第2章 継承の転位
ガラテヤ1章6節~10節
6驚いたことに、あなたがたは、こんなにもはやばやと、キリストの恵みのうちに召し出してくださった方に背いて、異なる福音へ転向しようとしている。
7それは福音ではなく、ただある人たちが来て、あなたがたを困惑させ、キリストの福音を逆行させようと意図しているだけである。
8しかし、たとえわたしたちであろうと天から来た天使であろうと、わたしたちがあなたがたに伝えておいた福音に反する福音を伝えるなら、その者は呪われるべきである。
9先に警告しておいたように、今再度言う。もしも誰かが、あなたがたが受け入れたものに反する福音を伝えるなら、その者は呪われる。
10わたしは今なお人に認められようとしているのか、それとも神にか? あるいは人に取り入ろうとしているのか? もしも今なお人に取り入ろうとしているのなら、わたしはキリストの僕ではないことになろう。
キリストの恵み
 パウロは挨拶に続けて相手方へ感謝の意を表するのが慣例である。ところがここでは、感謝の代わりに彼は「驚き」と「叱責」の言葉で始める(当時のヘレニズムの書簡では「驚き」は失望、叱責、非難を意味する)。この部分は、パウロがガラテヤの信者たちに宛てて、そしてわたしたちに向けて発している問題提起である。
 パウロ自身も動揺しているのは、この書き出しの切迫感から疑うことができない。なぜ彼はそのように動揺するのだろうか? 理由のひとつには、ガラテヤの信仰者たちを「困惑させる者たち」(1章7節)が入り込んできたことにあろう。彼らはおそらくまだガラテヤにいて説得を続けているに違いない。「こんなにも早く」とはどれほどの時間を指すのか、またいつの時からかを詮索する必要はないであろう。啓示に与った人間が、恵みからいかに堕ちやすいかは、イスラエルの民が、荒れ野でモーセの留守中に「早くも」主の道から離れて(出エジプト32章8節)、金の仔牛を拝した時からそれほど変わっていない。「キリストが目の前で語りかけてくる」ほどの霊的な体験に与って(3章1節の原語は、単なる視覚だけはなく明らかに言語的な内容をも伴う。この句はおそらくパウロ自身に臨んだキリストの顕現を反映している)、その結果キリストの恵みを味わい知ったはずの人たちが、今それを失おうとしている。遣わされた者にとって、これほど動揺をもたらすものはないであろう。いったいあの体験はなんだったのだろうかと。
 パウロの反対者たちが説得を始めるや「こんなにも早く」ガラテヤの人たちが彼らの言うことを受け入れ始めたのは、パウロに批判的な相手たちが、パウロに対して必ずしも初めから批判的ではなかったことを示唆する。おそらく彼らは、パウロの教えが「初歩の段階」に属するのであって、その教えを「完成させる」ためには、ユダヤ教の律法遵守が不可欠である、というように説得したのであろう。だから、反対者たち自身も、最初からパウロに対して対立的な態度で臨んだと推定する必要はない。まして、ガラテヤの信者たちは、自分たちがユダヤ人キリスト教徒たちの教えを受容したことによって、パウロの教えに背く結果を招くなどとは、全く予想しなかったであろう。パウロが彼らのことを「無知」で「愚か」だと非難しているのは(3章1節)、このことを裏書きしている。だから、ガラテヤの信者たちが福音に背いて「逆行した」と判断したのはパウロの側なのである。
 パウロの懸念は、時期的な早さだけではない。むしろ彼らガラテヤの信者たちが、パウロの伝えた福音に「背いて」(「乗り換える」はほとんど「背教」の意味に近い)、キリストの福音を異質な「偽の福音」へと「逆行させよう」(1章7節)としていることへの危惧のほうがはるかに大きい。だが、おそらくガラテヤの人たちには、パウロのそのような危惧は、少なくともこの手紙を受け取るまでは、全く予想できなかったであろう。入り込んできたユダヤ人キリスト教徒たちは、パウロ自身も割礼の必要性を認知していると信者たちに語っていた可能性さえある。
 「あなたたちをキリストの恵みへ召した」(1章6節)のは、言うまでもなく父の神である。神に「召される」とは「選ばれる」ことにほかならない。パウロの反対者たちはガラテヤの人たちに言う。あなたたちが「選ばれた」のは神の民イスラエルが受け継いできた救いに与り、イスラエルが保持してきたユダヤ教の特権に与ることを意味するのだと。ところがパウロは、「選び」を全く逆の意味に理解するのである。あなたたちが「選ばれた」のは、「父の神」から出たことで、民族的、文化的な「イスラエル」とはなんの関係もないのだと。それどころか、もしもあなたたちが、今のイスラエルの、すなわちユダヤの民の宗教の根幹をなす聖書の律法を受け継ぐつもりなら、それはまさにイエス・キリストにあってあなたたちを選んだ父の神の御心に背くことにほかならないのだと。だが、このような福音理解は、おそらくガラテヤの信者たちの眼中には全くなかったことであろう。福音「と同時に」律法を受け入れることがなぜいけないのか? パウロもそう思っているに違いない、というのがガラテヤの信者たちの考えていたことではなかったろうか。少なくとも、パウロが批判する相手の人たちは、間違いなく彼らにそう語ったのであろう。
 ところが今パウロは、ガラテヤの信者たちに対して、「あなたがたをキリストの恵みへ招いてくださった方」背こうとしていると告げる。ガラテヤの信者たちが神に「選ばれた」のは、「キリストの恵み」に与るためである。パウロは通常「神の恵み」という言い方をするが、「キリストの恵み」とは言わない(ここの「キリスト」は後の挿入かもしれない)。だから、彼がここで「キリストの恵み」と言う時、それはキリスト「からの」恵みという意味ではなく、おそらく「イエス・キリストそれ自体」が恵みであるという意味であろう。神が彼らにキリスト「を」与えたこと、そのことを「キリストの恵み」と呼んでいるのであろう。しかもこの「キリストの恵み」は、イスラエル民族の伝統的な宗教制度とこれを支える律法とは対立関係にあるとパウロは言う。現在のユダヤ教の宗教制度とその根幹をなす律法は、あなたたちが受け継いだ「キリストの恵み」から見るならば、断じてキリストの福音の「別種」ではない。それは「キリストの恵み」とは相容れない正反対の方向へと「堕落する」ことにほかならないのだとパウロは言う。
 パウロが「偽の福音」と呼ぶのは、このこと、すなわち、父の神の「選び」が指し示す方向から逆行することを意味する。かつて、イスラエルの民に向かって神が語られたことがこうして今ガラテヤの信者たちにも語られる(申命記11章29節)。あなたたちには今ふたつの山がある。ひとつは神の祝福を受け継ぐ山であり、もうひとつは神の呪いを受ける山である。あなたたちはこのふたつを「同時に」受け継ぐことは出来ないのだと。もしも今、ガラテヤの信者たちが、イスラエル民族から受け継ぐものがあるとすれば、「この選択」こそ、まさにそれである。しかも今彼らに要求されているこの二者択一とは、イスラエルの民が継承してきた律法制度をガラテヤの異邦人キリスト教徒も継承するのか? それとも、これを拒否するのか? この二者択一なのである。「父なる神の御心」に従うとすれば、ここでの「継承」とは「継承を拒否する」ことにほかならないのである。
割礼か?恵みか?
 「キリストの恵み」への信仰かイスラエル民族から受け継いだ律法か、という二者択一は、この手紙の重要な課題であるには違いない。しかしながら、継承の視点から見るならば、「信仰か律法か」というこの二者択一さえも、根本的な問題とは言えない。なぜなら、パウロが批判するユダヤ人キリスト教徒たちは、神とキリストの恵みへの信仰を決して否定してはいないからである。彼らユダヤ人キリスト教徒にとっては、パウロが提起する「信仰か律法か」という二者択一それ自体が、不可解であり不当なのである。信仰が大事か律法が大事か、という問題提起それ自体が、根本的に疑問であり不当だというのが、パウロの反対者たちの視点であろう。彼らユダヤ人キリスト教徒が、割礼を異邦人キリスト教徒にもあえて課そうとしているとすれば、それは、パウロの「この問題提起」それ自体が不当であることを立証しようと意図している(7節の「覆そうと意図する」に注意)からであって、決してキリストの恵みへの信仰を否定しているからではない、と彼らは主張する。
 だが彼らはなぜそのように割礼を押し通そうとするのだろうか? それは、キリストの福音とは、イスラエル民族の宗教的伝統とこれを支えてきた律法が、メシア=キリストの新たな啓示によって、異邦の民を含む全世界へと拡大されること、このことに「父なる神の御心」を読みとるからにほかならない。これこそ、聖書が証ししてきたことであり、預言者たちが語ったことであり、イエス・キリストもそうであり、ペトロやヤコブの使徒たちが目指していることではないのか。福音の継承は、常に新たな啓示によって宣べ伝えられることによって成就し、宣べ伝えることによって我々の先祖の神への信仰が、イエス・キリストにあって全世界へと「拡大する」というのが彼らの主張である。ところが、彼らの主張するその方向とは、「逆の方向へ」向かうようにガラテヤの信者たちを教えたのは、ほかならぬパウロなのである。彼らとパウロとの対立は「この点に」ある。
 ここでパウロは、相手側が説いている福音を真っ向から否定しているのではない、彼らの福音が自分の福音と「一致していない」ことを指摘しているにすぎない、という解釈も成り立つかもしれない。しかしパウロが「様態において異なる」福音ではなく、全く異質の偽の福音であると断じて、これに向けて呪いを発しているのを、そのような意味には受け取り難い。パウロが指摘しているのは、彼らの偽福音が、パウロの福音を「逆行させる」ことである(「逆行させる」は、ヘレニズム世界では、革命を逆戻りさせる反動的な行為を指す)。彼らユダヤ人キリスト教徒たちとパウロとでは、継承の方向性が全く逆なのである。ガラテヤの信者たちのこの「霊的な方向性」(6節の「偽の福音に向かうことで神に背く」に注意)こそ、ここでパウロが問題にしていることなのである。「キリストの恵み」はイスラエル民族の伝統的な宗教をその割礼共々に拡大させる方向に向いているのではない。むしろ逆に、イスラエル民族の宗教的伝統のほうが、異邦人が受容している「キリストの恵み」という新たな啓示の方向へと切り替わらなければならない、これこそが、ガラテヤの信者たちが父なる神の御心によって「選ばれた」理由である、というのがここでのパウロの主張なのである。
 そもそも、キリストにある恵みとユダヤ教の割礼を受け入れることとがなぜ両立してはいけないのか? パレスチナのユダヤ人キリスト教徒たちが、実際に行なっているその同じことをキリストを信じるガラテヤの信者たちが、なぜ拒否しなければならないのか? パウロが割礼を説かなかったのは、「あなたたちに合わせるため」(10節の「人の気に入ろうとあくせくする」はこのような彼らの批判である)の方便にすぎなかったのだ。パウロに対立する人たちはこのように語ったのかもしれない。
 だが、パウロから見れば、この点に関する限り、ガラテヤの人たちは全く「無知」である(3章1節の「物わかりの悪い」の意味)。だから彼は相手側の論説にも強要にも決して屈しない。たとえ天使であっても、パウロ自身であっても、だれであっても(「だれ」は単数で必ずしも相手側を指しているのではない)、この方向に逆らうことは父の御心に背くことにほかならない。だから、ガラテヤの人たちにすでに福音されている事態とは異なる道を「福音する」者は、呪われなければならない。こう彼は確信している。最早彼の目には、イエス・キリストの父である神の御心以外に、いっさいの人間的な思惑が入ってこないかのようである。だからパウロは、律法からの自由を掲げて、異邦人であるガラテヤの信者たちの「お気に入り」になろうなどとは毛頭考えたことがない。ましてや、異邦人と「妥協している」などとは思ってもいない。神の啓示を受けた「今この時」におよんで、そのようなことがどうして彼の眼中に入るだろうか。これがこの部分のパウロの結びである。
継承の拡大か?転位か?
 いったいパウロのこの強烈な「アナセマ」(呪われよ)は、なにゆえであろうか? ユダヤ主義者たちが割礼を異邦人に課そうとしたことが、福音における信仰の自由と律法との対立を生んだ主な原因であるというのが、従来の一般的な解釈である。この解釈自体に反論するつもりはない。しかし、パウロが非難している相手は、ユダヤ教徒ではなく、ユダヤ人キリスト教徒であることを今一度思い起こす必要があろう。イエス・キリストの福音を受け入れていた人たちが、キリストの恵みに与るために、信仰がどのような意味を持つかを理解していなかったということがありうるだろうか? はたして彼らは、ユダヤ教の律法よりもイエス・キリストにある信仰を優先させるというパウロの立場を理解できなかったのだろうか?  彼らが、福音「と同時に」律法もというふうに二つの両立が可能であると考えていたのは確かである。しかし、「そのこと」が、なぜパウロのこのような二度にわたる「呪い」を誘発する原因となるのだろうか? ユダヤ教の訓練を受けたはずのパウロが、彼らユダヤ人キリスト教徒の立場を理解できなかったとは、とうてい考えることができない。ガラテヤの信者たちだけでなく、パウロの批判を受けたユダヤ人キリスト教徒たちも、なにゆえパウロが、このような激しい口調で自分たちを攻撃するのかを、はたして理解できたであろうか? この点を疑ってみる必要があろう。
 パウロはそれ以前に、ペトロとの約束によって、ペトロが割礼の者たちへ福音を伝えることを主とするのであれば、自分は無割礼の人たちへ福音を伝える使命を帯びていることを確認している。この「棲み分け」は必ずしも厳密に守られなかったが、ここガラテヤでの割礼に反対する根拠となりうるのは理解できる。しかし、律法と福音とが相互補完関係にあるというユダヤ人キリスト教徒の考え方が「偽の福音」であり、たとえ天使でさえもそのような偽りの福音を伝える者は呪われると言わなければならないほどにキリストの福音に「逆行する」ことなのだろうか? 問題の本質は、ユダヤ人キリスト教徒のほうにあるのではなく、むしろパウロのほうにあるのではないか? こう考えてみる必要がある。
 キリストの恵みにある信仰とは、ユダヤ人と異邦人との間の壁を取り去って、その区別なく神の救いに与ることができるというのがパウロの教えである。それはかつてユダヤ教に限定されていた救いを、一挙にヘレニズム世界へと拡大させるものであった。だが「そのこと」なら、ペトロもエルサレムの使徒たちも、律法を重んじるユダヤ人キリスト教徒たちでさえも理解していたと想定することができるだろう。業によらず信仰によるという福音の根本命題をユダヤ人キリスト教徒たちは、はたしてほんとうに理解できなかったのであろうか? むしろ問題はそれから先にあるのではないか。なぜ彼らは、それでもあえて割礼を「強行しよう」としたのか? なぜ「そのこと」に対してパウロは、かくも強い口調で呪いを投げつけなければならなかったのか? この点が今一度問われなければならないであろう。
 ここでは、キリストの福音において、信仰による神の救いなのか? それとも律法遵守による救いなのか? ということに問題の本質があるのではない。イスラエルの律法宗教には神への絶対的な信頼が含まれていない、などと考えることはとうていできない(パウロが「律法」という用語をどのような意味で用いているかは今ここで触れない)。問われているのは、イスラエル民族の宗教それ自体が、イエス・キリストの福音において全世界へと「拡大する」その方向性にある。主の兄弟ヤコブを始めとするエルサレムのユダヤ人キリスト教徒たちとパウロとの間には、一応の棲み分け理論にもかかわらず、福音が全世界へと「継承される」ことがどのような意味を持つのか、という問題について十分な了解が成り立っていたとは言い難い。明らかにこの点については、両者の間に食い違い、あるいは対立がある。パウロとエルサレムと、いったいどちらの立場が「優先する」のか? この対立に内包されている問題はいったいなんなのか? なによりも、いったいどちらが神の御前に「正しい」のか? これらの点が問われている。わたしたちは、これらの問題を含めて、改めて「福音の継承」とその継承の「方向性」について考えてみる必要があろう。
 聖書の律法を重視するユダヤ人キリスト教徒たちが、キリストへの信仰に基づく神の救いが、「エルサレムから始まって」、異邦人世界へと一方的に「拡大する」と考えていたのであれば、福音の進展に伴って、割礼を異邦人に授けることも決して不当な要請とは言えないであろう。しかしもしも、キリストにある福音が、従来のユダヤ教に基づく律法的な宗教から、異邦の民への霊的で「自由な」信仰へと「取って代わるべき」であるというのであれば、割礼を受け入れることはとうてい不可能になろう。問題とされているのは、ユダヤ人から異邦人へとキリストの福音の継承が「拡大する」ことではない。そうではなく割礼を含む継承自体が「転位する」ことなのである。ユダヤ人キリスト教徒の規範に異邦人キリスト教徒が従属して、これに学ぶのではなく、逆にエルサレムのユダヤ人キリスト教徒たちが異邦人キリスト教徒の基準へと転換し、「この基準」へと切り替わることが求められている、こうパウロが考えていたとすれば初めて、この手紙における彼の強い律法批判が納得できよう。パウロがなにゆえに、ユダヤ人キリスト教徒の伝える福音を本来の福音に「逆行する」と考えたかがこれによって理解できる。
 パウロは冒頭の挨拶で、「父なる神」を三度繰り返して、「神の御心」によってキリストの福音が顕われたことを強調している。このことは、ユダヤ人と異邦人との「この逆転」が、「父の神の御心」から生じたことを証ししている。福音が、キリストの恵みにあって「人の業によらない」と主張するのは、まさにこの意味である。それは「召された方」から、すなわち異邦人への「神の選び」から生じていることをパウロは洞察している。だから彼にせよだれにせよ、この神の意志に従うことこそが「福音の真理」に沿う道であり、キリストへの信仰とは、人間の意図や宗教的な伝承(パウロの言う「律法」は、この場合ほとんど「宗教」に相当する)によらずして、継承によって生じる「この転位」を承認することにほかならない。彼は今、神の救済史の転換の最先端に立たされている、ということをはっきりと認識している。だからこそ、これに「逆行する」ことは、神の御心に背く行為にほかならないのであり、そのような者は、神から呪われるのである! この期に及んで、「今もなお」人の思いを優先させるなら、キリストの僕ではなくなるのである。パウロとユダヤ人キリスト教徒の「ある人たち」とが対立しているのは、まさに「この点」にある。それゆえに「ある人たち」にとっては、割礼を課すことが急務となる。彼らそのような「意図」をもって割礼を「強行しよう」としているのをパウロは見抜いている。それゆえにパウロは、自分の使徒職の正統性を訴えつつ、頑として自分の福音を譲らない。かくて、「割礼」が両者の間の福音理解のパラダイム転換の象徴とされることになった。
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