使徒言行録15章によれば、ペトロはエルサレムでの使徒会議の席上で重要な発言をしている。
兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。使徒言行録15章7~11節)〔新共同訳〕
これは使徒言行録10章でのコルネリオの回心物語を踏まえたルカ版のペトロの発言である。しかし、ここでのペトロの発言は、そのままガラテヤ人への手紙でのパウロの発言と見てもおかしくないほどで、なるほど共謀説が生まれるのも無理はないと思わせる。ここでのペトロの発言は、エルサレム使徒会議の基調となっていて、使徒言行録の中心にあるこの15章が、しばしばガラテヤ人への手紙2章と比較されるのはこのためである。だがルカはおそらくガラテヤ人への手紙を読んでいない(ただし、パウロ書簡に表われるすべての神学概念は、ルカの使徒言行録において追跡できると言われている)。また、使徒言行録15章では、割礼論争が先にあって使徒会議が開かれるが、ガラテヤ人への手紙では、パウロたちがエルサレムへ上った時に初めて割礼問題が話し合われたような印象を受ける。また、ルカの記述がどこまで書かれた資料に基づくかなどの問題もあろう。だが、ここではこれに立ち入らない(「先祖もわたしたちも負いきれなかった軛・・・」とあるのは明らかにルカの編集)。
こういうペトロの発言とこれに続く使徒教令の背後には、ユダヤ主義的なキリスト教徒たちによる異邦人キリスト教徒への割礼の強制、食物規定を含む律法の遵守への強い要請があったのを見逃すことができないであろう。にもかかわらず、ここには、ペトロやパウロたちを含む使徒会議全体の基調となる信仰が表明されていると見てよい。ルカが、ほかならぬペトロの口を通してこのような大事な言葉を語らせていることにわたしたちは注意しなければならない。ここでは、「主イエスの恵みによる救い」において、「わたしたちと彼ら(異邦人キリスト教徒たち)との間に何の差別もない」ことが明言されている。ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間に本質的な区別が存在しないというこの信仰こそが、使徒会議での共通の認識であったことをペトロの発言は証ししている。キリストの教会は、「この認識」に立脚して、以後の歩みを進めていったことが、使徒言行録のこれ以後の記述にもはっきりと表わされている(ガラテヤ2章の記事と使徒言行録との対応関係については、コイノニア会ホームページの聖書講話欄の「パウロ書簡補遺」にある「パウロのエルサレム訪問について」を参照)。
パウロが認めているように、エルサレム使徒会議でのこの共通の認識は、割礼ある者たちが律法を遵守することを妨げるものではないと同時に、無割礼の異邦人が律法の全面的な制約から解放されることも認められていた。このように継承関係を便宜的に二分することによって、「主イエスの恵みによる救い」は、ユダヤ人にも異邦人にも同じ主にある救いを保証することができたのである。このようにして、「谷はすべて埋められ、山と丘は皆低くされ、曲がった道はまっすぐに、でこぼこ道は平らになり、人は皆、神の救いを見る」(ルカ3章)という洗礼者ヨハネの預言どおりに「主の道が整えられ」た。と言うより整えられるはずであった。ところが、ペトロとパウロとの論争は、まさにその「すぐ後で」生じたのである! これはなぜなのか?
もしもユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが、律法の継承関係において、互いに完全に切り離されていて、それぞれが別個の歩みを始めていたのなら、少なくともアンティオケアでのような形で論争は生じなかったであろう。だから、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが明確に「区別されて」、いわば主イエスの救いが、ふたつの形態に分離されたからこの問題が生じたのではない。また、かりにふたつの継承関係が互いに譲らずに衝突し、その結果使徒会議が完全に分裂したとしても、こういう形で問題は生じなかったはずである。そうではなく、使徒会議において、割礼の者も無割礼の者も、どちらも区別なく救いが保証されることで、両者の継承関係の間に横たわる溝が取り除かれて、互いにひとつになることができる基盤ができたこと、すなわち、ユダヤ人と異邦人との律法をめぐる継承関係が、「主イエスの恵みを信じる」共通の基盤の上で共生しつつ、旧約から新約への継承が「なめらかに」成就する道が開かれたこと、「このことが」問題を生じさせたのである。
おそらく使徒会議の席上では、ユダヤ人への救いが異邦人への救いに先立って優先されるべきであるという主張もなされたのであろう。少なくともその席上では、後にパウロがローマ人への手紙で説いたように、異邦人への救いの時期が満たされるまではユダヤ人は不信仰のまま留めおかれるという発想はなかったであろう。このことは、律法主義のユダヤ人キリスト教徒たちの側から見るならば、律法なしでもイエス・キリストにある救いが成立すること、したがって、異邦人に対するユダヤ人の先祖伝来の律法的優越性が、ここにいたって事実上破棄されたことを確認させられたことなのである。まさにこの事態が、ユダヤ主義的なキリスト教徒たちの危機感を呼び覚ます結果になった。彼らは、「この危機感」に煽られて、今まで以上に異邦人へ律法を宣べ伝えることで、自分たちの優越性を維持しようとしたのであろう。ちなみに、ペトロの口から出ている「律法の軛」は、ユダヤ教では「喜びの軛」でもあったとバレットは指摘している〔Barrett 718〕。だから、異邦人キリスト教徒にも「割礼を受ける自由」への道が開かれていたのであろう。それゆえにユダヤ人キリスト教徒たちの中には、この際にいっそう律法の拡大継承を図ろうとする人たちが現われた。このように推定することができる。
こうして、継承関係において共通の認識と基盤が確認されたまさにそのことが、ユダヤ主義的なキリスト教徒の反発を招く結果になった。このように、継承関係がなめらかに移行するまさにその過程において、これを阻止しようとする力が働くこと、これが、継承関係において避けがたく絡みつく「継承の危機」なのである。
「主イエスの恵み」は、律法のもとにあるユダヤ人にも、そのままの状態で、福音を受け入れる道を開くものであった。「肉によれば」パウロ自身も立派なファリサイ派である。だから彼自身も、キリストの僕でありながら、先祖伝来の律法的な生き方の余韻を残すことができた。パウロからすれば、それゆえにこそ、イスラエルの不信仰が、なおいっそう赦しがたいものに映るのであろう。このような神の大きな恵みと知恵とをないがしろするイスラエルが、「神に口答えする」ことは許しがたいのであろう(ローマ9章20節)。だからこそ神は、アンティオケアにおいてもガラテヤにおいても、「彼らの食卓が、自分たちの罠となり、網となる」(ローマ11章9節)ように仕向けたのであろう。
わたしたちは、こういう「継承の危機」において初めて、ペトロのおかれた状態を正しく洞察することができる。エルサレム会議では、主として、異邦人がキリスト教徒になる場合に、どの程度の律法が彼らに課せられるべきかが論じられた。この問題は当然、旧約の律法に基づく食物規定(例えばレビ記11章)にかかわってくる。またパウロたちの関心も主としてこの問題に向けられていたのであろう。
ところが、アンティオケアでは、ユダヤ人キリスト教徒のほうが異邦人と交わる場合に、どの程度の律法規定からの自由が認められるべきかが、ペトロをめぐって問われることになったのである。明らかにこれに対する何らの取り決めもなされてはいない。しかもそれが、単なる一時的な行為ではなく、この場合のペトロの行動は、日常的な行為として理解されている。ここでのペトロは、ユダヤ人キリスト教徒でありながら、異邦人に認められている律法からの自由をその行動の規範として用いたのである。これによって、彼の行為は、ユダヤ人キリスト教徒が異邦人並みの律法の自由を取り込む道を開く結果になった。ここにいたって、福音を受け入れた「割礼ある者たち」と「無割礼の者たち」との間に、相互にどの程度の律法規定への束縛あるいはそれからの自由が認められるかという問題が新たに浮上することになった。すなわちペトロは、ユダヤ人キリスト教徒の「律法を遵守する義務」と異邦人キリスト教徒の「律法からの自由」という、このふたつの狭間で、大使徒としての「神学的な立場」を明らかにする必要に迫られることになったのである。
いったいユダヤ人キリスト教徒には、どの程度まで、「律法を守る義務」が課せられるのであろうか? これを言い換えると、ペトロにはどの程度まで「律法を守らない自由」が認められるのであろうか? ということであろう。異邦人との交わりにおいて、異邦人の律法的な自由とユダヤ人への律法規定との間で、そのどちらを「優先させる」べきか? という問題がここで浮上してくることになる。律法と福音との関係において、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒のふたつの継承関係が、ここに大使徒ペトロをめぐる「基準の優劣」として問われることになった。この問題はさらに、ユダヤ人キリスト教徒は、その子供たちに割礼を「施さない自由」が与えられるのか? という問題にまで及ぶことになろう。
このような視座において初めて、わたしたちは、ここでのペトロの行為が帯びている意義を正しく認識することができる。おそらくペトロが来る以前から、アンティオケアでは、「キリストにある自由」を信じるユダヤ人キリスト教徒たちが、異邦人たちと「律法からの自由」を共有し実践していたのではあるまいか。だからこそ、ペトロも彼らに同調して同じ振舞を続けていたに違いない。しかしエルサレムから「ある人たち」が来るに及んで、ペトロの行為が変化を見せ始めた。これはかなりの期間、徐々に進行していったようで、パウロたちは、おそらくこの変化を苦々しい思いで見ていたのではあるまいか。(ペトロのアンティオケア滞在とパウロの滞在との関係については説が分かれる。ペトロの滞在の前半期にパウロはいなかったという説もある。)しかし、ペトロの振舞が、異邦人との交わりから次第に身を引く過程で、ふたつの基準の優劣がそれまでとは逆転し始め、これがもはや「許しがたい」ところへきたのを見届けて、ついにパウロは、ペトロに「面と向かって対抗した」と考えられる。なぜならこの問題は、キリストの福音全体に関わる「神学的な」重要性を帯びていたからである。
ただしここで、もう少しペトロの立場を考察する必要がある。アンティオケアでは、異邦人の間にキリスト信仰が急速に広まり、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが混在していた。ここでのユダヤ人たちは、エルサレムとは異なる環境にあった。アンティオケアは、ローマ皇帝の庇護を受けてヘレニズム化しており、ギリシア人を始め様々な民族が住んでいたが、ユダヤ人には、宗教的な自治が認められていた。だが、そこに住むユダヤ人は、かなりの程度ヘレニズム化していたようである。したがって、ユダヤ人と異邦人との関係も良好であった。
ところが、カリギュラ帝(在位37年~41年)が、エルサレムの神殿に自分の彫像を建てることで、ユダヤ人の反乱を誘発するに及んで、アンティオケアでも、ユダヤ人に対する非難が高まったらしい。しかしこの騒乱も、クラウディウス帝(在位41年~51年)の頃には一応終息していたようである。とは言え、それ以後も特にユダヤでは、反ローマ的な機運が高まり、熱心党(ゼロータイ)と呼ばれるユダヤ民族主義の過激派も活動を強めていた。このために、エルサレムでは、ギリシア化したユダヤ人に対する反感が強まり、彼らとユダヤ主義的な人たちとの間の亀裂が深まっていたと思われる。その直後に、パレスチナに厳しい飢饉が生じて、これがアンティオケアからエルサレム教会への資金援助の直接の原因となった。このように、エルサレム会議からアンティオケアでの出来事にかけて(48年~49年?)、エルサレムでは、ユダヤ人と異邦人との関係が不安定になっていて、これが60年代に入ると事態は急速にローマ帝国に対する反乱へと向かうことになる。
ペトロが異邦人との食卓から次第に身を引いたのは、「割礼の者たちを恐れた」からであるとパウロは言う。アンティオケアを訪れた「ある人たち」とは、ユダヤ人キリスト教徒たちのことであろうから、ここでパウロが言う「割礼の者たち」も同類のユダヤ人キリスト教徒を指すというのが通説になっている。しかしパウロは、「割礼の者たち」をユダヤ人キリスト教徒ではなく、ユダヤ教徒それ自体を指す場合にも用いることが多い。だから、ここでの「割礼の者たち」もユダヤ人キリスト教徒たちではなく、ユダヤ人たち、それもユダヤ主義的なユダヤ人のことではないかという説がある。そうだとすると、ペトロが「割礼の者たちを恐れた」のは、反ヘレニズム感情に駆られたエルサレムのユダヤ主義者たちとエルサレム教会との関係を懸念したからではないかという推測が成り立つ。少なくとも、「ある人たち」が、こういう懸念をペトロに伝え、成り行き次第では、エルサレムの教会とアンティオケアの教会との交わりが断たれる危険性を指摘した可能性がある。
おそらく、エルサレムの教会が「ヤコブのもとからある人たち」を派遣したのは、アンティオケアでのユダヤ人キリスト教徒に対して「一時的に」律法からの逸脱を控えるよう警告するためであり、これがヤコブたちの本意ではなかったかと考えられる。ところが、遣わされた「ある人たち」は、ヤコブたちの意図とは異なり、律法遵守をユダヤ人キリスト教徒に対する「神学的な課題」として提起した可能性がある。この結果、エルサレム教会と派遣された人たちとの間のこの行き違いとアンティオケア教会の現状との狭間にあって、ペトロは、自分のおかれた立場に混乱を来たしたのではないかと思われる。彼は、熱心党などへの配慮から、一時的に異邦人との自由な交わりを「控えよう」(「身を引く」にはこの意味もある)としたのかもしれない。ところが、これが、福音理解の神学的な問題として浮上したことで、事態がいっそう混乱を招くことになった。なぜなら、ペトロのこの行為によって、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との交わりが保たれるためには、今度は異邦人のほうが、ユダヤ人の食物規定を守らなければならなくなったからである。「異邦人をユダヤ教化するようにし向ける」とパウロが言うのはこの意味であろう。
このように見てくると、ペトロの混乱の原因は、律法と福音との間に広がるユダヤ人キリスト教徒に与えられた「選択の自由」それ自体にあったことが分かる。特に彼のような大使徒が採りうる「自由裁量」が、その周りのすべてのユダヤ人キリスト教徒たちに及ぼす影響は想像に難くない。彼が一時的にせよ、異邦人キリスト教徒との交わりを差し控えて、律法からの自由を志向する姿勢から律法の食物規定を遵守する方向へ転じた背景には、このような事情があったのではなかろうか。この事情はおそらく、彼と共にいたユダヤ人キリスト教徒たちにも共有され、バルナバもまた、ペトロの行為をやむを得ない選択と見なしたのであろう。
ペトロにも異邦人への交わりが「啓示されて」いたのは、先のルカからの引用が示すとおりである。しかし彼の場合には、異邦人への志向が、パウロのように明確な啓示に裏付けられた神学的な理念に基づいていたとは言えなかったのではないか。コルネリオの記事に見るように、彼が異邦人との交わりに導かれたのは、祈りの中でヴィジョンが与えられたことによる。これは、いわば体験的で即時的な判断によるもので、明確な神学的志向から出たものではなかったのであろう。この意味で、パウロに啓示されていた「福音の真理」が、ペトロにも共有されていたとは言えない。霊的な体験による「啓示」が、必ずしも明確な神学的志向を伴うとは限らないからである。パウロには明らかと思える「神の意志」も、ペトロには、教会における己の複雑な立場の中で採りうる選択肢のひとつではなかったかと思う。だからペトロは、異邦人キリスト教徒との食卓から身を引く行為が必ずしも福音の本義にもとるとは考えなかったのであろう。だが、パウロにはそうは映らなかった。彼の目から見るならば、異邦人キリスト教徒と食卓を共有するペトロの行為とその食卓から身を引く行為とは、その方向性が全く逆だからである。ペトロには一時的な選択であったとしても、パウロの目には、異邦人をも含む福音の自由な広がりを阻む大使徒の許しがたい裏切りと映ったのである。
このこと、律法の宗教から福音の信仰への継承過程において、基本的な合意に基づく相互の自由が保証され、これに伴う自由な裁量の幅が広がるにつれて、その時々において採りうる選択が多様化し、このために何が正しい選択なのかそうでないのかが見えにくくなること、すなわち自分の採るべき道について、御霊の導きが複数の選択と重なり、神の御心を知る手がかりが失われること、これがペトロのような信仰者を襲う「継承の危機」なのである。信仰者にとって最大の試練とは、何が真理かが見えなくなることであると言ったのは確かキェルケゴールであった。問われてくるのは、ペトロの行為それ自体ではない。行為はその時々の状況に応じてどのような意味をも帯びるからである。問われてくるのは、その「意図」でありその人の目指す「方向性」なのである。
ルターは、パウロの非難が、ペトロのこの方向性にあることを鋭く洞察している。
ここで留意せよ(ヒエロニュムスにはできないが)、ペトロのこの行為の目的(意図)がパウロによって非難されているのであって、彼の行為それ自体ではない。行為それ自体は悪ではない。食べることも飲むことも、食べないことも飲まないことも、問題ではない。「もしあなたが食べるなら罪となる。控えるなら正しい」というその目的(意図)こそが悪なのである。割礼それ自体は良い。だが「割礼を受けなければあなたは救われない」と言うその意図こそが悪なのである。〔『ガラテヤ人への手紙注解』〕
パウロはペトロの行為を「偽善」と呼んだ。通常「偽善」とは、自分の悪意や悪行を知りながら、これを隠して外面的には正反対の装いをまとうことである。しかしパウロの、と言うより聖書の言う「偽善」は必ずしもそうではない。神の御心を知りつつこれとは違った行為をしながら、自分がさも神の御心を行なっているかのように振る舞うこと、これが偽善であるのは言うまでもない。しかし、本人が神の御心それ自体に気づくことなく、逆に自分こそ神の御心を行なっていると信じ込むこと、これもまた聖書の言う「偽善」なのである(イエスが「偽善者よ、他人の目にあるおが屑を見ながら、自分の目にある丸太が見えないのか」と言う時には、その者は自分が神の意志に背いていることそれ自体に気づいていない)。だから、ペトロがどこまで自分の行為についてその是非を洞察していたかは、さしあたりパウロにとってはそれほど問題ではない。彼が、おそらくは気づかずに、神の御心に背いていること、これだけでペトロの行為を「偽善」と呼ぶのに十分だったのである。だが、このような「偽善」は、継承の危機に身を投じた信仰者なら、おそらく誰にでも訪れる「偽善」であり、しかもそれは「避けがたい」のではあるまいか? はたして、この出来事の後で鶏が三度鳴いたかどうか、またペトロが外へ出て激しく泣いたかどうか、わたしには分からない。
パウロはローマ人への手紙9章(30~33節)でこう述べている(33節の引用はイザヤ28章16節と8章14節からの結合)。
では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりである。
なぜペトロは弾劾されなければならなかったのか? アンティオケアにおいて、ペトロたちは律法の食物規定を守ろうとした。しかし、ルターの指摘するとおり、その行為自体は、罪でもなければ神の御心に背くことでもない。そもそも神からの律法を守ろうと努めることは、それ自体自己追求でもなければ、自己の業を誇ることでもない。ペトロの行為も彼の「意図」も、自己追求でもなければ自己の業を誇るためでもない。そうではなく、彼が弾劾されたのは、「福音の真理に逆行し」そうすることによって「福音に対立した」からである。なぜそのような結果になったのか? それは、福音以前の「律法の義」がまったく顧慮されないからであり、そこにこそ、「イスラエルの不義」が起因しているからなのである。かくて福音は、それまでの神の民の歩みが、実は律法の義を求める歩みにすぎなかったことを「新たに啓示する」。福音における継承とは、このようにして、「継承される」側の躓きをも前提とする。神は「躓きの石」を神の民の歩みの途上に置かれた。少なくともそうなることを許された、ということであろう(「神が躓きの石を置く」という言い方は正確でない。ここの「躓きの石」にはヨブ記に表われるサタンの陰を読み取ることができるという説もある)。神の民はその躓きの石に躓くのであり、まさにそのことが、次への継承へとつながる契機となる。継承はこのようにして、常に新たな危機をもたらす。その危機は、神の民と彼らの神殿の真ん中で、すなわち「シオンにおいて」起こる。これが継承それ自体に内包されている「継承の危機」の本質である。