復活を語るとき、それは、この1点、イエス様が、「み霊となって」私たちの実存に迫り、私たちの内面に働きかけて、一人一人にその永遠性を宿らせてくださることに尽きます。
宗教的な言葉というものは、その言葉が「語られる」、まさにそのこと自体の内に「事実」が発生する、こういう性質を持っています。イエス・キリストは、今お話ししたように、神が神のままで人間の内に宿られるという不思議な現実をつくりだすために、神から人間に向けられたコトバなのです。これは、神のコトバ、すなわち「み言(ことば)」と呼ばれています。ヨハネによる福音書の最初に出てくる有名な言葉、「初めにみ言があった」というのはこの意味です。イエス様のみ霊は、このように、人間が人間のままで、すなわちその「あるがままで」、神との霊的な交わりに入ることができる働きをします。言うまでもなく私たちクリスチャンは神ではありません。イエス・キリストでもない。皆さんと全く同じただの人間です。しかし、このただの人間の内にイエス・キリストと同じ霊、すなわちみ霊が、宿り働いていてくださる。これが、私たちの信仰の内容です。
こう申し上げると、皆さんは、人間が人間のままで、神が神のままで、互いに交わりを持つ、あるいは神がキリストとなって人間の内に宿る、それはいったいどういうことか、こう思われるでしょう。さらに、そう言うお前はいったい何者なのか、こうもお考えになるでしょう。私自身について言えば、このみ霊のレベルに照らしてみると、なんとも情けない。それどころか、私の内には、導きとは正反対の方向へと引っ張る力が働いて、自分の身勝手な感情や、意志や、自分勝手な理屈や、そういうもので、み霊の働きに逆らおうとする傾向があります。その意味で、私も皆さんと同じ、あるいは、皆さん以上にダメ人間かもしれません。とにかく、ごく普通のつまらない人間です。それにもかかわらず、私の内には、このようなダメな者でも、辛抱強く引っ張りあげてくれる力、み霊の力が現実に働いてきます。しかも、不思議なことに、あるいは当然かも知れませんが、人間と神とのこの異質性こそが、私のような弱いくだらない人間にも働きかけるみ霊の力となっているのです。
もしも、神のみ霊が自分の一部であったとすれば、私は、そんなものは信用できない。「信用できない」というのは、信用したくてもできないという意味です。私は、ときとして、自分の中の一切が混乱して、どうにもならなくなることがあります。そんなときに、「もしも、これが神のみ霊であるのなら、どうもこれはたいしたものではないな」と感じます。でも、幸いなことに、私は、神ではない。またみ霊は私の内の一部ではない。それは、私を超えたところから働きかけて来るからです。だから私は、自分がどうなっていても大丈夫なんだ、支えられているんだと確信できるのです。自分でもその力の源が理解できないからこそ、私自身が自分に愛想をつかしたくなるときでも、なお力強く私を導いてくださるのがイエス様のみ霊だとわかるのです。
いったいこの力は、どこから来るのでしょう。聖書によれば、それは、イエス様が、十字架にかかられて、私のためにその貴い血を(血は命を表します)流して、私の内に宿るために、私の罪を背負って死んでくださったからだと語られています。こういうダメな私の内にも、このイエス様は、み霊となって、今もなお生きて私たちの心の内に働きかけておられる。聖書はこう教えてくれます。このおかげで、私は、導かれるがままに活かされているのです。すばらしい恵みです。自分自身の力で、ああしようこうしようなどとは思わない。ただこのイエス様のみ霊に導かれるがままに生きる。これだけです。なんにも難しいことはない。これが私の「ただあるがまま」です。これが私の「自然な」生き方です。
私は、このようなイエス様のみ霊の働きかけを束縛とは思いません。強制とも感じません。自分の中に、もう一人の新しい自分が生まれている、あるいは造られている、そう言うほうが当たっているからです。この新しい自分こそ、真の意味での自分のあるべき姿、ありたい姿、そして、ありうる姿だと思っています。私が心からこう感じるのは、結局、このイエス様のみ霊が、ほんとうに私を愛してくださっていることがわかるからです。私はいい加減な人間だから、自分を適当にあしらっていたのです。要するに私は、ほんとうの意味で、自分自身を愛してはいなかったのです。ところが、このイエス様というお方は、決してそのように私を見限らない。どこまでもどこまでも、私を引き上げようと絶えず働いてくださるのです。これが、神様の自由なんですね。「主イエス様とは、霊である。この霊のおられるところには自由がある」。はじめにご紹介した聖書のお言葉は、こういう意味だったのです。