第7章 継承の正統性
ガラテヤ3章1節〜14節
1ああ、悟りの鈍いガラテヤの人たちよ、だれがあなたがたをたぶらかしたのか。目の前に、十字架につけられたイエス・キリストが描き出されたではないか。
2あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法の諸行からか? それとも、信仰の聴従からか?
3あなたがたは、それほど悟りが鈍いのか? 霊によって始まったのに、今肉によって仕上がるのか。
4あれほどの体験をしたのは、無駄だったのか? もしもそれを無駄と言うのなら。
5それだから、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間でみ力を働かせた方は、律法の諸行によるのか、それとも信仰の聴従によるのか?
6それはアブラハムのように、「神を信じた。それで彼は義と認められた」からである。
7だから知ってほしい。信仰による人たち、彼らこそアブラハムの子なのである。
8聖書は、神が異邦の民を信仰によって義となさることを先見して、「すべての異邦の民はあなたにあって必ず祝福される」とアブラハムに福音を予告した。
9このように、信仰による人たちは、信仰の人アブラハムと共に祝福される。
10 だから、律法の諸行によっている者はだれでも、呪いのもとにいる。「律法の書に書かれているすべてに留意して、これらを実行しない者は、全員呪われる」とあるのだから。
11そこで、律法にあってはだれも神の御前で義とされないのは明らかである。「信仰による義人は生きる」とあるのだから。
12ところが律法は、信仰によるものではない。そうではなく「諸律法を実行する者が、それによって生きる」のである。
13キリストは、わたしたちのために呪いとなることで、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださった。だからこう書かれている。「木にかけられる者は皆呪われている」。
14れは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスにあって、異邦人に成就するためであり、約束された御霊をわたしたちが、信仰によって受けるためである。

ミルトンの教会制度廃止論
 イングランドのピューリタン革命は、王制を廃止するだけでなく、イングランド国教会制度をも廃止する結果となった。最初は主教たちを頂点とする高位聖職者制の廃止を訴える市民の請願から始まったのだが(1639年11月11日)、これがいわゆる「根絶法案」として議会の下院に提案され(1641年5月27日)、その後紆余曲折を経て、ついに結論を見ないまま内戦に突入し(1642年8月2日)、結果的に主教制は、1660年5月29日の王政復古まで廃止された。ミルトンも国教会を批判する四つの文書を著わしている(1641年)。その際にミルトンたちピューリタン側の教会制度批判の根拠となったのは、人間の理性と良心に訴えるキリストの御霊の力であった。信仰者に内住するキリストの御霊こそ、聖書と並んで教会の権威に対抗する信仰的根拠となった。言うまでもなく、イングランド国教会制度が廃止されたのは、政治的、社会的、国際的、それに軍事的な要因も重なった結果である。しかし、教会制度廃止の原理的な根拠が、聖書と聖霊の働きに求められていたのは間違いない。
 ミルトンたちのこういう聖霊観は、これを使徒言行録の聖霊観と比較してみると著しい対照をなしている。使徒言行録でルカの描く聖霊の働きは、異邦人の間に福音が伝えられる力の源泉であり、同時に、異邦人キリスト教徒の間にキリストの教会が形作られていく形成原理となっている。これに対して、ミルトンの場合は、御霊の働きは、制度化した教会を否定する原理となるのである。建設と否定という御霊のこの相反する働きは、パウロの場合には、既成のユダヤ教とその律法制度への批判となり、同時に、異邦人キリスト教徒たちを含む教会形成への勧めともなるというように、相反する二重の働きとして現われている。
 ミルトンの教会制度批判の原理をさらに注視すると、制度とその制度に含まれる内実の問題が浮かび上がってくる。イングランド国教会は、国王を頂点とするイングランド国民のためのキリスト教をそのアイデンティティとしていた。しかし、まさにこのゆえに、イングランド国教会制度の廃止それ自体は、例えば当時のカトリック教会にも望ましいことであった。現にカトリック側は、このための画策を行なっていた(例えばチャールズ1世のカトリックへの改宗問題やイングランドの軍隊にカトリックの将校を送り込むなど)。さらに言えば、イスラム教徒もユダヤ人も、また少数ながら無神論者たちも、国教会制度を廃止することに異論はないはずである。彼らが国教会の廃止を望んでいたのは、国教会という制度の内実を成しているプロテスタント的な信仰、あるいはキリスト教それ自体に否定的であったからにほかならない。
 ところがミルトンたちの場合はそうではない。ミルトンたちが国教会制度を否定したのは、イングランドの民衆が培ってきた伝統(例えばマグナ・カルタ)を十分活かしていないことからくるものであった。彼らの目からは、国教会には、未だにカトリック的な残滓が多分に温存されていると映っていた。だからミルトンが教会制度の廃止を訴えたのは、国教会制度が内包する信仰それ自体に否定的だったからではない。ましてやそのイングランド志向に反対だったからではない。そうではなく、逆に国教会が目指すその方向が、未だ「不徹底」だったからなのである。国教会の信仰をさらに「ピュアな・純粋な」ものにすることで、より徹底したイングランド国民のための信仰を確立させること、これがミルトンたちの目指したことであった。「ピューリタン」という名前は、そこから出ている。
 このことは、ある制度を批判したりその廃止を主張する場合に、外面的には同じような制度廃止論者に見えながら、実はそのよりどころとなる原理が、全く正反対の場合があることを示している。一方は、その制度に含まれる内実それ自体を否定する人たちであり、他方は、制度に含まれる内実をさらに徹底させようと求めるからである。このことは、例えば結婚・離婚制度の場合にもあてはまる。一夫一婦の結婚の有り様それ自体を否定する人たちは、当然離婚の自由を求めるであろう。彼らにとっては、結婚制度それ自体がそもそも間違いであろうから。ところが、純粋な結婚を求めて、結婚を理想化する人たちもまた、離婚の自由を求めるのである(例えば夫の不倫を絶対に許せない妻のように)。だから、ミルトンは、教会制度廃止の文書の後で、「離婚の自由」と「言論の自由」とを提唱する文書を書くことになる。
 制度とその内実を共に否定する人たちは、これを温存しようとする人たちからの非難と迫害を覚悟しなければならないだろう。しかしながら、この場合は、非難する側もされる側も、どちらのほうにも「誤解」は生じていない。敵と戦う場合のように、どちらかが勝つまで戦うという「共通の理解」の上で戦いが行なわれているからである。ところが、制度の内実を純化しようとして制度批判あるいは制度廃止を訴える人たちは、多くの場合、理解ではなく「誤解」にさらされる。ミルトンが教会制度批判を行なった際には、すでにその機が熟していたから、かえって彼の名前を高めることになった。しかし、離婚の自由を訴える文書を出したときにはそうでなかった。彼は「誤解」による厳しい非難の渦に巻き込まれることになった。考えてみれば、これは当然の成り行きであろう。ミルトンに対するこの誤解は、現代でもまだ尾を引いている。
 わたしたちは、このミルトンの場合をパウロの場合に置き換えてみることができる。いったい彼が、ユダヤ教とその律法制度に反対したのはなぜなのか? もしも彼が、ユダヤ教とこれのアイデンティティを支える律法を否定して、これの廃止を訴えたのであれば、当然のことながら、ユダヤ主義者たちからの厳しい非難にさらされる。しかしこの場合には、両者の間に戦いは存在しても誤解は存在しない。しかし、もしもパウロが、ユダヤ教の内実である律法制度をより「純化」しようとしたのであれば、どうであろうか? パウロは、律法は「霊的なもの」であると言う(ローマ7章14節)。この言葉は、彼が律法を否定するのではなく、逆に純化しようとしていたことを示唆するものであろう。おそらく彼の周囲には、律法の厳守を唱える人たちから、これの緩やかな遵法を目指す人たち、さらには、律法それ自体を否定する「マルキオンの先駆け」たちもいないわけではなかったであろう。こういう状況の中では、律法を「霊的なもの」として、ユダヤ教とその律法制度を「純化」するために律法制度の否定を唱えるパウロの真意が誤解されるのは避けられない。
 だからわたしたちは、パウロがその論敵と争う場合に、相互に理解が成り立っている場合と、それが論敵の側からの誤解に基づいている場合とでは、論争の意味が全く異なることに気がつかなければならない。わたしたちがガラテヤ人への手紙を読む場合に出合う問題のひとつが、まさにこれである。このことは、特にパウロの聖書からの引用を解釈する場合に問題となる。なぜなら、その引用は、しばしば論敵の側からの引用をパウロが逆に引用して、相手に反論しているからである。いずれにせよ、制度の否定と形成についての御霊の一見相矛盾する働き、制度に含まれる内実それ自体を否定することと制度の純化を目指すこと、このふたつの方向は、これに伴う「理解」と「誤解」を含めて、パウロによるユダヤ教の律法批判を考える場合にも見落としてはならない。
並列法について
 3章7節から14節までには、パウロの論敵とパウロとの間に、「祝福と呪い」のテーマが横たわっている。だから、3章10節にある申命記27章からの引用が、祝福の山ゲリジムと呪いの山エバルとの間で行なわれた宣言から採られているのは偶然ではない。パウロは、3章8節でアブラハムの信仰に与って「義とされる」ことを9節で「信仰の人アブラハムと共に祝福される」ことと同一視している。この「祝福される」が、続く10節での「呪われる」と対照されているのは明らかであろう。ただし、ここで注意しなければならないのは、アブラハムの祝福に与るのは、ガラテヤの信徒たちが、「信仰による」からであって、彼らが「異邦人」だからではない。3章8節から判断すれば、異邦人キリスト教徒が祝福されるのは、アブラハムの祝福が異邦人にも及ぶからである。ここでは、アブラハムの「信仰による」祝福とアブラハムの祝福が「異邦人に及ぶ」こととが重なり合っている。後で述べるように、パウロはここで、異邦人アブラムが、その「信仰によって」、イスラエルの父祖アブラハムへと転じたことを念頭においている。ところが9節になると、祝福の根拠が、異邦人であることよりも、むしろ信仰によることへと重点が移行していて、この移行によって「信仰による」ことが、ユダヤ人と異邦人とを同じ平面に立たせることになる〔佐竹276〕。
 続く3章9節と10節との間に「軽い切れ目」を入れて読む注解者たちがいる。10節でやや唐突に「呪い」のテーマが導入されてくるのがその理由らしい。しかし私に言わせるなら、この「呪い」は、唐突どころか、先のアブラハムへの祝福と密接につながっている。だが、10節後半の引用は難解である。3章6節〜14節は、「苦心惨憺の釈義の迷路」であり、同時に「キリスト教の福音の核心となるテーマを扱っている」〔Longenecker 124〕と言われるところである。
 ここでパウロのスタイルと思考の有り様について、少し脱線することをお許しいただきたい。パウロは、神の霊を受けたものとして、「御霊の導きにあって、霊的なことを霊的な仕方で解釈しなければならない」(第一コリント2章13節)と述べている。これを「霊的なことを霊的な人たちに解説する」と読むこともできるが、同時に、ここで「解釈する」とあるのは、「比較する」こと、すなわち「並べて読み取る」ことをも意味しているのに注意してほしい。詩編や箴言を持ち出すまでもなく、わたしたちは、ヘブライの思考様式が、二つあるいはそれ以上の行を並列させることで成り立っているのを知っている。しかもその並列は、内容の言い換えあり、肯定と否定の並列あり、対立関係あり、対立関係に続く総合あり、因果関係でつながる場合ありで、わたしたちは、これらの複雑な行間から「霊的な真理」を読み取るようし向けられる。試されるのは読む者の「知恵」と「霊性」である。こういうヘブライの思考様式とスタイルは、ウガリット様式から出ているという説もあるが、ここではそのことに触れない。
 このようなヘブライの思考様式とスタイルが、新約聖書にいかに深く浸透しているかは、マタイ福音書の山上の祝福やヨハネ福音書のスタイルを見れば分かる。パウロよりも遅れて成立した福音書でさえもそうであるのなら、パウロの思考とその叙述のスタイルに、旧約の並列法が深く入り込んでいるのを見落としてはならないだろう。このように「霊的なことを並べて霊的に読み取る」スタイルは、ギリシアやローマの思考様式とそのスタイルとは大きく異なっている。クーゲルによれば、キケロのようなスタイルを規範として育ったヒエロニムスは、聖書を翻訳するに際して、ヘブライの思考様式とその並列法に手を焼いたらしい〔Kugel 149ff〕。こういうヘブライの並列的な思考とスタイルを、寓意法(アレゴリー)を用いて、ラテンの思考様式に移し替えたのがアウグスティヌスである。なお、彼の旧約聖書の寓意的な解釈法は、フィロンから出ていると思われる。
 しかしながら、アウグスティヌスの寓意的な解釈法は、ヘブライの思考様式の本質に潜む霊的な陰影を画一化する弊害をもたらす結果となった。旧約の並列法の持つ音韻とこれが織りなす意味の複雑な陰影は、平面化されて、そのスタイルは、表面的な「繰り返し」(repetitio)と見なされるようになったのである〔Kugel 163〕。並列法のこのような画一化は、教会による聖書解釈の「教義化」とも密接に関係している。こうして旧約聖書は、見事にラテンの教会の思考様式とその教義に適合されていった。宗教改革の時代には、ヘブライ語ほんらいのテキスト解釈へ戻ろうとする動きもあったらしく、ミルトンもヘブライ語の詩編を英語に移し替える努力をしている。しかし、これもヘブライ語ほんらいの並列法に帰ると言うよりは、英語のリズムと思考に詩編のテキストを適合させようとする意識のほうが強かったようである。
 西欧的思考の教義と論理によって画一化された聖書解釈の伝統は、以後の西欧世界の聖書解釈を通じて、現代でも根強く残っている。ところがパウロの論述は、彼独自の並列による「霊の論理」によっている。そこには、文と文との間に「飛躍」があり、場合によっては「矛盾・対立」があり、しかもその陳述の前後には、因果関係だけでなく、寓意や類比が並ぶ。だから彼の論述は、こう言ってよければ、詩編や箴言の並列的な論理展開につながる。私はこの書簡がヘレニズムの書簡スタイルに準じているという最近の見方に反対するのではない。ミルトンの場合でも、長編の叙事詩と「短い」叙事詩、それに古典ギリシアの演劇とヨーロッパ中世の仮面劇、これらの様式が、彼のそれぞれ作品の規範となっていて、ミルトンは様式の重要性を十分心得ている。ところが、そのような規範の中でさえも、彼は、内容はもとより、その形式においても、独自のイギリス的な様式を追求しているのである。
祝福と呪い
   3章10節へ戻ることにしよう。先に指摘したように、ここは難解で知られたところである。

 これは祝福と呪いの狭間にある民に向けて、「律法を守らない者は呪われる」という意味で語られた言葉である。ところがパウロは、この10節で、「律法の諸行による者は全員呪われる」ことの根拠としてこの引用をあげているのである。それはパウロが、律法をだれも守ることが「できない」ことを論証するために、この箇所を引用しているからだということになる。ただし、引用はほんらい律法を「守ること」を教える主旨であるから、注解者たちによれば、ここでのパウロの引用は、はなはだ「不適切」だということになる。
 律法を「守ることができないから呪われる」ことを立証するために、数ある旧約の言葉の中から、わざわざ律法を「守らなければ呪われる」と明言している箇所を引用するのは、確かにおかしい。ガラテヤを訪れていた論敵のユダヤ人キリスト教徒たちが、聖書からのまさにこの引用によって割礼を勧めていたとすれば、これでは、パウロの論敵への反論にならないどころか、うっかりすると、「それみたことか。パウロ自身でさえ、こう言っているではないか」と逆に相手に利用されかねない。パウロの引用の仕方が、旧約の原典から乖離しているだけでなく、ガラテヤの信徒たちや論敵のユダヤ人キリスト教徒たちへの反論の仕方としても、不適切ではないかと言われるのはこの理由からである。
 だがはたして、この引用はそんなに不適切なのか? それともわたしたちは、ここで、教義的な関心に惹かれるあまり、パウロの引用の大事な点を見落としているのではないか? この辺を考えてみなければならないだろう。まずこの引用が、否定文であること、そしてこれが、アブラハムへの祝福に続いて引用されていることに注意してみよう。ヘブライの並列では、否定で始まるより、肯定に続いて否定が来ることで、表裏一体となって意味を形成することが多い。だからこの場合、「すべての律法を常に実行しない者は呪われる」と並列する肯定の形としては、「すべての律法を常に実行する者は祝福される」が想定できよう。まさしくこれこそが、申命記27章で、ゲリジムの山の祝福に与る者たちへの宣言であった。だからパウロも、おそらくこの対句を意識していたのであろう。ところがパウロは、意識的に、「律法を守る者は祝福される」という肯定を「アブラハムの信仰による者は祝福される」によって置き換えたのである。「律法を守ること」を「アブラハムの信仰によること」によって置き換えた意義は非常に大きい。これがパウロの言う「祝福」の大事な起点となる。
 「律法を守る者は祝福される」というこの引用が、ガラテヤの信徒たちに割礼を課すことを目的に、パウロの論敵であるユダヤ人キリスト教徒たちによって引用されていたことを念頭に置いてみよう。これに対してパウロはここで、ガラテヤの信徒たちに、割礼を「受ける」必要がないことを言おうとしている。このために彼は、周知の通り、割礼を受ける者は、この引用の「すべての律法を」実行しなければならないことを強調している。だが、この論法は、パウロを批判するユダヤ人キリスト教徒に対してはどうであろうか? パウロは彼らに、割礼を「授ける」必要がないとは言っていない。そのような言説は、「パウロは律法を無視している」、あるいは律法を「行なわなくてもいい」と主張しているという彼らの非難に言質を与えることを熟知しているからである。むしろパウロは、彼らの弱点を鋭く突く。すなわち、彼らが律法をあえて守ろうとするその意図の誤りを指摘しようとする。彼らは言う。「すべての律法を常に守らない者は呪われる」と。パウロは、彼らユダヤ人キリスト教徒たちに言う。「その通りだ。<すべての>律法を<たゆみなく実行しない>者は呪われる!」のだと。これはただの「繰り返し」ではない。パウロは強調点をずらすことで、相手の弱点を突いているのである。ここには、同じテキストが、アブラハム契約に基づく祝福ともなり、律法の呪いともなるという「祝福と呪い」の分岐点がある。パウロは、律法の求める完全性こそ、彼らへの罠となり、祝福が呪いに転じる分岐点になることを指摘する。おそらく律法における祝福と呪いのこの分岐点は、捕囚以後のユダヤ人たちの最も敏感な反応を誘う「痛いところ」ではなかっただろうか。
 パウロは「すべての律法」を強調することで、ガラテヤの信徒たちに、割礼を守ることの危険性を教える。おそらくパウロは、異邦人キリスト教徒の教会形成にとって、洗礼が十分その役割を果たしていて、割礼を導入することは、異邦人キリスト教徒の教会形成の妨げにはなっても、益にはならないことを見抜いていたのであろう。ところが、ユダヤ人キリスト教徒に向いて、パウロは「たゆみなく実行する」ことを強調することで、その偽善性を鋭く指摘するのである。「すべての律法をたゆみなく実行しない者は全員呪われよ!」と。これは、ガラテヤのユダヤ主義的なキリスト教徒に対する痛烈な皮肉である。
 パウロは、40に一つ足りない鞭打ちの刑を5回受けている(第二コリント11章24節)。おそらくその鞭打ちの傍らでは、当時の慣例によって、「律法のすべてを守らない者は呪われる」というこの箇所が繰り返し唱えられていたに違いない。これは、彼が律法を「守らない者」あるいは律法の「実行に反対する者」だと見なされたゆえに受けた刑罰である。もしも彼自身の真意が、「律法を実行する者は呪われる」ということであったとすれば、唱える側と鞭打たれる側との間には、対立は存在しても誤解は存在しない。パウロは鞭打ちを「納得して」受けていたことになる。だが、おそらくパウロの真意はそうではなかったであろう。彼も、イエスの場合と同様に、相手が「何をしているのか分からない」状況の中で鞭打たれ続けていたに違いない。だから彼は、鞭打ちに「甘んじて」はいたが「納得は」していない。逆に心の底でこう叫び続けていたのではないだろうか。「わたしもヘブライ人だ」(第二コリント11章22節)と。
 このように見るならば、3章10節の聖書の引用において、パウロは、「律法のすべてを守らない者は呪われる」というガラテヤのユダヤ人キリスト教徒たちからの引用に対抗するために、逆にその引用を利用して、これの繰り返しとその強調点をずらす手法によって、相手に逆襲しているのが見えてくる。並列法を逆手に取ったこういう手法は、異邦人キリスト教徒たちには理解できなかったのであろう。だから引用に続いて、「律法によってはだれも義とされないのは明らかである」と説明を加えているのであろう。だが、ユダヤ人キリスト教徒には、このしっぺい返しで十分に通じたと思われる。こうしてパウロは、割礼を受けていない人には、律法の「すべて」を守る必要が生じるとして、割礼の有害無益を説き、割礼を受けている人には、律法の実行を迫ることで彼らの偽善性を突きその誇りを砕くのである。見事なテキスト戦略と言うほかはない。
律法の「実行」について

 3章11〜12節もまた難解である。この部分も、いわゆる論理ではどうにもならない矛盾を抱えているからである。パウロは11節で、律法によるのではなく「信仰による義人は生きる」(ハバクク2章4節)を引用する。ところがこれと並列させて、すぐその後で「諸律法を実行する者が、これによって生きる」(レビ記18章5節)を引用するのである。この部分の問題の鍵は「諸律法を<実行する>」にかかっている。この点を見抜いたのがルターである。ルターは、この引用の重みが「実行する」の一語にかかっていることを鋭く洞察した。この問題は、いろいろ論じられているけれども、キッテルの神学辞典の「ノモス」の項目の記者も、この点についてはルターの説を追認しているようである〔Theological Dictionary of NT.IV 1072〕。私もこれに賛同する。ここは大事なところなので、ルターが3章10節に付した長文の注解から、やや長くなるが、煩を厭わず以下に抜き出して訳出したいと思う。

 「これは驚嘆すべき証明法である。なぜならパウロは、『律法の諸行にある者はだれでも呪いのもとにある』というこの肯定を、モーセからの次の引用、『すべての律法を守り抜かない者はだれでも呪われる』という否定によって証明する。さてパウロとモーセのこれら二つの文は全く反対のように見える。パウロは言う。『律法の諸行を行なう者はだれでも呪われる。』モーセは言う。『律法の諸行を行なわない者はだれでも呪われる。』いったいこの二つの文はどのように調和するのであろうか? と言うよりも(さらに言えば)、どのようにして一方が他方を証明するのであろうか? どうかお答えいただきたい。もしもわたしが、『もしあなたが神の戒めを守るならば、あなたは命に入る』という文を証明しようとするのなら、このやり方は、何という証明の仕方であろう? 反対のことを言う文によって反対のことを証明することにならないだろうか? まことにお見事な証明の仕方ではある。ところがパウロの証明法はこれと類似しているのだ。ここは、義認の事項を知り把握していなければ、だれにも理解できない。ヒエロニムスは、さんざん苦労したあげく、説明できないままに終わっている。

(中略)
 しかもこれら二つの文は、相容れないのではなく、うまく一致しているのである。わたしたちもまた同じようにこう教える。『律法を聞く者が神の御前に正しいのではない。律法を行なう者が義とされる』と(ローマ2章13節)。しかも反対に『律法の諸行による者は呪いのもとにいる』と教えるのだ。・・・だがそれにもかかわらず、律法の求める義認がわたしたちに成就しなければならない(ローマ8章4節)。信仰の教義に無知な人には、これら二つの文は正反対に思えるだろうし、まるで次のようにばかばかしく聞こえるだろう。『もしもあなたが律法を成就したのなら、律法を成就したことにならない。しかし律法を成就しなかったのなら、成就したことになる。』〔注〕ルターの真意からすれば次にように訳すべきであろうが、これでは『ばかばかしく』は聞こえない。『<たとえ>
あなたが律法を成就したとしても、成就したことにならない。だが律法を成就していなくても、成就したことになる。』・・・・・

 それゆえに、この問題の意義全体は、『実行する』という一言にかかっている。ここで律法を実行するというのは、ただ上辺だけで行なうことではなく、真実に完全に実行することである。だから、律法を行なう者にはふた種類ある。第一は律法の諸行による人たちで、パウロはこの書簡全体を通じて彼らを激しく非難する。もう一方は、信仰による人たちで、これについては後で述べよう。さて、律法によること、あるいは律法の諸行によることと信仰によることとは、正反対である。然り。神と悪魔、罪と義、死と命ほどに反対なのである。・・・・・パウロはここで、律法とその実行の本質について語っているのではない。そうではなく、律法とその実行とを成り立たせているそれらの適用と考え方について、偽善者たちは律法と業によって義とされることを求めていると言っているのである。・・・・・このことを熟考する人は容易に理解するだろう。すなわち律法を実行するとは、(偽善者たちが思いこむように)ただ上辺だけ律法の命じることを行なうことではなく、霊において、すなわち、真実に完全に行なうことであると。だが、そのように律法を完成する人がどこにいるだろうか?
 それゆえ、彼らの思いこむような仕方では律法を実行することは不可能であり、ましてこれによって義とされることは不可能である。律法が証しする第一のことは、これとは全く反対である。なぜなら律法は、罪を増幅させる。怒りを引き起こす。非を訴える。おびえさせ、断罪する。これではどのようにして義とするのか?
(中略)
 それゆえに、『実行する』とは、まずなによりも信じることであり、信仰によって律法を実践することである。わたしたちはまず聖霊を受けなければならない。それによってわたしたちは軽くされ、新たな被造物とされ、律法を実行し始める。すなわち、神とわたしたちの隣人を愛することである。しかし聖霊は律法を通じては受けられない(と言うのは律法のもとにいる者は、パウロの言うとおり、呪いのもとにいるから)。そうではなく、信仰の聴従、すなわち、約束によるのである。・・・・・これこそが、律法を本当に実行することである。さもなければ、律法は常に置き去りのままである。それゆえに、もしあなたが、律法を実行するとはどういうことかを真実に明確に定義したいと思うのなら、イエス・キリストを信じるよりほかにない。そしてキリストへの信仰を通じて聖霊を受けたなら、律法の命じていることを実行することである。わたしたちは、これ以外に、律法を実践することはできない。・・・・・それゆえ、アブラハムに約束されたキリストを伝えて、アブラハムを通じて世界が祝福されるという約束なしでは、律法を完成させることは不可能である。・・・・・それゆえ、『律法を実行する者』というこの言葉は、造られた用語であり、律法なしに律法を超えて、アブラハムの祝福と信仰にあるのでなければだれにも理解できない。こういう訳で、律法の真の実行者とは、キリストへの信仰を通じて聖霊を受け、神を愛し、隣人を愛し始める人のことである」〔Luther 244ff〕。
 信仰と律法の間に潜む謎

 このように3章12節でパウロは、「律法は信仰によるものではない」と述べてから、これに続いて「諸律法を実行する者はこれによって生きる」とある聖書を引用する。いったいこの並列の論理関係はどうなっているのだろうか? しかも、聖書からの引用は、パウロが立論の最も大事な根拠としている聖書それ自体からの引用なのである。ある注解は、聖書からの引用よりも本人の陳述のほうがより重要であるから、この場合は、前者の「律法は信仰によるものではない」ことの説明として、「律法を実行する者はこれによって生きる」を前者に「従属させて」解釈しなければならないと言う。とすればここで、「律法を実行する者はこれによって生きる」とあるのを「これによっては生きられない」と読むことを意味する。さらに別の注釈者は言う。ガラテヤのユダヤ主義者たちは、信仰と律法とが二者択一的な対立関係にあることを理解していなかった。ところがパウロはここで、信仰と律法とが二者択一の対立関係にあることを主張している。それゆえに、引用されているレビ記18章5節は、元来祝福の言葉であるけれども、12節に先立つ10節、および11節での発言から見て、この祝福の言葉には、呪いの言葉としての性格が付与されているのは疑いえないと。この説に従うなら、パウロはここで、「律法を実行する者はこれによって生きる」とある聖書の言葉を「律法を実行する者はこれによって呪われる」と読んでいることになる。これは驚くべき結論である。念のために言っておくが、私は今教会の教義それ自体の是非を問題にしているのではない。
 もしも現在の聖霊運動の集会において、説教者が聖書を引用して、聖書にこう書いてあるけれども、これは誤りであるとして、引用と正反対の自分の考えを主張したら、その説教者は、ブーイングを浴びて、講壇から引きずりおろされるのは間違いない。パウロはこの箇所で、「わざわざ」こういうおかしなことをしているだろうか? ガラテヤの信徒たちを前にして、怜悧な論敵を相手に反論しているパウロが、このように愚劣な仕方で聖書を引用するだろうか? どうしてこういうおかしなことになるのか。パウロの論述を「教義的な論理の展開」としてしか理解しない、あるいはしようとしないからである。

信仰による義人は生きる。
律法は、信仰によるものではない。
律法を実行する者が、それによって生きる。

 いったいこの並列は、どのように理解すればいいのだろうか? はじめの二行は対立し合っているように見える。しかし、「義人」と「律法」とは必ずしも対立概念ではない。この両方を「信仰」が結んでいて、しかも「信仰による」と「信仰によらない」とあって、肯定と否定とが対比している。一行目と三行目では、「信仰による義人」と「律法を実行する人」とが対比されて、どちらも「生きる」で肯定的に結ばれている。こうして、一行目と三行目の肯定が、二行目の否定を囲む形になっている。肯定と否定とを組み合わせて、物事の表裏を表わすヘブライの並列法の定型から見れば、一行目の「信仰による義人」には祝福が、二行目の「信仰によらない律法」には呪いが、それぞれ結びつく。ところが三行目では、「律法を実行する人」が「信仰による義人」と並んで「生きる」祝福に与るのである。とりようによっては、一行目と二行目の対比・対立を三行目が止揚しているように思われる。「律法」と「信仰」との間に潜むこの謎は深い。筆者によれば、ローマ人への手紙7章後半から8章前半において初めて、これの解決を見出すことができる。
 ここガラテヤ人への手紙3章での並列は、ヘブライの様式で用いられるひとつの「謎・神秘」(ヒーダー)として(例えばサムソンのかけた謎)、わたしたちに問いかけているのかもしれない。ここでは、わたしたちがパウロの引用の是非を問う立場にいるのではない。逆にパウロの引用が、わたしたちの「霊性」に問いかけているのである。試されているのはパウロの引用の仕方ではない。わたしたちの霊性が試されている。サムソンの謎の答えは「ライオンの死骸」であった。ここでの謎の答えは、おそらく、ここの結びの14節に現われる「約束された御霊」であろう。ガラテヤの信徒たちにはたしてこの謎が通じたであろうか? だが、論敵のユダヤ人キリスト教徒たちには通じたはずである。もしも彼らが「御霊の人」であったならば。

約束された御霊
 御霊にあって始めたものを肉で仕上げてはならないと3章3節にあるように、パウロは、1節から14節までを御霊で初めて御霊で終わっている。パウロはこのセクションで、アブラハムの信仰と律法の諸行、アブラハムの祝福と律法の呪い、キリストの受けた呪いとキリストの十字架による贖いの御霊、これらの対句を軸に彼の神学を紡ぎ出している。この際に、アブラハムへの祝福とは、彼に前もって約束された祝福(8節)であって、パウロはこの「約束」が、「約束された御霊」(3章14節)として、キリストにあって成就していると考えている。だから、アブラハムに約束された祝福とは、キリストの御霊を指している。これに対して、「律法の呪い」は、全世界を支配していて、今の時代を「悪の時代」(1章4節)とならしめている力である。ただし、「律法の呪い」それ自体は、必ずしも「神の呪い」と同じではないであろう。だが「律法の呪い」は「神の怒り」となって全世界の人類に啓示されているとパウロは考えている(ローマ1章18節)。この呪いから人類を贖いだしてくださったのが、「律法の呪い」とされた十字架のキリストである。このキリストがもたらしたもの、それがキリストの御霊にほかならない。だからパウロに言わせるなら、キリストの御霊こそが、イスラエルが待ち望んでいたアブラハムに約束された祝福の成就なのである。
 わたしたちは、このように見ることによって初めて、パウロが「約束された御霊」と言うときに何を意味しているのかを洞察することができる。それは、アブラハムに約束された祝福のことであり、全世界を覆う律法の呪いと神の怒りから人類を贖い出すキリストの救いのことである。「神は、アブラハムとその子孫に世界を受け継ぐことを約束された。」(ローマ4章13節)このことが今や、キリストの御霊にあって成就したのである。パウロは、キリストの御霊を「この視点に」立って見ており、「この出来事」をわたしたちに伝えようとしている。
わたしたちは、ここで初めて、「世界を受け継ぐこと」、すなわち「アブラハムの嗣業」の「正統な継承者」とは誰か? という問題に出合うことになる。全世界を受け継ぐことが神からアブラハムに約束された祝福であり、このことがキリストの御霊にあって成就したのであれば、この御霊こそ、イスラエルの民をはじめとして、全人類が受け継ぐべき祝福であり、同時にこれこそが、アブラハムの嗣業を受け継ぐ「正統な」道なのである。なぜなら、神から「約束された」嗣業を受け継ぐ者こそ、「正統な継承者」と見なされなければならないからである。
 わたしたちはここで、キリストの御霊が現実に彼らの間で働いていること、この事実が、先のパウロの使徒職についても、今またガラテヤの信徒たちの信仰の是非についても、決定的に重要な意味を持っていることに注意しなければならない。ただし、「約束の御霊」は、異邦人キリスト教徒だけでなくユダヤ人キリスト教徒にも、むしろ異邦人キリスト教徒に先だって授与されていることを忘れてはならないだろう。パウロは御霊の授与をアブラハムへの祝福と結びつけている。このことは「アブラハムへの約束」が、まずイスラエルの民への「約束の御霊」であるとパウロは解釈していたのかもしれない。
アブラハムの嗣業
 アブラハムは、「主のみ名を呼ぶ」ことから彼の礼拝を始めた(創世記12章8節)。パウロが回帰しようとしたアブラハムとは、アブラハムのこのような霊的な信仰の質であった。ところが後に、アブラハム契約が与えられることで、割礼がこの契約の大事なしるしとなった(創世記17章4〜14節)。割礼を伴うアブラハム契約も、モーセによるシナイ契約に伴う安息日遵守と同様に(出エジプト20章8〜11節)、イスラエルの民にカナンの土地を相続させる土地取得の契約と深く関わっている。土地取得を嗣業とするアブラハムと主のみ名を呼ぶアブラハム、ユダヤ主義者たちのアブラハム観とパウロのアブラハム観とは、この点で大きく異なっていたと言える。
 このように、ほんらい割礼を含むアブラハム契約の本質は、カナンの土地取得と国土相続への契約であり、イスラエルの民への祝福とはまさに国土の相続権を保証する祝福にほかならなかった。やがてメシアが到来する時、彼は「地の果てまでも」支配するであろうと繰り返し預言されている(詩編2篇8節/59篇14節/65篇9節/72篇8節/イザヤ5章26節/41章9節/シラ書44章21節)。ここで言う「地の果て」は、イスラエルのエルサレム神殿を中心とした視野に立っている。だから、ユダヤ主義的なキリスト教徒たちが目指したのは、エルサレムの国土を中心とした世界的なキリストの教会であったと考えられる。こういう視野に立ってガラテヤを訪れていたユダヤ人キリスト教徒たちは、必ずしも律法の全部を異邦人キリスト教徒に課そうとしたわけではない。おそらく割礼を中心として、食物規定など限られた律法を割礼の条件として課そうとしたのであろう。こういう意図を持って、ユダヤ人キリスト教徒たちは、ガラテヤの信徒たちに、ユダヤ教の律法とキリストの御霊とが、「同時存在的に」表裏を成していて、両者は相互補完的な関係にあると説いたと思われる。
 ユダヤ主義者たちは、律法を誠実に遵守するなら、これによって神のみ前に生きることができると説く。すなわち彼らは、律法遵守をもって、人が神の前に義とされる不可欠な道であると考える。しかもその律法遵守は、ユダヤ教のエルサレム神殿とこれを中心とした宗教制度によって支えられている。このような宗教制度とその権威に組み込まれることによって初めて、アブラハムの正統な子孫となり、その祝福に与ることができるというのが、彼らの言い分なのである。この考え方は、キリストの福音が伝えられる以前から、ユダヤ教が異邦人に向けて行なっていた異邦人改宗者に対する理念であった。彼らは、同じ論法によって、イエスをメシア・キリストとして受け入れたガラテヤの信徒たちにも説得を試みていたのであろう。
 ところがパウロは、割礼を受けることは、「律法のすべてを」守らなければならなくなることであると、ガラテヤの信徒たちに警告したのである。これは彼が、洗礼と聖餐がすでに行なわれている異邦人キリスト教徒の教会において、ユダヤ教の律法を導入することが、キリストの御霊にある教会形成にとって有害無益であると判断したからにほかならない。だから、律法遵守をよりどころにして神の義とアブラハムに約束された祝福に与ろうとするのは、逆に彼らを祝福の道から遠ざける結果を招く。神からの祝福に与るための律法主義が、まさにその努力によって、神からの祝福から閉め出される結果に陥るという矛盾が、ここでパウロによって露呈される。パウロの非難は、このように、人間の側からの律法遵守を根拠としてアブラハムの祝福に与ろうとする「律法主義」とこれを支える宗教制度全体に向けられている。これが、ここで言う「律法の呪い」である。だからこの「呪い」とは、「まさしく人間の側から考えうる最高かつ最も懸命な宗教心としての律法的宗教心が、およそある限りのナンセンスな自己矛盾中の最も恐るべき自己矛盾に帰着するところに極まるのである。これが人類の、別してその宗教心の呪いである」〔バイヤー 66〕ということになろうか。
 大事なことは、3章5節の「神のみ力」が現実に「働く」のは、人間の意図や計らいや努力から生じる「霊力」ではなく、宇宙的な規模での神の創造のみ業に基礎づけられていることであろう。この意味で、ここでの「み力」を超自然の意味をこめて「奇跡」〔新共同訳〕と訳すのは正しい。ただし、「超」自然とは「反」自然あるいは「不」自然とは全く異なるから注意しなければならないだろうが。それゆえに、パウロが言う「義認」は、「律法の諸行」からではなく、「信仰の聴従」によって、すなわち、神の御霊の働きに全託してこれに委ねきることによってしか生起し得ない事態なのである。
 後で述べるように、パウロは、律法と御霊との関係を「同時存在的」にではなく、時間の軸に沿った「経綸的」な前後関係としてとらえている。しかしながら、ガラテヤの信徒たちにとっては、パウロの語るこの救済史的な視点からの律法と御霊との関係は、理解しづらい面があったのではないだろうか? パウロは4章25〜26節で、「今のエルサレム」と「天のエルサレム」とを対比させているが、彼が地上のエルサレムに対して天のエルサレムを志向したのは、律法とキリストの御霊との関係把握において、ユダヤ人キリスト教徒たちとは異なっていたからなのである。
アブラハム
 ユダヤの地の東方、死海の東に広がるナバテアの地は、アブラハムの民の出として、フェニキアやカナンやエジプトとは異なる民であり、会堂ではアブラハムが敬われていた。この地方には、ユダヤ人、アラブ人、異邦人が混在していた。ここに住むアラブ人たちは、イシマエルの子孫として13歳で割礼を受けたが、アラブでは、割礼は宗教的な意味をすでに失っていたから、異邦人でもこれを受ける者がいたようである。パウロは、復活のイエスに出会った直後に、この地へ赴いて、イエス・キリストを伝えているから、いわば、パウロの最初の伝道の地である。ナバテアはこの意味で、ヘレニズム的なアンティオキアよりもパウロを理解する上で重要であると言えよう。この地で彼は、アブラハム伝承、割礼、律法について深く洞察できたからである。ダマスコでは、会堂の言語はギリシア語であり、聖書はヘブライ語で、折々アラム語が語られた。しかしナバテアでは、言語は主としてアラム語であり、パウロはアラム語で語った。彼は、アラム語、ギリシア語、ヘブライ語、ラテン語を駆使したが、アジアからインドにかけてはアラム語が主であった〔Martin Hengel and Anna Maria Schwemer,106ff〕。
 おそらくパウロは、ヘンゲルの指摘するように、アブラハムの問題を彼がナバテアで伝道していた頃に考えたのであろう。ナバテアは、イシマエルの子孫の地で、アブラハム信仰の伝統が強かった。なぜパウロは、アブラハムの信仰を、その「功績」としてではなく「恵み」として見ることができたのだろうか。それは、アブラハムを「異教から改宗したアブラム」として見ることができたからである。アブラムがアブラハムとなりえたのは、神の恵みであり、「不信心な者を義とする」神の恩寵にほかならない。このようなアブラハム観に彼は到達したのであろう。パウロにしてみれば、それはちょうど、ファリサイ派サウロが、キリストに出会うことによってパウロとなりえた事態と重なる出来事ではなかったであろうか。
 アブラハムへさかのぼるとは、イスラエルの歴史と人類の原初の歴史との接点へとさかのぼることにほかならない。アブラハムの先にはバベルの塔に対する裁きがあり、さらにその先には、洪水による裁きと世界の再創造がある。ノアの時代の洪水は、楽園の創造が、人間の堕罪とこれに続く人間の暴虐によって、神の創造の秩序が破壊されたことに対して、人間の罪に向けられた神からの裁きであった。だが神は、洪水の後で、ノアと契約を結んだ(創世記8章21節)。ノアの受けた原福音は、「人の血を流さない」ことを条件に、再び人類を滅ぼすことを控えるという神の赦しの宣告であった。しかし、「血を流す」ことを禁じた神の掟を破った人類は、バベルの塔を建てることで、再び神のようになろうと意図したのである。こうして、全人類は分裂して散り散りになり、もはや人類が、神との契約によっては、神の創造の業を成就することが不可能であるのを神は知った。神が、全人類への契約から、一人の人を選び分かつ契約へと切り替えた根拠は、神の創造行為に向けられる人間の罪と破壊行為にある。神はアブラハムを選び彼と契約を結んだが、その後に、モーセを通じてイスラエルの民に律法を与えた。ところが今、その律法が人間の罪によって無効にされることによって、イエス・キリストの信仰とこれによる新たな救いのみ業が始まったのである。それは新しい人間の創造にほかならない。
アブラムとアブラハム
 ペトロや義人ヤコブや他の使徒たち、またバルナバなどは、「イエス・キリストの信仰」、これと割礼を含むユダヤ教の比較的ゆるやかな遵法思想、これらの両立の中で生活していた。問題は、ユダヤ教とキリストの信仰とのそのような両立が、新たにキリストを信じるようになった「異邦人キリスト教徒の信仰のあり方」と相互にどのように関わり合うのか? ということであった。だから、問題は、割礼遵守それ自体とキリストの信仰との間で、そのどちらを選ぶのか? という問題ではない。そうではなく、従来のユダヤ教的な遵法生活と異邦人キリスト教徒との相互の具体的な信仰生活の場における「交わりの問題」として、割礼を含むユダヤ教の律法の適用範囲が問われてきたのである。ユダヤ教では、この問題は、「改宗した異邦人ユダヤ教徒」の問題として取り扱われてきた。そこには、割礼を含む祭儀律法を必ずしも課せられないままに、いわゆる「信心深い異邦人」として、ほんらいのユダヤ人と区別されながら、一定の制限のもとで、会堂や神殿での礼拝が認められていたのである。
 あるいは、割礼を受けることによって、ユダヤ教徒に正式に改宗する異邦人たちもいた。この場合、彼らとユダヤ人との間に何の区別もなかったかどうか? この点は必ずしも明らかでない。だが、その場合でも、従来のユダヤ教と異邦人との「宗教的な」優劣関係は、明確に保持されていたのであろう。この優劣関係を示す大事な指標こそ、割礼を含むユダヤ教の律法体系にほかならない。異邦人ユダヤ教徒が、このような宗教的な「価値観の優劣」に対してどの程度不満を抱いていたかは推測できない。しかし、例えばアンティオケアの異邦人ユダヤ教徒たち、あるいは「信心深い異邦人たち」が、多数キリストの信仰へ参入してきたことは、新たなキリストの信仰宗団が、従来のユダヤ教よりも、実際生活のみならず、その精神的なありようにおいて、自由で分け隔てのない「交わりの場」であったと考えてよいであろう。しかし、この場合でも、先に指摘したユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との「交わりの問題」がなくなったわけではない。割礼や食物規定をめぐってペトロとパウロとの間で生じた対立は、まさにこの状況とそこに含まれる問題、特に「律法を指標とする」優劣関係を具体的な姿で提起したのである。しかし、その問題は、律法かキリストの信仰か、そのどちらからを選ばなければならないという問題ではない。もしもそうなら、ペトロを含むユダヤ人キリスト教徒たちは、ことごとく「キリストの信仰から失格してしまう」ことになる。パウロはペトロに、「あなたは福音の真理に従ってまっすぐに歩んでいない」とは言ったが、「あなたはキリストの信仰者でない」とは言っていない。
 ところが今ここでパウロは、ガラテヤの信徒たちに向かって、割礼を含む律法か? それともキリストの信仰か? そのどちらかを選ばなければならないと迫っている。いったいこれはなぜなのか? パウロがこのことを論じるにあたって、3章1節から5節まで疑問文が繰り返し用いられているのは、偶然ではないであろう。先の章でわたしが指摘したように、パウロは、律法とこれを指標とする優劣問題を、イスラエルの律法それ自体をどこまでも遡ることによって、ペトロとの対立問題を「根本的なところから」解決しようと目指しているのである。その結果、彼が到達して結論は、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間では、「キリストを指標とした」場合に、その優劣関係が逆転することであった。わたしが「継承の転位」と呼んだのは、このことである。なぜそうなるのか? この点を明らかにするために、パウロはここで、「アブラハム問題」を導入しているのである。
 しかし、アブラハム問題は、おそらく、ガラテヤを訪れているユダヤ人キリスト教徒たちのほうが、パウロより先に提起していた。彼らは、アブラハム問題を神とアブラハムとの間の契約関係、特にその割礼との関係においてとらえていた。だからこそパウロはここで、割礼とキリストの信仰とを対立させているのである。しかしこの場合でも、従来多くの注解者たちの視点は、アブラハムの「信仰」とアブラハムの「割礼」(とこれに伴う律法)と、この両者の間の緊張関係としてアブラハム問題を見ようとしている嫌いがある。しかし、アブラハムの「信仰」を持ち出すのであれば、それまでのユダヤ教でも、彼を「信仰の父祖」としてあがめてきたことを無視することができない。だから問題は、アブラハムの信仰かアブラハムの契約関係における割礼か? という問題でさえもない。そうではなく、アブラハムの「信仰」それ自体の質が問われている。アブラハムの「信仰」とは、いったいなにか? ということが、彼に授与された契約と割礼、これに伴う律法との関係で問われているのである。
 繰り返すが、パウロは、アブラハムの「信仰」か、それとも彼の「割礼とこれに伴う律法」か、こういう視点からこの問題を論じているのではない。そうではなく、アブラハムの信仰それ自体の本質的な有り様について論じている。イスラエルの律法を歴史的にさかのぼったパウロは、アブラハムの「信仰」へ到達する。その際に彼は、神との契約と割礼に与った時のアブラハムの信仰を「さらにさかのぼって」、彼がイスラエルの神に改宗する以前の異邦人であったころのアブラムへ、すなわち神に従って故郷を離れた「改宗者アブラム」へと至るのである。パウロは「そこから」アブラハムの信仰を見ている。だから、パウロはここで、アブラムとアブラハムとをつなぐ信仰それ自体について語っている。なぜなら、そこにこそ、異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒とを結ぶ接点があるからである。パウロが「アブラハムの信仰」と言う時、彼はこのことを問うのである。だから、パウロの目からは、アブラハムの「信仰」か、彼の「割礼」か、という問題提起はもとより、アブラハムの信仰それ自体が彼の「功績」となるのか、それとも彼への「恵み」となるのか、という二項対立の選択は問題とはならない。なぜなら彼は、アブラハムの問題をそのような宗教的な視点からではなく、神による「創造の御業」として、「アブラハムの信仰」を見ているからである。ガラテヤ人への手紙4章21節以下で、パウロのアブラハム観が、イサクの誕生と結び付くのは、まさにこの視点から観てのことにほかならない。言い換えると、パウロは、神の創造の働きとしての「救済史的な」パースペクティブに沿って見ているのである。彼は、この原点に立ち返って、律法制度を含むイスラエルの歴史を捉え直す。そして、割礼を含む律法全体をこのような遠近法の中から、歴史的に、すなわち、事が生じたその「前後関係」によって捉え直すのである。
 こうすることでパウロは、アブラハムがまだ異邦人であった当時のアブラムまでさかのぼり、しかも同時に、これは大事なことであるが、アブラハム契約以後の律法を含むイスラエルの歴史をも、この遠近法によって、「救済史的に」とらえなおす。しかもパウロは、この救済史的な視野に立って、アブラハムの契約以後の律法のもとにあるイスラエルの全歴史をば、これを「排除する」のではなく「組み込む」のである。こうすることによって、律法は、その呪いの牙を抜かれて、神の救済史の中に位置づけられ、神の御霊の創造的な働きによって「秩序づけられる」ことになる。創造とは混沌から秩序を生み出すことにほかならない。このような視野に立つことによって、パウロは、イスラエルとこれに続く全世界の異邦人(「諸民族」と同義)とを救済史的に一つの流れにおいて新たに捉え直すことができたのである。これが、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との宗教的優劣関係に対するパウロの解決方法である。
 だから、このようなアブラハムの信仰のもとでは、ユダヤ人と異邦人とは、同一平面に立つことになる。キリストの御霊のもとでは、ユダヤ人と異邦人との間に優劣関係は存在しなくなる。むしろ、異邦人伝道におけるキリストの御霊の働きは、その救済史的な視点から見るならば、後から来る異邦人のほうが、先に来るユダヤ人よりも、宗教的優劣関係において、優先されるべきであり、特に「律法とこれに伴う割礼」との関係においては、そうで「なければならない」。「後の者が先になる」ということが、このようにして起こるのである。パウロが、ガラテヤの信徒たちに対して割礼を受けることに反対するのは、「この理由」からである。なぜなら、後でパウロが述べるように、律法はキリストの御霊にあってすでに「霊的に」成就している。それは、イスラエルの民族的な救済史それ自体が、キリストの御霊にあってすでに成就しているからである。キリストの到来による終末は、「開始された」ことによって、イスラエルにとってもすでに到来しつつある。パウロは、この確信のもとに「福音の真理」を宣べ伝えている。しかし、まさにこのようなキリストの御霊にある真理であるがゆえに、パウロは、ユダヤ人はもとより、ユダヤ人キリスト教徒たちからさえも誤解にさらされる。彼らには、パウロの福音の霊的な意義が見えないか、見えていても、これに同意できないのである。それは、キリストの御霊が指し示す宗教的優劣関係の転位を彼らが拒否するからであり、たとえ拒否しないまでも、これを「パウロほど完全な形で」受け入れることができないからである。律法の鬼は、キリストに出会って、律法の諸行から解脱したことになる。
 パウロは、異邦人に福音を伝え、小アジアからギリシアに渡ることによって、西欧キリスト教の父祖となった。しかも彼の伝えた「アブラハムの信仰」は、中世カトリック教会に対して新たな変革をもたらす宗教改革の根拠ともなりえた。こうしてパウロの福音は、イスラエルをその救済史に組み込み、西欧キリスト教へと拡大し、宗教改革を促すことで、ユダヤ=キリスト教の救済史を形成する源泉として今もなおキリストの御霊の働きを止めていない。このようなキリストの御霊こそ、アブラハムの子となるべき「継承の正統性」を生み出す力なのである。
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