第10章 罪と律法
ローマ7章1節~12節
1それとも、兄弟姉妹たち、あなたがたは知らないのか? これは律法を知っている人々に言うのだが、律法とは、人を生きている間だけ束縛するものである。
2だから夫の下にいる女は、夫の生存中は律法によって束縛されるが、夫が死ぬならば、夫に対する律法から解放される。
3だからこそ、夫の生存中、他の男のものとなれば、姦通の女と言うことになる。だが夫が死ぬならば、この律法から自由になるから、他の男のものとなっても、彼女は姦通者にはならない。
4わたしの兄弟姉妹、このようにあなたがたもまた、キリストのからだによって、律法に死んだ者とされた。あなたがたが、他の方のものに、死者の中から復活させられた方のものになり、わたしたちが神への実を結ぶためである。
5と言うのは、わたしたちが肉にある間は、罪の衝動が、律法によってわたしたちの肢体に働きかけ、死への実を結んでいた。
6だが律法から解放された今は、わたしたちが閉じこめられていた律法に対して死んだ者となり、その結果、御霊の新しきに従い、文字の古きに従うことをしないのである。
7ではわたしたちはなんと言おうか? 律法は罪なのか? 決してそうではない。だが律法によらなかったら、わたしは罪を認めなかった。律法が「むさぼるな」と命じなかったら、むさぼりなるものをわたしは知らなかっただろう。
8ところが、罪は戒めを通して機会をとらえ、あらゆるむさぼりをわたしの内に引き起こした。だから律法なしには罪は死んでいる。
9と言うのは、かつてはわたしも律法なしに生きていた。だが、戒めが来るに及んで、罪は生き返った。
10そこで、わたしは死んだ。それで、わたしには、命にいたる戒めが、死にいたるものとなった。
11なぜなら罪は戒めによって機会をとらえ、わたしを欺き、その上、これによって殺したのである。
12こういうわけで、律法のほうは聖であり、戒めもまたも聖であり、正しくて善である。


二つの書簡の共通点
 パウロは、彼の第三回伝道旅行の際に、ガラテヤ人への手紙を53/54年から54/55年の間に、たぶんエフェソで書いたと考えられる。ローマ人への手紙のほうは、同じ伝道旅行でコリントに滞在している間に、55/56年から56/57年の間に書かれたと思われる。このふたつの書簡は、その長さにおいても内容においてもずいぶん異なっていて、そこにはほぼ2年間に及ぶパウロの伝道活動の体験が介在していると考えられる。それだけではなく、書簡の宛先の集会の人たち、またそれぞれの書簡が書かれた直接の動機の違いもある(パウロはガラテヤの信徒たちとは親しく顔を合わせているが、ローマの信徒たちとはまだ会っていない)。それにもかかわらず、このふたつの書簡が比較されるのは、両方の間に主題的に深いつながりを見ることができるからである。
 例えばガラテヤ人への手紙3章では、アブラハムとその「子孫」の問題が律法との関係で語られている。ローマ人への手紙4章でも、アブラハムと律法(割礼を含めて)との関係が論じられる。ガラテヤ人への手紙3章では、「律法」が、少年院の看守やしつけ役の家庭教師にたとえてあり、また4章では、律法から解放されてキリストの福音へと転向する信仰者の姿が、後見人に監督されていた未成年者が、成人して遺産を相続する比喩で描かれている。同様にローマ人への手紙7章では、律法から自由にされたキリスト者は、結婚の法律によって夫に束縛されていた妻が、夫の死によって束縛から解放される比喩で語られる。しかし、なによりも大きな共通点は、「霊」と「肉」の問題が、両方の書簡で扱われていることである。ガラテヤ人への手紙では、「肉の望むところは霊に反し、霊の望むところは肉に反する」(5章17節)とあって、霊と肉との相剋が語られるが、この問題は、そのままローマ人への手紙7章以下へつながることになる(特に7章14~24節)。どちらの書簡でも、問題の解決として、「肉に従うのではなく、霊に従って歩む」ことが勧められているのも共通している(ガラテヤ5章16節/ローマ8章4~6節)。
両書簡の違い
 しかし、両者の間には違いもある。ガラテヤ人への手紙には、「律法は神の約束に決して反しない」とあるが(3章21節)、この書簡の主旨は、明らかに「律法からの自由」に置かれている。これに対してローマ人への手紙では、律法は神からのもので、聖なる正しいものであることが繰り返し表われる(3章1節/3章31節/7章7節/7章12節/7章22節)。このためローマ人への手紙7章は、律法を弁護するために書かれているという見方さえある。これはおそらく、ローマの教会が、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との共存の教会であり、しかも異邦人キリスト教徒のほうが多数派であったから、ユダヤ人キリスト教徒が異邦人キリスト教徒に律法遵守を迫ることがなかったということも一因であろう。だから、ガラテヤ人への手紙の場合とは逆に、ローマ人への手紙では、パウロは律法を「弁護する」必要を感じたからだと見ることができる。
  ガラテヤ人への手紙では、律法は人を束縛するものであり、人間が律法を破ろうとする罪、すなわち律法違反の罪が問題にされる(3章19節)。ところがローマ人への手紙では、律法は、罪と結託して、人間に罪を犯させる機会を提供するのである(7章8節)。ここでの律法は、人間の自己義認を挑発することで、律法主義の罪へと誘う。ガラテヤ人への手紙では、悪を行なうのは「肉」の人間性であるが、ローマ人への手紙では、まるで「律法」が、人に自己追求の罪を犯させるかのようである。だからガラテヤ人への手紙で言う「律法」とローマ人への手紙7章7節以下で言う「人に罪を犯させる律法」とを結びつけることに反対する説さえある。もっとも、実際は罪が悪を行なわせるのであって、律法ではないことが明らかにされるが。ローマ人への手紙に表われるこのような律法観は、ガラテヤ人への手紙には見られなかったもので、おそらくこれは、ガラテヤ人への手紙の段階では、機会を捉えて肉に罪を犯させるという律法観が、パウロにはまだ明確でなかったからだと考えられる。
  ガラテヤ人への手紙5章17節以下で語られる「肉と霊」との相剋は、明らかに「キリストの御霊の導きのもとにある者」について語られている。もしこの5章17節以下が、ローマ人への手紙7章14節以下とつながるのなら、ローマ人への手紙後半のほうも「キリストの御霊の導きにある者」、すなわち回心以後のパウロの状態を語ると受けとめなければならない。ローマ人への手紙7章では、神の律法を喜ぶ「内なる人」(7章22節)と罪のもとに売られた「肉なる人」(7章14節)との区別が明らかにされていて、ここには「霊」と「肉」に属するふたりの「わたし」が存在しているように見える。このような「霊」と「肉」との相剋は、すでにガラテヤ人への手紙5章16節以下で述べられているが、ローマ人への手紙7章~8章では、ガラテヤ人への手紙のこの状態が、さらに深められていると言えよう。これらふたつの書簡の間で、パウロには「新たな洞察が加わり」「新たな努力が要求された」〔Betz 280〕ということであろうか。
7章の構成
  わたしは先に、第7章「継承の正統性」(ガラテヤ人への手紙3章1節~14節)で、パウロの思考様式には、ヘブライの伝統的な並列法parallelism)が浸透しているのではないかと指摘した。並列法は、ふたつあるいはそれ以上の陳述を並列することで、物事の表裏を同時に映し出したり、論理では説明できない霊的な真理を読む者に洞察させる様式のことで、知恵文学や詩編や預言書で用いられている。最も典型的な例が、箴言や詩編である。このスタイルは、新約では、例えばマタイ福音書5章以下のイエスの教えに表われ、ヨハネ福音書でも並列法がしばしば用いられている。わたしが、パウロの思考様式にもこの並列法が深く影響しているのではないかと思うのは、彼の論述には、いわゆる論理的な解釈では解決出来ない矛盾や飛躍や「ずらし」がしばしば見られるからである。このような論述の道筋を現代的な論理によってたどろうとすると非常な困難に逢着する。したがって、並列法の視点から、諸家の意見を参考にしながら、わたしなりに7章の構成を区分するとほぼ次のようになる。
(1)1節~3節
(2)4節~6節
(3)7節~12節
(4)13節~17節
(5)18節~20節
(6)21節~23節
(7)24節~25節。
 ここで7章の並列の流れをたどると、まず(1)では夫が死んだために律法から解放された妻の比喩が出てくる。(2)では逆に、キリスト者のほうが死んだために、律法から解放される。だから(1)と(2)は並列関係にあるのが分かる。(3)は「律法は罪なのか? 決してそうではない。」で始まり、「戒めは聖で正しい」で終わる。この部分で大事なのは「罪が戒めによって機会を捉え、わたしを欺いた」ことである。(4)もまた「善いものが死となったのか? 決してそうではない。」で始まり、16節で「律法は立派だと同意する」で終わる。ここでも大事なのは、「わたしが罪の下へ売り渡されている」ことである。だから(3)と(4)の16節までとが並列関係にあると見ることができる。(4)の14節から17節までは、「自分の望むことを行なわず、憎むことを行なう」とあり、「だからこれを行なうのは自分ではなく、わたしに宿る罪である」で終わる。(5)も「自分の望む善は行なわず、望まない悪を実行する」とあり、だから「実行しているのは自分ではなく自分に宿る罪」で終わるから、(4)の14節以下と(5)とが並列されている。この見方だと、(4)の部分は、13節~16節までが、これに先行する(3)と対応し、14節~17節までが、後の(5)と対応していて、(4)の部分は、前と後の両方のつながりにおいて、いわば二重の並列関係に置かれているのが見えてくる。(6)では「神の律法」と「罪の律法」とが表われて、これが(7)の「神の律法」と「罪の律法」へつながる。しかし(6)と(7)とは、内容的に見ると、単純に並列関係にあるとは言えない。さらに(7)自体も、24節の「叫び求め」と25節のこれに対する応答の形をとっている。(7)は7章と8章とを結ぶ大事な働きをしていて、ここがひとつのクライマックスなのかもしれない。
  以上の区分は、7章の構成に新たな基準を持ち込もうするものではない。パウロの言説に含まれる霊的な意図を洞察するには、このような並列関係に目をとめるほうがより解明しやすくなると思うからである。並列法はヘブライ独自のスタイルではない。わたしなどがすぐに思い出すのは、例の『般若心経』に表われる「色不異空/空不異色/色即是空/空即是色」のような並列である。並列法はこのように、論理にならない論理、理論では解明できない霊的な消息を伝えるのに適しているのであろう。
結婚の比喩
  ローマ人への手紙7章1~3節では、法律によって夫に束縛されている妻の状態が比喩として用いられている。ここは、ガラテヤ人への手紙(4章1~4節)の未成年者のたとえに呼応するところである。そこでは、人が未成年の間は、遺産の相続を許されず、後見人の監督の下に置かれているが、未成年の期間が過ぎると遺産相続が可能にされるとある。あるいは、未成年者は、少年院の看守のもとにいるように、律法によって監察されているが、キリストが到来することで、それから解放されて、律法に支配されることなく自由の身にされる(ガラテヤ3章23~25節)。
  7章1~3節と4~6節とは「厳密にパラレルに構成されている」〔ヴィルケンス 96〕という見方もあるが、それはともかく、この並列は、解釈上大きな問題を引き起こしている。ひとつは、1~3節で、パウロの念頭にある「ノモス」とは、旧約の律法のことではなく、むしろローマの婚姻法のことではないかと考えられるからである。しかし、4節以下での「ノモス」は明らかにユダヤ教の「トーラー」を指している。さらに大きな問題として、2~3節の比喩は、通常考えられているところによれば、「律法」を「夫」と見なして、「夫」である「律法」が死んだならば、「妻」すなわち「キリスト信者」は、「夫という律法」から解放されるという意味に理解されていることである(原文の「夫のノモス」というのは「彼女の夫というノモス」の意味)。ところが、4節以下では、パウロは、当然前節から予想されるように「律法の死」について述べるのではなく、逆にキリスト者のほうが律法に死ぬことについて語るのである。このように、「法律/律法」の曖昧さだけでなく、ふたつの比喩内容の一貫性の欠如が、ここでのパウロの論旨を分かりにくくしている。
  何よりも問題なのは、パウロが、肝心の「律法」を否定しているようでもあり、そうでもないように思われることである。だから歴代の解釈者たちは(クリュソストモス/アウグスティヌス/ペラギウス/カルヴァン)、パウロはここで、ローマにある教会のユダヤ人キリスト教徒たちのためを慮って、「律法の死」について語るのを控えて、比喩の意味を逆転させたのであろうと推察した。あるいは、先の比喩の「夫」というのは「律法」のことではなく、キリスト信者の「古い自分」のことであり、「妻」とは、「古い自己」に死んで新しい命へと移された「継続する自己」のことを指すという解釈を生じることにもなった。パウロは、7章1~3節において「夫=律法」と受け取られることによって生じるであろう「誤解」を予想したのであろうか? だからこそ、彼は、自分の律法観に向けられる非難、「むしろ恵みが増し加わるように罪に留まろう!」(3章8節/6章1節)という誤解を避けるために、「律法が無効となったのではなく逆に確立される」(3章31節)ことを説明しようしているようにも見える。
  したがって、この比喩の論旨として一致して確認される解釈は以下のようになろう。「夫が死ねば、夫の律法から解放される」(7章2節)という比喩の焦点は、「律法=夫」に置かれているのではない。「(彼女の)夫の死」とあるのは、律法それ自体の死のことではなくて、この女性の律法に対する<束縛関係>を指すと解釈できるから〔ヴィルケンス97〕、「解放される」のは、夫=律法からというよりは、むしろ律法に「束縛されている状態」からなのである。このように読むことによって初めて、1~3節と4~6節とが内容的に一貫してくる。したがって、7章2節の「解放」が生じるのは、これに続く4節以下から逆に判断するなら、「夫の死」の比喩で表わされている「律法の無効化」によるのではなく、むしろ「キリスト者の死」によって生じるのである。おそらくこれが、ここの正しい解釈になるのであろう。
このように、ここでのパウロの比喩の用い方は、誤解を招きやすく「適切でない」と言われている。しかし、はたして彼の比喩の用い方は、そんなに「不適切」なのであろうか? 並列法では、先に述べたことを後から補い、先行する言葉の裏を照らし出すことが多い。ここでは、まずローマの法律が引き合いに出されるが、後半から判断すると、実はこれはローマの法律のことだけではなく、モーセ律法をも重ね合わせているのが分かる。前半では、死ぬのは夫であるから、「夫=律法」という解釈を誘う。しかし、並列の後半から逆に照らして前半の比喩を見るならば、ことはそれほど単純ではない。なぜなら、後半では、死ぬのが夫(律法)ではなく、逆に(妻であるはずの)キリスト者のほうだからである。とすれば読者は、「夫=律法」と見て、「夫の死によって律法が廃棄される」と単純には言えなくなる。では法律/律法のほうはどうなるのであろうか? 律法は、生きているとは言われていないが、死んだとも言えない。律法がどうなるのかは、この並列からはどちらとも決められないのである。一つ確かなこと、それは、キリスト者が「死ぬ」ことによって、律法の束縛を受けなくなることだけである。しかし、それは同時に「夫=律法の死」ともなるのであろうか? これについて確かなことはここからは見えてこない。律法についてのパウロのこういう曖昧さは、並列法から見るならば、なかば意図的であり、この曖昧さは後に続く論述において大事な意味を帯びていることが分かる。だから、パウロの比喩に対する批判は、並列法とはどういうものかを正しく認識しないからではないか? という想いを強くする。
キリストの「からだ」

このようにあなたがたもまた、
キリストのからだによって、
律法に死んだ者とされた。
あなたがたが、他の方のものに、
死者の中から復活させられた方のものになり、
わたしたちが神への実を結ぶためである。

 この7章4節は、ガラテヤ人への手紙2章19~20節の「わたしは律法によって律法に死んだ」や「わたしは、キリストと共に十字架されている」と関連づけることができる〔Burton 133〕〔佐竹 229以下〕。それだけではなく、この節の後半の「神への実を結ぶ」には、ガラテヤ人への手紙の「神に/のために生きる」(ガラテヤ2章19節)や「御霊の実」(同5章22節)が反映していると見ていいであろう。ところで、ローマ人への手紙7章4節は、その前の3節と密接につながっているから、冒頭の「このように」を「ところで」〔新共同訳〕と訳すのは正しくないと思う。ここは「それゆえに」〔Cranfield(1) 335〕、「以上のことから次の結論が生じる」〔ヴィルケンス 95〕と訳すべきであろう。なお、7章2~3節では「死ぬ」とあったのが、4節では「死んだ者とされた/殺された」となっている。イエスは律法によって「殺された」のであるから、久野晉良氏が指摘するように、パウロはここで「あなたがたは(キリストのからだを通じて)律法によって殺された」ことを言いたいのである。ただし「あなたがた」が、次に「わたしたち」へと移行している。その結果として、わたしたちは「律法によって/に対して殺される」ことになる〔ケーゼマン355〕。わたしたちは、律法に対して死ぬことを通じて初めて、律法から自由になるとパウロは言うのである。
 「キリストのからだによって律法に死んだ者とされた」は、文の構造から見て、ガラテヤ人への手紙の「律法によって律法に死んだ」(2章19節)と対応している。「律法によって」は「キリストのからだによって」と対応し、「律法に死んだ」を「律法に死んだ者とされた」と対応させることができよう。ここで「キリストのからだによって」とあるのは、ガラテヤ人への手紙(3章10~14節)から判断すれば、イエス・キリストが、律法の呪いを受けて律法によって殺されたこと、このキリストの十字架の死によって、わたしたちが、受けるべき律法の呪いから救い出されたことを意味している。ただし、ガラテヤ人への手紙でもローマ人への手紙でも、このような働きをする「律法」とは、イエス・キリストの贖いを知った結果として、パウロに示された「律法」のことであろう。だからそれは、かつてのサウロが見ていた「律法」と同じではない。同じ旧約聖書の律法でも、回心以前と回心以後とでは、パウロの律法に対する見方がほとんど正反対とも言えるほどに変容している。だから、こういうパウロの律法観は、ユダヤ教徒は言うに及ばず、保守的なユダヤ人キリスト教徒たちにとっても、受け容れることのできない律法観であったろうと思われる。
  「律法に<よって>殺される」ことで「律法に<対して>死ぬ」という言い方は、ガラテヤ人への手紙2章19節に出てきた。律法は人の罪を糾弾して、その人を死にいたらしめるが、彼が処刑されると、律法の役目は終わる。律法は人を死に追いやるが、人を殺すことによって律法それ自体の働きも終わる。だから律法の目的が、律法それ自体を終わらせることにあるとも言えよう。ガラテヤ人への手紙では、続いて「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしにあって生きている」(2章20節)とある。キリストは、律法に呪われて、律法に殺されることによって、わたしたちを律法の呪いから贖いだしてくださった。このためにパウロは、このキリストによって、自分もまた律法に殺される、すなわち「死ぬ」ことが「できた」と言う。キリストを通じて、律法を自分自身の内で「終わらせる」ことができたと言う。「律法によって律法に死ぬ」ということが、このようにして彼に霊的に成就した。
 ところで、ローマ人への手紙7章4~6節では、ここの「律法による死」について、ガラテヤ人への手紙には見られない変容が生じている。それは、ここ7章4節では、ガラテヤ人への手紙の「律法によって」が「キリストのからだによって」へと置き換えられていることである。この置き換えは見過ごすことができない。「キリストのからだによって/を通じて」律法の呪いから贖い出されたとは、キリストの「からだ」を通じて、わたしたちが十字架の死に与り、律法から自由にされることである。だからローマ人への手紙7章4節は、キリストのからだが、「モーセ律法によって殺される」ことで、律法がキリストの「からだ」において終わりとなり、キリストは、復活し御霊として、わたしたちの「からだ」に働いてくださることを証ししていることになろう。
  キリストのからだが「律法によって殺された」というとらえ方は、「キリストのからだが律法によって殺された」ことと「わたしたちのからだが律法から自由にされる」こととが不可分に結びついていることを示す重要な視点である。律法がキリストのからだを殺すことで「終わった」時に、そのキリストの「からだを通じて」救われるわたしたちにとっても律法の支配と束縛は終わったことになるからである。律法は、人を罪に定め、死へと追い込むまさにそのことによって、律法自体による束縛の役目を終える。だがそれは、キリストのからだを通じるときに初めて、わたしたちの「からだ」において起こることを忘れてはならないであろう。それは、わたしたちが「キリストのものになる」ときに初めて成就する出来事だからである。パウロは、この比喩によって、律法の終焉を律法そのものの性格から導き出そうとしていると言えよう〔ヴィルケンス97〕。こういう律法観は、ユダヤ教はもとより、原初キリスト教にもなかったもので、パウロによって初めて導入されたと言ってもいいであろう〔久野125〕。

キリストと律法

 では、律法が「終わった」その「キリストのからだ」と「律法」自体とは、どのような関係になっているのであろうか? パウロはモーセ律法とキリストとの関係を次のように説明している。

ところが今や、律法によらず、
しかも律法と預言者によって証しされて、
神の義が顕わされた。
(3章21節)

 「ところが今や」とあるのは、キリストの到来によって、神の救済史が大きな転換を遂げたという意味である。「律法によらず/と関わりなく」というのは、「律法の諸行によらない/と関わりがない」という意味である。「神の義」とは、イエス・キリストの福音のことであるが、むしろ「キリスト自身」を指すと考えてもいいであろう。「律法と預言者」という言い方は、モーセ律法を核とした旧約聖書全体を指す。パウロはここで、キリストの出現を「律法によらず」と言いながら「律法と預言者に証しされて」と加えている。だから「キリスト」と「律法」とは、キリストが律法に「証しされて」顕われたという関係にあることになる。
  「律法によらず」しかも「律法に証しされて」とは不思議な言い方である。「律法によらず」とは、「律法の諸行によらない」ことであるから、律法はキリストにおいて終わりとなって、すでに要らなくなったようにも思われる。ところが、「証しされて」は、「今もなお」キリストが律法に証しされていて、これからも証しされ続けていくことを含んでいる。だから律法は、破棄されているのではない。否定されているのでもない。律法は存在し生き続けているのである。なるほど律法はなくなったように見える。「しかしここではそういう意味ではない。パウロは、ここで述べられている(神の義の)顕われの時に、律法が存在していなかったと考えているのではなく、反対に、ガラテヤ人への手紙3章13節や同4章4節が示すように、律法は福音の出来事に深く関わっていると考えているのである」〔Cranfield 201〕。「深く関わっている」のは、ガラテヤ人への手紙によれば、キリストが、わたしたちのために律法の呪いとなってくださったからであり、彼は「律法に殺された」からである。
  しかもパウロは、「律法<と>キリスト」のように、ふたつを共にすることを許さない。「と」はあってはならないのである。「律法」は、キリストにおいて「成就した/終わった/目的を達成した」のである。しかも同時に、「キリスト」は、律法によって証しされ続けている。ここで先ほど7章1~3節と4~6節との並列で指摘したこと、律法についてのパウロの比喩の「曖昧さ」を思い出してほしい。パウロは、律法がキリストにおいて「成就した」とは言っているが、律法が「死んだ」とは言っていない。だから、わたしたちが「キリストのものになる」ことは、律法の「死」から来るのではない。またキリストが、律法の「死」を無条件にわたしたちにもたらすわけでもない。そうではなく、キリスト者のほうから、キリストのものになり、「キリストの支配」へと移行することによって初めて、キリスト者が律法に「死ぬ」ことが実現するのである。
  わたしたちが、「キリストのからだ」を通じてキリストのものになるその時に初めて、律法によるわたしたちへの「支配の終わり」が来る。だがこのことは、律法それ自体の支配が終わったことではない。ここで生じていることは、「律法の終わり」でもなければ「支配それ自体」の終わりでもない。なぜならここで生じているのは、「律法の支配」から「キリストの支配」への「わたしたちの」側からの移行だからである。だからその移行は、必ずしも律法の支配の「終わり/無効」を意味しない。そうではなく、律法の支配の終焉をキリストの支配によって、「成就させ/実現させる」方向へと「歩もうではないか」と勧められているのである〔ケーゼマン357〕。「律法」と「キリスト」とのこの不思議な関係が、このようにして次第に明らかになる。

  だからケーゼマンは、ローマ3章21節後半の「しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示された」とあるのを3章31節の「わたしたちは信仰によって、神の律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立する」と対応させている〔ケーゼマン207〕。ここでは、律法は、信仰による義の「証人」である。パウロは、単純に律法の裁きにのみ注目して、律法を否定的に見ているのではない。ケーゼマンは、3章の帰結にあたる「むしろ律法を確立する」は、「4章への移行としてのみ意味がある」と見る。4章では、割礼が、アブラハムが信仰によって義とされた「しるし」として正当化されているからであろう。ヒュブナーもこの意味でケーゼマンを支持している〔Hubner 53.活字の都合でウムラウトが抜けている〕。だから、ローマ3章31節は、4章12節に続けてもおかしくない。ヒュブナーの指摘するとおり、パウロは、4章でアブラハムを論じることによって、「律法は、神の義の証人であり、わたしたちは、信仰によって、律法を無にするのではなく、むしろ、律法を確立する」ことを、アブラハムの信仰と関連させて語っていることになる。だから、ローマ人への手紙3章の帰結と4章は、ガラテヤ人への手紙で、律法が神の約束に反するものでは「決してない」(ガラテヤ3章21節)とあり、さらに律法は「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となった」(ガラテヤ3章24節)とあるのと対応していることが分かる。
罪の律法
 7章5節には、「わたしたちが肉にある間は、罪の衝動が、律法によってわたしたちの肢体に働きかけ、死にいたる実を結んでいた」とある。ここでは、律法が今なお生きているその証拠に、「律法によって」罪の衝動がわたしたちの肢体に働きかけてくる。パウロはここで、回心以前のサウロのことを述べているのではない。回心以前のサウロは、律法に対してこのような否定的な見方も挫折感も抱いてはいなかった。ここで語られるのは、キリストの御霊にあってパウロが洞察した律法観である。「罪の衝動が、律法によってわたしたちの肢体に働きかける」というこの洞察は、ガラテヤ人への手紙にはなかったものである。ガラテヤ人への手紙では、「わたしが今もなお肉にあって生きている」(ガラテヤ2章20節)とあり、それゆえに「キリストにある自由が肉の働く機会とならないように」(同5章13節)注意せよあった。しかしそこでは、「律法は違反のために授与された」(同3章21節)とあるだけで、律法が「罪の衝動を促す」という積極的な結びつきはなされていない。ところがここローマ人への手紙7章5節では、「わたしたちが肉にある間は」「罪の衝動が律法によって肢体(肉)に働きかける」のである。「わたしたちが肉にある」というガラテヤ人への手紙での状態が、ここローマ人への手紙では、一歩進んで、「律法」が「罪の衝動」と密接に絡んでくる。その結果「死にいたる実を結ぶ」のであるが、これに対処する方法は、「御霊に導かれて歩む」ことであり、この点は、ガラテヤ人への手紙でもローマ人への手紙でも変わらない(ガラテヤ6章8節/ローマ7章4節)。「律法」と「罪」とをこのように結びつける言い方はローマ人への手紙に圧倒的に多く(13回)、パウロ書簡を含めて、新約聖書のほかの箇所では、あっても一度くらいである。ただし、第一コリント人への手紙には「死のとげは罪であり、罪の力は律法である」(15章56節)とあって、「死」と「罪」と「律法」の三位一体が表われる。このように、ローマ人への手紙7章5節の「罪の衝動を起こさせる律法」こそが、この後に続く7節以下のセクションの課題になってくる。ここには、パウロによる「律法の新しい発見」が語られていると言ってもいいであろう。
 パウロは、このように律法によって罪の衝動を覚えることに言及する。しかし彼は、自分が「肉にあって」生きてはいても、「肉に従って」生きているのではないと言う(ガラテヤ2章20節/ローマ8章12節)。「肉による支配」とは、罪の衝動が、肉の業を「具体的な行為として」行なわせることである。しかし、律法に刺激された衝動とこれから結果する行為とが「悪」として認識されるその認識自体は御霊の働きによることになろう。だから、7章5節の「衝動」が「悪」として認識されるのは、それが単に人間の肉に働く衝動であるという理由からだけではない(原語の「衝動」は必ずしも悪い意味ではない)。衝動が「悪い」のは、それが、「罪の」衝動だからである。ではなぜ罪の衝動なのか? それがキリストの御霊の働きに逆らうからであり、このために「神の御心に逆らう」からである。それゆえに衝動が「罪」になる。では、衝動が神の意志に逆らうという認識それ自体はいったいどこから生じるのか? それは衝動が、キリストの御霊にあって「神への御霊の実を結ぶ」妨げになる時である。だから衝動が「悪」であるという認識は、「キリストの御霊それ自体の働きに」内在していると観なければならない。ガラテヤ人への手紙の場合と同様に、ここローマ人への手紙でも、このことを確認しておくことがきわめて重要である。わたしたちの肉の体が、キリストの御霊にあって神への献げ物として機能するためには、わたしたちの肉に働く「罪の衝動」からその支配力を奪うことが大事だからである。
 このように見ると、ローマ人への手紙7章4~6節は、ガラテヤ人への手紙の段階をさらに一歩深めているのが分かる。7章5節では、今まで取り上げられなかった新しい視点が導入されてくる。それは肉の領域に働いて罪を生じせしめる「律法の働き」である。ガラテヤ人への手紙では「肉の業」として語られ、ローマ人への手紙6章では「罪の支配」として語られていた肉の領域が、ここでは「律法の働き」と関連づけられてくる。7章5節で語られる「罪の衝動」は、神の救いを必要とする人間的な肉の弱さを指す言葉である。しかし、律法に刺激された罪の衝動が、神へ向かおうとする人間の生を妨げるという律法認識は、神からの御霊に触発されて初めて可能になるのであろう。『継承思想』の第9章で指摘したように、このような認識をもたらす御霊の価値基準は、旧約聖書の律法、ヘレニズム化したユダヤ教、原初キリスト教会の伝承、さらにヘレニズムの哲学などに基づいている。パウロは、このような価値観によって、キリストの御霊を律法に刺激された衝動と対立させて語るのである。
古い時代と新たな時代
  続く7章6節には、「御霊の新しきに従い、文字の古きに従うことをしない」とある。「古き」とあり「新しき」とあるのは、先に引用したローマ人への手紙3章21節の「ところが今や」を境にしている。ガラテヤ人への手紙では、律法と神の約束としての御霊の授与が、救済史的な視野から採り上げられていた(ガラテヤ3章15~19節)。ここ7章6節でも同様に、律法と御霊との関係が、古い時代(アイオーン)から新しい時代(アイオーン)への転位として語られる。「アイオーン」は、「時代」とか「世」と訳されるが、この言葉には、目に見える世の中や世界だけでなく、天体に住む天使たちから陰府の世界や地上の悪霊などもろもろの霊的な存在も含まれているから、「時代」は、見える世界と見えない世界、言い換えると物質世界と精神世界の有り様全体を指している。これに当たる適切な日本語がないが、見える世界も見えない世界に操られているという意味をこめて、「アイオーン」に「霊界」という語を当てて、ここを「古い霊界」と「新しい霊界」のように訳すほうが分かりやすいかもしれない。古い霊界とは、罪に支配された今の世の中のことであり、新しい霊界とは、キリストの支配のもとにあって、キリストの御霊の働く場のことで、これは終末に完成する。現在の罪の霊界の中へとキリストの霊界が入り込むことによって、罪の霊界からキリストの霊界へと切り替わる事態が始まったのである。この転位の開始時点が、旧約時代と新約時代との接点になる。
  パウロにおいて、これらふたつの霊界の関係を解く鍵は、「キリスト」だけにあるのではない。キリストを証しする「律法」もまた大事な要因なのである。ローマ人への手紙3章21節は、まさにこのことを確認させてくれる大事なところであろう。だからこれら新旧ふたつの霊界の関係は、キリストと共に律法の働きに注目した時に初めて理解できよう。注意しなければならないのは、7章6節の「律法の文字」と「律法」そのものとは同じではないことである。なぜなら律法は「霊的」だからである(7章14節)。「新らしき」のように、形容詞を名詞化した用法は、同様に名詞化された「古き」と対応していて、この形容詞の後にはおそらく「新しき世界/時代/人間/わたし」などを補って読むことができよう。同様に「古き世界/時代/人間/わたし」がこれと対照されることになる。「律法の文字」とは、制度化され権威づけられた宗教的律法とこの律法に固執することによって自己正当化を図ろうとする悪しき律法主義のことである。パウロの時代には、このような「律法主義」に当たる用語が、ヘブライ語にもギリシア語にも存在しない。だから彼は、「律法の諸行」とか「律法によって義とされようとする」とか「律法の文字」などという言い方をするのである。
ここに出てくる「文字」については、「それゆえに『文字の古き』とは、人を束縛し隷従させる働きをする律法主義のことである。『文字』とは、誤解され誤用された律法のことである。これは御霊から分離された『律法の文字』のことである。しかし律法は霊的なものであるから、御霊から切り離された律法の文字は、真の意味での律法とは言えない。それは性質の歪められた律法のことである」〔Cranfield(1) 340〕という指摘がなされている。だからパウロはここで、聖書が証しする意味での「律法」それ自体と「御霊」とを対立させているのではない。ここで語られる「律法」は、その本来の性質が、人間の罪のために歪められて、ちょうど堕落天使のように、逆に人間を罪に陥れる道具に化しているのである。こういう「律法」のことを「堕落した律法」と呼ぶことができよう。わたしたちは、パウロ書簡を読む場合に、「律法」それ自体と罪をもたらす「律法主義」とを内容に応じて明確に区別しなければならない。
  7章6節では、キリストの御霊の支配が律法の支配を終わらせたことが、「古い肉」から「新しい霊」への「アイオーン(霊界)の交替」として語られる。しかも、文字律法の支配力がすでに「古いものになった」という事態は、律法が罪人の罪を断罪し、そうすることによって「肉的な人間存在の死」が宣告されたことによって初めて可能になる。「肉」を「肉体」と理解し、霊を「霊魂」と理解して、このふたつが異なる世界に属するという考え方は、ギリシア思想によるもので、当時のユダヤ教もキリスト教もパウロもこのギリシア思想の影響を受けてはいる。しかし、パウロの言う「霊」と「肉」は、このような「霊魂」と「肉体」のことではない。またパウロの「霊」は、わたしたちの「肉体」と対照される「精神」のことでもない。「精神」は通常「肉体」と対照されるが、「霊」は、そのような「精神」ではない。「霊」には、わたしたちの肉体的な存在も含まれるからである。逆に「肉」とは、「肉体」のことではない。「肉」には、人間の肉体だけでなく、その心も理性も感情も意志もすべてが含まれている。だからパウロがここで言う「肉」は、「誘惑に弱く創造者に逆らう被造物」のことであって、それまでヘレニズム世界では知られていなかった用語なのである。
 7章4節~6節では、一見すると、人はあたかも、律法に支配された肉の領域からキリストの御霊に支配された霊の領域へと「移行してしまった」かのように述べられているが、それは皮相的な見方であろう。ガラテヤ人への手紙の場合(3章15~20節)とは異なり、ここでは、律法からキリストへ、肉から霊へという転位は、救済史的な過程の中で、言い換えると「時間/時代」的な差だけで理解されているのではない。7章4節でのパウロの重点は、救済史的な視点に立つよりはむしろ、霊と肉ふたつの領域が同時に存在する状況の中で、肉から霊への転位が「キリストのからだを通じて」起こることに置かれている。この事態は「キリストの御霊」によって「わたしたちのからだ」において生起する。だからわたしたちは今、ふたつのアイオーンのせめぎ合いの狭間に立たされている。一方のアイオーンは、わたしたちが慣れ親しんだ「この世」であり、そこには、もろもろの霊力を有する諸宗教も併存している。わたしたちクリスチャンが慣れ親しんだいわゆる「キリスト教」も、福音の光を反映しているとは言え、やはりそれらの諸宗教のひとつに属すると言わなければならないであろう。だが、もうひとつのアイオーンは、わたしたちが把握することは愚か、こちらから認識することさえおぼつかない霊的な世界であって、「御霊はその好むところへ吹く。人はそれが、いずこより来たり、いずこへ至るかを知らない」(ヨハネ福音書3章8節)という世界なのである。
  以上見てきたように、パウロの語り方は決して分かりやすいとは言えない。論理を超えた霊的な洞察や飛躍があるから、その論理の運びもなめらかではない。7章4~6節において、パウロの論点は、救済史的な「経綸」の過程よりもむしろ、霊肉ふたつの領域が、重なり合いながら同時進行的に、しかも肉から霊への転位が、その同時進行の様態の中で生じていることを示唆しているのである。7章でのキリストの御霊にある世界は、霊の領域に属するものではあるが、肉の領域から「切り離されて」はいない。むしろわたしたちは、肉の領域から霊の領域への転位を生じさせる過程それ自体の中に御霊の働きを洞察することができるであろう。しかも、このような御霊の働きの中に、肉から霊への転位を媒介する律法の機能それ自体も含められていると見なければならない。だから、ここでの「律法」は、御霊の光に照らされた時に初めて正体を露わにする「律法」のことであって、パウロに敵対するユダヤ人あるいはユダヤ人キリスト教徒たちが見ている「律法」のことではない。パウロはここで、キリストを通じて律法を見ているのであって、律法からキリストを見ているのではない。「キリストを通してモーセを理解する代わりに、キリストをモーセと並置するなら・・・信仰は信仰でない」からである〔バルト(上)211〕。だから律法がキリストを証しすることは、キリストの御霊にあって初めて知ることができるのである。
むさぼりと律法主義
 7章4節~6節で導入されたことは、律法が肉に働いて罪を犯させることであり、同時にこれに伴う古い霊的な世界から新しい霊的な世界への移行であった。7章7節以下ではこのふたつがさらに敷衍される。前者は、律法と肉と罪とは、どのように関わり合うのか? という問いであり、後者は、いったいパウロはここで何時のことを言っているのか? という問題につながる。言うまでもなく、これから述べるのは、わたしなりの考えである。これが正しいと思う人も、そうでないと思う人も、どちらとも言えないと思う人もいると思う。だが、答えは常に新たな問いを生み出すためのものであるから、答えを出さなければ、問いは生まれてこない。
  パウロは、7章7節で、「律法によらなかったら、わたしは罪を認めなかった」と述べていて、その理由として、もしもモーセ律法の十戒に「むさぼるな」という命令がなかったとしたら、パウロは、そもそも「むさぼり」とはどういうものであり、それが「罪になる」とは認識しなかったであろうと言う。内村鑑三が、ダンテの『新曲』で、食欲が罪になることを初めて知って驚き恐れたという話を聞いたことがあるが、わたしたち日本人の中には、この内村と同じ思いを抱く人が大勢いるのではないだろうか。モーセ十戒のこの律法/戒めは、むさぼりの罪を防ぐどころか、逆にこの律法/戒めを通して、むさぼりの罪を犯させる機会をわたしたちの内に生じさせるとパウロは指摘する。だから、パウロに言わせるなら、律法によらなければ<むさぼり>が罪であることさえ知ることがなかったのである。ここでパウロは、律法とはなにかを考察する上で、とても重要なことをわたしたちに提示してくれる。
 ガラテヤ人への手紙では、肉の働きは「明かである」と述べられていた。ただしそこでも、肉の働きは、「御霊に導かれる時に」初めて明らかになるのを忘れてはならないであろう。ところがここローマ人への手紙では、肉の働きとしての罪が、罪として認識されるだけでは済まないのである。なぜなら「律法」が、罪として認識されたまさにその罪を「わたし」に「行なわせる」のに一役買うからである。特にここでは、十戒の最後にある「むさぼり」が採り上げられているのに注目したい。最後に置かれているのは、それが十戒の最初に次ぐ重要な意味を持つからである。「むさぼり」とは、ほんらい自分のものではないものを横領しようとする行為と意志のことである。ここで言う「むさぼり」は、単に律法に違反して罪を犯すことではない。「悪それ自体を追求する」ことなのである(第一コリント10章6節)。「むさぼり」は、人をして単に戒めを「破る」ように仕向けるだけではない。むさぼりはここでは、律法を破る「律法違反」だけでなく、律法それ自体を自己の手中に奪取しようとすることであり、そうすることで、自分を正当化する「律法主義」の罪へと導くのである。「律法は業によって律法を満たすように、常に呼びかけることによって、わたしたちを(自己義認の)罪へと挑発する」〔ヴィルケンス120〕のである。律法は、宗教的な営みにおいてさえ、このような「敬虔なむさぼり」へと人を招く。ガラテヤ人への手紙5章での「肉の働き」とローマ人への手紙のこの箇所とでは、この点が異なっていることを確認したい。
「律法」の変容
  ガラテヤ人への手紙5章18節でパウロが、キリストにある者は「もはや律法の下にはいない」と言う時に、その「律法」とは、主として、キリストの御霊と対照されるモーセ律法を指している。同様にパウロはここローマ人への手紙7章でも、モーセの十戒を引用している。しかし彼がここで言う「律法」とは、もはやパウロが他のユダヤ人たちやユダヤ人キリスト教徒たちと共有できるモーセ律法のことではない。なぜならモーセ律法は、そもそもこれを破る者を罰するためのものだからであり、罪の行為を「律法違反」として罰するために機能する「律法」のことだからである。ところがここでパウロが言う「律法」は、外に表われた行為としての律法違反の罪を問う律法のことではない。それはパウロの心の内で、いわば内面化された「律法」なのである。ここでの「むさぼり」は、神に対する人間の自己主張に、律法遵守という装いを着けさせて、罪に美しい姿をまとわせ、そうすることで、人間を律法主義へと誘う。律法主義が罪であるというこのような認識は、かつてのサウロを含むユダヤ人にも、またパウロの論敵であるユダヤ人キリスト教徒たちにも全く理解できないことであろう。だからこれは、ただキリストの御霊にある福音の相の下でしか洞察できない「律法」である。御霊にある者だけが、かつて律法のもとにあった自己の姿の真相を知り、しかもその自分が、今もなお、「古い時代の霊的世界」に存在していて、宗教の名の下に、「敬虔なむさぼり」の罪を犯していることを認識することができる。パウロがここで「むさぼりの罪を犯した」とは言わず「むさぼりとはどのようなものかを知らなかった」と言うのはこの意味である。
  いったいここで言う「律法」とは、どのような意味であろう? 一つだけ確かなこと、それはこのような律法認識は、キリストの御霊による啓示なしには決して来なかったであろうということである。律法がこのような自己義認を生じさせる梃子として働いているという認識こそ、キリストの御霊にあって初めて与えられる「律法認識」であり、この認識から、宗教に生きようとするわたしたちが、「罪の増し加わるときに恵みも増大する」(ローマ5章20節)という新しい霊的世界へ導き入れられることになる。ここに、新たなアイオーンへいたる転換の起点があるが、この起点は、キリストの御霊による律法認識と深く関わってくる。だから、このような転換の起点を促す要因となった「律法」の変質あるいは変容の意味が、ここに問われることになろう。「罪が増し加わる」のは、犯罪行為が重ねられるからではなく、犯罪から遠ざかり律法に生きようとする自己努力それ自体にあるという認識がここにはある。律法を追求するほどに、それが自己義認に姿を変えて、神のみ前に罪となるという逆説がここにはある。律法の呪いを受けて、わたしたちをこのような律法追求の罪と呪いから贖い出してくださった方こそキリストなのである(ガラテヤ3章11~14節)。
  わたしたちはここに、「むさぼりを禁じる律法」から、「律法をむさぼる罪」を認識させる認罪の御霊へと事態が移行しているのを読み取ることができよう。だからこのようなむさぼりの戒めは、モーセ律法から発しているとは言え、もはやそこから変容していると見るべきであろう。「むさぼりを禁じる」律法であれば、モーセ律法を中心とした旧約聖書の律法を基準に考えることができよう。しかし、「律法をむさぼる罪」、すなわち律法を追求することによって生じる罪となれば、そのような「律法」には、そのような追求の罪自体を認罪させる御霊の価値基準が働くほかには、どこにも根拠を持たない。この場合の「律法」に含まれる価値基準は、もはやモーセ律法や旧約聖書のそれとは言えない。そこには御霊それ自体の価値観が反映しているからである。
アダムと律法
  続く7章7節では、「わたしたちはなんと言おうか?」から「わたしは罪を認めなかった」への一人称複数から単数への移行が注目を引く。ここでの「わたし」は、ある共同体全体を代表する時の「わたし」である。こういう人格表現の仕方は、「代表的人格」(representative personality)と言われる。この言い方は、選挙区を代表する議員の言う「わたし」や、一国の総理や大統領が言う「わたし」を思い出させるが、これは「公人」あるいは「公的人格」のことである。しかし「代表的人格」は、そういう法的な権威を付与された公的人格のことではない。代表的人格の場合には、それが代表するすべての人たちの特徴をその人自身が具えていることが大事な要素だからである。代表的人格は、いわば、それが代表する一人一人の原型となる「タイプ」なのである。だから、これに代表されている一人一人は、自分がそれに属する代表的人格の内に、自分自身の姿を重ね合わせることができる。このような「わたし」言葉は詩編でしばしば用いられている〔ヴィルケンス117〕。最も重要な代表的人格は、全人類の罪のために十字架にかけられたイエス・キリストのそれに見ることができよう。

 7章9節~11節でパウロは次のように言う。

かつてはわたしも律法なしに生きていた。
だが、戒めが来るに及んで、罪は生き返った。
そこで、わたしは死んだ。
それで、わたしには、命にいたる戒めが、死にいたるものとなった。
なぜなら罪は戒めによって機会をとらえ、わたしを欺き、
その上、これによって殺したのである。

 パウロはここで「かつてわたしは律法なしに生きていた」と言う。しかしパウロ個人の人生のどの部分を見ても、旧約聖書の律法が全く存在しなかった時期を想定することができない。異説はあるが、ほぼ一致した見方としては、ここでパウロが言う「わたし」とは、詩編の「わたし」と同じ代表的人格であり、しかもここでは、人類がまだ律法を与えられていなかった原初の人「アダム」に自分を置いているという解釈がある。「アダム」の意味は「人間」であるから、パウロはここで、「人間のわたし」として語っていると言えよう。だからここでの「わたし」とはおそらく創世記1章27節以下を念頭に置いていて、「かつてはわたしも生きていた」は、創世記1章29節の人間の状態〔Cranfield (1)351〕を指しているのか、あるいは創世記2章16節~17節のことであろう〔ヴィルケンス122〕。この時、アダムはまだ「律法なしに生きていた」のである。しかしそこに「戒めが来る」という事態が生じた。創世記2章16節以下の神の命令がこれである。ユダヤ教では、楽園の命の樹とは律法のことであり、命の樹は、その戒めを満たす者すべてに与えられるという伝承があったから、アダムは「最初の律法の受領者」と見なされたのであろう〔ケーゼマン374〕。パウロがここで、「律法」と同時に「戒め」という言い方をしていることから、アダムへの律法と同時にモーセの十戒をも重ねていると見ることができる〔Cranfield(1) 352〕。
  ところが「戒めが来るに及んで罪は生き返った」のである。律法が来たために、アダムは「敬虔なむさぼり」への誘惑に曝されることになった。これによってアダムは初めて、律法をむさぼる人間の罪に気づかされた。パウロはここで、かつて自分も律法主義の罪を犯していたこと、そして今、キリストの御霊にあって、そうような自己義認を認罪するようになったことをアダムに重ね合わせているのは間違いない〔ケーゼマン375〕。だから、罪は、モーセ律法以前にも存在していた(ローマ5章13節~14節)。しかし「律法なしに罪は死んでいる」のに「律法が来ると罪が生き返った」のである。眠っていた蛇が目を覚ました〔Cranfield(1) 351〕。そして罪の蛇は、「戒めによって機会をとらえ、わたしを欺いて殺した」のである。
堕落律法と聖なる律法
 このようにして、「罪」は、人間をして「律法を破る」よりも、もっと違った仕方で神に逆らわせようとする。それは、ちょうどアダムとエヴァが「神のようになろうとして」知恵の樹の実を食べた時のようである。人間は、神からの律法を逆に利用して、自分が「神のようになろうとする」欲望を抱く。罪は、人間を刺激して、神に頼ろうとする代わりに、自分自身の業(わざ)を誇り、自分勝手に律法を変質させて、自分の能力によって神の律法を「成就」し、「救い」を達成しようと図る。パウロは、このような人間の目論見を「律法の諸行」によって救いを達成しようとする人間の「自己義認」として断罪し、この「律法の諸行」を「キリストの信仰」と対照させる。
 律法の諸行に頼る人間は、自らの力によって律法を守ろうとすることによって自己の正当性を確保しようとするから、これは「律法違反」のことではない。律法主義は、自己を正当化するために、逆に自己流で律法を「守ろうとする」からである。言わば「律法それ自体を神の手から自分の手に奪おう」とするのである。キリストの福音に逆らい、神からの罪の赦しの恩恵を拒んで、律法に頼って自己を正当化する律法主義者たちの自己義認をパウロは厳しく批判しているが(ローマ2章17~24節)、このような自己義認は、はたしてユダヤ人(と一部のユダヤ人キリスト教徒)だけに認められる傾向であろうか?

  このことは、律法それ自体がキリストと対立し、キリストと相容れないことを意味しているのではない。確かに創世記3章では、罪が神の戒めを通じて死をもたらしたことが語られていて、律法がほんらい果たすべき命の役割とはちょうど逆の働き、死をもたらしたことをパウロは知っている(7章10節)。しかしこれは、律法ほんらいの姿ではなく、罪が仕組んだ罠であることが明らかにされる。人の堕罪こそが、律法をして人間にとって本来あるべき命の機能から堕落させて、死の律法へと変えたのである。だから、その責任は樹の実にあるのではなく、蛇にあることを知らなければならない。律法は神の知恵であり、触れてはならない命の御霊の楽園の樹である。だから「律法それ自体は神からのものであり、聖であって正しく善いものであるという、この基本的な真理を見失ってはならない」〔Cranfield 341〕。7章12節にあるように、この律法が再び聖なるものとして確立される時にのみ、「古き文字律法」というイチジクの葉が不要になるのであろう。神はこのようにして、子羊の血を流すことによって作られた「キリストのからだ」という「皮の衣」をわたしたちに着せてくださるのであろう(創世記3章21節)。
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