第11章 律法の変容
ローマ7章13節~25節

13では、善いものが、わたしにとって死となったのか?決してそうではない。それは罪が、罪として露わになるため、善いものによってわたしに死を引き起こしつつ、罪が戒めによって甚だしく罪深くなるためであった。
14だからわたしたちは、律法が霊的であると知っている。だが、わたしのほうは肉的であって、罪のもとへ売り渡されている。
15わたしは自分でも行なうことが分からない。なぜなら自分が望むことはこれを実現せず、かえって憎むことはこれを行なっているからである。
16自分が望まないことを行なうのなら、律法は立派だと同意することになる。
17それだから、わたしがそれを実行するのではない。そうではなく、わたしに宿る罪のほうである。
18なぜなら自分には、つまり肉にあるわたしには、善が宿っていないのを知る。これへの意志は自分に具わっているのに
それを実行できないからである。
19だから自分の望む善は行わず、かえって望まない悪を実現している。
20もし、その行為が自分自身の望まないことなら、もはやそれは自分が実行しているのではない。そうではなく自分に宿る罪なのである。
21なんとここで分かった律法とは、自分は立派なことを行なおうと思っても、その自分に悪が宿っていることである。
22だからわたしは「内なる人」のほうでは神の律法にあって喜ぶ。
23だがわたしの肢体には別の律法があって、わたしの英知の律法に戦いを挑み、わたしの肢体に働く罪の律法となって
わたしを捕虜にしているのである。
24このわたしは惨めな人間であることよ。このような死の体から、わたしを助け出してくれるのはだれなのか?
25だからわたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝する! こうしてわたし自身は、英知では神の律法に従いつつも、肉では罪の律法に従うことになる。

(1)善い律法と罪

善い律法
  パウロは、ガラテヤ人への手紙5章19節以下で、肉の働きと御霊の実のカタログをあげた後で、そのカタログの価値観を「キリストの律法」という言葉で締めくくっている。これに続いて彼は、信仰の仲間たちに「善いこと」をするように勧めているが(ガラテヤ6章10節)、この「善いこと」は、その前節(同6章9節)にでてくる「立派なこと」と並んで、「キリストの律法」として表わされた御霊の価値観がどのようなものかをヘレニズム世界の人たちに表明しようとするものである。
  ローマ人への手紙7章12節で、パウロは、神の律法が「聖であり正しい」ことを確認しているが、その際に彼は、律法/戒めが「かつ善いもの」であるという一言を加えるのを忘れない。この付加の持つ意味は重要である。パウロがここで「律法/戒め」が「聖であり正しい」と言う時、彼は、旧約からユダヤ教が受け継いだモーセ律法(トーラー)を指している。しかし彼が、「かつ善いものである」と加えたのは、ここで彼の言う「律法」が、その内容において、必ずしも狭義のモーセ律法だけに限定されないことを示している。わたしたちはすでに、ガラテヤ人への手紙5章において、キリストの御霊にある価値観が「善いもの」であると言われているのを見てきた。この「善いもの」が、ここローマ人への手紙7章12節の「律法は善いもの」と重なると見ることができよう。ただし、「重なる」と言ったのは、ここで言う「律法」が、ガラテヤ人への手紙に出てくる「キリストの律法」と同一だという意味ではない。
  わたしたちは今、パウロの律法概念の変容過程を見ようとしている。ローマ人への手紙7章後半は、特に難解なことで知られている。その難解さは、ここにちりばめられている「律法」という言葉が、その解釈において、ある時はユダヤ教の律法に振り当てられ、ある時は一般的な法則に当てはめられ、ある時はキリストの御霊の働きと結びつけられ、またユダヤ人キリスト教徒たちに適用されたりする。さらにこの「律法」が、パウロ個人の体験に帰せしめられたり、人類一般を意味するアダムに与えられた律法と見なされたりするなど、混乱を極めているからである。けれどもわたしは、このような難解さこそが、パウロの律法概念の流動性を証ししている、という視点からこの問題の解明を試みようとしている。
 7章12節でパウロは、「こういうわけで律法/戒めは聖であり正しい」と言うが、「こういうわけ」とは、「わたし」を死に導くのが、モーセ律法のほうではなく、これと結託した「むさぼり」の罪のほうであり、律法を契機として働くアダム以来の罪のほうだからである。だから、律法のほうは聖である。律法は神から出ている。戒めは正しい。十戒は人を創造者との正しい関係へと導く。彼は「こういうわけで律法は正しい」と言う。パウロはこれに続けて「しかも(律法は)善い」という形容辞を加える。ローマ人への手紙2章7節には、「善い業を行なうことで、栄光と誉れと不滅を求める者たちに神は永遠の命を与える」とあって、ここでも「善い業」が、狭義のモーセ律法を超える広がりを持つことが示唆されている。だからこそ「善を行なう者」には、ユダヤ人とギリシア人の区別なく、栄光と誉れと平和が授与されるのであろう(ローマ2章10節)。
  だから7章12節で、律法が「善いもの」であると言う時、パウロの念頭にあるのは、ユダヤ教徒や律法主義的なユダヤ人キリスト教徒の念頭にある「律法」のことだけを指すのではない。「善い律法」とあるのは、ここでの「律法」が、キリストの御霊にある価値基準と重なり合うことを示している。『継承思想』の第9章で指摘したように、この価値基準には、モーセ律法もユダヤ教に受け継がれた旧約の律法思想もヘレニズム世界の価値観も包含されている。彼はこのようにして、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の両方に通じる言葉で、「神の律法」をローマにいる信徒たちに提示している。「同時に意義深いのは、このようなより広義な意味で認められた律法こそが、7章18~19節での『わたし』の望ましい姿を形成していることである」〔Dunn7:13。以下Dunnからの引用はLogos Bible Softwareから該当する章と節の注釈を記す〕
律法と罪
  先の7章7節にはモーセ律法の「むさぼるな」が引用されていたが、そこでの「むさぼり」には、すでにモーセ律法を超える深い内容が含まれていると指摘した。7章12節の「律法」は、7章7節の「律法/戒め」を受けている。さらに続く7章13節では、この「善いもの」である「律法/戒め」が、では「善いものが、わたしにとって死となったのか?」と問われている。12節の「善いもの」とは「律法」のことであるから、13節で問われている「善いもの」も「律法」を指すと見なければならない。パウロは先に、ユダヤ人の誇る律法が、結果として裁きと死をもたらすことを指摘し(ローマ2章12~13節)、さらに、モーセ律法が罪の道具と化して、「死にいたる実」をもたらすと指摘している(7章5節)。ところが彼は、ここ7章13節でも、わたしたちにとって「善いもの」であるはずの律法が死をもたらすのか? という問いをさらに重ねるのである。死をもたらすのは律法ではなくて、実はわたしたちの罪のほうであるというのがこの問いに対する答えである。しかしわたしがここで注目したいのは、律法のこのような機能よりも、むしろ律法の内容のほうである。
 7章13節後半で、パウロは、罪が「善いもの」であるはずの律法を通じて「甚だしく悪性になる」と指摘している。モーセ律法が律法のもとにある者の罪を暴き罪の自覚をもたらすことは、彼がこれまで幾度も指摘してきた(3章20節/4章15節/5章13節/7章8節)。それなのに、彼がここで再び「善いもの」を通じて罪が「甚だしく」悪性になることを強調するのは、ここでの「悪性」が、モーセ律法を超える「善いもの」としてのキリストの御霊とこれに内包される価値観によって照らし出されるからであろう。モーセ律法を受け継ぎつつも、その価値観が、キリストの御霊にあって深められ広められるほどに、罪がなおいっそう深く暴かれ、「甚だしく悪性」であることが啓示されてくる。これがここでパウロの言いたいことであろう。
 カルヴァンは、7章22~23節でパウロが語る「律法」が、その内容から見て、四つの異なる意味を含んでいると指摘している〔Calvin 152〕。この四種類に、さらに人の本性に「自然に」内包されている律法/法則を加えてもいいであろう(ローマ2章14節)。パウロの語る律法がこのように変幻する、少なくともそのように見えるのはなぜだろうか? パウロが語る律法の「働き」が、ユダヤ教徒や律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちの考える働きと異なることは、すでに指摘されている。しかし、わたしがここで指摘したいのは、ここでの「律法」が、ユダヤ教徒や律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちの「律法」から、その「内容においても」変容を来たしつつあることである。わたしたちはすでにガラテヤ人への手紙5章で、従来のモーセ律法の価値基準とキリストの御霊とは、相互に重なり合いながら、「善いもの」の価値基準を創り出していく過程を見てきた。ここ7章13節以下でも、モーセ律法の価値基準が、キリストの御霊にある価値観へと「吸収され」、かつそうすることによって、新たなヘレニズム世界に適応するように「変容していく」過程が進行している。だからここ13節以下に表われる「律法」の内容は、もはやモーセ律法だけを意識しているとは言えない。
 このような見解は、ここで語りかけられている相手が、語っている「わたし」をも含めて、キリストの御霊の恵みにすでに与っている人たちを指しているという前提に立っている。わたしがここで注目したいのは、キリストの御霊の「赦しの働き」のほうではない。赦しをもたらす「前提となっている」律法のほうなのである。いわば「キリスト者のための律法」として御霊の価値観が果たす意味をこの視点から見直したいのである。
 パウロが「キリストの律法」(ガラテヤ6章2節)という時に、その「律法」が指し示す内容は、キリストの御霊なしには認識できない。くどいようであるが、これはユダヤ教徒としてのかつてのサウロが見ていた「律法」ではない。それは、その「機能」においてだけでなくその「内容」においても、御霊に照らし出されて初めて見えてくる「律法」の本性だからである。だがこの段階では、その価値基準は、御霊にあるとは言え、まだ「律法」として認識されている。パウロであれ、わたしたちであれ、それが「律法」として認識されている限りは、「善いもの」であっても「死を引き起こす」危険性をはらむのは避けられない。だが「死を引き起こす」のは、「律法」としての価値観それ自体のほうではない。罪が、その律法/戒めによってわたしたちを欺く(7章11節)ということが、たとえ御霊にあるとは言え、パウロにもわたしたちにも起こりえるからなのである。
 わたしたちは、「キリストの律法」においてさえも、なぜこのように欺かれるのだろうか? それはわたしたち人間が、楽園で授与された神の戒めを見誤りこれを破る罪を犯す、ということがいぜんとして起こりえるからである。人間の堕罪こそ人間の律法誤認の元凶である。「善いものによってわたしに死を引き起こしつつ、罪が戒めによって甚だしく罪深くなる」(7章13節)ということが、このようにして生じる。わたしたちは、たとえキリストの律法と言えども、それが与えてくれる価値観の真の意味をキリストの御霊の働きなしには「正しく」認識することができない。「確かに、律法が(人類一般としての)わたしたちに正しい生き方を示してくれるまでは、わたしたちはただ誤りを犯すことしか知らなかった。だがパウロは、律法によって罪が暴かれた時でさえも、わたしたちは道を誤ったと言う。彼は正しい。なぜなら、主が明白に罪を示してくださって初めて、わたしたちは自分たちの誤りを意識するようになったからである。それゆえに『欺いた』とある動詞は、律法それ自体について言われているのではない。そうではなく、律法についてのわたしたちの認識が欺かれていたのである」〔Calvin 145〕
霊的な律法
 7章14節でパウロは、律法が「霊的なもの」であることを「知っている」と言う。ここで言う「霊的」とは、マルキオンが主張したように、モーセ律法を文字通りにではなく霊的に理解せよという意味ではない。オリゲネスは、ここで語られている相手が「その人の内に神の霊が住んでいる人たち」であるとした上で、「ここで言われたことはモーセ律法に適用されます。実際、霊的に理解した人にとって、(モーセ)律法は霊的なものであり、生かす『霊』なのです」と言う〔オリゲネス400〕。だから、キリストの御霊によって、律法を外側の行為としてではなく、わたしたちの心の内面に宿らせることによって、律法がわたしたちを「生かす」働きをするというのが、パウロの言う「霊的」へのオリゲネスの解釈であろう。語る相手が「神の霊の住む人たち」であることから、このような解釈が導き出されたと思われる。
 語る相手が「神の霊の住む人たちである」ことに異論はないが、ここで言う「律法」は、その内容において、必ずしもモーセ律法に限定されてはいない。さらにまた、この14節に続くパウロの論述から判断するなら、ここで「霊的」とあるのは、聖霊によって律法が「生かす霊として」命を与える働きをするとは受け取り難い。むしろこの段階では、キリストの御霊に導かれて歩むひとりひとりにおいて、「霊と肉」との相剋が、真の意味で「始まる」こと、あるいは相剋がいっそう「鋭くなる」ことを意味するのである。カルヴァンはここでの「霊的」について次のように言う。「ここでパウロは、ある人たちの解釈するように、律法が、御霊によってわたしたちの心の内奥から発せられることを指すだけではない。ここでの『霊的』とは、『肉的』と対照されているのである」〔Calvin147〕。
  だからパウロが、律法は「霊的なもの」であると言う時、その「霊的」とは、パウロが「霊的なからだ」を指す時と同じであって、人間の「肉的な存在」と対照された「霊的な存在」を意味している。パウロが言う「霊的な律法」とは、キリストを信じる者たちの「霊」と「肉」との「霊」に属する内実に関わるのである。パウロはまさにこのことを「知っている」。それだけでなく、彼自身は「肉的であって、罪のもとに売り渡されている」(7章14節)ことも同時に「知っている」のである。
 パウロの言う「霊的」は、キリストの御霊と切り離すことができない。この意味で、「霊的な律法」は、先に出てきた「律法」、「罪と結託した律法」とは異なる様相を帯びていることに注意しなければならない。パウロは、律法がキリストの御霊と結びつくことによって初めて、「罪」と「律法」との結びつきが断たれること、律法と罪とが「対立関係」に入ることを指摘したいのである。律法は御霊とつながる時に、「神の律法」へと移行し始める。7章14節以降の「律法」は、この線に沿って動いていて、このような律法は、肉に働く罪との対立を深めていくのである。結論を先取りして言うなら、このように鋭く断罪する律法は、まさにそうすることによって、8章2節のキリストの霊法へと人を導く役目を果たすのである。だから、神の律法とは、罪を鋭く暴くというその働きにおいて「救いをもたらす」キリストの御霊なのである。御霊にある律法では、裁きと救いとが、同じ律法の表裏を成している。わたしたちは、このような律法をもはや律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちの考えている「モーセ律法」と同じに見なすことができない。
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