【注釈】
■イエス様語録
 ここには「ある人」と「ほかの人」の二人が出てきて、イエスに従う決心を告白します。前半の「ある人」の部分では、冒頭だけルカによっていますが、そのほかは、マタイとルカは全く同じです。後半の「ほかの人」の部分のほうは、ほぼマタイによっています。なおルカ9章61〜62節だけにある「また、別の人」以下にあたる部分は、英訳版のイエス様語録では、この部分も出ていますが、ギリシア語原典版のほうは、これを省いています。こちらはマタイに従ったのでしょう。
 後半の「死んでいる者たちに・・・」以下の言葉は、その独特の鋭さのゆえに、イエスの口から語られたとされています。しかし、前半の「狐には穴があり」以下は、イエスの真正な言葉かどうかを疑う説もあります。その理由は、「人の子」という言い方が出てくることと、「狐には・・・」が、当時の諺から出ていると考えるからです。「人の子」は終末的な意味を帯びているから、イエスの復活以後の教会によって初めて用いられたという判断からでしょう。「狐には・・・」も当時の諺であるから、これもイエス以後のイエス様語録の人たちが採り入れたと考えて、その真正性を疑うのです。
 しかし、「人の子」は、必ずしも終末的な黙示思想からだけでなく、ダニエル書以来旧約で用いられてきた呼び方で、広く人間を指すと同時に、間接的に自分自身を指す言い方としても用いられていました。特にイエスは、神から遣わされて、人々に神の国を伝える使命を帯びている自分のことを「人の子」と呼んでいたと考えられます。したがって、教会の「人の子」に含まれる終末性を理由に、これがイエスの真正の言葉であることを否定する根拠にはなりません。また、「狐には・・・」は、旧約の知恵文学の伝統から出た「知恵の言葉」として一般に語られていたのかもしれません。イエスは、旧約の預言者の伝統に立つだけではなく、それ以上に、旧約の「知恵」の霊統を受け継いでいます。イエスは、「知恵の人」あるいは「知恵の子」でもあったのです(マタイ11章19節)。だからイエスは、たとえや諺を用いて、人々に分かりやすく語ることができたのです。なによりも、「狐には・・・・・」は、村々町々を巡回するイエスの伝道スタイルをよく表わしています。だから、この部分もイエス自身の言葉であると見ることができます。少なくとも「学問的には」、「人の子」も「知恵の言葉」も、どちらも、その真正性を否定する根拠にはなりません。
 今回の部分は、「イエスに従う」覚悟を語るもので、イエス様語録では、おそらくこれの後に、マルコ6章8〜11節やマタイ10章5〜15節(マルコやマタイの編集が加えられていますが)で語られているような伝道への指針が続いていたのでしょう。そこには、家族から離れ、仕事を捨てて、イエスに付き従う弟子の覚悟が語られています。このような覚悟は、巡回しながら、行く先々で人々と交わり、食事を共にし、病める者を癒し、悪霊を追い出す伝道のスタイルから当然要求されてくることですから、まさに「イエスとその弟子たちの生活習慣に基づいたもの」〔D・ツェーラーによるQ資料注解〕です。ここには、伝道のスタイル以上に、一切を捨ててイエスに従う精神、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」や「自分の命を失う者は、逆にそれを得る」(マタイ10章37〜39節)とある信仰の基本姿勢が表わされているのです。

■マタイ8章
[18]マルコ福音書4章35〜36節で、イエスは「群衆を離れて『向こう岸へ渡ろう』」と弟子たちに命じています。マルコ福音書では、これに続いて、イエスが嵐の海を鎮めるのですが、マタイはこの18節で、マルコのこの冒頭の部分だけを採り入れて、続く嵐の海の話との間に、イエス様語録から今回の19節以下を挿入しています。このようにマルコ福音書の物語の枠とイエス様語録の両方を組み合わせた結果、イエスの一行が、群衆から離れて、向こう岸へ渡ろうとする途中の出来事として、ここに登場する二人の人たちとイエスとの出会いが起こることになります。癒しと悪霊追放によって、イエスの霊的な権威が顕われて、人々の間に噂が広まると、イエスの後に従おうとする人たちが出てきました。そこでイエスは、自分の弟子となる覚悟を教えるのです。この教えが、続く嵐の海の出来事によって、弟子たちの現実の体験となります。
弟子たちに「群衆」とある原語は「たくさんの群衆」です。その中には、今回出てくるように、イエスの弟子となることを希望する人たちが少なからずいたのです。しかしイエスは、そのような人たちではなく、最初から付き添ってきた少数の者たちだけに命じて、船を用意させたのでしょう。なおマタイは、マルコ福音書の「同じ日に」と「夕方になって」(マルコ4章35節)を省いています。日の設定はここでは必要がなく、「夕方に」は、すでに16節にあるからです。また、イエスが直接話法で語るのをマタイは間接話法に変えています。
[19]【ある律法学者が】ルカ福音書には「律法学者」も「先生」という呼びかけもありません。したがって、これはマタイが挿入したと考えられます。この後の21節には「ほかに、弟子の一人が」とありますが、原文では、「一人の律法学者が」と「もう一人の弟子が」とも読むこともできます。これだと、律法学者も弟子の一人であったことになります。しかしここのふたりは、「律法学者であって、(イエスの弟子ではない)ある人」と「イエスの弟子であるもう一人の人」の意味にとるべきです。
  マタイはここで、「イエスの弟子の一人」を律法学者と対立させる意図で登場させているという見方があります〔デイヴィスとアリスンによる『マタイ福音書注解』ICCシリーズ〕。マタイ福音書では、律法学者が、イエスと対立関係に置かれることが多いからです(マタイ9章3節)。この見方によれば、イエスは、この律法学者に対しては、弟子となる要望を拒絶していることになります。律法学者には否定的に対応し、弟子の一人には肯定的な答え方をしていると解釈するのです。しかし、ここのふたりへのイエスの対応の仕方に、このような対立を読み取ることはできないという見方もあります〔ノウランドによる『マタイ福音書注解』NIGTCシリーズ〕。
ここでマタイは、律法学者と弟子の一人とを登場させることで、弟子となることへの覚悟を、対立と言うよりは、ふたつの異なる視点から語っていると見るほうが適切でしょう。律法学者は、イエスに「先生」と呼びかけています。ユダヤ教では、弟子入りは、弟子のほうから「先生」を選んで、その先生に入門を許可してもらうというのが習わしでした(かつての日本でも、このような「弟子入り」が行なわれていました)。この律法学者は、イエスの教え方が、従来の律法の先生には見られない「権威と力」を帯びているのを見たのでしょう(マタイ7章29節)。そこで、この際是非イエスの弟子にしてもらおうと願い出たのです。彼は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いますが、この「参ります」の原語は「赴く/行く」で、イエスが弟子たちに「向こう岸へ行く」ように命じた「行く」と同じ原語です。イエスの一行が、船で出かけようとしているのを見て、彼は、是非自分も一緒に弟子として、どこへでも「行かせて」くださいとお願いしているのです。しかしながら、イエスの弟子になることは、通常のユダヤ教の弟子入りとは、意味が全く異なるのです。ユダヤ教では、著名な「先生」の弟子となることで、聖書の知識を習得して、ラビの資格や宗教的な権威が授与されました。しかし、「イエスに従う」ことは、貧しい人たちと共になり、御霊の働きによって癒しを行ない、終末的な神の御国を伝えて巡回することです。こういう「ホームレス」な生き方は、従来の「弟子入り」とは根本的に異なります。イエスは、このことを悟らせる意図で、律法学者に答えています。同時に、このことを教えるために、マタイはここに律法学者を導入したのでしょう。
[20]【人の子】この「人の子」にも、大きく二つの異なる見方があります。
(1)ここでは、鳥や獣と「人の子」を対比させていますから、旧約の「人の子」と同じように、「人間一般」を代表する意味で用いられています(詩編9篇5〜9節)。この意味で、ここの「人の子」は、“the Son of Humanity”と英訳されています〔ギリシア語原典イエス様語録〕〔ノウランドによる『マタイ福音書注解』NIGTCシリーズ〕。イエスの時代には、経済基盤の変動に伴って、土地の買い占めによる大土地所有が進み、このため多くの農民たちが土地を手放さざるを得なくなって、農奴や難民がホームレスの状態に陥りました。「<下着>を取る者には<上着>も取らせなさい」(マタイ5章40節)とあるのは、上着は、野外で寝る際になくてはならない大事な物なので、たとえ負債のためでも、これを奪うことが禁じられていたからです。だからこの20節は、「狐には穴ぐらがある。鳥にもねぐらがある。ねぐらのないのは人の子(人間)だけだ」のように、社会に対する痛烈な風刺をも含むと理解することもできます〔クロッサン〕。
(2)このような「人間の代表」としての「人の子」が、特に「自分」との関係において用いられると、アラム語では、間接的に自分自身を指す「人の子」の用法が生じてきます。特にこの意味での「人の子」は、ダニエル書(7章13節)にあるように、権威と威光を帯びて世に到来するメシアのイメージと重ねられるようになりました。すでに詩編9篇の「人の子」が、ユダヤ教ではこのように理解されていたようです(詩編80篇18節をも参照)。現在の代表的な注解は、イエスがこれらの意味を重ねて、自分を表わす用語として実際に「人の子」を用いたと考えています。ただし、このような「人の子」の用法は、あいまいで複雑な内容を含んでいましたから、これはイエスに対する「呼称」や「名称」ではありませんでした。イエスの「人の子」には、今まで誰も使用しなかった意味が込められていたからです。したがって、イエスの弟子たちを含めて周囲の人たちは、この言葉を知らないか、知っていてもその意味を理解することができなかったと思われます。
(3)イエスの復活以後になって初めて、教会は、イエスが生前用いたこの用語が、世界を裁く終末の審判者としてやがて再臨するメシア/キリストを言い表わすことを見出して、これをイエスへの呼び名としました。「人の子」は、このようにして「神の子」や「メシア/キリスト」とともに、復活体験以後の教会において、イエスの呼称として用いられるようになりました。エチオピア語エノク書70章に、メシアのとしての「人の子」が、はっきりと語られていますから、マタイを始めキリストの教会は、これをも根拠にしたのでしょう。
 したがって、「人の子」がその終末的な意味のゆえに、生前のイエスによってこれが用いられたことを否定するのは誤りです。同時に、生前のイエスがこの言葉を用いた時には、ダニエル書に表わされた黙示的な意味はなかったと判断することも同じように誤りです。イエスの用法は複雑で、これをどちらかに限定することはできません〔ルツによるマタイ福音書注解・EKKシリーズ〕。マタイは、人の子イエスが、広い人間性に根ざすと同時に、イエスに従うことは、地上での特定の先生に弟子入りすることではなく、枕する所もない一所不定の歩みであり、地上を超えた終末的な生き方であることを告げているのです。なお、この20節は、ほぼ同じ形でトマス福音書にも出てきます。トマス福音書の言葉遣いは、イエス様語録と異なる箇所がありますから、トマス福音書の言葉は、イエス様語録からではなく、それ以前の伝承から来ているのでしょう。このことも、「人の子」が、イエスの真正の言葉であるとする理由のひとつと考えられます。
[21]【弟子の一人が】12弟子たちのように「すでに弟子であった」人ではなく「弟子になったばかりの人」のことです。21節の設定は、ルカとは全く異なっています。ルカ福音書では、イエスのほうから先に「別の人に」呼びかけて、これに対してその人が応答するのです。上にあげたイエス様語録は、ここのところでは、マタイのほうを採っています。おそらくここは、マタイか、あるいはイエス様語録の人たちによって編集されているのでしょう。「まず」とあるのは、ルカの場合には内容的に意味がありますが、マタイ福音書では必要ないからです。21〜22節は、19〜20節と並列させるために、「律法学者の求めとイエスの応答」、「弟子の一人の求めとイエスの応答」のように対称形で整った形を取るように構成されています。
【主よ】律法学者は「先生」と呼びましたが、ここでは「主よ」です。これも二人を対照させるための編集です。ルカには、この呼びかけがありません(写本によっては付加されていますが、これはマタイから移されたもの)。ただし「主」という呼称は、「ご主人」「先生」の意味から、イエス以後の教会が「世界の主」であるイエス・キリストを表わす意味まで、幅広い内容を含んでいます。おそらくマタイは、後の教会の信仰告白をも含めているのでしょう。
【父を葬りに】この時代のユダヤでは、「葬る」には、次の意味が含まれます。(1)死者を墓に入れること(ユダヤでは通常死んだその日に入れました。申命記21章23節参照)。(2)死んでから初七日の追悼。(3)一年を経てから、死者の骨だけを改めて壺に収める一周忌のこと。このどれにあたるのかはっきりしませんが、モーセの十戒に「父母を敬え」とあるように、父母に敬意を表することは大事な義務でした。イエスがこの戒めを重視していたことはマタイ15章3〜6節にはっきりと表明されています。
[22]【わたしに従いなさい】ルカ福音書では、この命令が先にイエスから語られます。これに続くイエスの言葉は、「父を葬る」そのことを否定したり禁じたりしているのでありませんから注意してください。「イエスに従う」とは、一切を捨てて「イエスの御言葉を歩む」ことです。これはイエスを全人格的に信頼する覚悟を必要とします。だから共観福音書で言う「イエスに従う」は、ヨハネ福音書の「わたしは道であり、真理であり、命である」と同じ意味です〔デイヴィスとアリスンによるマタイ福音書注解・ICCシリーズ〕。先に律法学者に対して言われたことと、この弟子に向かって言われたことは、決して対立しているのではありません。しかしここでは、巡回の伝道者として「イエスに同行する」生き方だけではなく、それよりもさらに根本的なところで「イエスに従う」覚悟が語られているのです。
【死んでいる者たちに】ここで語られるイエスの言葉は、モーセ十戒を全面的に否定するものとして、なによりも、その厳しさと「非人間性」において、様々に論じられ、その内容をより「妥当なものに和らげる」解釈が試みられてきました。例えば「死んだ者たちによって(死者を葬る)」というのは、アラム語の誤訳から出ていて、ほんらいは、「死者を埋葬するのは、葬儀屋あるいは墓掘り人に任せよ」という意味だったと解釈する説があります。しかしながらイエスは、たとえを用いた比喩的な語り方を好み、諺や格言のような「知恵の言葉」で語る特徴があります。このような「知恵の語り方」は、大事な視点を誰でもが分かるように「鋭く突く」表現法なのです。この22節もイエスのこのような語りの特徴をよく表わしています。ここは大きく以下の三つに分けて解釈することができます。
(1)ここで「死んだ者たちによって」とあるのは、すでにこの世にいない陰府の死者たちを指しています。ギリシア古典悲劇にも「生者を世話するのは生者の役目。死者を世話するのは死者の役目」〔エウリピデースの『アンドロマケ』849行〕とあるように、死んだ人間のことを今更嘆いても始まらない。だから弔いのことも「成り行き次第でなんとかなる」という意味でしょうか。
(2)旧約聖書には、神に仕える祭司たちは親族の死体に触れて身を汚してはならない(レビ記21章11節)という規定があり、また神に誓願を立てているナジル人は、献身している間は、たとえ父母と言えども、その死体に近づいてはならない(民数記6章6〜7節)という規定があります。このように、いったん神に身を捧げて聖なる器とされた者は、死体によって汚れを受けてはならないとされていました。イエスのここの言葉には、この伝統が背景にあると考えられます〔ノウランドによるマタイ福音書注解・NIGTCシリーズ〕〔ルツによるマタイ福音書注解・EKKシリーズ〕。いったん神に身を捧げたからには、親の死に目に会うことさえできない覚悟が必要になるのです。したがって、この命令は、イエスに従うすべての人にではなく、限られた選ばれた人にのみ当てはまることになりましょう〔ルツによるマタイ福音書注解・EKKシリーズ〕。
(3)上の解釈に対して、ここで「死んだ者によって」とは、「霊的に死んだ者たち」のこと、すなわち神の国をいまだ知らない一般の者たちを指すという解釈があります〔デイヴィスとアリスンによるマタイ福音書注解・ICCシリーズ〕〔ハグナーによるマタイ福音書注解・WBCシリーズ〕。神の御国を知らない人への弔いは同じような人たちに任せて、あなたは先ず御国を伝えなさいというこの見方は、教会の伝統的な解釈で、現在でもこの解釈に従う人たちが多いようです。これだと、イエスに従う御国の民は、この地上で家族を含む世俗の人間から完全に身を引いて、神の業だけに専心せよという意味になります。この解釈の特徴は、「世俗のこと」と「神(教会)のこと」とを完全に分離して、伝道に携わる者は、「死んだ世界に属する」家族との絆を断つ必要があるという命令になることです。信仰者と不信者/未信者を区別するこの解釈は、教会制度が整い、聖職者制度や修道院制度が確立するのに応じて、生じるようになったのでしょうか。マタイはここでマタイ10章37節を念頭においているのかもしれません。

■ルカ9章
[57]【一行が道を】ルカはこの記事をイエスの一行が、サマリアを通過して、エルサレムへ向かう途中の出来事としています。ルカにとって「イエスの弟子になる」とは、イエスと共に旅をすることであり、エルサレムへ向けて十字架にいたる旅に加わることにほかなりません。59〜60節はマタイにはなく、したがってイエス様語録からではありません。この部分はおそらくルカの特殊資料からでしょう。なお、始めの導入の部分は、イエス様語録から挿入するためのルカの編集です。ルカには、律法学者も弟子もでてきません。だから、ここに登場するのは、新しく弟子入りを希望する人たちばかりです。
[59]【別の人に言われた】ルカ福音書では、マタイ福音書と違って、ここは、イエスのほうから呼びかける「召命」の話になっています(5章27節参照)。確かではありませんが、これがほんらいの形だったのでしょうか。
【父を葬りに】「葬り」については、上に幾つかの場合をあげましたが、ここでは、それ以外に、年老いた父を看取るまでは、父の世話をして、父の死後にイエスの弟子になってもよいかと許しを求めているとも考えられます。つまりこの人は、召命を受けても、しばらく猶予の期間を願っているのです。
[60]【神の国を言い広め】この後半部はルカからです。神の国を「伝える」と言う場合に、ルカは、「福音する」(ルカ4章18節/8章1節)、「宣教する」(9章1節)を用いていますが、ここでは「言い広める」という言い方をしています。ルカはここで、ナインでのやもめの息子の葬儀の列とイエスの一行との出会いのように、「死の行列」と「生の行列」というふたつの列を念頭においているのでしょうか。この場合「死んでいる者たち」というのは、肉体的な死を含むだけでなく霊的な死をも含むことになります。
[61]【父母にいとまごい】かつて預言者エリヤが、弟子としてエリシャを召命した時に、エリシャは「父母に別れの接吻をさせてくれるよう」と願い出て、エリヤはこれを許しています(列王記上19章19〜20節)。
[62]現行の読み方と順序を逆にして、「後ろを振り返りながら、鋤に手をかける者は(だれもいない)」と読む写本もあります。内容は変わりませんが、ニュアンスが違ってきます。ここは、神の国を伝えることは、肉親との絆を断つことであるという意味にも受け取れますが、家族の絆を「断つ」というより、むしろ、これを「新しい視点から見直す」ことなのです。福音は常に人間関係を新たに創造し続けるのです。ルカはここで、イエスの次のような言葉をも念頭に置いていたのでしょうか(ルカ8章19〜21節/12章51〜53節を参照)。
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