『使徒パウロの継承思想』を読んで
牧田久美(コイノニア会/日本ペンクラブ会員) 2007年2月
昨年のクリスマスに先生が上梓された『ガラテヤ書簡とローマ書簡から見た使徒パウロの継承思想』を読ませて頂きました。そしてイエス様と歩むということは一体どういう事なのか、又この2000年もの歴史を形づくったイエス様の歩みがいかに継承されてきたか、その事についてパウロが荷なった役割、使命がいかに重大なものであったかということを改めて深く発見させて頂きました。
イエス様の福音が全世界に広まっていく根幹をなす問題、ユダヤという地方から全世界に広まっていくということの意味。この御本は、このような人類の歴史にとって大きな問題を、またふりかえって一人一人の心の中に起こった疑問や問題、まだ意識に上っていないけれどイエス様と出会ったその時にすでに芽生えているような問いや誤解に、精緻に答え検証し、言葉の持つ限界をあえて超えてギリギリまで言葉で伝えようとする最先端の信仰の書であると思いました
<なぜ自分にイエスキリストが示されたのか?と問い直すところから、福音の真の継承が始まる。>(p26)ここで私ははっと目が覚めました。そうだ、私がパウロに惹かれていたのはここだったのだと、改めて力強く感じました。
私もよくそれを考えます。なぜ仏教でもなく神道でもなくキリスト教なのか。多くの仏教的なもの神仙的な考えを肯定している自分になぜイエス様が現れてくださったのか。その時、古いものを捨ててそのスタイルにはまることはつらいけれどモデルがあります。でも今までの自分を引きつぎながら、まさにそれに向き合ったまま、新しく創り直されること、自分自身の固有の福音はもっともっと困難で危険です。でもそれゆえにかけがえのない自由の福音であると考えさせられました。
しかし問題はここからです。どのようにしてこの自由を持続し、自分自身の信仰を創っていくのか。またしても心の中に入ってくる律法的な考えにどう向き合っていくのか。人間というものが構造的に持っている心の誤解をどう解いていくのか。まさにその事が本書に詳しく書かれているのです。
今まで律法的とか人の心によるとかよく口にしていましたが、私はここで改めて事の重大さに気付かされました。律法というものの壮大な歴史、重さ、イスラエルの人々と律法との大格闘の歴史が本書にビビットに書かれています。
パウロが律法の遵守者として、またそれゆえの「律法の死」を通して信仰の自由に復活した者として、体にあるしるし、「割礼」の有無を論じて、律法に真っ向から向かい合って、それまでのユダヤ教とキリスト教をまさに血を吐く思いで、峻別していく。しかしこの創造はただ新古をいうのではなく、古いものこそが根本的に新しいものへと復活せねばならない。この痛みこそがキリストの磔刑であり、その復活は、イスラエルの信仰そのものが世界の信仰へと飛躍する大復活であるという、歴史上の大分岐点がダイナミックに描かれているのです。
それは律法への深い理解と実行とそしてそれゆえに罪に深く死んだパウロにあってはじめて経験される<危機意識の自覚>(p66)であると喝破されています。この危機意識の自覚こそが、これから2000年の西洋の歴史、強いていえば世界の歴史を牽引するものだったのです。
パウロは遣わされた意味をはっきりと自覚していたのだと思います。なぜ自分なのかという問いが大きかった分、その意味にも激しく迫ったのだと思います。究極ともいえる律法主義者から完璧な信仰への転換、そして恵みの信仰へ。
私はガラテヤ書をこれほど人類の歴史上重大なものと自覚したことがありませんでした。又、律法の事の重大さを過去のものとして、近く考えることがありませんでした。イエス様以前、イスラエルの生活、歴史そのものをかたちづくっていた律法への深い理解無くして、イエス様の御出現の深い意味も解からなかったのです。律法は心の問題である以上に社会そのものの形であるのです。この事への強い認識なくして、キリストにある自由、キリストによってもたらされた福音のまばゆいばかりの光が体験できないのです。圧倒的検証で描かれていくこの事実は本書の圧巻でもあり、その一つ一つに目を開かせて頂く思いでした。
このキリストのこの光こそ世界を解き放ち、その自由こそ 一人一人の固有の信仰を創造するものであると、<一人一人の固有性にこそ絶対性が宿る>(p296)、西田哲学を引いて語られる相対と絶対、キリストにある自由という無限の諸相が個々の固有性と対立する事は無いのだという、恵みから恵みへと(ヨハネ1章16節)未来に向かって解き放たれる信仰を教えて頂きました。
パウロの福音はほんとうに新しい伝道の、そしてキリスト教が今日の形であることの要だったのだと、その奇跡の力を今思います。
つたない読み手であり、勘違い、間違いも多々あると思いますが、深く心に得るところがあり、この心開かれる思いを申し上げたいと司会の言葉とさせていただきました。