【注釈】
 大勢の人の癒しは、ここが最初で、次にマルコでは、湖畔での大勢の人たちの癒しが来ます。マルコの湖畔での癒しは、マタイでは山上の教えのすぐ前に、ルカでは平地の教えのすぐ前におかれていますから、これはイエスの教えと直結します。だから、今回と次の「方々から来た人たちの癒し」とでは、それぞれに異なる視点から読んでみたいと思います。
■マルコ 1章
 カファルナウムでの悪霊追放とペトロの姑の癒しに続いて、その同じ日の夕方に、大勢の人たちの癒しが行なわれます。ここでの出来事は、これから幾度も繰り返される出来事の一例にすぎません(マルコ1章39節/同45節など)。同じようなことが、イエスの行く所どこでも起こったとマルコは伝えているのです。マルコは伝えられた伝承に基づいて、これに少し編集を加えてこの部分を構成しています。
[32]【夕方になって日が沈むと】マルコは、同じことを別の言い方で繰り返す傾向があります。ただし「日が沈む」とあるのは、ただの繰り返しではなく、安息日が終わったこと、したがって、病人をイエスの下へ連れてきても律法違反にはならないことをはっきりさせるためです。マルコの「夕方に」はマタイが引き継ぎ、「日が沈むと」はルカが引き継いでいます。マタイとルカは、このようにマルコの記述を別々に引き継ぐ傾向があります。
【病人や悪霊】直訳すれば「病人<とそして>悪霊に憑かれた者たち」です。マルコは広い意味での「病人」と「悪霊憑き」とをはっきり区別しているからです。34節にあるように、病人は「癒し」ますが、悪霊は「追い出す」のです。病人には手を触れて癒しますが、悪霊には手を触れることをせず、言葉によって命じるのです。マルコは、このように病気と悪霊とを一貫して区別しています(3章10〜11節/6章13節)。
[33]【町中の人】原文は「町全体が」です。これは誇張した言い方です。発掘されたカファルナウムの通常の家の戸口は狭く、「町中が」集まることはできません。しかし、これも、一箇所の出来事だけを述べているのではなく、ガリラヤ中の人たちが、イエスの下へやって来たことを言うためです。なお、イエスのほうから病人を集めたり、ことさらに病気癒しを広めたのではありません。「癒しの必要に迫られて、自然にそうなった」のです〔R・T・フランス『マルコ福音書』NIGTC注解シリーズ〕。
[34]【いろいろな病気】「病人」とある原語は、ほんらい「病気の人」のことですが、ここでは、精神的な病や身体に様々な障害のある人たちも含めて「いろいろな」と言っています。なお「大勢の/多くの」人を癒したとあるから、病気の人たち「全部を」癒したのではなく、その人たちの信仰に応じて癒しが行なわれた(だから癒されなかった人たちもいる)という解釈もあります。しかし、マルコはここで「全部」と「多く」をそのように区別しているのではありません。なお「連れてきた」とあるのは「絶え間なく連れてきた」ことです。
【イエスを知っていた】ここは、「イエスが<メシア/キリストであると>知っていた」と付け加える写本があります。これはおそらく、ルカの影響から(ルカ4章41節)でしょう。マルコ1章24節や3章11節や5章7節では、悪霊どもは、イエスが「何者であるか」を口にします。ところが人間のほうは、イエスが「何者か」が分からないのです(1章27節/2章7節/4章41節/6章2節/6章14〜16節)。人間が見抜けなかったことを霊的な存在が(悪霊と言えども霊界の存在です)見抜いたのです。

■マタイ8章
  マルコ福音書では、カファルナウムの悪霊追放とペトロの姑の癒しがあり、その日の夕方に病人たちの癒しがあり、その翌日に(マルコ1章35節)、らい病の癒しが行なわれます。ところがマタイ福音書では、らい病の癒しが先にあり、カファルナウムの百人隊長の僕の癒しがあり、ペトロの姑の癒しが行なわれ、これと同じ日の夕方に大勢の癒しが行なわれています。マルコは、ペトロの姑の癒しを安息日のこととしていますが、マタイは、これらの出来事の日を特定していません。このようにマタイは、マルコの出来事の順序とそれらが行なわれた日を構成し直しています。さらにマタイは、これらの癒しの後に、「イエスに従う弟子の覚悟」を置くことで、癒しと教えとをリンクさせるのです。このように、癒しや奇跡とイエスの教えとを結ぶのがマタイの手法です。
[16]【言葉で悪霊を追い出す】マルコは、病人を先にだして、悪霊憑きを後にしていますが、マタイは「大勢の」悪霊憑きを先に出します。「大勢の」とあるのは、集まった人の数のことではなく、「沢山の悪霊ども」という意味で、悪霊の種類や数のことです。ただしマタイの原語は「霊」(複数)であって、マルコやルカのように「悪霊」(ギリシア語で「ダイモニオン」)とはなっていません。しかし、この「霊」は悪い霊のことですから、ここを「汚れた霊」と読む写本があります。「汚れた霊」という言い方は、イエスが後で弟子たちを選んで派遣する時にも遣われますから(10章1節)、マタイはこのことをも念頭に置いてここでこの言い方を用いているのかもしれません。「悪霊」という言い方は、8章28節でのガダラの悪霊憑きで初めて出てきます。なお今回の16節では「言葉で」(単数)悪霊どもを追い出したとありますが、神が言葉で宇宙を創造し、その言葉で自然界を支配するのは旧約聖書以来の信仰です。しかしここでは、神の「言葉」が「イエスの言葉」とひとつになって働き、しかも、その「言葉」が単数であることで、「ことば」とイエス自身とがひとつになっているのが分かります。イエスの人格的な霊性の臨在とそこから発せられる「言葉」が、手を触れることなしに、大勢の悪霊どもを追い出すのです。
【皆いやされた】マルコ福音書では「全員が」集まり「大勢が」癒されます。マタイ福音書では、マルコの言う「町中が戸口に集まった」が省かれて、「大勢」が集まり病人が「全員」癒されます。ただしイエスは、病人全員の癒しをまとめて一度に行なったのではなく、ルカの言うように、一人一人に手を置いて癒しを行なったのでしょう。なおマタイの言い方だと連れてきたのは悪霊に憑かれた人たちであるのに、同時に病人が全員癒されています。マタイは、汚れた霊の働きと病気とをはっきりとは区別していないのでしょう。なお、ルカの場合は、「病人たちを全員」イエスの下に連れてきて、イエスはその「一人一人」を癒すのですが、悪霊憑きのことは述べられていません。しかし同時に、悪霊どものほうから、わめきながら出ていくとあるのですから、ルカもマタイと同じように、病気と悪霊とをはっきりとは区別していないようです。
[17]【預言者イザヤ】この節はマタイ福音書だけです。内容的には、先のマタイ4章15〜16節でのイザヤの引用とつながっています。マタイはここでイザヤ書53章4節から引用していますが、イザヤ書の53章は、「受難の主の僕」としてのメシアを預言するもので、原初のキリスト教会では、イエスがメシアであり人々の罪を自らに背負って十字架の贖いを成就したことを預言する大事な箇所とされていました。マタイの引用は、七十人訳からではなく、直接ヘブライ語原典からギリシア語に訳したものです。ヘブライ語原典と七十人訳からの直訳をあげると次のようになります。「確かにこの人は、わたしたちの病弱を担った。そしてわたしたちの痛みを背負った」〔ヘブライ語〕。「このように彼はわたしたちの罪を担い、わたしたちのために苦しめられた」〔七十人訳〕。「彼はわたしたちの病気を取り除き、わたしたちの苦痛を取り去った」〔マタイの引用の直訳〕。これで見ると、マタイは、(病弱を)「担った/肩代わりした」とあるヘブライ語の原文を「取り除いた/取り去った」としていることが分かります。
【患いを負い】「患い」のヘブライ語の原語は「病/苦しみ/悩み」で、これに対するマタイのギリシア語訳は「弱さ/病気/人間的な弱点」“infirmity”です。ヘブライ語の原語は、必ずしも身体的な「病気」だけを指すものではなく、精神的な苦しみや弱さをも含んでいます。七十人訳の「罪」という訳はこのことから出ているのでしょう。しかし、マタイはここで、イエスの病気癒しと悪霊追放を念頭に置いていますから、「身体的、肉体的な病気」の意味で「患い」を用いているのです。マタイ以前のユダヤ教でも、ヘブライ語原典のこの言葉は、字義どおりの「病気」と解釈されていたようです。
 また「負い」とある原語は、ヘブライ語でも七十人訳でも、「身代わりとなって背負う」あるいは「担う」の意味です。これだとイエスは、わたしたちの罪や病や悩みをイエスがその身に「引き受けた」という解釈が可能になります。七十人訳で「わたしたちのために苦しめられた」と訳してあるのもこの意味でしょう。しかし、マタイのここでの引用は、イザヤ預言のこのような「受難の僕」としてのイエスの姿を表には出さず、むしろ「病を<治した>」「苦痛を<取り除いた>」ことを指していると言えます。マタイは、イエスが、人びとの罪と病を自分自身に引き受けてこれを「担った」ことよりもイエスが人びとの病や悩みを「取り除いた」ことを強調しているのでしょうか。「罪の贖い主から悪霊に対する勝利の主へ」という積極的なイエスの姿をここに読み取ることもできましょう。ただし、次の項目を参照してください。
【病を担った】ヘブライ語の原語は「苦悩/苦痛」ですが、マタイのギリシア語訳は「病苦」です。ここでも「担った」とあるのは、「苦痛」がイエスに「移された」というよりも、マタイでは「取り去った」「運び去った」の意味に近いでしょう〔デイヴィスとアリスン『マタイ福音書』ICC注解シリーズ〕〔ルツ『マタイ福音書』EKK注解シリーズ〕。マタイは、イザヤ書の預言をヘブライ語原典から訳していますが、イザヤ預言にある人々の病苦の「肩代わり」よりも、イエスがメシアとして人々を「病苦から解放した」と語るのです。
 このように見ると、マタイは、病気癒しと悪霊追放の現象を受難の僕としてのイエスのメシア像から区別しているとも言えましょう。今回の箇所のマタイのイザヤ書からの引用は、この後に出てくる「方々から来た人たちの癒し」でのマタイ福音書12章15〜16節と比較できます。そこでマタイは、12章16節に続けて、イザヤ書42章1〜3節から引用しています(マタイ12章17〜21節)。この引用では、イエスが「争わず、叫ばず、その声を聞く者もなく、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」とあって、イエスが人びとの罪とその弱さを担って、贖いの犠牲として自分を捧げる「受難の僕」であることがはっきりと語られています。このようにマタイは、勝利のイエスの姿に受難の僕としてのイエスを重ねるのです。

■ルカ4章
 ルカは、マルコにならって、ここでの癒しをカファルナウムでの悪霊追い出しと同じ日の夕方のこととしています。しかし、それが安息日であるという記述はありません。また、人々が悪霊憑きを連れてきたという記述もありません。ただし、イエスは「病人一人一人に手を置いて」癒しを行ない、また悪霊どもがわめきながら出ていったとありますから、ルカもマタイと同じように、悪霊憑きと病気とをはっきり区別してはいないようです。また悪霊どもが、イエスに「あなたは神の子である」と叫び、イエスが「メシアである」と知っていたと告げています。悪霊どもがものを言うことをイエスが厳しく「叱った」とあるのもこのためでしょう。
[40]【いろいろな病気】ルカは病気の種類が多種多様であることをはっきりと分かるようにしています。
【一人一人に手を置いて】これはおそらく患部に手を当てて、按手の祈りを行なうことです(使徒9章12節を参照)。ただしこのような癒しの方法は旧約聖書には見られません。エッセネ派のクムラン宗団では、アブラハムがエジプトの王に「手を置いて祈る」よう求められたとありますから〔クムラン文書「外典創世記」20章20〜22節〕、エッセネ派ではこのような按手が行なわれていたと思われます。日本語でも「手当する」と言いますが、ルカはここで、医療の意味をも込めてこの言い方をしているのかもしれません。「手を当てる」行為は、当時のヘレニズムの医療の方法としてしばしば用いられていました。しかし、イエスの時代には、ヘレニズム的な医療がガリラヤ地方にも及んでいましたから、イエスが実際に按手の方法を用いたとしてもおかしくありません。
[41]【お前は神の子だ】これは恐怖の叫びです。悪霊がイエスの正体を「見分けた」ことは先のカファルナウムでも同様でした。ただし「神の子」という言い方は、ルカ4章3節と同9節で、悪魔がイエスを試みた時の言葉を思わせます。「悪魔が知っていることは、悪霊どもも知っている」のです〔ボヴォン『ルカ福音書』ヘルメネイア注解シリーズ〕。また悪霊どもは、イエスが「メシア」(キリスト)であることも「知っていた」とあります。ルカがいう意味での「神の子」は、「聖霊が降ってマリアが身ごもり、生まれる子は、聖なる子であり、神の子と呼ばれる」(ルカ1章35節)と語られています。しかし、ヘレニズム時代には、「神の子」は、皇帝や半神半人の英雄や霊能者に対しても用いられました。だから悪霊がイエスの「霊能」に接して、イエスを「神の子」と呼んでも少しもおかしくないのです。ただし、先のカファルナウムの場合には、悪霊はイエスに向かって「神の聖者」と叫んでいます(ルカ4章34節)。この呼び方は、旧約から出ている古い言い方です。イエスが地上でその働きを顕わしていた時に、悪霊どもも含めて、イエスの周囲の人たちが、イエスのことを「神の聖者」や「メシア」、あるいは「神の子」など、いろいろな呼び方をしたと思われます。しかし悪霊がどこまでほんとうにイエスに宿る聖霊の本質を見抜いたのかは分かりません。これと関連して、ヤコブの手紙2章19節にも「神が唯一である」ことを「悪霊どもでも知っておののいている」とあります。
 イエスは生前、自分が「神の子」であること、また「メシア」であることを人々の前で告白したり、主張したりはしなかったと思われます。しかしそれは、イエスが自分の神性を「知らなかった」からではありません。またルカが証言しているように、イエスが「メシア」あるいは「神の子」であると(これにはいろいろな意味があります)、周囲の人々が信じたり言ったりしていたと考えられます。だから、この呼び方には後の教会の信仰が反映されているから「生前のイエス」にはあてはまらないと言うのは正しくありません。ルカは、悪霊がこのようにわめいて出て行くのを実際に見たのかもしれません。なぜなら、現在でも、これに類似したことが、癒しの場で起こっているからです。いずれにせよ、これらの証言は、単に「編集によって付け加えられた」ことだとは考えられません。
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