第12章 キリストの霊法
ローマ8章1節~9節
1それゆえに今や、キリスト・イエスにある者たちには、裁きはいっさいない。
2なぜならキリスト・イエスにある命の霊法が、罪と死の律法からあなたを自由にしたからである。
3肉の弱さによる律法の無力のゆえに神はご自分の御子を罪の肉の姿で遣わし、かつ罪の贖いとして肉において罪を断罪された。
4それは、律法の義が、肉によって歩まず霊によって歩むわたしたちに成就されるためである。
5なぜなら肉による者たちは、肉のことを思い、霊によるほうは、霊のことを思う。
6それゆえ肉の思いは死であり、いっぽう霊の思いは命と平安である。
7肉の思いは、神に逆らうから、それらは神の律法の言うことを聞かない。聞くことができないからである。
8だから肉にあるものは、神に喜ばれることがありえない。
9しかしあなたたちは肉にではなく御霊にある。神の御霊があなたがたの内に宿るからである。だれでもキリストの御霊を持たない者は、キリストのものではない。

テキストの解釈について
  ローマ人への手紙7章から8章にかけて、特に7章14節以下に描かれている「わたし」に働く善悪の相克について、これを「わたし」の内面的な相剋と考えるのは、ルターやカルヴァンなどヨーロッパ近代の宗教改革者たちの視点から見た解釈であって、実際のパウロは、回心以前のファリサイ派の頃には律法遵守を疑うことをせず、キリストの福音を受け入れた後は、キリストの御霊の働きによって、過去の自己からの完全脱却を確信していた。したがって、ルターやカルヴァンのような「内省的な」解釈は、近代の欧米人の読み込みにすぎないのであって、パウロほんらいの解釈には不適切である。近年の釈義では、このような解釈が行なわれているようである〔アルトハウス193〕〔サンダース99101〕。このような見方からするならば、回心後のパウロに罪の自覚があろうはずもない。したがって、7章はキリスト者のことではなく、キリストを信じる以前の人間の状態を律法との関連において描写していることになる〔ケーゼマン393〕〔ヴィルケンス(2)128〕。
  ケーゼマンやヴィルケンスの釈義には多くの鋭い洞察が含まれおり、彼らの優れた解釈に教えられるところが多い。またサンダースには、パウロの律法概念について、従来にない新しい視点が導入されている。しかしながら、このような見方とは異なる視点、すなわち7章後半は、「新旧二つの時代が重なり合う中で、律法も『わたし』も二つに割れた状態にあるキリスト者パウロの体験」〔Dunn7:14〕を述べていると見ることもできる。さらにここ7章後半の釈義にあえてカルヴァンを引用して、ここがキリスト者の体験であることを強調する見方もできる〔Cranfield(1) 356〕。これらの視点の違いに応じて、7章~8章で語られる「律法」の理解も様々で、「律法」の内容が、「モーセ律法」を指すとする説から、7章23節の「理性/知性の律法」が「宇宙的な拡がりを持つ」〔ケーゼマン390〕と見る説まで、様々に揺れ動くことになる。さらには、8章2節の「キリスト・イエスにある命の御霊の律法」と「罪と死の律法」とは、表裏二つの相を具えた同じ一つの律法であると見る説もある〔Dunn7:14〕〔市川(1)302〕。
  7章後半をキリスト者以前の体験と見なす説とキリスト者の体験とする説のそれぞれのグループの間でも、「律法」の内容について意見が一致しているわけではない。たとえばヴィルケンスは「律法」をモーセ律法に近づけて見ているのに対して、ケーゼマンはより多様な意味に「律法」の内容が変容していることを認めている〔ケーゼマン390〕。さらに、7章25節後半が傍注からの混入だとする説や8章1節を後からの挿入だとする説を加えると、事はテキスト批評の分野に広がることになる。これらの「学問的な」諸説の中から、どれをどのように選ぶのが最も適切かを見分けるのは容易でない。
 問題は、これらの諸説のどれが正しくて、どれが誤りであるかではなく、このように多様な解釈が「可能である」というまさにそのことなのである。したがってわたしは、これらの諸説を参考にしながらも、このような諸説とはいささか異なる視点から、ここローマ人への手紙7章後半~8章前半を読み解こうとしている。それは、キリストの福音が、「律法と預言者によって証しされて」(3章21節)顕われたというパウロ自身の証言に基づいている。この証言は、パウロの言う「律法」がキリストの福音を「証しする」、すなわち「指し示す指標」であることを意味している。したがって、律法とキリストの福音との間には、「指し示すもの」とこれによって「指し示されるもの」、すなわち指標とその本体とでも言うべき関係が成り立つことを意味している。
 律法が地上のことであり、福音が神の御国のことであれば、律法という見えるものでキリストという見えないものを指し示し、地上のもので天上のものを指標することになろう。パウロの人間論で言えば、キリストの御霊を受けたキリスト者は、その地上の「からだ」が、天に属する御国を指し示す指標となる。このように、見えるもので見えないものを指し示すことをイギリスの詩人ミルトンは「天のものを地のものでたとえる」と言い表わした。ここで「たとえる」と言うのは、「比較する」という意味と同時に「言い表す」という意味でもある。
 このように見てくると「律法」はキリストを「言い表すたとえ」となる。しかもパウロによれば、このような律法認識それ自体もまたキリストの御霊にあって初めて可能なのである。7章後半が、キリスト者となる以前のことであれ以後のことであれ、これを語るパウロ自身は、キリストの御霊にあって語っているという点では諸説が一致している。では律法はいったいどのような過程を経てキリストの福音を証しするのか? 「律法」と「福音」との両者の関係それ自体を固定された関係とは見ずに、両者の関係も相伴って変容するものとして、その動的な経過をたどること、これがわたしの意図していることである。ここローマ人への手紙7章後半~8章前半で、「律法」の内容に留意しつつその変容過程をたどること、これがわたしの試みたいことである。
 このような試みが大事なのは、ここに証言されているパウロの歩みが、彼一人だけのものではなく、それ以後も、キリスト者となるすべての人間が、彼に倣う歩みを繰り返す、このためのモデルを提示していると見るからである。アウグスティヌスもルターもカルヴァンも、まさに「このモデル」に従って、すなわち旧約聖書によって証しされたキリストの福音へたどり着いたパウロと同じ歩みを今度はパウロのローマ人への手紙から読み取り、そうすることで、自分たちの置かれた歴史的状況の中で、キリストの福音へたどり着いた。わたしがカルヴァンを引用するのは、このような意味においてである。パウロとカルヴァンとは置かれた歴史的状況が異なるから、カルヴァンの釈義が「誤り」だとわたしは思わない。むしろパウロ書簡を読むに際して、パウロが聖書の律法からキリストの福音を学び取ったように、わたし自身もパウロから学びたいと思う。ルターもカルヴァンもまさにこの意味でパウロから学んだからである。
  こういうわたしの釈義の姿勢を「学問的に」見るとどのように映るのかわたしには分からない。わたしはただ、「聖霊に導かれて」自分なりの釈義を探り求めるだけである。こういう姿勢をわたしに代わって説明してくれているのがバルトの『ロマ書』の序文である。わたしとバルトとは、とりわけその聖霊観において、かなりの開きがある。わたしから見れば、彼の聖霊観は著しくその働きが狭められているという印象を受ける。にもかかわらず、彼の『ロマ書』の序文〔バルト(上)第2版序言〕には、わたしが自分の釈義について語りたいと思うことがそのまま語られているのを見て不思議な気がする。おそらく彼自身の言葉を借りるなら、「キェルケゴールのいわゆる時間と永遠との無限の質的差別」〔バルト(上)28-29〕を彼の釈義の基本に据えたことが、「見えるものと見えないもの」「指し示すものと指し示されるもの」の関係に注目するわたしの姿勢と相通じるところがあるのかもしれない。
  例えば、7章25節の後半が、傍注からの混入なのか、あるいは後からの挿入なのか、それともこれもほんらいのパウロのテキストなのか、という問題がある。現存する写本に関する限り、そのような混入や挿入の形跡はいっさい認められない〔Cranfield(1) 368〕。しかし問題の本質は、そのようなテキスト批評あるいは文献批評の正否を問うことではないであろう。なぜなら、たとえこれが傍注からの混入であるとしても、その傍注あるいは挿入者は、7章後半でのパウロのテキストの中に、救われたキリスト者における「霊と肉との両方に仕える」相剋を見いだしていたことを証ししていることになるからである。このことは、パウロのテキストの最初期の読者が、すでに7章後半に、霊と肉との相剋を体験するキリスト者の姿を読み取っていたことを意味する。だから、7章後半のパウロの律法観を表わすテキストには、すでにそういう解釈を可能にする重層性が秘められていることをこの「混入」は証ししている。霊と肉との相剋を体験するキリスト者の姿を読み取ること、これこそまさに、ルターやカルヴァンが、その同じテキストについて行なったことではないのか。
 文献批評の分析が仮に正しかったとしても、その結果を直ちにローマ人への手紙本文の釈義それ自体に持ち込むことが、テキスト解釈として正当であるとは限らない。わたしたちは、ローマ人への手紙を読むのであって、これをパウロの伝記的な資料として用いるために読んでいるのではない。周知のように、このような挿入や傍注からの混入は、共観福音書でもヨハネ福音書でも、決して珍しいことではない。そのような文献批評の成果を踏まえつつも、与えられたテキストをその全体として釈義すること、これが信仰の書として、旧新約聖書の諸文書を理解する時の基本的な心構えだとわたしは考えている。
 だからルターやカルヴァンは、決してテキストに対して恣意的な「読み込み」(eisegesis)を行なったのではない。彼らは、ほんらいテキストそれ自体に秘められていた可能性の「読み取り」(exegesis)を行なったのである。パウロは、聖霊に導かれることによって、旧約の律法から、これによって証しされたキリストの福音を「読み取る」ことが出来た。カルヴァンは、パウロが行なったまさにこのことをパウロのローマ人への手紙から行なっているのである。これが聖書ほんらいの釈義(exegesis)ではないのか。
 17世紀のイングランドにおいて、ピューリタン革命の頃に、国教会側とピューリタン側とは、互いに相手方の文書のテキストを分析してこれを分解し、このような「テキストの解体」(dissection of the text)を通じて自己の立場に有利な論理を展開していた。このやり方を直ちに聖書のテキストの文献批評と関連づけるつもりはないが、たとえ意図的ではないとしても、わたしたちが、テキストの分析と分解から、そのような自己流の論理の「読み込み」を行なう可能性から免れるという保証はない。
二元性から一元性へ
 7章後半がパウロを含めて人間一般の回心以前の状態を語ると考える人たちは、7章24節~25節のつながりや7章25節から8章1節への移行がなめらかでないことを理由に25節後半を傍注からの挿入と見たり、25節の前半と後半を入れ替えたり、25節の前半を8章2節へつないだりする。しかし、7章後半全体がキリスト者の体験であると考えるなら、これらの問題点は基本的に解消すると思う。もっとも、7章後半の体験をキリスト者のものと見なす人たちの間でも、8章2節の「命の御霊の律法」と7章22節の「霊的な律法」とは、同じなのか違う面を有するのかについて意見が分かれる。
 7章25節の「神に感謝せよ!」をパウロの「第二の回心」の告白と呼ぶのは言い過ぎかもしれないが、しかし、ここでパウロの律法観に大きな転機が訪れたのは間違いない。「ここで」と言うのは、それがこの書簡の執筆時であるとは言わないが、ガラテヤ人への手紙の執筆からローマ人への手紙の執筆の間に、律法をめぐる「連続と非連続との間の緊張」〔bner 60:活字の都合によりウムラウトが抜けている。〕にあって、7章から8章への移行に見られるような律法観の変容が彼に生じたと想定することができると思う。
 7章25節は、その後半で語られる「知性/英知」と「肉」との二元性をも含めて、8章1節の「裁かれない」へとまっすぐに続く。なぜなら7章25節の「神に感謝する!」は、それまでのキリスト者の二元性から一元性への移行をはっきりと表明しているからである。8章1節はこれを受けている。かりに8章1節が後からの挿入だとしても(筆者はこの説に賛成しないが)、8章1節の二元性の克服が、続く8章2節で確認されていることに変わりはない。7章22~23節の段階では、「神の律法」をよろこぶ「内なる人」は、まだ「罪の律法」にとらわれていて、「わたし」は、二面性の相剋の中にありながら、自分の霊的なアイデンティティを保とうと努力している。ところが8章2節では、イエス・キリストにある命の御霊の律法によって、罪と死の律法がはるかに後退しているのである。
  7章後半に頻繁に表われた「わたし」は、8章1~10節では消える。人称的に見ると、8章では、「あなたを」(2節)と「わたしたちにあって」(4節)と「あなたたち」(9節)と「あなたたちにあって」(10節)のように、二人称が目立つのが注目される。7章後半では、神の律法にせよ罪の律法にせよ、あるいはそれら二面を具えた律法にせよ、それは「わたし」との関わりの中で語られていた。しかしここ8章では、「キリストにある命の御霊の律法」は、三人称で「それ」として語られる。だからこの段階での「御霊の律法」は(わたしはこれを7章の「律法」と区別して「霊法」と呼ぶ)、「わたし」を二つに分裂させるもの、あるいは二つの相において「わたし」に働きかけるものとしてではなく、二人称に向かって「それ」として指し示すもの、すなわち客観化されたものとして語られる。「わたし」との直接の関わりから離れて、三人称で客観化されているのは、それが7章後半の「わたし」との関わりを「離れた」もの、言い換えると「わたし」を超えたものを指しているからである。この場合客観化とは超越化を意味する〔八木83〕。だからこの「霊法」は、7章後半で「わたし」と直接に関わり合う「律法」と同じではない。少なくとも同じとは認識されていない。だからこそパウロは、キリストにある命の霊法が、罪と死の律法から「あなた」を解放したと言うことができるのである。
 7章後半での「神の律法」と「罪の律法」との相剋は、8章では「霊」と「肉」との相剋に置き換えられているという見方がある。しかし、7章23節の場合とは異なって、ここでは「霊」が「肉」を服従させ、「肉」を克服するのである。ここでは、「霊肉」の二元性は明らかに後退している。7章後半を特徴づけていた「知性/英知」は8章には一度も表われない。分析から統合へ、二元性から一元性へと事態が推移しているのをわたしたちはここにはっきりと読み取ることができる。
 7章22節の「ノモス」は「(神の)律法」を意味するが、その前後の21節と23節の「ノモス」は、「律法」と「法則」との間で訳が揺れ動いている。しかもこの「ノモス」は、新共同訳によれば「悪につきまとう法則」であり「五体の法則」であり「罪の法則」である。ここでは「罪の」法則が「神の」律法と対立していて、神に従おうとする意志にもかかわらず、罪が「法則」として抗いがたい力となって働くことを示している。8章3節の「(肉によって無力にされた)ノモス」も明らかに「律法」のことである。ところが8章2節の「(キリストにある命の御霊の)ノモス」は「律法」と訳すべきか「法則」と訳すべきかが論じられている。ところがここでは、「御霊の」法則と「肉による無力な」律法とが対比されるのである。このように、7章後半から8章にかけて、否定的な法則(肉の法則)から肯定的な法則(御霊の法則)へ、逆に肯定的な律法(神の律法)から否定的な律法(肉による無力な律法)へと、「法則」と「律法」とが、肯定と否定とをめぐって逆転している。だから、「律法」と「法則」との重なり合い自体にもまた変容が生じているのを読み取ることができよう。
  このように見るならば、8章に入って、それまでの二元的な自己分裂が超克されて、一元的なキリストの命の霊法へ移行したと見るほかはない。二元性から一元性へのこのような推移は何を意味するのだろうか? 7章14~25節で表われている「英知の律法」とこれに逆らう「罪の律法」との相剋が、8章においてはキリストの命の霊法の勝利に終わったのは、パウロが、知性/英知による二元論的な人間観から、霊法による体験的な一元論へ到達したと見ることができる。「ヌース」を「知性」と訳すにせよ御霊に導かれた「英知」と訳すにせよ、それがほんらい人間に具わることに変わりはない。「わたし」の側から、言い換えれば「人間」の側から「ノモス」を見る場合、それが自己分裂を生ぜしめる神の律法と罪の律法として把握するにせよ、同じ一つの律法の肯定と否定の二つの相として観るにせよ、そういう自己分裂や二面性は、人間の知性/英知によってとらえられる限りは、避けられない認識なのであろう。知性とは、それが御霊に導かれた英知と言えども、神の御霊の働きをなんらかの「法」としてしか認識できない。8章にいたって、「ノモス」が超越したものと認識されているのは、それが人知あるいは英知を超えていることであって、もはや英知ではとらえがたいことを意味する。この「ノモス」をあえて「霊法」と訳す所以である。
  二元性から一元性への統合においては、罪の律法はもはやその働きを喪失し、神の律法もまた人間の努力目標ではなくなる。だからこの霊法においては、7章で語られているような人間の罪をいっそう甚だしくさせる律法認識は、後退する。同時に人間の意志による努力目標としての神の律法もその性質を変える。統合の変容過程においては、AAでなくなり、BBでなくなる。そこに新たにCが生じると観るなら、そのCにあっては、AAであってAでなく、BBであってBでないという、何かそのような事態が想定される。そもそもこれを「律法」と呼ぶことさえためらわれるであろう。なぜなら、「ノモス」(律法/法則)とは、人知あるいは英知がとらえることのできる範疇に属する言葉だからである。8章のこの段階では、「ノモス」はそういう「律法」を超絶していると言えよう。わたしが「キリストの霊法」と呼ぶのはこのためである。
 このような霊法が成り立つのは、神がその御子を罪の肉の姿で遣わし、肉の人間において罪を断罪し、そうすることで肉にある人間を贖ったことと深く結び付いていることを8章3節は証ししている。だからと言って旧約のモーセ律法が破棄されたのではない。「ノモス」の概念それ自体が変容する過程において、モーセ律法はキリストの霊法に受容され、これによって成就されたのであり、成就されたそのことによって破棄されるのである。キリストの霊法にあっては、律法の受容と排除、成就と破棄が、このようにして同時に成り立つ。
表裏二相の律法観について
 このように見てくると、7章後半が「まだ救われていない人間」の状態を指すのか、それとも「キリストの御霊に導かれた人間」の状態を指すのか、という古くて新しい問題は、パウロの律法観に変容が生じていると見ることで解決されるというのが筆者の見方である。7章全体がパウロの回心以後の状態を語っていると見る説では、7章末尾の「知性による神の律法」と「肉による罪の律法」は、本来ひとつの律法の表裏をなす二つの相であると見られている。
 ただし、「罪の律法」と「英知の律法」のふたつが、同じ「神の律法」の表裏一体の相であるということをパウロがどこまで自覚していたのか? これに答えるのはもとより推測の域を出ない。ただ、パウロの書いたテキストの上だけから判断するならば、このような律法理解に達したのは7章14節以降であり、おそらく7章23節においてであるとしか言えない。ただし、この段階でさえも、はたしてパウロ自身が、律法の自己義認性と認罪に基づく恩寵成就とを表裏一体のものと認識していたかどうか、この点を裏付ける明確な表現は存在しない。ダンがこの点について、パウロは「(同じ律法の二面性の)蓋然性を強調している」〔Dunn7:23〕と言っているのもこの辺を示唆しているのであろう。だからパウロ自身がはたしてどこまで律法の二面性を自覚的にとらえていたのか、あるいは彼自身は理解していてもあえてそれを露わに表明しなかったのか、この辺は定かでない。なぜなら、律法が二面性を有することと彼自身がそのことを自覚することとは、同じではないからである。キリストの御霊に証しされた霊法とは、どこまでも従来知られている律法によって「指し示される」ものである。だからその「行き着く先」をパウロ自身がどこまで洞察しえたかは推定の域を出ない。パウロが、律法の二面性を直観する、あるいは洞察する段階にあったこともありえると筆者は考えているが、このように言うのは、たとえ人間の英知と言えども、裁きと赦し、断罪と救済がひとつであるという聖霊の神秘を「理解する」ことが不可能だからである。
キリストにある「わたし」
 以上述べてきた律法の内容の変容経過を踏まえながら、ここで改めて8章1節に目を止めてみよう。先に指摘したように、この節は、7章25節と8章2節との間にあって大事な意味を持つ。8章1節の「裁きはない/裁かれない」は、キリストにある罪の赦しと結びついて、7章25節前半の神への感謝とつながっている。7章後半の「わたし」は、「罪の律法」に支配された人間の肢体の領域と「神の律法」を喜ぶ英知の領域と、このふたつの領域の狭間にあって、その緊張関係に絶えず曝されていた。この部分をキリスト者の体験と見なす者もそうでない者も、この点ではどの注解者も一致している。だが、キリストの御霊に照らされたところに見えてくるその緊張の中身をさらに深く洞察している注釈にはなかなか出会えない。また御霊にあるその緊張が、どのようにして解消されるのか? この点についての考察も十分とは言えない。こういう最も根源的な問題に行き着く以前の議論が多すぎるのである。だから、こういう大事なところでは、「終末的に解決する」「キリストにある終末的現在に生きる」「御霊の働きによる」という言葉だけが聞こえてくる。だが、その「終末的現在」とは、いったい何かということについて、それ以上の答えが返ってこない。これ以上の考察は、「学問的な」釈義の範囲を超えるというのであれば仕方がない。しかしわたしには、後半(2)で述べるように、ここローマ人への手紙8章は、さらに踏み込んだ考察を呼び求めていると思われる。わたしの知る限りでは、この問題に真剣に取り組んでいる釈義はバルトの『ロマ書』のみである。ここで語られているキリストの霊法とはいったい何か? この辺のところを洞察するために、さらに考察を深めなければならないと思う。
 8章1節は、「それゆえに今は」と「裁きがない」と「キリスト・イエスにある」と「(キリスト・イエスにある)者たちには」とで成り立っている。「裁きがない」は、原語を直訳すれば「無罪」という名詞に訳すこともできるし、「裁かれない」と動詞に訳すこともできる。したがって、8章1節には、2節に見られるような明白な主語と述語との関係は表われてこない。しかし「裁きは一切ない」(There is no condemnation…)というその文意から考えるなら、主語は「裁き」であり、これに「いっさいない」を含む残りの述部が伴うと見ることができよう。裁きが全く存在しないその場は、「キリスト・イエスにある(者たちに)」のように限定されている。この限定された場は、「者たち」よりもむしろ「キリスト・イエスにある」という句のほうに重点が置かれている。7章後半に頻繁に表われた「わたし」はここでは完全に消えて、焦点は「キリストにある」場だけに絞られている。そこには「裁き」はいっさい及ばない。
 8章1節の「キリスト・イエスにある」は、7章24節後半から25節前半の「だれがわたしを救うのだろうか? 感謝が、神にあれ、わたしたちの主イエス・キリストを通じて」と対応している。「神がイエス・キリストを通じてわたしを救う」という関係から判断して、24~25節では「神→イエス・キリスト→わたし」という系列が成り立つと想定される。だから8章1節では、「神」と「わたし」が消えることで、「イエス・キリストにある/による」場だけが残されることになる。「そこ」には「裁き」はいっさいなく、あるのは「感謝/恵み」だけである。したがって8章1節の場は、「わたし」が消えるところに成り立っていて、しかもそこでは、御霊なしには陥らざるをえない自己分裂的な二元性が、命の霊法によって解消されることを証ししている。
 8章1節で「キリスト・イエスにある者たち」とあるところに、消えている「わたし」をもう一度呼び戻して、「者たち」と入れ替えて見るなら、「キリスト・イエスにあるわたし」となろう。ここでは「わたしがキリスト・イエスにある」ことと「キリスト・イエスがわたしにある」こととが重なり合ってくる。しかし、二元性から一元性への移行を考慮するなら、ここでの主語/主体は「キリスト・イエスこそが、わたしである」という関係に重点が置かれていると見ることができよう。しかも「裁きがない」のは「キリスト・イエスにある」領域のみであるから、「者たち」も「わたし」も、この領域の「外に」出る時、「裁かれない」から裁きに曝されて、神と罪との狭間に立たされることになろう。こうして、「それゆえに今や裁かれない」は、キリスト・イエスにある「者たち/わたし」にのみあてはまることになる。「キリスト・イエスが、わたしである」という時の「わたし」は、キリストという主語/主体の述語である。しかし、この述語は、もはや「わたし」ほんらいの主体としての「わたし」ではない。「キリストにあるわたし」とは、「わたし」であって「わたし」ではないという意味での「わたし」なのである。
  だから「キリスト・イエスにある者たち」の主体性は、ただ、キリスト・イエスに「ある」としか言い表わせない。この領域にあっては、「わたし」であれ「あなた」であれ、その主体性を「わたし」は「わたし」でないというように否定的にしか持つことができない。ここでは「わたし」が「ある」とは言えない。「わたし」が消えて、ただ「ある」こと、それも「キリスト・イエスにおいて」ただ「ある」ことだけが「ある」として残る。このように観ることで初めて、8章1節で、なぜ「わたし」が消えるのかが理解できよう。「わたし」が消えるのは、「わたし」が「わたし」でなくなるからである。しかし、「わたしがわたしでなくなる」ことは、「わたしがなくなること」ではない。では「わたし」の主体性はいったいどこにあるのだろう? 一元的なキリストの霊法のもとにある「わたし」とはなにか? この問いが、このようにして浮かび上がってくる。
  8章1節から2節への移行は重要である。2節の「命の御霊の律法」が、ここだけに表われる独特の表現だからだけでなく、「御霊」が、これ以後繰り返し現われるからである。さらに、続く3節では、前半が破格構文になっていて、3節全体の主語は「神」である。だから、8章2~3節に「神→キリスト・イエス→命の霊法→あなた(たち)」という系列を読み取ることができよう。8章1節で確認したように、「裁かれない」のは「キリスト・イエスにある」場に限定されていて、しかもそこには7章後半の「わたし」が出てこない。だからと言って7章後半の「わたし」はいまだキリストを信じていない者だと結論することはできない。7章後半で語られているのは、パウロを含めてすでにキリスト者となった人たちのことであることを確認するためにも8章1節が大事なのである。なぜ8章以降で「わたし」が消えるのかが大事なのである。
 8章2節では、「キリストにある命の霊法<が>あなた<を>自由にした」とあって、主語と述語(目的語)の関係が能動形で表わされている。「キリスト・イエスにある命の霊法」と言うとき、「キリスト・イエスにある」が「命(いのち)」にかかるにせよ、「霊法」にかかるにせよ、また「キリストにあって・・・自由にする」と副詞的に解釈しても、キリスト・イエスから出ている「命」であり「霊法」であることに変わりはない。「命の霊法」と訳した原語は「命の御霊の律法(ノモス)」であるから、ここで「御霊」が「キリスト」と「あなた」との間に入り込んでくる。しかも「キリスト・イエスにある」という句と「命の御霊(の律法)」という句との組み合わせは全パウロ書簡中ここだけである。
 8章2節の「あなた」は、7章後半の「わたし」のように、「罪の律法」と「神の律法」の二元性のもとで、裁きと救いを同時に受ける立場にはいない。なぜなら8章2~3節には、「キリスト・イエスにある命の霊法」の領域の「外に」属する「わたし」も「あなた」も存在しないからである。とすれば2節の「あなたを」は、主語である「命の霊法」の目的語でありながら、霊法から独立した対象/目的語(object)ではない。なぜなら「あなた」は、この段階ではキリストの霊法の「外に」いる存在ではないからである。
主体性について
 このように見てくると、ここで「主語」とはそもそもなにか? ということが、特に主体性との関連において、問題になってくることになろう。人は誰でも自分のアイデンティティを語るときに、自分は某会社のAである、某大学のBである、某家のCである、某国のDである、のように、自己が所属する組織や団体や家系や国家などによって自己を紹介したり語ったりする。このことは、彼が、自分より大きな主体に所属することによって、某社の社員としての自己の主体性、某大学の学生としての主体性、家族の一員としての主体性を与えられていることを意味する。ここで英語の“subject”を用いて例示することをお許しいただきたい。英語の“subject”には、名詞として「主体」「主語」「主題」の意味があるが、同時にこの語は、「臣下」「臣民」の意味にも用いられる。また動詞としては「所属させる」の意味になり、これの形容詞は「所属している」「従属している」“be subject to”という意味になる。したがって、私個人の例をあげるなら、わたしが退職するまでは、わたしは甲南女子大学という主体( the subject) に所属している (be subject to) ことによって、学生に教えたり、語ったりする自己の主体性 (subjectivity) を与えられていて、かつこの主体性を行使していたことになる。また、終戦までのわたしは、天皇を元首とする大日本帝国という主体 (the subject) に属している( be subject to) ことによって、天皇の 一臣民 (a subject) であったことになる。
 このように人は、なにかに所属することによって、そこから自己の主体性を獲得する。だから、キリスト者としての自己の主体性は、キリストという主体に所属することによって初めて授与されることになる。これに基づいて、キリスト者はだれでもキリストの王国の臣民としての権利と主体性が与えられており、かつこれを行使することが許されるのであろう。この権限と主体性は、自己が所属する「主」キリストから来ている。ただし、キリストご自身は、さらに大きな父なる神に属することによって、その王国の主体としての力と権威とを与えられていると言えよう。
  ここ8章2節では、「キリストの命の霊法」が、「あなた/わたし」を自由するのであるから、目的語である「あなた/わたし」の主語/主体 (subject) は「霊法」である。だから、この霊法のもとにある「あなた」は、キリストにある命の霊法に属することによって、自己の主体性を授与される。とすればここで、8章1節から見る限り、「あなた」の主体性は、もはや「あなた」ではないところに根拠づけられているから、「あなた」の主体性(subjectivity)は、主語である「キリストの命の霊法」に「従属している」(be subject to)。「わたし」であれ「あなた」であれ、その主体性は、「命の霊法」とひとつになるという姿で存在している。すなわちここでは、目的語の主体性は、主語の霊法それ自体なのである。目的語の主体性が、主語/主体へと同化するなら、主語とひとつになった目的語は、もはや「目的語」“object”(対立するもの/対象)とは言えない。だから目的語の「あなた」は、もはや目的語でないという自己否定を含むことになる。「あなた」の主体性は、「キリストの霊法」に従属することによって成り立つからである。
  この関係はガラテヤ人への手紙2章20節の「もはやわたしが生きているのではない。キリストがわたしにあって生きている」に対応する。だからここ8章2節でも、「イエス・キリストの命の霊法」という主体に「従属させられる」ことによって、「あなた」は、主体の「臣下」(a subject)になり、同時に、「あなた」が属するその主体から、自己の主体性を汲み出すということが生じる。8章2節の主語は「キリスト・イエスにある命の霊法」であり、述部は「あなたを自由にした」である。したがって「(自由にされた)あなた」が述部の中にいる以上、自由な「あなた」は、どこまで行っても主語である「キリスト・イエスにある命の霊法」の領域の内に留まり続けることになる。
 しかし、先に指摘したように、「わたし/あなた」が「わたし/あなた」でなくなることは、「わたし/あなた」がなくなることではない。「あなたを自由にした」とあるように、「あなた」の主体性は、逆に、よりいっそう明確に顕われる、ということがここで生じてくるのを見落としてはならないだろう。この問題は、後半(2)でさらに考察することにしたい。
罪の肉の姿
 続く8章3節前半の「律法の無力を」は目的格であり、この目的語の主語は、3節全体の主語となる「神」である。とすれば「神は、肉の弱さによる律法の無力を」となるが、述語が欠けているために破格構文になっている。おおかたの注釈者たちは、「なしてくださった」〔新共同訳〕のように、なんらかの述語を補って読む。「律法の無力」とは、律法が力を持たない、あるいは律法にはできない、という意味ではない。そうではなく、律法が無力に「させられている」ことである。無力に「させられている」のは、律法にその原因があるのではなく、「肉のゆえに」なのである。ここで用いられている関係代名詞の内容を活かして訳すなら「(肉の)無力にあって肉において無力にされていた律法の無力を」となる。このような三重の「無力」は、キリストの御霊のもとに「いない」者には、とうてい認識できないことを確認しておきたい。ここは、キリストの霊法が働く根拠となる重要な箇所であるにもかかわらず、パウロはあえてその根拠を述語として明らかにしなかった。「神は律法の無力を・・・」とすることで、「律法の無力」を神の御子による罪の断罪の「場」として提示していると見ることができよう。主語の「神は」、「律法の無力を」と「肉における罪を」のように目的語を重ねて、「肉」を「罪」について「断罪した」のである。「断罪した」のは、なんによってか? 「罪の供え物として、ご自分の御子を罪の肉の姿で遣わす」ことによってである。これは、「罪の働く肉を」断罪したことではない。「罪の働きを」断罪したのである。罪は肉の弱さにつけ込んで働く。だから「肉の領域において」罪が働こうとする力を断罪したのである〔ヴィルケンス18083〕。なお原語の「罪のために(遣わす)」とあるのは、「罪のための宥めの供え物として」「罪への犠牲として」遣わすという意味である〔Dunn8:3〕〔ヴィルケンス18083〕〔Cranfield(1)382〕。
  ここで「御子を肉の罪の姿で」とあるのが問題になる。キリストを「罪の肉」と関連づけているようにも受け取られるからであろう。とすれば「姿」とはなにかが問われることになろう。パウロがキリストの「肉の姿」に「罪の肉」としての罪性を見ていないのは確かである。「罪の肉の姿」を改訂英訳聖書〔REB〕は、“in the likeness of sinful nature”(罪深い性質の宿る似姿)と訳しているが、この訳を援用すれば「罪の肉の姿」は、罪深い性質の宿る「姿」としての「からだ」と言い換えることができると思う。罪深い性質を宿す人間性が採る「からだ」としての姿形のことである〔サンダース166〕。「その身体(ソーマ)そのものは、肉によって生きる場合と霊によって生きる場合があるように、身体は、霊と肉との一(いつ)となったものと見なされている。つまり、新約聖書には、身体の一元論が説かれていて、身心の二元論は存しない」〔川村30〕という見方に賛同する。
  だから、「キリストがわたしの肉において生きる」と言う時にも、パウロは、キリストが「わたしの肉のからだ」にあって生きるという意味を込めていると思う。だからここローマ人への手紙8章3節にでてくる「(罪の)肉の姿」も「(罪の)肉のからだ」と言い換えることができる。キリストの聖霊が働くことは、「肉において罪を断罪する」ことを意味するから、「罪の肉の姿」とは、まさにアダムの姿である。とすれば、「罪の性質の宿るわたしたちのからだにおいて」肉の罪が断罪されたことになる。これこそ不敬虔な者を義とするキリストの御霊がわたしたちに成就してくださる「恵み」の意味する事態であろう。
肉と霊性
 パウロの言う「なぜなら」「それゆえに」は、ヘブライの伝統的な表現様式である並列法の中で考えなければならない。並列法は、必ずしも論理的な思考によるつながりとは限らない。並列する行と行の間には、否定あり対立あり、同一あり差異あり、類比あり比喩ありで、およそあらゆるつながりが潜んでいる。だからパウロの「それゆえ」には、しばしば飛躍があり矛盾がある。それはむしろ行間に潜む「なぜなら」であり「それゆえ」であることが多い。
  8章4~8節には、再び「霊」と「肉」とが表われる。これらをめぐる諸説をわたしなりに整理すると以下の四つの解釈にまとめることができようか。
(1)「肉」とは人間性の本質のことであり、これは原罪に染まった悪そのものである。「霊」とは神の御霊のことであり、これは人間性を超越するものであるから、肉とは全く異質なものである。人間の救いは、キリストにある神の御霊によって実現するが、救いは終末において初めて実現する。ここでは神(霊)と人間(肉)とが対立する。
(2)「肉」とは人間性に宿る罪そのものである。「霊」とはキリストの御霊によって人間に賦与されるものである。「霊」は、キリストの御霊と同一ではないが、キリストの御霊から出ているもので、この意味で「霊」もまたの人間性に具わる。したがって、ここでは人間性それ自体が「霊」と「肉」とに別れる。
(3)「霊」と「肉」は存在論的に解釈されるべきではなく、救済史的に解釈すべきである。「肉」は、「罪の肉」とあるように、罪に陥りやすい人間 (flesh) そのものである。「霊」とはキリストの御霊であり、これは神の創造の働きにほかならない。キリストの御霊は、創世記で語られる神の創造とひとつであって、人間存在を活かしかつこれを贖う。この場合、人間の創造とキリストにある人間の救済(贖い)は、一つながりに理解される。このように、命を賦与し命を造り出すのがキリストの御霊であり、これに導かれて「肉にあるからだ」が活かされる。この状態が「霊」である。これに対して、人間性を滅ぼし破壊して死にいたらせる力が悪霊であり、「肉」は欲望によって、この世とそこに働く悪霊に支配されやすい。ここでは「霊」と「肉」とは、創造者と被造者との関係になる。
(4)「霊」とは人間の最高の知性であり、人間の英知(グノーシス)のことである。それは人間の肉体という悪の中に閉じこめられている。ここでは「肉」とは人間の肉体のことである。したがって、「霊」と「肉」とは相容れない。しかも「霊」は至高の存在から発したものであり、「肉」はより劣った半神によって造られた。「霊」は永遠の命であり、「肉」は滅びる。この場合「霊」と「肉」との関係はグノーシス的な二元論となる。
  ローマ人への手紙では、「プネゥマ」(霊/御霊/聖霊)は、1章から7章までの間で7回、9章から16章の間に9回出てくる。ところが、8章だけで23回出てくるのである。訳語としては「霊」(the spirit)「御霊」(the Spirit)「聖霊」(the Holy Spirit) があるが、8章2節の「命の御霊の律法」については、英語訳では、 the power of the life-giving Spirit”〔the New Living Translation〕、“the life-giving law of the Spirit”〔REB〕である。だが、“the law of the Spirit of life”とあって、欄外に“Or spirit”とあるのもある〔NRSV〕。
  しかし、“(the) spirit”とすべきか“the Spirit”とすべきか決めがたい場合もある。改訂英訳聖書(REB)では、7章6節の「文字」に対する「霊」は“the spirit”であり、8章4節の「霊によって(歩む)」は“by the Spirit”である。ところが続く5節の「霊に従って歩む者」では“live on the level of the spirit”となっている。新改訂標準英訳(NRSV)では、8章4節も5節も6節も“the Spirit”で統一されている。ただし、8章16節の「この霊こそは・・・わたしたちの霊と一緒になって・・・」では、“that very Spirit bearing witness with our spirit”である。ところがThe New Living Translation の場合は、8章5節の「御霊に従う者は御霊を想う」“controlled by the Holy Spirit…please the Spirit”とあり、さらに6節の「御霊の想いは命と平安」も“if the Holy Spirit controls your mind”とあって、5節と6節だけに“the Holy Spirit を用いている。ちなみにNLTでは、8章16節は“For his Holy Spirit speaks to us deep in our heats”である。REBのように8章5節に小文字の“spirit”を用いたのは、おそらく7章後半での霊肉の相剋が、まだ8章でも尾を引いていると見るからであろうか。これに対して、The Living Translation は、まさにこの5節と6節に“The Holy Spirit”の訳語を当てることによって、この段階が7章後半の段階とは明らかに異なることを明確に示している。わたしは、8章の段階における聖霊の絶対性を確保しようとする意味から、このThe Living Translationの訳に賛同する。
御霊の絶対性
 8章に入ると「霊」の現われが圧倒的に増加する。しかも、このキリストの御霊は、7章までの「義とする」や「恵み」と結びつくより「愛」と「創造」に結びついて語られる。御霊が律法と対立している間は、そのような「霊」はまだ相対的な存在でしかない。律法を己の内に取り込みつつ、これを包み相対化し、それによって己自身を変容させていくというその創造性の内にこそ、キリストの御霊の働きの絶対性を見る。このような事態にあっては、「罪の濁流が漲る時にも恵はこれをも超えて漲りあふれる」のである(ローマ5章20節)。「恩寵」とは「呑み込む」ことであり、呑み込まれた罪は、新たな「創造の働き」への媒介として活かされる。これが罪と死をもたらす律法に「証しされて」生まれたキリストの霊法の働きであり恵みなのである。
  したがって、8章2節の「キリストの命の霊法」と「罪と死の律法」とは、もはや相対的な対立関係にはない。ここでは、キリストの霊法は罪と死の律法と「表裏を成している」のでもない。そうではなく、キリストの霊法が、罪と死の律法が働くまさにその時に、その働きを超えて、と言うよりは、その働きの最中においてさえもなおいっそう強く働き続けている。そうすることによって、罪と死を覆い尽くしている。キリストの霊法にこのようなことが可能なのは、その内に罪と死をもたらす機能を発揮すべき「(モーセ)律法」それ自体が受容されているからにほかならない。キリストの霊法が有する絶対性は、絶対性それ自体の内に自己否定を含んでいる。
  キリストの霊法という絶対的な主体(the Subject)のもとでは、この主体/主語に述語として従属する(be subject to)主体性(subjectivity)は、霊法の主体以外の一切の主体への従属関係から自由である。この意味で、霊法が授与する自由とは、何ものにも制約されない。おそらく鈴木大拙が、「霊性はそれ自体で本来自由なもの――無から有を作りだし能うほど自由なもの、光りあれと言えば光が輝き出でるほどの自由なもの――である。」〔鈴木175〕と言うのは、このような事態を指しているのであろう。そもそも「相対」に対立するものは「相対」にすぎない。「絶対」は「相対」に対立するものではない。「相対」と対立する「絶対」とは、抽象化された概念に過ぎない。真の意味での「絶対」は、時間と空間とによって規定され、絶対的な主体に従属する述語的な主体性の中においてしか、その場を持たない。だから、絶対的な主体は、その下にある述語的な主体性と対立するどころか、述語的な主体の有する無限に多様な固有性の中でしかその絶対性を現わすことがない。したがって、「主語的超越的に君主的なる神は創造神ではない。創造神は自己自身の中に否定を含んでいなければならない」からである〔西田361362〕。「罪と死の律法」が、キリストの霊法の内に受容され、吸収されることによって、ちょうど濁流が広大な海へと注がれ、そこで浄化され吸収されていくように「死はこれに勝る命に呑み込まれている」(第一コリント15章54節 )のである。それは、霊法それ自体の内に「罪の律法」を克服して働く力が内蔵されているからである。
 モーセ律法が、肉に宿る罪によって、死をもたらす結果へ転用される危険性が決して無くなったわけではない。たとえ福音の中に組み込まれていても、その危険性は常に存在している。しかし、キリストの御霊は、そのように危険に陥ろうとする肉の欲をも克服し、これに打ち勝つ力となって導く。このような事態は、神がお遣わしになった御子イエス・キリストが、十字架の血によって、肉において罪を断罪し、そうすることによって、「罪の宿る肉のからだ」である人間存在を受け容れることによって初めて可能になった。だから、ローマ人への手紙8章においては、「霊」と「肉」との並列関係は、対立でもなければ相剋でもない。両者はもはや、そのような関係を絶している。むしろ、霊は肉を包みながら肉にあらず、肉は霊のもとにありながら霊にあらず。両者の相対的対立は、御霊の絶対性によって解消されている。キリストの御霊が働く時には、相対が相対ではなくなり、相剋が相剋でなくなる。キリストの霊法の絶対性によって、相互の相対性が克服されるからである。この意味で、7章後半における霊肉の相対性に基づく相剋と8章での霊肉の関係とは、すでに異なる段階にあると言えよう。
   このような観点から、先にあげた四つの分類に戻るならば、(1)のように、神の御霊が超越的な存在として人間性と対立する場合には、そのような神もその御霊も絶対とは言えないであろう。また(2)の場合のように、人間性の内で霊と肉とが対立し合う場合、「肉」に対立するこのような「霊」もまた絶対とは言えない。したがって、わたしの見方は、上にあげた四つの説の中では、三番目の説に近い。ただし三番目の説では、「御霊に導かれて『肉』が活かされる状態を『霊』と呼ぶ。」とあるが、この「肉」は、「からだ」と言い換えるほうがより適切である。理由は先に述べたとおりである。「罪の肉の姿」とは、「罪の宿る肉性を具えた人間のからだ」のことだからである。
キリストのもの
 8章9節では、「もしも神の御霊が宿るのであれば」とある条件は、真のキリスト者とそうでない者とを区別して、場合によっては除名処分にするための基準を示すものではない。ここではそのような否定的な意味ではなく、むしろローマの諸教会の人たちの信仰を肯定的に確認するものであろう〔ケーゼマン422〕。ただしローマの信徒たちが、パウロにとって未知の人たちであることが、彼をしてこのように言わせていると考えられる。「神の御霊」という言い方はここが初めてである。神の御霊が「宿る」とは、この8章では、その人が神の御霊の主体性のもとにおかれていることを意味する。決定的に大事なのは、パウロにおいては、御霊とは「キリストの御霊」を指すことである。これが長いユダヤ=キリスト教の「神の御霊」の定義の終点であり頂点である〔Dunn 8:9〕。ユダヤ教においては、神の御霊と霊性は、はっきりとは区別されなかった。しかし「キリストのもの」とされた者においては、御霊とはイエスの御霊のことであり、御子の御霊のことである。「神の御霊」は「キリストの御霊」として明確化される。ここは、キリスト者の霊性とキリストの御霊と父の神の聖霊とが重なり合っている重要な節なのである。
  同様に重要なのは、パウロにとっては、「キリストのもの」になるとは「キリストの御霊の宿る者」となることである。「キリストのもの」になること、あるいは「キリストの御霊の宿る者」になること、これを識別する基準はいった何であろう。受霊体験を伴う洗礼が、「神の御霊が宿る」ことの大事な指標とされたのは間違いないであろう〔ヴィルケンス188〕。しかしパウロは、後代の教会のように、信仰告白や祭儀としての洗礼それ自体によって御霊の宿りを確認しようとはしていない。むしろ、御霊の宿りが、それぞれの信仰者に現われる御霊の働きにおいて現わされることを求めているのであろう。だからこそ彼は、ひとりひとりの生活態度のうちに、さまざまな面で見られる愛の倫理性に御霊の証しを求めているのであろう。
  なお、御霊の宿りと働きを確認する証しとして、エクスタシーを含む様々な霊的現象や個人の霊的体験や交わりの中で生起する奇跡的な「しるし」現象もまた、一定の役割をはたしていたと考えられる。しかし、それらの霊的体験や奇跡がどの程度御霊の働きの「しるし」としてその意義を認められていたのかは必ずしも明らかではない。「エクスタシーに浸る者および奇跡行者たちもまた教団の一代表者にすぎない」〔ケーゼマン422〕という指摘はそれ自体誤りではないが、このような霊体験や現象としての「しるし」を過小評価することも同様に正しくないであろう。パウロは、自分の使徒職がペトロに劣らないことを自らの内に宿るキリストの御霊が現実に働いていることによって立証しようとしている(ガラテヤ2章8節)。
  ローマ人への手紙8章においても、人間は依然として肉にあるものであり、同時に霊にあるとしか言い表わすことができない。にもかかわらず、イエス・キリストの御霊は、霊肉一如の人間に働きかける。キリストの御霊は人間の「からだ」に働く。それゆえに心身の癒しが起こる。異言が出る。預言が語られる。悪霊が出ていく。罪が赦しに出逢って、その働きを止める。このようにして人は、祈りが聴かれたことを英知する。ここへ来て初めて、わたしたちは、使徒言行録に記されているパウロに出会うことになる。彼は聖霊体験を受ける(9章17節)。魔術師と闘ってその目をくらませる霊力を発揮する(13章10節)。足の萎えた人を立たせる(14章10節)。幻を見る(16章10節)。異言が降る按手の祈りをする(19章6節)。イエスと同じように癒しと悪霊追放を行なう(19章12節)。死んだと思われる人を生き返らせる(20章10節)。嵐の船の中にあって預言する(27章25節)。まむしに咬まれても害を受けない(28章5節)。ここには、いわゆる神学者パウロとは全く別の顔がある。パウロにおいても、イエスと同様に、神癒や悪霊追放とその教えとが一体になっている。十字架の罪の赦しと、癒しや悪霊追放とは、パウロの聖霊体験の次元では同じひとつの出来事なのである。だから、この次元においても、パウロはイエスに近づく。十字架の罪の赦しは、パウロ的宣教のもたらした「キリスト」であって、歴史的なイエスの実像とは無関係であるという見方は、パウロ神学の聖霊的現実についての考察を十分に深めることをせず、そこに生じる霊的な真理を見落とすところに生じる誤りなのである。

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