【注釈】
■イエス様語録
マタイとルカは、どちらもイエス様語録をもとにしていますが、二人の言葉遣いは違っています。この話は、おそらく実際のイエスの出来事にさかのぼるのでしょう。両者に共通するところが多いのは、マタイ福音書の8章9〜10節とルカ福音書7章8〜9節です。イエス様語録の復元原典も英訳もほぼマタイのほうを採っていますが、二人に伝えられたイエス様語録は、やや異なった版だったのかもしれません。また英訳のイエス様語録では、結びとして「彼は百人隊長に言われた、『行きなさい』。百人隊長が家に戻ってみると、僕はよくなっていた」が加えられています。これがほんらいのイエス様語録の結びかもしれません。なおマルコ福音書には、この話はでてきません。また、ヨハネ福音書4章46節後半〜54節にでてくる「王の役人の息子」の癒しの話は、おそらく、このイエス様語録と同じ伝承からでていると思われますが、確かなことは分かりません。
ここで語られているのは、ほんらいイスラエルに向けられた神の救い(と癒し)から除外されていた異邦人の信仰です。この百人隊長は、「その屋根の下に来ていただく値打ちもない者」として、自分がイスラエルの神の恩恵に与る値打ちがないことをはっきりと認めています。だからイエスは、異邦人である彼に「わたしに来て彼を治せと言うのか?」と、否定的に答えています。ところが百人隊長は、これに負けることなく、「一言おっしゃってください」とあえて訴えます。イエスはその姿勢に、「イスラエルにさえ見られない」信仰を見出して驚くのです。ユダヤ教やユダヤの伝統的な律法からは除外されていた異邦人にも救いが及ぶこと、しかも、「イスラエルでも見られないほど」の信仰が異邦人の中に見出されたこと、このことをイエス様語録は伝えています。
ここにあげたイエス様語録の下段、御国での宴会のほうは、マタイ福音書では上段とつながっていますが、イエス様語録ではほんらい別の断片です。ルカは、下段の断片を百人隊長の話とは別に、13章28〜29節に置いていますが、ルカ福音書のほうが、13章22〜30節にわたって、イエス様語録の内容をほぼそのままの順序で伝えています。だから、御国での宴会を百人隊長の話とつないだのはマタイです。異邦人の癒しとつながっているために、御国での宴会の話が、ほんらいイスラエルの民がついているはずの神の宴席に、異邦の諸民族がつくことになるという意味にもなります。これは、イエスについて来ていたイスラエルの人たちに対する厳しい警告です。
そして多くの人たちが、日の出る所と入る所から来て」とある部分は、父祖アブラハムたちの前に来ていますが、これはマタイに従ったもので、ルカ福音書では、これが父祖たちの後になります。また「あなたがたがは、外の暗闇に放り出される」とありますが、ここの「あなたがたは」はルカの読みを採り入れたもので、マタイのほうは「御国の子たち」となっています。「御国の子たち」であるはずのイスラエルの民が、終末には暗闇の中で歯ぎしりする一方で、「暗闇の中にいた」はずの異邦の諸民族からでた人たちが宴席につくのですから、全く正反対の結果になります。ただし、この解釈に反対する説もあります(マタイ8章11節の注釈を参照)。
■マタイ8章
マタイは、らい病の癒し(マタイ8章1〜4節)と百人隊長の僕の癒し(同5〜13節)とペトロのしゅうとめの癒し(同14〜15)、これら三つの癒しを並べ、これに続いて、弟子となるための覚悟を語ります(同16〜22節)。続いて嵐の海を鎮める奇跡(同23〜27節)とガダラの悪霊憑きの癒し(同28〜34節)と中風の癒し(同9章1〜8節)のように、奇跡と癒し三つを語り、その後で、マタイの召命と罪人を招くイエス(同9〜13節)と断食についての問答(同14〜17節)を伝えます。マタイはさらに、イエスの衣に触れる女の癒し(同18〜26節)と二人の盲人の癒し(同27〜31節)と口のきけない人の癒し(同32〜34節)を続けます。このようにマタイは、癒しあるいは奇跡を三つずつ3回並べて、それらの合間に、イエスの教えを挟むのです。
マタイ福音書ではこのように、癒しや奇跡の後で必ず御国の「教え」が来ます(マタイ4章23節〜5章2節を参照してください)。マタイには、「教え」と「しるし」とを並行させる特徴があります。しかもここで語られるらい病の患者や悪霊憑きや長い間出血の続く「汚れた」女などは、当時のユダヤの社会から不浄な者として排除されていた人たちです。あるいは、嵐の海にもまれて今にも沈みそうになっている弟子たちです。イエスの癒しと奇跡は、こういう人たち、こういう状況において、働くのです。マタイがこれらの癒し物語の間に「罪人の救い」の教えを挟んでいるのも、このことをはっきりと伝えるためです。
[5]【カファルナウムに】原文は「彼がカファルナウムに入ってくると百人隊長が彼のもとやってきて彼に懇願した」です。「カファルナウム」についてはすでに説明しましたが、ここの「カファルナウム」の場所設定は、その前の記事と直接つながりがありません。マタイはこのように、必ずしも記述の順序に関わりなく、御国の出来事(癒しや奇跡など)と御国についての教えを中心に全体を構成し直しています。
【百人隊長】イエスの頃にガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスは、父ヘロデ大王にならって、広範囲な自治権をローマ帝国から認められていました。このため彼は、ローマの軍隊ではなく、自分の軍隊を編成していましたが、それはユダヤ人によるものではなく、雇いのいわゆる傭兵であったと思われます。だから、ローマ帝国直属のユダヤとは異なって、ガリラヤでは、民衆が直接ローマの軍人と接する機会はあまりなかったことでしょう。ここでの百人隊長を「ローマ人」あるいは「ローマの軍人」とする説もありますが、実際は、ローマ人ではない雇いの「異邦人」であったと見るべきです。百人隊長は、百人の兵士を指揮する隊長で、100人単位の小隊が六つでひとつの大隊を構成していました。百人隊長は、騎兵隊から選ばれたり、通常の兵卒の中からも昇任されたりする場合があり、その小隊全体について広範な指揮権(死刑などの処罰を含む)を持っていました。カファルナウムは、ガリラヤの東の端にあって、東方の領主フィリポの領地と境を接する場所にあったので、軍隊が駐屯していたのです。
[6]【主よ】マタイは、癒しの際に「主よ」という呼びかけを用いることが多く、またイエス様語録でもこの後で百人隊長が「主よ」と呼んでいるので、ここにも「主よ」を加えたのでしょう。ただし、これをたんなる上司に対する呼びかけとする訳もあります(“Sir,”[REB])。ルカは百人隊長の言葉をそのまま直説法では伝えませんが、イエス様語録のほうはマタイに従って直接話法で復元してあります。
【僕が】「僕(しもべ)」と訳された原語は、「子供」と「僕」の両方の意味があります。ヘブライ語あるいはアラム語の原語にも両方の意味があり、解釈が別れます。ヨハネ福音書の4章51節でも同じ原語が用いられていますが、同4章46節から判断して、これは明らかに「息子」を指します。もしもヨハネの伝承がマタイのそれと共通しているとすれば、ここも「子供」の意味になるのかもしれません。しかし新約聖書でこのギリシア語が「子供」を指すのは、ヨハネのこの一箇所だけで、そのほかは「僕/部下」です(マタイ12章18節など)。七十人訳でも通常「僕」を指すので、ここは軍人の「部下」あるいは「僕」あるいは「(奴隷の)召使い」を指すのでしょう。
【中風で】ルカ福音書では「病気です」となっていますが、マタイは病名を特定する傾向があるので「中風/麻痺」としたのでしょう。「中風/麻痺」は、手足の萎えた状態など広い範囲を指しました。その僕は激痛を伴う麻痺症状にあったと思われます。マルコ福音書では、らい病の癒しに続いて「中風/麻痺」の癒しがでてきますから、マタイはマルコに影響されたのでしょうか。
[7]【いやしてあげよう】イエスが「言われた」とある動詞は現在形です。問題は、イエスの言葉が、「わたしが行って彼を癒そう」という肯定なのか、あるいは「このわたしが行って彼を癒すのか?」の否定的な疑問なのか、ふたとおりに読むことができることです。前のほうであれば、イエスの答えは肯定的になりますが、後のほうであれば、「ユダヤ人のわたしがどうして異邦人の家にはいることができるのか?」という否定的な意味が強くなります。当時のユダヤ人社会では、異邦人と接触すると「汚れる」と考えられていたからで、カナンの女の場合でも、イエスは、始めは癒しを断わっています(マタイ15章24節)。この7節でも、イエスは「このわたしが?」とやや驚いた口調で答えているのでしょうか。イエスの伝道の第一の使命は、イスラエルの人たちに向かうことでした(同10章5〜6節)。7節は解釈の難しい所で、肯定説〔新共同訳〕〔REB〕〔NRSV〕と否定説〔岩波訳〕に分かれています。
しかしルカ福音書のほうでは、イエスは長老たちの依頼に応じています。百人隊長は、長老たちを通して、イエスが「来て部下を助ける」(ルカ7章3節)ように頼んだとありますが、この「来て部下を助ける」の部分は、イエス様語録からでていると考えられます。だとすれば、ほんらいのイエス様語録でも、イエスの答えが、肯定と疑問との二つの版があったのかもしれません。上にあげたイエス様語録の原典復元版は、イエスの答えを問いかけのほうにとっていますが、英訳〔バートン・マック〕のイエス様語録は、ルカ版の肯定を採っています。そもそもほんらいの原写本には、疑問符は記されていません。また定本となっているギリシア語原典にも疑問符はありません。だから7節でのイエスの答えを肯定に訳してある版は、ルカが使用したと思われるイエス様語録に準じて、ここマタイ福音書8章7節の文をも疑問文ではなく肯定文にしているのです。
[8]【自分の屋根の下に】百人隊長に対するイエスの答えが、「このわたしがあなたの家へ行くのか?」という否定的な疑問であるとすれば、「わたしには、とても来ていただく値打ちがありません」という隊長の答えは、イエスの問いかけに合致していると言えましょう。イエスは彼の信仰を試しているのかもしれません。この場合、あえてイエスの答えに逆らって訴える隊長の信仰的な姿勢がいっそう印象づけられることになります。原語では、「わたしの」(屋根)が、ルカに比べてやや強調された位置にあるのも、イエスの「このわたしが」と対応して、異邦人の自分の立場を意識している見ることができます。この姿勢は、15章のカナンの女の姿勢と同じです(15章27節)。これに対して、イエスが肯定的に答えたとすれば、百人隊長の言葉は、思いがけない驚きと感謝と、そこから生じるへりくだりからでていることになります。これはルカの描き方に違いと言えます。
【ただ、ひと言】ルカ福音書には「ただ」がありません。マタイは、「ただ」を入れて、百人隊長のイエスの言葉に対する信仰を強めているのです。神が言葉によって癒しを行なうことは、詩編107篇20節にあります。マタイは、ここでのイエスの言葉をこの預言の成就と見ているのでしょうか。これに続けて、「(必ず)いやされます」と預言的な未来形を用いています(ルカのほうは「いやしてください」と祈願の命令形です)。
[9]【権威の下にある者】この節はルカ福音書と1語を除いて全く同じです。ルカもマタイもイエス様語録を基にしています。「権威の下にある」をイエスにも当てはめて、イエスが父の神の権威の下に置かれていることを強調する解釈もありますが、これは行き過ぎでしょう。百人隊長は、「自分自身も権威の下にある身ですが、しかし・・・」と、自分も上司の下にいるのに命令を下すことができるのなら、あなたはなおさら・・・という意味です。なお「部下」と訳されている原語は、「奴隷/召使い」の意味にもなります。軍隊の部下ではなく、自分の家の召使いのことかもしれません。
[10]【聞いて感心し】原文は「そこでイエスは聞いて驚いた」です。ルカ福音書では「イエスは<これを>聞いて<彼のことで>驚いた」です。マタイは必要でない言葉を省く傾向があります。マタイが、ここのように「驚く」という感情を表わす言葉をイエスについて用いるのは希です。
【従っていた人々に】「はっきり」(原語は「アーメン」)とあって、これはマタイが加えたものです。イエスの驚きとこの百人隊長への感銘が、いっそう強められています。ルカはここで、「(イエスは)振り向いて」を加えていますから、イエスの言葉は、百人隊長ではなく「従ってきた」イスラエルの人たちに向けられます。これがこの話を語るマタイの視点なのでしょう。なお「イスラエルの中」は、「イスラエルの民」と「イスラエルの国内」と両方の意味にとれます。「信仰」と関連づけているのですから、「イスラエルの人たち」という意味でしょう。この問題については、11節の注釈を参照してください。
【これほどの信仰を】ここでの「信仰」を御国へ入る「信仰」と区別して、奇跡を信じる「それほどの信仰」という意味に理解する説もありますが、マタイは、癒しや悪霊追放の信仰と御国へ入る信仰とを結びつけていますから、「信仰」に区別をつける必要はありません(マタイ9章5節)。
[11]【大勢の人が来て】イエス様語録ではここから別の断片になります。旧約聖書では、異邦の諸民族が、イスラエルの民と共に神の祝福に与る時が来ると預言されていますから、「大勢の人が来て」とあるように、終末の時に異邦人が神の宴席に着くのは旧約以来の伝承です。ただしここでは、この伝承が、ほんらいイスラエルの民に割り当てられていた宴席に、これに代わって異邦人が与るという厳しい皮肉に変わるのです。この点でルカ福音書のほうは、イスラエルと異邦人とを特定せずに、すべての人たちに「狭い戸口から入れ」と勧められています(ルカ13章24節)。ただしルカも「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者がある」(同13章30節)と結んでいますから、イスラエルに対する警告も含まれていると見るべきでしょう。
このように見るなら、「大勢の人」とは、異邦の諸民族から来た人たちのことを指すと受け取ることもできます。しかしながら、この節の「東から西から」の出所である詩編107篇3節で語られているのは、捕囚として捕らわれていたユダヤの民が、再びエルサレムへ帰還したことであって、異邦の諸民族のことではありません。「東から西から」という言い方も、離散のユダヤ人が集められる場合を指すもので、異邦人が集められることではありません。だから、異邦人がイスラエルの民に取って代わるという先に述べた解釈は、百人隊長の話とのつながりにおいて初めて生じてくることになります。百人隊長の話はイエスにさかのぼると思われますが、イエスにせよ、ユダヤ人キリスト教徒のマタイにせよ、イスラエルが拒否されて異邦人が受け容れられるという考えを抱いたとは考えられません(マタイ福音書19章28節で、イエスは、12弟子がイスラエルの12部族を支配すると言っています)。ここは解釈が難しい上に、大事な問題を含んでいますから、一応次のようにまとめることにしましょう。
(1)イエス自身は、ここで、イスラエルの民の間でさえこの異邦人ほどの信仰を見いだせないと語ったと思われます。しかしそのことは、イスラエルに対して御国の相続が拒否されて、異邦人がこれに取って代わるという意味ではなかったと思われます。
(2)イエス様語録もイエスと同様に、ここで、イスラエルと異邦人との立場の逆転を意味していたのではありません。
(3)マタイ福音書で初めて、イスラエルに対する厳しい警告が語られます。これはマタイが、イエス様語録ではほんらい別個の「御国の子ら」への裁きの断片を百人隊長の話と結びつけたことによって生じたのです。ここでのマタイ福音書は、解釈がほぼ以下のように別れます。(A)御国での宴会の記事は、終末(イエスの再臨)には、イスラエルの民がついているはずの神の宴席に、彼らに代わって異邦の諸民族がつくことになるという意味になる。ただし、旧約聖書を含むすべての預言がそうですが、これはイスラエルの運命や定めを宿命として予告するのではなく、イスラエルの民の姿勢によっては変更される可能性を含んでいます〔ルツ『マタイによる福音書』EKK新約聖書註解〕。(B)これに対して、外に追い出される「御国の子ら」と宴会に出る「大勢の人」というのは、イエスの当時のイスラエルの支配階級と同じイスラエルの貧しい人たちのことであって、特権意識におごる者たちの不信仰と貧しい者(これには「敬虔な人」の意味もあります)の信仰とがここで対比されているという指摘があります〔デイヴィスとアリスン『マタイ福音書』ICC聖書註解〕。この場合、「イスラエルの中で」とあるのは、「イスラエルの民の中で」の意味ではなく、「このイスラエルの国でも」という地理的な意味に理解されます。だから、対照されているのは、イスラエルの民と異邦の諸民族との間のことではなく、「イスラエルの国の中で」、この異邦人ほどの信仰を見たことがないと指摘してから、終末において、世界中からイスラエルの民が集められた時に、現在「御国の子」だと自負している特権的な者たちは、外の暗闇に追い出されると告げていることになります。(C)さらに、ここで言う「御国の子ら」とは、ユダヤ人キリスト教徒たちのことであり、イスラエルよりも、キリストを信じる者たちへの警告であるという見方もあります〔フイッツマイヤー『ルカによる福音書』アンカー聖書註解〕。
これらの見方の中で、どれが適切かを判断するのは、難しいです。問題がそれだけ深く難しく、しかも重要だからです。マタイ8章11〜12節をイエス様語録ほんらいの配置からはずして、百人隊長の話とのつながりに置いたのはマタイです。だから、マタイは、やはりユダヤ人(の一部)と異邦人とをここで対比させていると考えられます。マタイの教会が、マタイと同時代のユダヤ教のファリサイ派と対立していたのもこのような見方の原因かもしれません。しかしそれよりも、マタイが見捨てられる「御国の子ら」という時に、マタイたちが間近に体験したであろうエルサレムの滅亡という厳しい現実が、彼らの念頭にあったと考えることができましょう。
これについては、筆者がオロンテス川のアンティオキアを訪れたときに思わされたことがあります。アンテオキアに近いセレウキアに、パウロたちが第1回伝道旅行に出かけたときに船出した港の跡があります(使徒13章4節)。セレウキアへは、アンティオキアからピエリア山の峠を越えて下ることになります。この港の跡を訪れたときに、その港が、オロンテス川によって運ばれる土砂のために、度々使用不能になったことを知りました。この問題を解決するために、ピエリア山の東側から、山の西側にあるセレウキアまでトンネルを掘って、オロンテス川をそこから二つに分岐させて支流を作り出し、セレウキアの港に流れ込む土砂を減らそうとする工事が行なわれました。この工事は、ユダヤ戦争の直後、ユダヤを攻撃したローマの将軍ティトスの命令によって行なわれました。しかもその難工事のために、ユダヤ戦争で奴隷とされたおそらく幾千人をくだらない数のユダヤ人が使われたのです。驚くべきことに、それは「トンネル」ではなく、ピエリアの山の中腹を上から削り取っていって、延々1キロ以上に及ぶ絶壁の水路を掘り進む工事でした。しかも、その工事は、ほとんど奴隷たちの手作業で、彼らはおそらく鑿のような道具を使って、ひたすら掘り続ける労働を強制されたと思われます。この水路跡を歩くと、両面に削り取られた岩の絶壁がそびていて、今もなお、その工事のすさまじさを思わせてくれます。
ティトスの命令でこの工事が行なわれていたのは、ユダヤ戦争の直後ですから、80年〜90年頃だと推定されます。だから、ちょうどその頃、目と鼻の先にあるアンティオキアでは、マタイたちのユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒を含むキリスト教徒たちが、集会を持ち、しかもこのアンティオキアの教会でマタイ福音書が成立したことになります。だから、マタイたちは、礼拝を持ち福音書を書きながら、自分たちの近くで、無数のユダヤ人が奴隷として酷使されているのを見ていたことになります。ユダヤ人も異邦人も共々に、多くの者が東から西から集められてイエス・キリストを信じる恵みに与る一方で、ほんらい「御国の子ら」として祝福に与るはずのユダヤ人が過酷な労働を強いられているこの有様を見て、「あなたがた御国の子らは、外で歯がみして悔しがるだろう」と付け足さざるをえなかったマタイの悲しみとも憤りともつかない慟哭が、彼の追加部分から聴き取ることができるように思います。
(4)ルカ福音書では、百人隊長の記事は、イスラエルの不信仰に目を向けるよりも、むしろ百人隊長の信仰それ自体のほうに重点が移されています。したがって、この話には、イスラエルに対する厳しい見方を読み取ることができません。イエス様語録での「歯ぎしりする者たち」の断片とルカとの関係は、後の注釈を参照してください。
【アブラハム、イサク】ユダヤ教では、義人は、その死後、直ちにアブラハムやイサクなどの「父祖たち」出会うと信じられていましたが、ここではそうではなく、終末においてイエスの再臨によって初めて父祖たちとの出会いがあるという意味です。
[12]【御国の子ら】神の祝福と神の御国を受け継ぐ正統な相続者の意味です。「子」はそこに所属していることを表わす言い方で、「この世の子ら」「契約の子ら」「闇の子ら」「光りの子ら」など、よい意味でも悪い意味でも用いられます。
【外の暗闇に】「外の」の原語は、「はるか遠くの外へ」で、これはマタイが加えたにものです。「遠い」とは神から遠く離れることです。なお「泣きわめいて歯ぎしりする」という言い方はイエス様語録からですが、マタイがよく用いています(マタイ13章42節)。
[13]【帰りなさい】原語は「離れ去る」「去って行く」を意味する命令形です。イエスは、癒された人によくこう言います(マタイ8章4節/同32節/同9章6節)。
【信じたとおりに】原文は、「信じているとおりに、あなたに起こるように/成就されるように」で、主の祈りと同じ形です(マタイ9章29節/同15章28節)。
■ルカ7章
すでにマタイ福音書の注釈でルカについて述べた点は省略します。ルカは百人隊長の話を(マタイよりもさらに近く)イエスの平地の教えの直後に置いています。話の構成は次のようになっています。<イエスがカファルナウムへ入る→百人隊長の部下の病気→第一の代理人→百人隊長への賞賛→イエスが依頼に同意する→第二の代理人→百人隊長の信仰を代弁→イエスによる彼への賞賛→代理人の帰還と癒し。>
これで見ると分かるように、イエスの同意を真ん中にして、物語が対称形に構成されています。しかし、物語を始めから終わりまで支配しているのは、一度も姿を見せない百人隊長なのです。だから、彼がここでの「主人公」であるという印象さえ受けます。しかも彼は、イエスを見たことがありません。二度の代理人を立てているのは、イエスと百人隊長との距離を感じさせます。この距離感は、場所的というよりも心理的な距離です。ルカの念頭には、異邦人である彼が、直接イエスとかかわりを持つのは、まだ後のことで、それはペンテコステの聖霊降臨(使徒2章)からです。だからここでの百人隊長は、救済史的に見るならば、ユダヤ人のイエスからは、まだ離れた位置にいることになります。
[1]【すべて話し終えて】原語は「あます所なく語り終える」です。ルカはこれに先立つ平地でのイエスの言葉によって、イエスの教えが「あます所なく」語られたと述べてから、異邦人である百人隊長の話に入ります。ここでイエスの「御言葉の力」が発揮されるのです。マタイ福音書にはこのような状況設定はありません。また、「民衆に」とあるから、この人たちも「イエスについて」カファルナウムに入ったのでしょう。後で、イエスが「振り向いて」人々に語ったとありますが、その相手は、これらの「民衆」だったことになります。
[2]【ある百人隊長】ルカは「ある」を加えて、不特定の異邦人としています。イエスの時代の異邦人の中には、ユダヤ教の教え、特にその唯一神教とモーセ十戒のような倫理的な教えに共感して、旧約聖書に賛同し、会堂での礼拝に出席したり、ユダヤ教の教えの一部を守る人たちがいて、このような人は「神を畏れる異邦人」と呼ばれました(使徒10章22節)。ただし彼らは、割礼を受けて正式のユダヤ教徒になるのは控えていました。彼らは、福音の最初期の伝道の時期に重要な役目を果たした人たちです。おそらくルカ自身もこの「神を畏れる異邦人」のひとりではなかったかと言われています〔ボヴォン『ルカ福音書』(T)ヘルメネイア聖書註解〕。
【部下が】原語は「奴隷/僕/部下」を意味する「ドゥーロス」です。マタイは「子供/僕」の両方の意味を持つ「パイス」で、ヨハネは「息子」の「ヒュイオス」を遣っています(ヨハネ4章46節)。「重んじられている」とあるのは「大事な」「尊重されている」という意味です。ヘレニズム世界では、通常奴隷や召使いは、経済的に役立つか、あるいは家計に利益をもたらすことで評価されましたが、ここでのように「大事に」「尊重されている」のは、この百人隊長の思いやりと愛情深さを示しています。なおマタイ福音書では「中風で苦しむ」とありますが、ルカ福音書では「病気で今にも死にそう」となっています。
【ユダヤ人の長老たち】これ以下3〜5節はマタイ福音書にはありません。ここでの百人隊長には、コルネリオ(使徒10章1節)やヤイロ(ルカ8章41節)のように名前が付けられていません。しかし彼は、ユダヤ人のために会堂を建ててくれたので、ユダヤの会堂の長老たちが、彼に代わってイエスへ願い出たのです。なお百人隊長が、イエスのことを「聞いた」とあるのは、後で、御言葉を求めることと合わせて大事な点です。イエスを見ないのに、「聞いて御言葉を信じる」信仰を抱いたからです。
[4]【ふさわしい人】原文は「このことを実行してあげる資格のある人」です。ルカがここで「資格」と言うのは、異邦人でイエスと面識がなくても、「救いの祝福に与る資格のある信仰を持つ人」という意味です。次の節に「ユダヤ人を愛する」とあるように、ここでルカは、これに先立つイエスの教え、特に「神と隣人を愛する」教えと神への信仰を念頭においているのです。異邦人でも、神と隣人を愛する者は救いに与る資格がある、というのがここでのルカのメッセージです。ルカによれば、福音は救済史的に展開します。だから、異邦人への救いの時はまだ来ていません。それはペンテコステ以後になって初めて、聖霊の導きによって実現するからです(使徒10章)。だから、この百人隊長の例は、言わば、そのことを証しする前触れであり、彼は異邦人の信者の模範なので