第1章 遣わされた者
ガラテヤ1章1節~5節
1人々を介してでもなく、また、人によるのでもなく、イエス・キリストと彼を死者たちの中からよみがえらせた父なる神によって使徒とされたパウロから、
2またわたしと共にいる兄弟たち全員から、ガラテヤ地方の諸教会へ。
3わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。
4主はわたしたちの罪のためにご自身を与えられて、わたしたちの父である神の御心に従い、今臨んでいる悪の世の中からわたしたちを救出してくださったのである。
5この神に世々限りなく栄光があるように。アーメン
裏切る者
「使徒とされたパウロ」、この書き出しはほとんどこの手紙の主題それ自体である。パウロがなぜ「使徒とされた」のか? ということが、まさにここで問われていて、この問いに答えるために、パウロはこの手紙を書こうとしている。なぜなら、彼が「遣わされた者とされた」(原語の「使徒」には受動形容詞の意味もある)ゆえんは、「人々からでもなく、人を通してでもない」からである。彼はどこかの教会の権威に支えられた資格を授与されて「使徒」に任命されたのではない。また特定の権威者から公認されて、使徒職に任ぜられたのでもない。言わば彼には、そのような人間的なバックとなる権威がいっさい存在しない。この無教会的な彼の「使徒職」は、それゆえ、「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神」によるほかはない。ここで問われているのはパウロの使徒としての「正統性」(legitimacy)なのである。
彼はひとりの思いあがった狂信的な「熱狂主義者」なのだろうか? 誰もが納得できる資格も権威も持たないままに、自分勝手に「使徒職」を自称する無資格の伝道者にすぎないのだろうか? それとも、彼もまた、ヨハネ福音書のイエスと同様に、「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになった」(ヨハネ7章28~29節)と言わなければならないのだろうか。その上で、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行なおうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」と言わなければならないのだろうか。こういうところにパウロも立たされている。
おそらくパウロのこのような発言の裏には、彼が使徒として「遣わされた」のは、父である神とイエス・キリストからである「と同時に」エルサレムの先輩の使徒たちの承認を得たからでもあるというユダヤ人キリスト教徒たちの認識がある。もしもこれが彼の使徒職を資格づけるのであれば、彼はまさにその資格のゆえに、「遣わした人たち」に束縛されなければならない。彼の使信は、「彼らの」使信から逸脱することは許されない。彼に与えられた神からの使信の内容は、「エルサレムの使徒たち」の使信の範囲内に留まらなければならない。エルサレムのキリスト教会の権威は、神殿の存在するエルサレムそれ自体の権威と重なるから、その限りにおいて、聖書(旧約)とユダヤ教の権威をその背後に帯びている。イエス・キリストのメシア性は、このような権威に裏付けられた教会の名によって、遣わされたパウロの背後から異邦の民へ向けて光を発する、ということであろう。そこではパウロはどこまでも「継承者」である。聖書の神からメシアであるイエス・キリストへ、イエス・キリストからエルサレム教会へ、そしてパウロへと続く継承の連鎖の中に留まり、そこから発言することが彼に期待されているのであり、これこそパウロが使徒として果たすべき役割ということになろう。
ところが彼は、この手紙の冒頭で、「そのような」使徒であることを拒否し、そうすることで、エルサレムの教会を支えるユダヤ人キリスト教徒たちからの期待を裏切るのである。かつてファリサイ派のユダヤ教徒たちをダマスコへの途上の体験によって裏切った彼は、今また、キリストの教会の期待を裏切ろうとしている。この二重の「裏切り」の背後に隠されているパウロの秘密とはいったいなんなのか? それが今彼に問われている。彼に寄せられていた至極もっともな期待とそれによって保証されたであろう使徒としての「正統性」をなぜ彼は自ら捨てようとしているのだろうか? なぜ彼は、自分の使徒職を正当化するために、律法と信仰とを両立させるような仕方で、教会から認められた使徒職の継承者としての名誉に留まろうとしないのだろうか? これがこの手紙の謎であり、同時に、この謎を解く鍵である。
遣わされた者
鍵のひとつは「イエス・キリスト」にある。イエス・キリストが彼に顕われて、そのイエス・キリストから「遣わされた者」として、彼はこの方の使信を宣べ伝える者とされた。彼はイエスに「出会った」。と言うよりは「遭遇した」と言うほうが正しい。なぜなら彼は、イエスの友としてではなくイエスを信じる者たちへの敵対者として、さらに言えば迫害者として、イエスに遭遇したからである。しかしこの出来事は決して自明なことではない。なぜならイエスは、十字架刑に処せられて死んだからである。そのイエスが彼に「死者」ではなく「復活者」として顕われたことは、復活者の顕現それ自体が驚異であるだけではなく、彼の全存在を根底から覆す衝撃を伴うという意味においても十分に「脅威的な」出来事だったはずである。それは、彼の眼前に「文字に書かれた文書を突きつけられる」(3章1節の「描き出される」の意味)のと同じ確かさと強制を伴って彼に迫り、彼が十字架のイエスが復活したことを確認「させられる」という仕方で起こったのである。こうして彼は初めてイエスがメシア=キリストであることを覚知し、イエスが「復活した」ことを知った。
しかし、人が「復活する」とはどういうことなのか? これもまた自明ではない。しかし彼には、幸いなことに、この不思議に対応できるすべが与えられていた。すでに彼以前にイエスの復活を信じた先達のユダヤ人キリスト教徒たちや異邦人キリスト教徒たちがいた。なによりも彼は聖書を知っている。同時に、この聖書にまつわるもろもろの伝承とこれらから編み出された神学を知っている。この聖書と先達のキリスト教徒たちを通して、彼は、自分の身に起こった出来事が、イエス・キリストの出来事であることを確信することができたのである。そこには、聖書を神の言葉として信じ受け入れてきたイスラエルの民の宗教的な伝統があった。これによって彼は、自分の身に起こったことが「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神」による出来事であることを知ったのである。
だが啓示はそれだけではないであろう。同時に、人の心の内面で生じる出来事でもあろう。それは、イエス・キリストが、御霊となって自分の内に働くという形で彼を突き動かす。しかもその体験は、「死」ではなく「命」そのものの働きとなって、現に今彼を押し包んでいる。暗闇へと引きずり込む亡霊の誘いではなく、内にあふれる喜びとなって湧き出す命の泉を彼は知った。このようにして彼は、イエス・キリストとの出会いによって、今まで体験したことのない喜びと平安を見いだしたのである。
聖書によれば、神は、天地の創造主である。だが「創造」とは神のもろもろの属性のひとつではない。そもそもわたしたちは、「創造する力」とその結果である被造物を通して初めて、「神」そのものと出会うのではないのか? 「創造」はわたしたちが多少とも知っている神の属性ではなく、創造において初めて神それ自体と出会うのではないのか? この認識に立って初めて、わたしたちは、人間をも含む宇宙を創られた神秘な存在を人格的に「神」と呼ぶことができるのであろう。しかしパウロはここで、そのような神について語ろうとしているのではない。彼は「イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた」方として、「父なる神」を語ろうとしている。パウロは、「この意味で」万物を創造した主である神を「父」と呼ぶことができるのであろう。パウロもまた、他の多くのクリスチャンたちと共に、「復活したイエス・キリスト」という出来事と、この出来事を創り出された神のみ業に与り、この出来事を自分で霊体験することになった。
ところが、このように衝撃的な出会いを通じて彼に臨んだイエス・キリスト「その方の代理」(これが「使徒」の本来の意味)を務める者が、今のところ彼以外に存在しない、ということが現に生じている。だから彼の使徒としての権威は、父である神とイエス・キリストによる以外にはない。彼が伝える福音の「正統性」も彼に託された使徒職と同様に、その権威は、ひとえに彼の父なる神と御霊にあるイエス・キリストに由来する。遣わされた者ではなく、遣わした者にこそその全責任が負わされている以上、「イエス・キリストの奴隷」であるパウロではなく、その主人のほうにこそ、パウロの使徒職の「正統性」に対する責任と権威がかかっている。パウロは、自分に課せられた使命職を「このように」理解している。この意味において、彼の使徒職の正統性は、エルサレム教会の使徒たちにいささかも劣るものではないというのが、ここでのパウロの主張である。
イエス・キリストにある継承
パウロは、「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」使徒とされたと言う。ガラテヤの異邦人に向けて福音を語るに当たって、彼は、後にマルキオンが行なったように「父である神」を省く、ということはしない。なぜなら、彼はここで、旧約の聖書的伝統に基づく神を排除しようとしているのではないからである。彼の福音は従来の宗教的伝統からの断絶ではない。しかし同時に強調しておかなければならないが、それは決して連続ではない。パウロの福音は、従来の聖書解釈に基づく信仰を「継承する」ものである。しかもその継承が、「人によらず」イエス・キリストから直接に託された使信であるがゆえに「正統な」継承であるということ、これがパウロがここで強調したいことなのである。
パウロはユダヤ人として、神を存在論的にではなく「語りかける」神として、とりわけ人間に向かって言葉を発し、それによって「現実に働く」神を考えている。だからイエス・キリストに救われた今、彼が神を語る時には、現実に彼に語りかけ父を啓示してくださった「イエス・キリスト」を通して働く方以外に、神を想像することができない。それまでも神という言葉を知らなかったわけではない。だが、「死者からの復活」は、復元ではない。それは創造であり、しかも「新たな」創造である。彼はこのような神をいまだ知らなかった。「目いまだ見ず、耳いまだ聞かなかった」このような出来事を誰が想像できただろうか? このような神は、ただ、このような神に「知られる」ことによってのみ「知る」ことができ、「見られる」ことによってのみかすかに「見る」ことができるだけである。だから彼は、イエス・キリスト「を」語ることはできない。ただ、イエス・キリスト「にあって」語らしめられるのである。言い換えるなら、彼は、イエス・キリストとの出会いによって、全く新たに「神」を「父」としてとらえ直した、と言うより「とらわれた」ことになる。
啓示とは本質的に共同体的である。だからパウロの伝える福音が、従来の伝統的な信仰からいかにかけ離れているように見えても、彼が伝えるのは「使信」であって「私信」ではない。彼は常に「わたしと一緒にいる兄弟一同」との交わりの中から語る。キリストの御霊は本質的にコイノニア(交わり)である。パウロの周辺には、たとえ小さくとも、そのような「交わり」が確実に存在している。人の権威や組織の力に支えられなくても、今まで存在したことがないイエス・キリストにある「交わり」が神によって「生まれ出ている」。このことを「わたしと一緒にいる兄弟一同」が証ししている。これに続くギリシア式(恵み)とヘブライ式(平安)との挨拶の組み合わせは言うまでなくパウロ独自のものではない。彼はこの挨拶でガラテヤの諸集会に語りかける。それは個人的ではあっても私的ではない。なぜならここで語られることは、「神の」使信にかかわることであり、それゆえに本質的に共同体的だからである。
パウロが語りかけるのは、「ガラテヤ地方の諸教会」である。ここで言う「ガラテヤ地方」が、北部のガラテヤ人たちの住む比較的限られた地域を指すのか(北ガラテヤ説)、それともローマ帝国の州区分による小アジアを縦断する広い地方を指すのか(南ガラテヤ説)は、さしあたりそれほど問題ではないであろう。また、この手紙が、エルサレム会議以前に書かれたものなのか、それともそれ以後なのかも、手紙の主題の本質的な重要性にそれほど影響しない。わたしが今ここで追求しようとしている「信仰の継承」とこれの「正統性」という主題に照らしてみるなら、書簡の宛先とこれの年代は、両説どちらに従ってもそれほど大きな問題ではないからである。どちらにせよ、「ガラテヤ地方の諸教会」とは、それほど大きなものではなかったであろう。おそらくは、家を中心にした比較的少人数の人たちの集まりが、幾つか点在した状況を思い浮かべても誤りではないであろう。
大事なことは、この手紙が、これらの小さな幾つかの集会に宛てられているというその事実のほうにある。この比較的短い書簡は、パウロに関する最も信憑性の高い資料として様々な視点から分析されている。これは使徒言行録と併せてパウロの伝記的な年代確定の基準となる書簡である。さらにパウロの論争相手と予想されるユダヤ人キリスト教徒たちとはそもそもいかなる人たちなのか? とりわけ割礼を含む「律法」とパウロの伝える「福音」との関係はどのように理解すべきなのか? この書簡に含まれているこれらの諸問題は、パウロの信仰理解のみならず、新約聖書全体の神学的課題と関連している。しかしながら、これらのもろもろの問題は、ここでのパウロの「第一義的な」関心事ではない、ということも見逃してはならないであろう。彼の論敵と見なされるおそらくはユダヤ人キリスト教徒たちさえも、ここでの彼の主たる関心事ではない。彼らについては手紙の中で「ある人々」とか「あの者たち」(4章17節)として触れてあるだけで、パウロは一度も彼らの正体を明らかにしてはいない(ペトロさえも明らさまに批判しているのに!)。それよりもパウロにとっては、ガラテヤの信者たちの信仰それ自体のほうがはるかに重要なのである。この手紙で論じられている福音のテーマは、まさしく「彼らガラテヤの人たち」に向けて、彼らの信仰について語られている。この自明のことをここで改めて確認しておく必要があろう。
使徒職の正統性
彼の携えている使信は、いかなる意味においても彼自身の発案ではない。「ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったキリスト」こそ、彼が原初キリスト教会から受け継いだ使信にほかならない。しかも、原初教会からのこの使信は、イエス自身の言葉によって裏付けられている(マルコ10章45節)。さらにさかのぼるなら、イエス自身もこの使信を捕囚の苦難の中での預言者の声から聴き取っている(イザヤ53章)。すなわちパウロに託されている使信は、確実に彼自身が原初教会から受け継いだものであり、原初教会の先達たちもこれを主と仰ぐ方から受け継ぎ、主もまたはるか以前の預言者からの声を木霊している。このような「継承の連鎖」の中に身を置いて語る時に、その人に託された使信は断じて私信ではありえない。だから彼は、自分に託された使信が、誤解され歪められ、本来それが指し示す方向から逸脱する危機に直面した場合には、断固としてこれを阻止しなければならない。「ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったキリスト」というこの一句には、彼に託された使信のほとんどすべがかかっているからである。
彼が今この手紙を書いているのは、イエス・キリストを遣わされた父なる神が、キリストを通じて行なおうとしていることにかかわる。キリストは今、「この悪の世からわたしたちを救い出そう」としているのである。手紙の相手と自分とを含めて、自分たちを「この悪の世から解放」してくださったのは、聖書の父の神の意志に基づくイエス・キリストのみ業である。パウロはここで、ユダヤ教の伝統的な「この世」を原初キリスト教会が言う「来るべき世」から区別しようと意図しているのではないであろう。そうではなく、彼の目には、ガラテヤ人が陥っている「さしあたっての誤謬」とこれをもたらす「悪の力」がはっきりと意識されている(「この」悪の世を「今差し迫って現存する」悪をもたらす時代と解することもできる)。
彼の福音理解には、ユダヤ教世界が意味してきた「この世」も含まれてはいる。にもかかわらず今や新しいイエス・キリストの福音の時代が訪れた。この両者の狭間に生じたのが、彼が直面しているガラテヤの人たちの間の「さしあたっての悪しき誤謬」である。しかも、その二つの時代の狭間にあって、彼がその「悪しき誤謬」を克服しなければならないというまさにそのことが、父である神の意志に基づいて生じていること、そして、まさにこの点において、彼の福音理解の「正統性」が試され、かつその点にこそ、彼の使徒職の意義が存している、ということがここで認識されなければならない。だから「今のこの悪の時代」から「救出する」とは、悪の時代から別の世界へと移し変えられることではない。問題が具体的であればあるほど、その奥には、霊的かつ神学的な深みがよこたわっていることを彼は知っている。だから「差し迫った」悪の働き(この手紙の主題!)から手紙の相手が「救出される」ことが、彼にとっての急務であり、このために彼は、福音理解の根本にさかのぼって、「福音の真理」を再認識させなければならない。
パウロは、冒頭の挨拶で、「父なる神」を三度繰り返すことによって、自分の使信が「わたしたちの父である神の御心」から出ていることを確認する。また彼は、イエス・キリストと父である神との組み合わせをこの短い挨拶の中で二度繰り返し、しかも「キリスト」をほとんど神自身と同等においている。ごく最近まで唯一神教のユダヤ教の訓練を受けていた者として、これは驚くべきことであろう。しかもここでの「父である神」に示されるパウロの神理解は、存在論的でもなければ属性論的でもない。神の業は、彼の使徒職との関連においてとらえられ、イエス・キリストを賜わったことについて語られ、イエス・キリストが贖罪のためにご自分を捧げたことについて説かれる。神は、その働きにおいて、徹頭徹尾機能的である。「行為する」神とイエス・キリストの「働き」にこそ、パウロの神観の本質がある。
パウロは、この神の御心に従い、神に栄光が「代々限りなく」あるようにと祈る。「代々限りなく」は、ここでは「過去のもろもろの時代から(現在を経て)未来のもろもろの時代にまで」という本来の意味を込めて用いられているのであろう。おそらくパウロは、この句に「過去の時代」と「これからの時代」との継承関係を意識しているのであろう。なぜなら、パウロは、この手紙で、「神の経綸」による時代の区切りをはっきりと意識しているからである(この句は単なる「永遠に」ではなく冠詞を伴う強調形が用いられている。原語は本来七〇人訳にさかのぼるが、この言い方は、パウロとヨハネ黙示録にのみ表われる。ただし当時行なわれていた二千年単位の経綸説をここで必ずしも意識する必要はないであろう)。
パウロの信仰の「正統性」は、それゆえに、従来までの聖書解釈に基づくユダヤ教の宗教的正統性と対決し、これを凌駕する可能性を秘めていることにある。このことと彼が自分の使徒職の正統性を冒頭において明言していることとは無関係ではない。なぜなら、彼の伝える福音の「このような」正統性は、彼が後述しているように、全キリスト教会の間においてさえ決して自明なことではないからである。この事情は、彼の使徒職を証言してくれる者が、ペトロを含むエルサレムの指導的な使徒たちの間にさえ誰も存在しないという事実によって示されている。パウロの盟友であるバルナバでさえ、「この点」に関しては曖昧である! したがって、彼の使徒職は、さしあたり彼が受けたイエス・キリストの御霊による示し以外に、これを公認するものは存在しない。