第8章 律法と救済史
ガラテヤ3章15節〜3章29節
15兄弟たち、人間一般の例で語ろう。人の遺言の場合も、いったん有効になったら、だれも取り消したり、追加したりはしない。
16その上、約束はアブラハムとその子孫に告げられたのであるが、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われていない。そうではなく、一人を指して「あなたの子孫とに」と告げている。この「子孫」とは、キリストのことである。
17そこでわたしはこう言おう。神によって以前から有効だと確認されていた契約が、それから四三〇年後に出てきた律法によって無効にされて、その約束が反故にされることはないと。
18もしも相続が律法から出ているのなら、もはや、約束から出たものではない。ところが神は、約束によってアブラハムに恵みをお与えになったのである。
19では、律法とは何か? 律法は、違犯のために付加されたもので、それは約束された子孫が来る時までのことである。律法は天使たちを通して制定されたもので、仲介者の手を経ている。
20仲介者は、一方だけでは制定できないが、神はひとりでお決めになるのである。
21では、律法は神の約束と対立するのか? 決してそうではない。なぜなら、もしも命を創り出す律法が与えられていたとすれば、義は、確かに律法から出て来たことであろう。
22しかし、聖書はすべての人を罪の支配下に閉じ込めた。それは、イエス・キリストの信仰から出る約束が、信じる人々に与えられるためである。
23だからこの信仰が来るまでは、わたしたちは律法の下に閉じ込められ監督されて、来るべき信仰が啓示されるにいたったことになる。
24こうして律法は、わたしたちへの養育係となって、キリストのもとへ導いてくれた。信仰から出て義とされるためである。
25しかし、この信仰が到来したからには、わたしたちはもはや養育係に支配されない。
26だからあなたがたは、皆、キリスト・イエスにある信仰によって神の子である。
27だからキリストと結ばれる洗礼を受けたあなたがたは、誰でも、キリストを着ている。
28もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。だからあなたがたは、皆、キリスト・イエスにあって一つである。
29だからあなたがたがキリストのものであるのなら、確かにアブラハムの子孫であり、約束に基づく相続人なのである。

律法違反と律法主義
 前章まで述べたことを踏まえた上で、パウロの律法観を考える場合に、ここで考察しておかなければならないことがある。それは、「律法違反」と「律法主義」についてである。一般に律法が罪をもたらすのは、人が律法を破る行為をする時、すなわち「律法に違反」した行為の場合を指すと思われている。ローマ人への手紙7章7〜11節でパウロは、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった」と述べていて、さらに「律法がなければ罪は死んでいる」と言う。ここでパウロは、「罪」と「律法」とを区別している。しかしその上で、「掟/律法が登場した時罪は生き返って」人を殺すと言うのである。「罪」はこのように「律法」を悪用して、人間に欲望を起こさせ、神の禁じた律法を破るようにし向ける。こうして人間は、「律法を破る」罪、つまり「律法違反」の罪を犯すことになる。それは、ちょうどアダムとエヴァが、知恵の樹の実を食べてはいけないという神の禁令を破った罪、つまり律法違反の罪を犯したことに対応する行為である。
 ところが「罪」は、人間をして、「律法を破る」よりも、もっと違った仕方で、神に逆らわせようとするのである。アダムとエヴァは、神の禁令を破った罪、つまり律法違反の罪を犯しただけではなく、実は、それ以上に重大な罪を犯していることを知るのである。それは人間が、「神のようになろうとして」知恵の樹の実を食べたことである。人間はここで、「触れてはいけない」という神の禁令を破って木に触れただけではない。逆にその禁令が指し示す知恵の樹それ自体を「自分のもの」として、言わば神から知恵それ自体を奪取して、自分自身が「神のようになろうとする」欲望を抱いたのである。彼は神の律法を破るだけではなく、律法が指し示すその内実を「神から切り離し」、そうすることによって逆にこれを自己の神格化に利用しようとするのである。罪は、人間を刺激して、神に頼ろうとするのではなく、自分自身の業(わざ)を誇り、自分勝手に律法を変質させて、自分の能力によって神の律法を「成就」し、自己流の「救済」を達成しようと目論むようにし向ける。
 パウロは、このような人間の自己義認的な企みを「律法の諸行」による「人間の義」と呼んで、このような「人間の義」を「キリストの信仰」に基づく「神からの義」と対立させる。律法の諸行に頼る人間は、自らの力によって律法を「守り」、そうすることによって自己の正当性を確保しようとするから、これは、先に述べた「律法違反」とは異なっている。なぜならこの場合は、律法を「破ろう」とするのではなく、逆に自己義認の達成のために、自己流で律法を「守ろう」と目論むからであり、その行為によって、言わば、律法それ自体を神の手から自分の手に奪おうとするからである。「律法の諸行」によって人間の「自己義認」を達成しようとするこういう努力は、「律法違反」と区別して「律法主義」と呼ぶことができよう。パウロは、当時のユダヤ人やユダヤ主義的なユダヤ人キリスト教徒たちの中に、このような律法主義的な傾向の者たちがいるのを見ている。だからこそ、キリストの福音に逆らい、神からの罪の赦しの「恩恵」を拒んで、律法に頼って自己を正当化する彼らの「自己義認」を彼は厳しく批判するのである(ローマ2章17〜24節)。
 こうして「罪」は、人間の欲望を「律法違反」と「律法主義」の二つの方向へと刺激する。このふたつは、互いに相反するように見えるが、神に逆らおうとする点でも、またキリストの十字架の罪の赦しを拒むという点でもふたつは共通していると言えよう。パウロの律法観には、このように複雑で分かりにくい要素が付きまとう。楽園の知恵の樹のように、神からの律法もこれを誤って用いると、罪は律法を「悪用して」人を罪に誘う。その結果、人は「命」の代わりに「死」を見いだし、「救い」の代わりに「罪」を得ることになる。パウロが「罪と死のノモス(律法・法則)」(ローマ8章2節)と言う時、彼はこのような「律法の働き」を指しているのである。

堕落天使と律法
 楽園におけるアダムとエヴァの律法違反と律法主義の罪について述べたから、これに続いて、「堕落天使と律法」について見たいと思う。
 ガラテヤ人への手紙で割礼問題と絡ませて律法問題を提起したのは、ガラテヤを訪れているユダヤ人キリスト教徒たちではなく、むしろパウロのほうである。パウロは、アブラハムへの神の約束とモーセ律法とを対立させて、神の約束には祝福を、律法には呪いを置いている。この際にパウロは、律法はその「全条項」を守らなければ呪いを招く結果になると主張する。ただしパウロは、律法の個々の条文を含む「条文の全条項」と律法をその全体においてとらえる「律法全体」とを区別している〔bner 37〕。この区別は、シャンマイ流とヒレル流との律法への解釈の違いから来るのだろうか?〔Hübner 50 n95 〕
 パウロは、律法が、その「全条項」を守らなければ無意味であることを確認させた上で、「律法は、違犯のために付加されたもので、それは約束された子孫が来る時までのことである。律法は天使たちを通して制定されたもので、仲介者の手を経ている。」(ガラテヤ3章19節)と述べる。ここで律法の機能が語られるが、ヒュブナーによれば、パウロが「違犯のために付加された」と言うのは、「違反をもたらすために」という意味で、さらに言えば、律法の意図は「罪を誘発させるため」であると言う。したがってヒュブナーは、律法の働きが、ルターやカルヴァンの言う「罪を自覚させる」ためであるという解釈を退ける。すなわち、律法授与者の目的は、人間をして律法を「破らせる」ことだと言うのである。ただし「律法を実行する者は、これによって生きる」(ガラテヤ3章12節)とあるレビ記18章5節からの引用については、ヒュブナーによれば、律法の「内在的な」ほんらいの意図は、これを実行することによって生きることであるが、しかし「現実としては」それは不可能である。だから、律法の「内在的な」意図と「律法授与者の」意図とを区別しなければならないとヒュブナーは言う〔Hübner30〕。
 ではその授与者とは誰のことか? もしも「恵みが増し加わるために罪が増大する」(ローマ5章20節)ことが律法授与者の意図であるのならば、その授与者は神であって、天使ではないことになろう。ところがパウロは、ここで、「律法は天使たちを通して制定された」と述べている。おそらくパウロは、律法の授与が天使による仲介を通して行なわれたという伝承の中に、律法は「堕落した天使たち」の手によるというヒントを得たのであろうとヒュブナーは言う。だから、仲介者は神ではなく天使たちであろう。律法は「天使たちとイスラエル」との間で作られたものであって、「神とイスラエル」との間においてではない。さらに言えば、律法の創始者自体も神ではなく天使たちであるとパウロは見ていることになる。だから律法の創始者たちは、人類の救いを望まない者たちなのである。言い換えると、これらの天使たちは悪霊的な天使たちであり、したがって律法は、神の救いの意図と対立することになる。ところが、律法の機能が悪霊的な天使たちによるもので、神からではないと言いつつも、パウロは、3章21節で、律法は神の意図に反対するものでは「決してない」と驚くべきことを言う。たとえ律法と罪は神に反するものであっても、律法も罪も結局は神に仕えることになるというのが、ヒュブナーを通じて見るパウロの見解であろうか。
 このようにヒュブナーは、天使たちによる律法とは、悪霊的な天使たちによる「律法」のことであって、ここでパウロが言う「律法」とは、人間を罪へ誘い込むための「律法」であると見ている。いったいヒュブナーの言う「悪霊的な天使から与えられた」このような「律法」とは、どのような背景を持っているのだろうか? この点について少し述べておきたい。
 ここで注目したいのは、「律法」が罪を犯させないための「守護者」であり「監視役」であるという見方である(3章23節)。旧約聖書には、神の会議から遣わされて諸民族を監視する「見張りの天使たち」が出てくる(ダニエル書4章14節)。この「見張りの天使たち」は、かつては、神のもとで人間を監視して人間を罪から守る役目を仰せつかっていたらしい。ところが、この守護天使たちは、「神に背いて」人の娘たちと結ばれた結果、「天使たちの堕落」が生じた。この伝承は、創世記6章4節に出てくる天使たちと人の娘たちとの結びつきと、その結果生まれた「巨人たち」(ネフィリムたち)の伝承が基となっていると思われる〔フォーサイス210〜16〕。こうして生まれのが、「堕落天使」の伝承である。この堕落天使の伝承は、特に捕囚以後に発達したエノク伝承やヨベル書(前150〜前100頃)などに語られている。旧約のエノク伝承は「神と共に歩み、神に取り去られていなくなったエノク」(創世記5章24節)から出ているが、エノク系諸文書の歴史は長く、古代バビロニアのウトナピシュティム(ノアの原型とされるギルガメシュ神話の賢者)あたりから始まり、紀元後5世紀以後まで続いている〔フォーサイス220〜21〕。エノク伝承でよく知られているエチオピア語エノク書も紀元前3世紀以前から前100年頃までの諸文書から成り立っている〔『聖書外典偽典』W巻 旧約外典U 164〕。堕落天使たちは、ほんらいは神から遣わされた「見張り役の天使たち」であったはずだが、堕落して逆に人間エノクに執り成してもらう羽目に陥ったようである(エチオピア語エノク書15章)。このようにしてわたしたちは、楽園でのアダムとエヴァへの律法に継いで、ノアの洪水前での天使と人間の堕落と律法との結びつきへと誘われることになる。
 この堕落天使伝承は、悪魔/サタンと結びつき、アダムとエヴァの堕罪神話とも結んで、クムラン宗団の黙示思想の背景となっている〔フォーサイス258〕。堕落天使たちの首領がサタンであるが(ヨベル書10章)、わたしたちは、このようなサタンの原型をヨブ記に見ることができる(ヨブ1章6節)。サタンと結ぶことで、彼ら堕落天使たちは、人間の律法違反の罪を暴いて、これを神に訴える「告発者」となった。言わば彼らは、神の律法を逆用して、人間を律法によって束縛し支配しようとすることで、神と人間の「敵対者」へと転じたことになる。「律法」と「サタン」、あるいは「律法」と「堕落天使」とをつなぐ伝承は、このようにして生じたらしい。先に指摘したように、ヒュブナーは、ガラテヤ人への手紙3章19節で、律法を与える仲介役となった天使たちは、「悪霊的な天使たち」のことだと述べているが、彼のこのような理解の背後には、このような堕落天使伝承があると見てよいであろう。
 パウロも、キリストの福音に逆らって、旧約の律法を異邦人キリスト教徒に課そうとするユダヤ主義的なキリスト教徒たちを楽園の蛇にたとえて、「サタン」と呼んでいる(ローマ16章18〜20節)。またパウロが「罪と死の律法」と言う時、律法をほとんどサタンと同一視しかねないところまで両者の関係を近づけて見ている。ただしパウロでは、特に律法に関する問題について語る時には、堕落天使たちや超人間的な悪の諸霊のような黙示神話的な発想はあまり表われない。せいぜいガラテヤ人への手紙3章19節の「天使たち」やローマ人への手紙16章の「サタン」などが、黙示思想を反映している程度である。なぜならパウロは、宇宙論的な黙示思想を内面化してとらえており、「罪と死の律法」のように、人間存在の霊的、内面的な領域において律法の働きを見ているからである。彼は悪の起源を宇宙論的に導き出すことをせず、人間の「罪」のうちに悪を位置づけるのである。こういうパウロの律法観を反神話的あるいは脱黙示的と呼ぶことができるかもしれない。しかしパウロの言う「サタン」や「天使たち」に、黙示的な宇宙の敵対者が反映していないかと言えば、そうとも言えない〔フォーサイス362〜63〕。彼はそのような宇宙規模の悪を特定の論敵たちの背後に感じ取っていて、彼の場合は、こういう「人間存在」の中に悪の姿を洞察しているからである。パウロが、「罪と死の律法」(ローマ8章2節)と言う時、この三位一体の背後に、彼はサタンの働きを読み取っていると言えよう。正しく用いられるならば本来人間を罪から守るはずの「律法」が、このようにして人間の欲望によって悪用される時、律法はサタンの道具に変質する。パウロが福音と対立させて「律法」と言う時、彼はこのような悪しき「律法主義」を指しているのである。
ヒュブナーの悪霊説について
(1)先に述べたヒュブナーの見解には、悪霊と律法との関係で参考にすべき点が含まれているものの、わたしは彼の「律法悪霊説」には必ずしも賛同できない。確かにパウロは、ガラテヤ人への手紙3章19節で、律法が「天使たちを通して」与えられたと述べている。しかしここでパウロは、律法を尊重する意味で「天使たち」を出していると見ることもできなくはない。律法が天使を通して与えられたという考え方は、旧約には直接表われない。しかし、申命記33章1〜4節には、神が「千よろずの聖なる者」を従えて顕現し、これによってモーセがイスラエルに教えを授けたとあり、ここの七十人訳では「神の右には天使たちがいた」となっている。さらに詩編68篇18節には、神が幾千、幾万の戦車(天使たちの軍勢を乗せた馬車)を引き連れてシナイの山に降ったとあり、この箇所が、律法と天使とを結びつける伝承の一つの基となったと思われる。新約聖書では、神が「天使を通して」モーセを遣わしたとあり(使徒言行録7章35節)、ヘブライ人の手紙に「天使を通して語られた言葉」(2章2節)とあるのもこのような伝承に基づいている。
 また旧約聖書には、神が諸民族をそれぞれに分けて境界を定め、それぞれに支配者たち(これら支配者たちの背後には、天使の存在が含まれている)を置いたが、イスラエルだけは直接に神自身が統治したとある(申命記32章8〜9節/シラ書17章17節/ヨベル書15章31〜32節)。聖書のこれらの言葉から、「神は、他の諸国民を導くために天使たちを任命したが、神自身はイスラエルを選んだ」〔ダン119〕という伝承が生まれたと考えられる。同時に神は、天使たちを通して、それぞれの民にそれぞれに「律法」を授けて、諸民族を罪から守るように監視させたと言われていた(古代では、律法を司る裁き人が天使と同一視される場合があった)。
 パウロがここで、「天使たちを通して」イスラエルに律法が与えられたと言っているのは注目すべきであろう。なぜなら、この見方によれば、異邦の諸民族を司る天使たちが、「諸民族を罪から守る監視役」として与えた「律法」とイスラエルの律法とが、ここで重ね合わされてくるからである。パウロは、イスラエルの律法と諸民族の律法とを基本的には同列においていることになる。だからこそパウロは、イスラエルの律法について語りながら、同時に、異邦の民を「支配する諸霊」(ガラテヤ4章9節)、すなわち異邦人の諸宗教をもイスラエルの律法と並べて持ち出すことができたのであろう。だから、ガラテヤ人への手紙のこの段落で、パウロが「天使たちによって」律法が授与されたというのは、「神から直接に」アブラハムに授与された約束と比べた場合に、律法のほうが約束よりも劣ることを言いたいのである。
 確かにガラテヤ人への手紙3章19節の後半は、20節前半とのつながりで、語法的にも内容的にもはっきりしないところがある。しかし、ここでパウロが、律法は「神が直接もたらしたものではない」ことを言おうとしているという点では諸説が一致している。ヒュブナーは、律法が悪霊的な天使たち自身の手で制定されたと読んでいるが、ダンはこれに対して、天使たちの制定に、このような「脅迫的なモチーフ」を認めない。わたし自身の見解は、ダンに近い。先に述べた「天使たちの堕落」伝承にもかかわらず、少なくともガラテヤ人への手紙のこの段階では、パウロの言おうとしていることは、「神よりも劣る」天使たちの手で、律法がもたらされたという意味であって〔Betz 171〕、必ずしもそれが「悪霊的な」天使たちを意味するものではないと考えるからである。
  ただし、3章21節との関連から見て、パウロはここで、律法とこれの制定に関わる天使たちを必ずしも肯定的に見ているわけではない。ヒュブナーは、パウロが、「律法」の起源それ自体に堕落天使たちの参与を見ていると言う。しかしわたしの見方はそうではない。律法は直接神から授与されたものではないけれども、モーセの手を経て与えられたものであり、それは「聖なるもの」「正しいもの」としての本質を失ってはいない。モーセも神の人として天使と見なされることがあったから〔Betz 170 n75 〕、ここでのモーセは、天使たちの代表と見なされているのかもしれない。もしもパウロが律法を「劣ったもの」と見ているとすれば、それは彼が、「キリストの律法」(ガラテヤ6章2節)あるいは「神の律法」(ローマ7章22節)に比較してモーセ律法を見ているからであろう〔Betz 166〕。
 ガラテヤ人への手紙3章24節で、律法が「キリストのもとへ導く養育係となった」とあるのにも、否定と肯定とのふたとおりの見方がなされている。律法の悪霊起源説に立つのであれば、ここで「養育係」と訳されている語も、人間を律法によって閉じこめている牢獄の「看守」に近い意味になるだろう。原語の「パイダゴーゴス」は、子供や少年をしつけたり教育する人(教育のある奴隷もこの任に当たった)のことであるから、さしずめ少年院の監督官ということになろうか。しかしここは、ダンの言うとおり、「保護のための監視」役のことで、人を律法によって「罪の力から保護する」という意味であろう。もっとも「保護監察」という日本語もあるから、事態は微妙である。このように、パウロの律法観には、彼独自の「閉じこめる」という機能がある〔Betz 165〕。いずれにせよ、3章24節でも、パウロのたとえは「律法違反」の罪を念頭に置いて語られているのは間違いない。このように、ガラテヤ人への手紙では、律法違反と律法主義とのふた種類の罪が重ね合わされているのであるが、この段階では、表だって語られているのは「律法違反の罪」のほうであって、律法主義の罪のほうは、違反の背後にあって、いまだはっきりとは表われていない。
(2)3章19節は多様な解釈を呼んでいる。「律法は違反のために」とあるが、人は律法によって「罪を犯す恐れを自覚する」。これによって、律法に違反することから護られる。あるいは罪を犯している場合には、己の行為が「罪」であることを律法によって自覚させられる、というのがルターの解釈である。この解釈は、ルターやカルヴァンなど宗教改革者たちに共通した認識であったと言えよう。ルターのこの律法観は、今では「古典的」なものとなっているが、現代でもこの解釈を支持する人たちが少なくない〔Longenecker 138〕。このような律法観は、ヘレニズム世界にもユダヤ教にも共通して存在していたから、パウロもその影響を受けていると思われる。
 「律法は違反のために」でのヒュブナーの解釈は、ルターのこの古典的な解釈とかなり異なっている。ヒュブナーは、「律法は違反のために」を「律法は違反をもたらす/誘い出すために」と解釈している〔bner 78〕。ルターは、その第一の問題点として、主として「律法違反」のことを念頭に置いているのであるが、ヒュブナーは、律法が、ただ「邪悪を抑える」ためではなく、むしろ「邪悪を引き出す」あるいは「邪悪を挑発する」働きをすると見ているようである。これは、律法違反への誘惑以上に悪質な「律法主義」の罪であって、パウロが厳しく弾劾するのは、まさにこの意味での「罪」である。ちなみにこういう解釈は彼一人ではない〔山内204〕〔サンダース186〕。律法は人に「律法違反」の罪をもたらすだけではない、より積極的な罪である「律法主義」を欲望させるという律法認識はパウロ独特のものがあることを、わたしたちもここで確認しておく必要があろう。
 確かにパウロの律法観には、ヘレニズム世界全体としてみても、やや否定的な要素が感じられるが、これはおそらく黙示思想の影響であろう。しかしながら、問題は、ガラテヤ人への手紙3章のこの段落において、はたして悪霊的と言えるほどに否定的な解釈が適切かどうか? である。わたしの見るところでは、ヒュブナーは、ガラテヤ人への手紙のこの3章19節の解釈に、ローマ人への手紙の律法観を反映させるという誤りを犯しているように思われる。なぜなら、彼の言う律法の悪霊起源説では、なぜパウロが、3章21節で、律法が神の約束に反するものでは「決してない」と強い口調で否定しているのか? このことが十分説明できないからである。ヒュブナーはこの23節でのパウロの発言を「驚き」をもって見ているが、これはパウロが、律法とこれの仲介となった天使たちとを必ずしも「悪霊的」とまでは見ていないことを示すものではなかろうか。
 ヒュブナーの否定的な律法観に対して、ダンは、全く異なる見解を採る。彼は、「律法が違反のために付け加えられた」とあるのを律法は違反とその結果生じた罪とを「(正しく)処置するため」であると解釈する。すなわち、律法はその犠牲体系によって、イスラエルの内部で発生する罪過に対してそれなりの正しい処置を行ない、こうすることによって、イスラエルの日常生活を容易にするために付加されたと理解するのである。「パウロはここで律法を悪魔化しているというある人々の仮説〔ダンは注でヒュブナーをあげている〕にもかかわらず、律法授与に際して天使たちの提携は、当時のユダヤ人やキリスト教徒の考えにおいてはごくありふれた、一向に脅迫的でないモチーフであったことが想起されなければならない」〔ダン 117〕。ダンは、ヒュブナーとは異なって、パウロはここで、律法を肯定的にとらえていると見ている。ただし、もしもパウロが律法をそれほど「肯定的に」見ているのであれば、なぜパウロが、21節で、「それでは、律法は神の約束に反するのか?」と問いかけるのだろうか。今度はヒュブナーとは逆の意味で、律法が「否定的な性質のものではない」ことをパウロが強く主張している、その理由が見えてこないことになろう。

律法の変容性
 ガラテヤ人への手紙3章19節は、問題の多い箇所で諸説がある。原文の順に従ってこの節を四つに分けるなら、「律法は、違犯のために付加された」、「約束された子孫が来る時まで」、「天使たちを通して制定された」、「仲介者の手を経ている」のようになろう〔Betz 163〕。ベッツは、これらの句の一つ一つに検討を加えた上で、ヘレニズム世界とこれに影響された当時のユダヤ教の律法観がパウロの律法概念の背後にあることを指摘している。例えば「違反のため」とあるのは、ほんらいヘレニズム世界では、犯罪行為を抑制するために人間に授与された法という概念に基づいている。ベッツは、ソフィストたちの相対的な法概念とこれに対立する「王としての」法概念とを対照させる。ただし、賢者や哲学者は、自らを法としてこのような法律を必要としないものとされた。その上で、彼は、ヘレニズム世界の法概念に影響されて、ユダヤ教では、「イスラエルへの犯し難い保護の囲い」として、律法が神から授与されたと考えられていたと指摘する。したがって、パウロの律法観は、この基準から見れば反ユダヤ教的な性格を帯びていることになると言う。ベッツはこのようにして、19節で述べられているパウロの律法観を、レニズム世界の法概念とこれに影響されたユダヤ教の律法観からの一致あるいは逸脱として位置づけている〔Betz 164〜170〕。
 私は、このようなベッツの説を参考にしながらも、なおその上で、これらの句にパウロの律法観の特徴を示す大事な手がかりが潜んでいると見ている。それらは、先の四つの区分に対応させるならば、「付加された」とある律法の追加性であり、「約束の子孫が来るまで」とある律法の一時性であり、「(神からではなく)天使たちによる」という相対性であり、「仲保者の手になる」という媒介性である。これらの特徴を通して見えてくるパウロの律法観は、その流動性であり、時宜に応じた変容性である。このような律法観は、パウロが「もしも律法が、人を生かすものとして授与されているのであれば」(3章21節)と指摘しているように、律法主義的なユダヤ教徒たちの「命を授与する永遠性」を帯びた律法観とは対照的である。19節に続く20節も問題が多い。しかし、この20節もパウロの律法観の変容性に照らしてみるならば、パウロは20節で、律法それ自体が、決して神からの絶対性を帯びたものではないことを言おうとしているのが見えてくる。
 先に指摘したように、パウロのモーセ律法に対する評価は、アブラハムに約束された祝福、すなわちキリストの御霊とこれの働きが授与する「キリストの律法(ノモス)」との対照において初めて、その全貌が見えてくる。だから19節〜20節には、後にローマ人への手紙7章〜8章で語られる律法の変容過程が、すでに示唆されていると見ることができる。この問題は、次に述べるガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙との相互関係を考える時に、大事な視点となろう。パウロの律法概念が具体的にどのような変容過程をたどるのかは、ガラテヤ人への手紙ではまだ表われてこない。しかし、わたしたちは、この書簡にすでにモーセ律法からキリストの律法へと移行する過程が、パウロの律法概念そのものに潜んでいることを洞察することができるのである。

ガラテヤ書簡とローマ書簡
 「律法」の観点から見る時に、ガラテヤ人への手紙からローマ人への手紙へ目を転じると、そこには驚くべき違いがある。パウロは、ガラテヤ人への手紙3章では、創世記17章にある契約と割礼との関係を取り上げなかった。ガラテヤ人への手紙では、割礼はその意味を失う。それどころか、割礼を受ける者は恵みから堕ちて、呪われるべき者となる。ところがローマ人への手紙4章ではそうではない。ただし、ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙との間には、幾つかの共通点も見ることもできる。創世記15章6節を出発点とすること(ガラテヤ3章6節/ローマ4章3節)、律法は罪をもたらすこと(ガラテヤ3章19節/ローマ4章15節)、アブラハムへの約束が律法に対して優越すること(ガラテヤ3章16節以下/ローマ4章15節以下)、時期的に約束が律法に優ること(ガラテヤ3章15節/ローマ4章10節)などである。
 しかしガラテヤ人への手紙には、ローマ人への手紙では語られていないこともある。律法の条項全部を守らなければ呪われること、キリストが律法の呪いとされたこと、ガラテヤ3章で立論の基本となっている契約=遺言のこと、後から加えられた律法は契約を無効にしないこと、などである。また、ガラテヤ人への手紙では、約束と律法との間の期間が430年であったが、ローマ人への手紙では29年(創世記15章でのアブラハムへの契約から17章でのアブラハムの割礼までの期間を意味する)に短縮される。「アブラハムの祝福」とは聖霊の賜であることもローマ人への手紙では語られない。
 さらにローマ人への手紙で初めて表われることがある。神は活かす方で創造者であること(4章17節)、望み得ないのに望む信仰のたとえ、伝承的ケーリュグマが表われること(4章25節)などである。だが、最大のポイントは、創世記17章の割礼が「しるし」だということであろう。パウロは、ローマ4章11節で、割礼が「契約のしるし」であると言う。しかもこの「しるし」としての割礼は、「無割礼の時に信仰によって与えられた神の義」としての「信仰のしるし」なのである。したがって割礼は、信仰と結びつくならば、ともかく「有効である」!〔Hübner 53〕 ローマ3章31節でパウロは「わたしたちは律法を確立する」と言う。ただしこの31節は、ヒュブナーの指摘するとおり、3章よりもむしろ4章の帰結としてふさわしいであろう。
 ガラテヤ人への手紙同様に、ローマ人への手紙でも、アブラハムは、信仰によって義とされる者たちの父祖である。しかし、それにもかかわらずアブラハムは、「律法を確立する」特別の目的を帯びる。パウロはここで、神の義が律法から来るものではないというまさにそのことを示すために、アブラハムを用いて律法を確立するのである。ガラテヤ3章では「アブラハムの子孫」は単数でキリストを指し、ユダヤ人キリスト教徒も異邦人キリスト教徒もキリストにあってひとつとなり、彼らは「アブラハムの子孫」であった。だがローマ4章13節では、アブラハムは、まず肉によるイスラエルの父祖である。その上で、4章16〜18節で、「アブラハムの子孫」の意味が拡張されて、アブラハムは「霊的な意味で」すべての国民の父となる。
 このようにガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙とを比較対照した上で、ヒュブナーは次のように結論する。ガラテヤ人への手紙だけを読んでいた者は、ローマ人への手紙でパウロが、突然、割礼を「アブラハムの子孫」に結びつけたことに驚くだろう〔Hübner 53〕。いったいこれはなぜなのか? 理由として考えられるのは、次のような事態である。ガラテヤ人への手紙は、律法と福音との混同に悩む異邦人キリスト教徒たちに宛てられたものであった。しかし、ローマ人への手紙はそうではない。クラウディウス帝のユダヤ人追放令(49年)で、一度はローマから退去していたユダヤ人キリスト教徒たちが、再びローマへ戻って来た。このためにローマのキリスト教会では、律法の扱いをめぐって、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間に問題が生じた。ローマ人への手紙は、このような状況にあって、ユダヤ人キリスト教徒たちとの間に生じた問題について書かれたものなのである。ガラテヤ人への手紙では、割礼は恵みから堕ちることを意味した。しかしこれでは、ローマ人への手紙の宛先であるユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とは、一つにはなれない。パウロはここで、律法についての彼の考えを改めて発展させたに違いない。ヒュブナーによれば、「ガラテヤ人への手紙の危機的な神学的発言において、パウロはまさにその時の根本的な神学的確信を表現していると受け止めるべきである」〔Hübner 55〕。だが、とヒュブナーは言う。パウロは、ガラテヤ人への手紙の段階では、まだ自分の主張に含まれる矛盾に気づいていなかったのであると。
 二つの書簡の間に横たわる違いにつて、ヒュブナーはさらに追求する。ガラテヤ人への手紙5章4節には、律法による者はキリストの恵みを失うとある。これが「異邦人キリスト教徒にのみ」適用されるとしても、このような「過激な」律法観は、はたしてパウロとエルサレム教会の使徒たちとの協定に基づいて、双方に理解されたものだったのだろうか? ここでは、パウロとエルサレム側との双方に誤解が生じていたとヒュブナーは見る。パウロのほうは、律法からの自由を「原理的な」決定であると受け止めたが、エルサレム側は、これが暫定的なもので、一時的であるとさえ考えたかもしれない。ガラテヤ人への手紙2章21節には「律法によって義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味であったことになる」とある。このような律法観は、「パウロの側から」見た協定の彼なりの解釈にすぎない。なお、エルサレム側は、パウロの考えや彼のガラテヤ人への手紙の内容さえも知っていたかもしれない。だから、パウロとの協定からと言うよりも、その協定から引き出されたパウロの「神学的帰結」を聞いて、エルサレム側はおそらく驚愕したことであろう〔Hübner 61〕。どんなに好意的に見ても、ユダヤ人キリスト教徒が、パウロがガラテヤの信徒たちに宛てた律法解釈を受け容れることはできないからである。
もしもパウロが、ガラテヤ人への手紙の執筆に当たって、その勇み足のために、先のエルサレム教会との協定を「一方的に誤解した」とすれば、しかもその結果として、ガラテヤの教会に混乱を招いたとすれば、パウロには、この事態を是正する責務がある。ガラテヤ人への手紙は、パウロの大失策であった。パウロの反対者は、この手紙によっていっそう勇気づけられたに違いない。そこでヤコブが、パウロと反対者たちとの間を和解させる意図から、なんらかの調停案を示したのかもしれない。
 こういうわけで、ヒュブナーによれば、パウロは、ガラテヤ人への手紙での「悲惨な失敗」〔Hübner 62〕を是正するためにローマ人への手紙を書いたことになる。この書簡は、失敗の是正のために書かれたものである。それは同時に、ローマの混合教会に和解を訴えることによって、エルサレム側に対してもパウロの立場を理解してもらうためでもあった。ヤコブはガラテヤ人への手紙を知っていたとヒュブナーは見る〔Hübner 61〕。パウロはエルサレムとの協定について重大な誤解をしていたのである。その結果、パウロは、「彼がガラテヤ人への手紙で(一致しているとして)訴えた当のヤコブが、実は協定の結果についてパウロが語ったのとは食い違っている」のを知った。おそらくはヤコブが、この誤解についてパウロに助言をして、パウロもそれを受け容れたのではあるまいか。ヒュブナーによれば、パウロは、こと律法に関する限り、ユダヤ教との「連続と非連続との間を揺れ動いていた」〔Hübner 60〕ことになる。
ヒュブナー説の問題点
  以上が、ガラテヤ書簡とローマ書簡とをめぐるパウロの律法についてのヒュブナーの説のあらましである。断わっておくが、わたしは決してヒュブナーを批判するためにこれを紹介しているのではない。それどころか、彼は諸説を綿密に検討した上で、特に律法の視点から、パウロのテキストに対して深く鋭い分析を加えている。その緻密さに深く敬意を表し、また教えられることがきわめて大きかった。ただし、わたしはヒュブナーの説を全面的にはこれを受け容れることができない。以下にその理由を述べてみたい。
(1)ヒュブナーは、ガラテヤ3章12節の解釈の矛盾点を鋭く見抜いている。律法は、それ自体についてこう証言する。「わたしを実行する者はわたしによって生きる」と。もしも「生きる」とある律法の証言が「呪われる」ことを意味するのなら、「それではこのことは、聖書からの引用が律法からの引用と対立することを意味するのか? なぜならそこでは、聖書の引用が神の真理を表わすと見られているのに律法からの引用は偽りと欺瞞を表わし、神と衝突すると見られているからである。」〔Hübner 38〕と彼は言う。もしも律法がそのように「権威のない」ものであるのなら、なぜ神の御子であるキリストが、わざわざ「律法の呪い」となって死ななければならないのか? とヒュブナーは反論する。だから、ガラテヤ人への手紙3章でのパウロの思考においては、「律法を実行する者は生きる」と「義人は信仰によって生きる」という二とおりの「命を与える」原理が、互いに調和されないままで交錯しているとヒュブナーは見ている〔Hübner 39〕。その上で彼は、律法それ自体に内在している意図を、律法を授与した者の意図、すなわち律法をもたらした悪霊的な天使たちの意図から区別しなければならないと言う〔Hübner 26〕。しかしながら、わたしには、このヒュブナーの説明によっても、彼の言う律法の「悪霊起源」が、3章12節での律法の「内在的な意図」と「授与者の意図」との区別とどのようにつながるのか? この辺が十分説得的であるとは思われない。なお、3章12節についてのわたしの見解についてはすでに述べたからここでは繰り返さない。
(2)確かに、パウロは、ガラテヤ人への手紙では、割礼がアブラハムの信仰と「相容れない」としてこれを拒否しておきながら、ローマ人への手紙では割礼を含む律法それ自体をアブラハムの信仰の「しるし」として容認しているように見える。しかし割礼をめぐる二つの書簡の扱い方のこのズレは、パウロが、律法と信仰との関係において、「連続と非連続との間を揺れ動いた」〔Hübner 60〕結果として生じたのではない。そうではなく、ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙とは、異なる状況において書かれたことから来ていると見るほうがより適切であろう。ガラテヤ人への手紙が書かれた状況では、異邦人キリスト教徒に割礼が強制的に課せられる恐れがあった。それゆえにパウロは、ユダヤ人キリスト教徒たちからの「強要」に断固として屈しなかったのである。一方、ローマ人への手紙の場合は、異邦人キリスト教徒たちの間において、割礼を含む律法への対処の仕方が、すでにある程度確立されていたと見ることができる。ユダヤ人キリスト教徒たちがローマから退去させられている間に、福音における律法からの自由が、異邦人キリスト教徒によって、すでに確立されていたに違いない。このために、ローマ人への手紙14章1節以下では、(ガラテヤの場合とは正反対に)律法にこだわる「弱い」ユダヤ人キリスト教徒たちをどのように受け容れるべきかが論じられている。キリストの御霊は、それが律法制度であろうと教会制度であろうと、一般に既成の制度に向かう場合には、批判的に働き、時には否定的に働く傾向がある。これに対して、エクレシアとしての教会が育成されていく過程においては、御霊は、寛容と調和による交わりを創り出す形成原理として働くのである。
(3)ヒュブナーによれば、ガラテヤ人への手紙はパウロの「失策」であったことになる。パウロは、ヤコブたちとの協定を「誤解」しただけでなく、あまりにも「過激な」彼の律法否定の神学が、ガラテヤを訪れていたユダヤ人キリスト教徒だけでなく、ガラテヤの信徒たちにも混乱を引き起こす結果になった、というがヒュブナーの見方である(ただしヒュブナーは、その結論部分では、パウロの律法観が旧約の律法の伝統に根ざすことを認めている)。なるほどパウロの手紙が、論敵であるユダヤ人キリスト教徒たちをどこまで説得することができたかは大いに疑問であろう。また、パウロの言う「信仰による義」が、ガラテヤの信徒たちの理解を得られたかどうかも疑わしい。おそらくパウロの手紙は、あまり功を奏せず、ガラテヤの信徒たちを説得するにはいたらなかったと見るべきであろう。だがそのゆえに、ガラテヤ人への手紙が、パウロの「失態」あるいは「失策」であったとわたしは考えない。書簡の意図が「成功しなかった」ことは、書簡それ自体が「失態」であったことにはならないからである。またパウロが事態を「そのように」見ているとも考えられない。したがって、ローマ人への手紙が、この失態に対する「訂正」の書簡であるという見方にわたしは賛同できない。パウロの律法概念は、ガラテヤ人への手紙においてもローマ人への手紙においても一貫しているというのがわたしの見方である。
ガラテヤの信徒の視点から
(4)上に述べて理由のほかに、わたしには、ヒュブナーの説に対して根本的な疑念がある。以下にこの点を述べてみたい。パウロは、これまでは、旧約のユダヤ教が、そのもとにある人たちを束縛してきたことを指摘して、ガラテヤの信徒たちを訪れている律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちの教えを批判してきた。ところが、ガラテヤ人への手紙4章8〜11節では、ガラテヤの信徒たちが、まだキリストを知らず、「神を知らなかった」時の状態へと視点を移すのである。ただし、パウロが、ユダヤ教の律法主義を厳しく批判している割には、ガラテヤの人たちの改宗前の宗教については語らない。だからここでパウロの言う「ほんらい神でない神々」というのは、具体的にどのような宗教なのかを知る確かな手がかりがない。ただし、文脈から考えて、ガラテヤの部族あるいは民族が受け継いでいた伝統的な宗教儀礼や慣習を指していると考えられている。ガラテヤの人たちは、もとは北方から南下して来たケルト系の民族であるが、すでにギリシアやローマの諸宗教と混淆していたから、ヘレニズム化した宗教儀礼や慣習に変容していたと思われる。
 だからガラテヤの信徒たちは、ユダヤ主義的なキリスト教徒が来て、聖書の律法を教え、伝統的な迷信を脱却するように伝えられると、素直にこれに応じたのであろう。それはちょうど現在の日本で、外国から来たキリスト教の宣教師たちが、日本古来の「ほんらい神でない神々」を離れて、聖書の神に改宗せよと教える状況を思い浮かべるとよく分かる。だからここでパウロが言う「神を知っている」「神を知らない」という言い方は、これらユダヤ教の宣教師たちが用いていた用語である。パウロはここで、この用語を用いて、ガラテヤの信徒たちが、せっかくキリストを信じて「神を知った」のに、どうして再び、「無力で頼りないこの世のもろもろの霊力」へと戻るのかと批判する。ここで「無力」というのは人間の罪を取り除く力がないことであり、「頼りない」というのは、人間の知恵や知識や感覚などの「肉」に基づいているという意味であるから、ガラテヤの信徒たちは、キリストの御霊を体験した時に、それまでの先祖伝来の宗教儀礼が「ほんらい神でない神々」であって、「無力で頼りない」ことを悟ったのであろう。だから、今更そのような宗教へと逆戻りすることは不可能なはずだとパウロは言う。
 ここでパウロは、ガラテヤの信徒たちに「どうして以前の宗教に逆戻りするのか?」と問いかけているが、このことから判断すると、ガラテヤの信徒たちが、自分たちの古来の宗教儀礼や風習に逆戻りしたという意味にも受け取ることができよう。ところが、これまでパウロの述べていることから判断すると、彼らはユダヤ教の割礼を受けて、ユダヤ教の律法制度を受け容れようとしているのである。だから、ガラテヤの信徒たちにしてみれば、割礼を受けてユダヤ教徒になることは、彼らの先祖からの風習や宗教儀礼からは、むしろ「離れる」ことを意味していたはずである。ところがパウロは、彼らに向かって、どうしてまたも「以前のような」無力で頼りない宗教的霊力に逆戻りするのか? と言う。これは彼らにとっては予想もしなかったことに違いない。割礼を受けて、聖書の神を信じることが、どうして以前の神々へと「逆戻り」することになるのだろう!?というわけである。
  いったいここでは何が起こっているのか? パウロに言わせるなら、律法に従って割礼を受けてユダヤ教に改宗することは、彼らが以前から従ってきた伝統的な宗教儀礼や慣習へ「逆戻りする」ことと同じことなのであろう。なぜなら、パウロの律法観から判断するならば、ユダヤ教も異教も重なり合っていて、どちらも「無力で頼りない」宗教として映っているからである。この点で、パウロとガラテヤの信徒たちとの間に大きな食い違いがある。当然、律法主義的なユダヤ人キリスト教徒たちとパウロとの間には、越えがたい溝がある。ユダヤ人キリスト教徒たちは、(かつてのサウロがしていたように!)聖書の神とアブラハム契約と割礼などの律法を異邦人に教えることによって、異教徒のガラテヤの人たちをその「先祖伝来の空疎な神々」から唯一の聖書の神へと改宗させようとしているのだから。
 なぜパウロは、ガラテヤの信徒たちやそこを訪れている律法主義のユダヤ人キリスト教徒たちの考え方に反して、このように、ユダヤ教も異教も一塊(ひとかたまり)に観ているのか? 彼が、それらのどちらにも、悪霊的な働きを観ているという説もある。しかしパウロは、「悪霊的」という言葉をここで用いてはいない。むしろ、パウロは、ユダヤ教と異教の両方に向けて共通する言葉として、「奴隷」「隷従」「束縛」という言い方をしている(3章22節と4章8節)。すなわち、パウロは、旧来のユダヤ教も異教的な宗教儀礼や慣習も、どちらも人を縛る、人を「隷従させる」という点で、宗教的な共通性を帯びていると観ているのである。だから「日や月や時節や年」(4章10節)というのは、ユダヤ教の律法で決められた暦を指していると思われる。例えば「日」とは安息日のこと、「月」とは新月のこと(列王記上23章31節)、「時節」とは仮庵祭のような季節の祭り、「年」とは新年などである。宗教一般と暦は深くつながっているから、パウロは、全体としてユダヤ教の律法制度(それに異教の祭儀をも重ねて)全体を遵守することを指している。イエス・キリストにある「自由の御霊」の視点からするならば、伝えられたユダヤ教の律法制度もガラテヤの古い宗教的慣習も、人間を束縛するものにすぎないというのが、パウロの見方なのである。イエス・キリストの御霊は、いわゆる聖書の律法的な制度も異教の宗教儀礼や慣習をも克服する力として、人々に「御霊にある自由」を与える。パウロの福音は「過激なほどに急進的」〔Longenecker 181〕なのである。
 ここで、読者の方々に想像してみてほしい。今あるアメリカの聖霊運動の宣教師が日本に来て、日本人のクリスチャンたちに向かって、キリストの御霊に照らしてみるならば、聖書を字義どおりに教える教師たちは、ことごとくキリストの御霊とその福音に反する者たちである(ガラテヤの信徒たちにとって、七十人訳の旧約聖書は現在のクリスチャンの聖書に他ならない)。だからあなたがたは、聖書に書かれている律法や教えを守るように教えたり、そのように守ろうとしたりするならば、キリストへの信仰を捨てることになり、キリストから授与された聖霊の賜さえも失うことになる。こう説いたとしたらどうだろうか? 
 さらにその上で、彼は、日本の宗教は偶像礼拝的であるから、これらの宗教も神々も拝んではならない。それだけではない、そういう宗教的な文化から生まれた様々な慣習やしきたり、例えば正月、ひな祭り、端午の節句、お盆、その他の日本古来の宗教的なきまりやしきたりは、ことごとくキリストの御霊に反するから、これらを守るものは、キリストの御霊に逆らい、神の恵みから堕ちることになる。なぜなら、とその宣教師は言う。聖書の律法も日本古来の宗教的なしきたりも、実は同列であって、それらはこの世を支配する悪の霊から生まれたものなのである。したがって、現在のキリスト教国の民が所有する聖書とこれに基づく宗教は悪霊から来ていて、もしもあなたがたが、彼らキリスト教国の教師が教えるとおりに聖書を信じ、これを守ろうとするならば、使徒であるわたしの教えに背くことであり、そのような教師たちとその考えに同調するものは、神に「呪われた」人たちである。こう説いたとしたらどうであろうか?
 ところがである。その同じ宣教師が、日本からアメリカへ帰って、今度はアメリカのクリスチャンたちに向かって、聖書もモーセ律法も御霊の福音とは矛盾しない。キリストへの信仰に基づいてモーセ律法と聖書の教えを守るのであれば、それは信仰の「しるし」として認められる。だから、キリスト教社会で伝えられてきた宗教的な慣習やしきたりは、イエス・キリストの御霊の信仰に従っていることの「しるし」としてこれらを守るのであれば、それなりの意味がある。また、聖霊がすべてであるから洗礼も聖餐も必要がないという指導者たちは、その行き過ぎた教えを改めて、そういう伝統的なクリスチャンたちも受け容れて歩みなさい。こう教えるのである。ヒュブナーの説に従うなら、まさにこういうパウロ像が浮かび上がってくることになりはしないだろうか。
 これでは、聖霊体験を与えられた日本人のクリスチャンたち、つまりガラテヤの信徒たちは、いったいどうすればよいのか?  彼らの混乱ぶりは察しがつこうというものである。イエス・キリストを信じて御霊の「自由」に与ったとその宣教師は言う。しかし、日本人のクリスチャンたちには、聖書の教えをそのまま「守る自由」は認められないのだ。それどころか、自分たちが育った宗教は言うまでもなく、そこから派生する宗教的な文化に根ざす慣習、例えば食物も季節も祭りも、およそ文化の根底をなすこれらの様々な行事を「守り行なう自由」も許されないのである。その上、聖書の祭儀律法と道義律法との区別がはっきりしないから、これら日本人のクリスチャンたち、いやガラテヤの信徒たちは、いったになにを守ることが「許される」のか? これがさっぱり分からないのである。「守らなくてもいい」自由は有り難いが、「守りたい」ものも守ることが「許されない」とあっては、その「自由」ははたして真の「自由」なのだろうか?  だから彼らは、パウロ先生の下へ手紙を書き送って、いったいわたしたちには何をすることが「許されて」いて、何をすることが「許されない」のか? どうか教えてほしい。こう尋ねたくもなろう。はたしてこのような手紙がパウロの下に来たかどうかは分からないが。
 わたしは、冗談や仮定でこのように言っているのではない。現に今この日本で、旧約聖書とユダヤ人に関して、同時に日本の宗教的は慣習やしきたりについても、上に述べたガラテヤの信徒たちと同じような混乱に陥っている人たちや教師たちが存在するのである。聖霊体験をした日本人だけではない。福音主義的な教会の中にも、こういう問題をめぐって混乱が生じているのである。けれども、ガラテヤの異邦人キリスト教徒たちのこのような視点は、ヒュブナーの視野からは完全に欠落している。わたしがヒュブナーの見解を退けるのはこの理由にもよる。
 どうしてこういうことになるのか? およそ異なる宗教的な文化の中で育った人間が、それとは異なる宗教的な文化の中で生まれた信仰を受容する場合に、どのようなことが生じるのか? その異なる信仰の何を受け容れ何を拒否すべきか? この継承関係をきちんと把握していないと、こういう混乱が生じるのである。内村鑑三は、この点を正しく洞察していた。彼は、欧米のキリスト教のどこが正しくてどこが誤りであり、日本人として、そのキリスト教の何を受け容れて何を拒否すべきか? すなわちその継承思想をきちんと確立していたのである。彼は旧約のモーセ律法を否定したりはしなかった。まして、日本古来の宗教や宗教人やその思想や文化を悪霊的だなどとは思わなかった。また、イエス・キリストもユダヤ人であり、パウロもそうであり、しかもそのパウロが信仰の源と仰いだアブラハムがユダヤ人とユダヤ教の元祖であるからと言う理由で、ユダヤ人とユダヤ教とを攻撃したり批判したりはしなかった。むしろユダヤ人とユダヤ教の霊統に敬意を抱いていたのである。
律法と救済史
 ここでパウロの律法を救済史的な観点から意義付けるために、今まで述べてきたことを改めてまとめてみると次のようになろう。
 「アブラハムの祝福」(ガラテヤ3章9節)とはキリストの聖霊の賜を指している。したがって、キリストの聖霊を受ける者こそ「アブラハムの相続」(ガラテヤ3章18節)を受け継ぐ者であり、アブラハムの「正統な子孫」(ガラテヤ3章29節)である。これに対してユダヤ教的な視点から見るならば、アブラハムへの祝福とこれを保証する契約は、諸律法を遵守することで与えられる神による国土保全を意味する。したがって、ユダヤ教的に見たキリストの福音は、エルサレム神殿を中心とする律法制度に基づいて、メシア・キリストの支配が、全世界へ拡大することを目指していた。パウロは、律法遵守によって「アブラハムの祝福」に与ろうとするユダヤ教のこのような拡大的な継承思想を厳しく批判している。なぜならパウロによれば、アブラハムに授与された祝福の約束は、アブラハムの信仰ゆえに与えられたものであり、彼への約束の「後になって付加された」(ガラテヤ3章19節)割礼その他の律法によるものではないからである。しかもパウロの言う「アブラハムの信仰」とは、まだ彼が異教徒として神に召し出された時のアブラムの信仰であって、これこそが、異邦人をも義とする信仰の根拠なのである。このようにパウロは、アブラハムとその信仰、その後に来る彼の割礼、これに続くイスラエルの律法を救済史的な時間の軸に沿ってとらえている(ガラテヤ3章17節)。この視点から見るならば、異邦人に対するユダヤ人の優越性はその根拠を失う。それだけではなく、キリストの御霊が異邦人にも注がれている現在、こういう救済史的な視野に立つ時、こと律法に関しては、ユダヤ人よりも異邦人のほうにこそ優先が認められるべきなのである。
 ローマ人への手紙4章14節以下で、パウロは次のように言う。「もしも律法による者が、(世界を受け継ぐというアブラハムの)相続権を継承するのであれば、信仰はもはや無意味となり、約束は無効にされたことになるだろう。・・・確かに、律法は(罪に対する神からの)怒りをもたらす働きをするものである。しかしながら、律法がまだ存在しなかった(アブラハムの)場合には、違反もまた存在しないのである。だからこそ信仰によるのである。それは、(律法ではなく)恵みによって、約束がアブラハムのすべての子孫に保証されるためである。つまり、単に律法に頼る(ユダヤ人キリスト教徒の)者たちだけでなく、アブラハムの信仰に従う(異邦人キリスト教徒の)者たちも、確実に約束に与ることができるようになるためである」〔4章15節後半のdeを「しかしながら」と解釈する。ヴィルケンス 362〜63〕
 ヴィルケンスが、この箇所をガラテヤ人への手紙3章17〜18節と関連づけて読んでいるのは正しい。すなわち、アブラハムの時代には、まだ律法が存在していなかったから、違反も存在しなかった。同じように、異邦人キリスト教徒の場合も、律法のないところに違反は存在しないのであって、彼ら異邦人キリスト教徒たちは「律法なしに」義とされたとパウロは言うのである。異邦人キリスト教徒たちは、アブラハムと同じように、「不信心な者を義とされる方を信じる」(ローマ4章5節)ことによって「働きがなくてもその信仰が義と認められる」のである。彼ら異邦人キリスト教徒たちは、この意味で、いまだ律法の存在しない時に義とされたアブラハムの信仰にならう者となった。だからアブラハムは、「不信心な者を義とする神の恵み」に与った者たちの代表なのである。しかも「罪と律法の時代」を踏み越えて、アブラハムの信仰へと行き着くならば、ユダヤ人でも異邦人でも、だれでもが「アブラハムの子孫」となることができる。だからアブラハムは、ユダヤ人も異邦人も含めて、「わたしたちすべての民の父」となることができたのである(ローマ4章16節)。パウロは言う。「なるほどアブラハムは割礼のしるしを授かった。だがそれは、まだ<無割礼のままで授かった義>として、すなわち信仰による義として、その後から、しるしを刻印されたのである。だからアブラハムが割礼を受けたその目的は、彼が、無割礼のままで信じるすべての者の父となることだけではない。そうではなくて、これと同時に、割礼を受けた者の父となるためでもある。なぜなら、これら割礼の者たちの中にも、わたしたちの父アブラハムが、まだ無割礼の時に信じた道を歩む者たちがいるからである。」(ローマ人への手紙4章11〜12節)
 パウロが、ガラテヤの信徒たちへの割礼問題において問題にしている律法理解とはまさにこのアブラハム契約に伴う「律法」のことである。だからパウロが「律法の諸行」と言う時に、彼は、アブラハム契約とこれに付随する割礼その他の律法を遵守することを指している。パウロは、「この意味での律法」を異邦人に課することを拒否する。それはなぜか? 彼の信じるキリストが、十字架において「律法の呪い」とされることで「呪われた者」となったからである(ガラテヤ3章13節)。すなわち、キリストは、自らを律法の視点から「呪われた者」とすることによって、アブラハム契約の「外側にいる者」とご自分とを同じにおいたからである。これがパウロの言う十字架された「キリストの信仰」による「神からの義」であり、彼は「この義」をアブラハム契約による割礼を遵守することと対立させるのはこの理由による。
 彼がこのように主張するのは、律法に人一倍熱心であった彼自身が、律法の諸行によってアブラハム契約の内なる祝福に与る道から、キリストとの出会いによって、「契約の外に」おかれた「救われた罪人」となり、さらに異邦人に向かって、神の義と祝福を伝える使徒とされたからである。事この問題に関する限り、ペトロを含む他のすべてのユダヤ人キリスト教徒たちに優って、パウロのほうに理がある。なぜなら、彼はまさに「このことを」イエス・キリストからの啓示によって示されたのであり、このために使徒とされたからである。だからパウロにとっては、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との食卓での交わりの場合に、異邦人たちを(アブラハム)契約の義の領域内に引き入れることではなく、むしろユダヤ人たちのほうが、異邦人たちと一緒になり、ユダヤ人キリスト教徒も「罪人」と見なされる道を選ぶべきなのである〔ダン98〕。
 パウロが、アブラハムとその割礼を伴う契約を踏み越えて、「異邦人」アブラムへ突き進んだのもまさにこの理由による(パウロがガラテヤ人への手紙で「契約」を「遺言」と言い換えたり、「約束」と呼んでいるのは、おそらくこのためであろう。「エパンゲリア/約束」と「エウアンゲリオン/福音」との単なる語呂合わせでないのは確かである)。だからパウロがガラテヤ人への手紙で展開する「アブラハムの信仰」は、これをもう一歩さかのぼるならノアの信仰とノアに与えられた神からの契約に行き着く(創世記9章9節)。それゆえ、ここでパウロによって破棄されたのは、イスラエルの律法そのものではない。そうではなくて、イスラエルの律法に基づく「異邦人に対するイスラエルの民の優越性」なのである。なぜなら、キリストは十字架によって「もはやユダヤ人もギリシア人もない」新たな領域において、「アブラハムの子孫」を創り出されたからである(ガラテヤ3章28節)。パウロにとって、キリストの御霊とは、このような出来事を証しするものであった。
 このように、ガラテヤ人への手紙3章(15節以下)においても、ローマ人への手紙4章(9節以下)においても、パウロは、キリストの御霊に与るアブラハムの祝福を律法の働きと対立させながらも、祝福と律法との対立関係を、救済史的な時間軸に沿って解消しようとしている。アブラハムと律法との間に置かれた期間は、ガラテヤ人への手紙の「430年」からローマ人への手紙では「29年」へと短縮されているが、「後から付け加えられた」律法は、アブラハムへの神の約束を「無効にすることができない」のである。おそらくここには、終末にいたる神の経綸のもとにあっては、ある出来事が、生起したその時々において、それぞれ固有の救済史的な意義を帯びているという思想がある。
 以上でお分かりいただけたかと思うが、わたしは、ガラテヤ人への手紙においてもローマ人への手紙においても、パウロの律法観が、反イスラエル的であり、「過激な」までに反律法的であったとは見ていない。それにもかかわらず、パウロは、なぜガラテヤの信徒たちの納得を得られなかったのだろうか? その理由はおそらく、彼の「約束」と「律法」との関連づけの仕方にある。約束と律法との救済史的な時間関係は、ユダヤ人キリスト教徒たちには、ある程度通じるものがあったかもしれない。しかし、異邦人キリスト教徒たちには、イスラエルの救済史的な視点という言わば通時的(diachronic)な視野は、理解しがたいところがあったのではないだろうか。なぜなら、「キリストの御霊にある信仰」と「律法の働き」との関係は、こういう救済史的で通時的な側面からだけでは十分に把握できないからである。律法とキリストの御霊にある信仰、この両者は、救済史という時間軸に沿うだけでなく、「同時的」なものとして「存在論的」にも働くからである。言い換えると、両者は共時的(synchronic)な相互関係としても働く。
 ガラテヤを訪れていたユダヤ人キリスト教徒たちは、モーセ律法とキリストの福音とをパウロのように救済史的な視点から持ち出すことをしなかった。彼らは、この両方が、相互補完的に機能すること、すなわちパウロのように「救済史的な」視野からではなく、信徒たちの信仰生活にとって、両方ともが「同時存在論的に」働くものとして提示したのである。だから、ユダヤ人キリスト教徒が、御霊の福音と相伴って信徒たちの生活を規定する律法の働きを同時存在論的に説いたとき、ガラテヤの信徒たちはこれを素直に受け入れたのである。もしもパウロに「失策」があったとすれば、彼は「この視点」を見落としていたことである。キリストを信じる者には、律法と福音とが、「同時に」彼の内に存在論的に働くこと、このことが解き明かされなければ、律法とキリストの御霊の福音とが、どのような関係にあり、なぜ「相容れない」のか? これを信仰者に納得させることは難しい。だからパウロは、ガラテヤ人への手紙で語らなかったまさにこの問題を今度はローマ人への手紙ではっきりと「存在論的に」提起しているのである。    
戻る