【補遺】
ヨハネ19章25節では、女性たちが「十字架のそばに」いたとありますから、共観福音書の「遠くから」と、ヨハネ福音書のここの記事とが矛盾するようにも見えます。ただし、共観福音書の場合も「イエスの言葉が届く」範囲にいたことに変わりありません。ローマの処刑では、十字架刑に処せられた者の身内が、十字架の周りに集まることが許されていました。ただし、これには許可が必要でした〔バレット『ヨハネ福音書』〕。葬儀や臨終に際して女性が大声で「嘆く/哀悼する」というのが古来の慣習ですから、処刑される者の親族、特に女性たちがその側で泣くことを兵士たちは許可したのでしょう。また共観福音書の「遠くに」は、詩編38篇12節(=七十人訳詩編37篇11節)の「わたしに近い者も<遠くに>立ち」とあるのが反映していると見られています。これらを考え合わせると、共観福音書の「遠くに」とあることが、ヨハネ福音書の記事を否定する理由にはならないようです。むしろヨハネ福音書のほうが事実に近いと考えられます〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。処刑の始めには、彼らがイエスの近くに立つことが許されていて、イエスの最期が近づくと「遠く離れる」ように命じられたとも考えられます〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
ヨハネ19章25節の原文は、語法的に見れば次のように三通りに読むことができます。
(1)「イエスの母、そしてイエスの母の姉妹であるクロパのマリア、すなわちマグダラのマリア」と読めば二人になります。
(2)「イエスの母、彼女の姉妹であるクロパのマリア、そしてマグダラのマリア」と読めば三人になります。
(3)「イエスの母、そして彼女の姉妹、クロパのマリア、そしてマグダラのマリア」と読めば四人になります。
一般的に、ここは「その(イエス)母と彼の母の姉妹、クロパのマリアとマグダラのマリア」〔岩波訳〕〔新共同訳〕のように四人に訳されています。なお、岩波訳では、「彼の母と<彼の母の姉妹クロパのマリア>およびマグダラのマリア」と三人に読む訳も注にあげています。
(1)の読み方だとマグダラのマリアがイエスの母マリアの姉妹になりますから、この読みは採ることができません。
(2)の三人説は内容から見ても可能です。この場合は、イエスの母もその姉妹も「マリア」ですから、同一家族に二人のマリアがいることになります。しかし、パレスチナでは「マリア」がごく一般的で、たとえ姉妹が「マリア」の名前を共有していたとしても、彼女たちが結婚して実家から離れるなら夫の名前を付けて呼ばれますから混同されることがありません。当時のローマでも、父が姉妹に同じ名前をつけることがありました〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕。
(3)の四人説では、イエスを十字架に付けた四人の兵士たちと対応させる意味で、イエスを見守る四人の女性があげてあるという見方があります。ヨハネ福音書では、イエスの母の名前(マリア)が出ることはありません。読者にはすでになじみだからでしょう。
彼女たちが「誰かを特定するのは容易ですが、確認するのは困難です」〔バレット『ヨハネ福音書』〕。大方の見方では、(3)の四人説が自然だとしながらも、
(2)の三人説も可能だという見方もあります〔キーナー前掲書〕。この問題は、共観福音書の記述とも関連します。
207章 イエスの側の女性たち