「霊の人」と永遠の命 現在の人類(ホモ・サピエンス)は、別名「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)と呼ぶこともできます。新約聖書には、この「宗教する人類」に対して、神は、その御子イエス・キリストを通じて「永遠の命」を賜(たまもの)として授与されたとあります。神の御子を受け入れて永遠の命を宿した人間は、ホモ・サピエンス(英知の人)から「ホモ・スピリトゥス」(霊の人)へ変容します。では、「永遠の命」とホモ・スピリトゥスとは、どのような関係にあるのでしょうか?
この問題について、わたし自身の解釈の前に、現在、主としてプロテスタントの聖書的な教会で広く受け入れられている解釈を紹介します〔山口希生「神の王国」第21回:神の王国と『天国』。『船の右側』(2019年4月号)〕。その後で、わたし自身の解釈をお話しします。どちらの解釈を選んでも、現在の日本のキリスト教神学から見て「異端」ではありませから、クリスチャンは、以下のどちらでも選ぶことができます。ただし、相互に理解し合い交わりを保つことが大事です。日本の仏教界でも、浄土真宗と禅宗と日蓮宗が、互いに認め合いながら共存していますから。
【A】以下は、現在の日本で、主としてプロテスタントの福音主義の教会で広く受け入れられている信条のあらましです。これによれば、神の御子イエス・キリストを信じるクリスチャンには、空間的に見れば「パラダイス」と呼ばれる「天国」が備えられていて、クリスチャンの「霊魂」は、「死後直ちに」この天国で、永遠の命に与(あずか)ることになります。ところが、時間的に見れば、全人類には、終末の訪れの時が来ます。この時、イエス・キリストが再臨して、全人類に「体の甦(よみがえ)り」が起こり、人は、それぞれの信仰と行ないによって裁かれます。ある者は救いに入れられ、ある者は断罪されて、神とキリストに敵対してきたサタンと一緒に地獄の火で焼かれることになります。これが、新約聖書の言う「終末」と「新天新地」の訪れです。
この立場では、イエスを信じる「霊の人」には、死後直ちに天国へ召される「霊魂」と、終末になってよみがえる「身体」との二つが具わっていることになります。だから、「霊の人」においては、「聖なる霊魂」とその人の「身体」との関係は、ギリシア思想の「霊魂と肉体」の二元論に近くなります。人の霊魂と身体が、はっきり区別されているからです。ユダヤ教の黙示文学の一つ『アブラハムの遺訓』(ギリシア語で、成立は2世紀ですが、その原本はヘブライ語で前1世紀にさかのぼるか?)では、「天的な霊魂はみな、天使のように、身体のない霊的な存在」だとあります〔『アブラハムの遺訓』『聖書外典偽典別巻(T)関根清三訳』〕。だから、神に召された人が「死ぬ」と、その霊魂は、その身体から離れて神のもとへ昇りますが、 逆に罪人の霊魂は、暗い陰府に留め置かれて、終末の裁きの時に、恐ろしい刑罰が臨みます。
この立場では、死後直ちに起こる天国への「魂の昇天」と、人類の終末における「全人類の身体の甦り」との二つの関係が問題になります。この空間的と時間的との二つ出来事の間にあるのが、イエスが伝える「神の国/支配」です。だから、「神の国/支配」は、個人の死後の昇天と、終末での全人類の身体の甦りとの間の期間にかかわることなります。「神の国」は、個人の昇天の段階では、まだ未完成で、終末の人の子の再臨の時になって初めて完成されるのです。終末の訪れの時に初めて、天国に居て救われた霊魂には、それぞれの霊魂に固有の「復活の体」が与えられます。だから、「霊の人」は、終末での「からだの」復活を経過して初めて、自分固有の「霊の体」が与えられて、「新天新地」に住むことになります。
こういう解釈は、イエスが来た前後2世紀にわたる黙示思想の影響を受けていますから、新約聖書をユダヤの黙示思想/文学の視野から読み解こうとします。この解釈は、ヨハネ黙示録を含む新約聖書の辞義通りの記述と合致しますから、世界のプロテスタントの福音主義の教会で広く受け入れられています。
【B】では、これから、わたし自身のこの問題についての解釈をお話しします。わたしの解釈は、現在行なっている共観福音書講話と注釈から学んだこともありますが、同時に、共観福音書をさらに霊的に深めて解釈しているヨハネ福音書から学んだことが大きいです。これに、今までのわたし自身の異言を含む聖霊体験が加わります。結論を先に出しておきますと、わたしの解釈は、【A】とは、次の三つの点で異なります。
(1)わたしは、人を「霊魂」と「身体」とに分けません。だから、「霊の人」の実体験としては、過去から未来への全人類は、それぞれの人が死を迎えるその「時の場」で、その人固有の「姿形を具えた人格体」が永遠に定まり、終末の裁きに面することになります。
(2)〔A〕では、全宇宙が滅び去った(消滅した)後に新天新地が訪れます。しかし、わたしは、現在の全宇宙が無くなっても、そこからまた<新たな宇宙が>誕生することがありえると考えています。だから、わたしは現在の宇宙の有り様から超絶した形而上的な絶対の「永遠」を考えてはいません。旧新約聖書の「永遠」とは、日本語の「幾久しく」のように、「いつまでも続く」という素朴な「永遠」だからです。神様の宇宙は、現在の宇宙の時代が過ぎ去っても、一つの時代(アイオーン)から別の時代(アイオーン)の宇宙へと「幾久しく」続くと考えます。だから、聖書の「新天新地」とは、もろもろの「時代」の一つの区切りのことになります。
(3)これらの二つは、聖書的な視野に立つ神の救済史に基づく解釈ですから、〔A〕と対立するものではないと思っています。ただし、わたしは、永遠の救済史に加えて、現在の人類について、ここ何十万年かにわたる「人類の進化」を神の御霊の働きと関連づけて見ています。これは自然科学的な人類史ですから、御霊にある「霊の人」は、救済史的な永遠性だけでなく、ここ十万年単位で、人類の進化にも影響を与えると見るのです。
以上の三点を念頭に置いて、なぜそういうことが言えるのかをこれから順を追ってお話ししたいと思います。
【ナザレのイエス】
ヨハネ1章には、宇宙を創造された神が、神からの永遠の生命を宿す神の言葉(ロゴス)を一人の人間としてこの地上に遣わし、この一人の人を通じて、宇宙創造の神自身が、初めて人類に啓示されたとあります。これが歴史の「ナザレのイエス」です。だから、イエスの言葉とその業だけでなく、その身体をも含むイエスの全存在、全生涯が、そのまま「(天地創造の)神を啓示する出来事」になります。この出来事は、神のロゴスの「受肉」と呼ばれていますが、ヨハネ福音書には、これが、神から人間への驚くべき「恩寵の顕れ」として語られています。わたしは、この「ナザレのイエスの出来事」こそ、新約聖書の福音の源泉だと見ています。
わたしたち人間は、この受肉の出来事をどのようにも「解釈する」ことができます。しかし、この出来事の場合は、神とは何か、受肉とは何かを解釈したり論じたりする前に、先ず、この出来事に<出逢う>人に、これを「受け入れる」のか、「拒否する」のか、これを信じるのか、否定するのか、その人の受肉に対する根本的な態度/姿勢が問われることになります。神は、ナザレのイエスを通して、神の有り様を「解き明かす」のではなく、受肉のイエスを「神の言葉」として、人々に「語りかける」、言い換えると人々に「働きかける」からです。だから、ナザレのイエスの出来事は、これを受け入れる人には「恩寵」となり、これを拒否する人には「裁き」となります。このイエスの出来事は、この世の人間に「恩寵の信仰」と「裁きの躓き」の両方を表裏一体の形でもたらすのです。
【永遠の命と身体】
わたしが「イエスの霊性」と言う時、それは、イエスの心霊に宿った神の聖霊を指すだけでなく、「霊性」は、イエスの言葉もイエスの「身体の働き」もすべてを含んでいます。神御自身が、一人の人間の人格的霊性と成って現われ、その人の心身を通じて、神御自身を啓示したからです。イエスは、十字架の受難を経ることで復活して昇天しました。これは、かつて地上に現われたイエスの霊性の臨在が、現在も変わることなく、地上にいてイエスを信じる人を通じて再現されるためです。この目的のために、イエスの父なる神は、イエスの御霊(聖霊)をこの世にいる人間に遣わしたのです。だから、宇宙を創造された神御自身の聖霊が、かつてのイエス同様に、わたしたちにも働いてくださいます。こうして、かつてイエスに宿り、イエスに復活と昇天をもたらした「永遠の命」が、イエスの御霊となって、現在この世に居るわたしたちにも働くことになります。
では、この御霊の働きとわたしたちの身体とは、どのように関わり合うのでしょうか?実は、わたしがこの問題を扱った「『自然の体』と『霊の体』」が『船の右側』(2017年5月号)に掲載されました。今回は、特にヨハネ福音書から、イエスの御霊とわたしたちの身体との関わりを学びたいと思います。
共観福音書は、御霊の働きを人の身体の働きから区別しながらも、病人の人体の「癒し」を「救い」として記述するなど、神の聖霊の「救い」の働きに、人の人体をも含めています。ヨハネ福音書にも、人間の身体的な命と聖霊の命とを区別している?とも受け取れる箇所があります(ヨハネ12章25節=マルコ8章35節=マタイ10章39節)。けれども、ヨハネ福音書は、共観福音書に見られないほど、神の御子として遣わされたナザレのイエスにおいて、神の聖霊のお働きが、人間の身体と密接に関わっていると言われています。ヨハネ福音書では、「未来に」訪れるはずの終末が、すでに「現在の」わたしたちにおいて実現していると言われるほど、イエスの御霊の働きが強く現臨しているからです。このことは、ヨハネ福音書のイエスの言葉、とりわけ以下の二箇所に顕著に表われています。
「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へ移っている。よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。」
(5章24〜25節)〔聖書協会共同訳〕
「私は復活であり、命である。
生きていて私を信じる者は誰も、
決して(永遠に)死ぬことはない。」
(11章25〜26節)〔聖書協会共同訳〕
ここでは、「死から(永遠の)命へすでに移っている」「今がその時」「(この世で)生きていて(「生きながら}のこと)」イエスを信じる者は永遠に死ぬことがない」のように、聖霊の永遠の命が、<すでに現在において>、信じる者に与えられ働いているという印象を受けます。とは言うものの、共観福音書との整合性を意識したのでしょうか、5章24節は「<終末での>体の復活を信じることによって、永遠に生きる<備えをする>こと」〔バルト『ヨハネ福音書』〕だという解釈があります。11章25節は、「信仰者は<地上で死ぬ>としても、より高い窮極の意味での生命を持っている」〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕と解釈されていますが、これでは、「より高い」永遠の命を、「この世で」すでに持っているのか?いないのか?はっきりしません。フランシスコ会訳は、11章25節に、「イエスを信じる者は、この世の命に死んでも、永遠の命に生き続ける」と注をつけています。「生き続ける」永遠の命が死後に始まるのなら、「この世で死んでもあの世で生きる」ことになりますから、「この世の命」と「永遠の命」が、<時期的に>どういう関係にあるのかがはっきりしません。このように、これらの節の解釈には、「意図的な曖昧さ」が見受けられます。
これに対して、ヨハネ福音書は、「永遠の生命」と「自然の生命」とを<同時的に共存させている>という解釈があります〔C・H・ドッド『第四福音書の解釈』〕。5章24節では、「今、すでに、ここで、地上で、その永遠の命が<始まっている>」という解釈です〔蓮見和男『ヨハネによる福音書』〕。イエスの頃までのユダヤ教では、神の義人は、たとえ死んでも、主なる神の到来の時に復活して、彼がかつて「この世」で生きた生命が、「来たるべき世」においても継続すると信じられていました。ヨハネ5章28〜29節は、ユダヤ教のこの信仰(例えばダニエル書12章2節)を受け継いでいます。ところが、ヨハネ5章24〜25節では、ユダヤ教の義人に授与される「来たるべき世」の永遠の命が、「この世にいる」信仰者へ「移し替えられて」いるのです。その結果、11章25〜26節でのラザロの生き返りにおいても、イエスの言う「復活」は、この世にあって、すでに身体に起こる「甦り」をも表象していることになります。信仰者は、マルタの想いとは異なって!「今ここで」永遠の命を所有しているのです。ただし、こうなると、それまでのユダヤ教の言う「この世の生命」と「来たるべき生命」との<同質的な>継続が、ヨハネ福音書においては、自然の命と永遠の命との<質的な違い>として認識されることになります〔ドッド『第四福音書の解釈』〕。だから、「永遠の命」は、この世の身体的な命と共存しながらも、質的に異なる命のことになります。
永遠の命と、現在のわたしたちの身体とは、全く無関係なのでしょうか?5章24〜25節は、身体的に死んだ者のことではなく、この世で<霊的に死んでいる>状態にある一般の人が、その「霊的な死」の状態から「転移されることで」、<すでに今この世で>永遠の命によって活かされることです。だから、ラザロへのイエスの呼び声は、この世にありながら、霊的な命だけでなく、身体の甦りの命をも同時に表象していることになります〔バレット『ヨハネ福音書』〕。5章25節の「今がその時」は、終末の到来の時の命を「現在において持つ」ことを意味しており、ヨハネ11章のラザロの生き返りは、終末の時に起こる(体の甦りを含む)出来事への予兆なのです。だから、イエスは、現在この世で、すでに終末の働きを行なっていると見るのです〔キーナー『ヨハネ福音書注解』(1)〕。
こういう不思議な力は、どこから生じるのでしょうか?「宗教する人類」の原罪を赦す絶対恩寵の働きによって初めて、人は、己の原罪を洞察することを通じて、無力無心へと導かれ、その行き着くところでは、主イエスの赦しの恩寵から発する<途方もない霊の働き>を知るようになります。その力は、ナザレのイエスの十字架の贖いの働きから生じるものです。「まことの霊能」とは、このような霊性から発出する力のことです。だから、パウロはこう言いました。「罪の自覚が深まるほどに、そこから恩寵がいっそう湧き出るのです」(ローマ5章20節)。さらにこうも言いました。「今生きているのは、実はわたしではない。わたしのこの自然のからだにあって、働いておられるのは、復活してキリストとなられたあのナザレのイエス様なのです。神の御子が、このわたしの罪のために十字架で御自身を犠牲とされた出来事から発する神の働きが、わたしに生じているのです」(ガラテヤ2章20節)。
【絶対恩寵の働き】
私は先に、ナザレのイエスの出来事こそ、新約聖書の福音の源泉だと言いました。しかも、その出来事は、不可避的に「躓きと裁き」をもたらすことも指摘しました。では、その躓きと裁きの裏には何が潜んでいるのでしょうか? 今一度、ヨハネ5章24節とその前後に戻ってみましょう。
5章22節に、「父なる神はすべての裁きを御子に委ねた」とあります。神の創造した大自然に人が接するとき、大自然は人に何も言いません。人を判断することも裁くこともしません。しかし、人のほうはそうではありません。大自然に接して、神を信じる者あり信じない者あり、善を求める者あり、自然に背く者ありで、人の自然への反応は千差万別です。大自然は、何も言わず何もしないのに、自ずとこれに接する人の心を明るみに出し、人それぞれは、「自分が判断する」ことによって判断されます。
このように、「ナザレのイエスの出来事」それ自体は、これに接するすべての者に、どのような判断をも可能にします。しかし、人それぞれは、それぞれ自分自身の判断(裁き)によって、逆に判断されます。だから、御子を通して神御自身を啓示する「この出来事」が伝えられる時に、躓きが生じるのは避けられません。「神の出来事」を判断し理解することが人には<できない>からです。けれども、この出来事に接し続けるうちに、人は、自分が裁き裁かれるところに赦しが働き、自分が躓くところに救いが顕れる不思議を見出すようになるのです。その不思議な力は、ナザレのイエスの働きから生じるものです。ところが、そのイエスは、なんと、「アーメン、アーメン、わたしは自分からは、何もせず、何もできない。ただ父が行なうそのとおりに行なう」(5章19節)と言うのです。絶対無力の神の御子イエスが、十字架にかかり、人類の罪の赦しのための贖いの犠牲となった。これこそが、ナザレのイエスの出来事が人類に向けて発信する「ほんとうの真実」であると新約聖書は証しするのです。
いったい何が起こったのでしょうか?「父を離れては、なにもできないのであって、父なる神に従うなら、すべてのことができるのであります。わたしたちが『自分からは何もすることができない』と言うとき、神において、すべてができるのであります。全能のなんでもおできになる神が、『できない』神になったのです。何と驚くべきことではないでしょうか。まるで何でもできる天才が、『できない』劣等生になったようです。『その完全な自己放棄こそが、彼(神の御子イエス)をゆるぎなく、無限に豊かで、永遠に生きる人格とする』のであります」〔蓮見和男『ヨハネによる福音書』〕。
こういう事態は、人の躓きと裁きをも克服する「神の恩寵」の働きから生じるものです。これが、ナザレのイエスの十字架の出来事を通じて人類に啓示されたことを新約聖書は証しするのです。それは、人間の不義を通じて神の義が啓示され、人間の罪を通じて神の赦しが啓示され、人間の無力を通じて神から人間に与えられる驚くべき力が啓示され、人間の肉の体を通して、人間に神から授与される霊のからだが啓示されることです。イエスの十字架に出逢うことで生じる人間の自己否定こそ、最大の自己肯定へ逆転する神の赦しの絶対恩寵の働きなのです。このような言い方は論理にこだわる人の誤解を招くでしょうが、人は、その罪性を知る時にしか赦しが見えません。弱さを知る時にしか自分の強さが発見できません。肉のからだにすぎないことを悟る時にしか、霊の体は顕れないのです。このような<逆転する赦しの恩寵>の光の下に、「宗教する人」のあらゆる宗教が照らし出されること、これこそが、ナザレのイエスから発する十字架の恩寵の働きなのです。人間の罪を逆転させる赦しの絶対恩寵こそ、多様の中の一致を支える柱なのです。
己の罪性、己のいたらなさ、己の失敗などの出来事を乗り越え、あらゆる苦難を克服して、なおも働き続けるのが神の絶対恩寵です。このことが彼/彼女に啓示される時、人は、「御栄光神にあれ!」と、ただひれ伏してこれを拝し賛美します。だから、絶対恩寵とは、神御自身のことにほかなりません(ヨハネ1章18節/ローマ11章33〜35節)。
【「霊の人」の時代】
このように、「霊の人」ホモ・スピリトゥスには、イエス様を受け入れたその時から、イエス様の霊性と同じ聖霊の働きが始まると考えられます。キリスト教徒が「新生」と呼ぶのはこのことです。従来のホモ・サピエンスから新たなホモ・スピリトゥスへ「転移する」ことで「生まれ変わる」のです。当然、この「霊の人」においては、ナザレのイエスに働いていたのと同じ聖霊の働きが、「その人の身体」をも通して現われます。「霊性」とは、人の霊も心も身体もすべてを含める言い方だからです。イエス様の御霊は、その人の心と知力に働くだけでなく、異言となり、霊歌となり、身体の癒しなどとして現象します。聖霊の働きを受けるところに生じるこの身体的な「変容」は、ホモ・サピエンスの人から見れば、ごくごくわずかで精妙です。しかし、永遠の霊性は、確実に人の心だけでなく、人のからだにも影響を及ぼし続けます。
だから、イエスを信じてホモ・スピリトゥスとされた人類は、何万年か何十万年か後には、現在の人類とは異なる新たなホモ種へと変容することが予測されます。猿人から700万年を経ている「ホモ」(人)は、現在のホモ・サピエンスに到達するまでに、少なくとも20種類の異なる「ホモ」の分岐と進化を経過しています。それらの進化の過程は、ごく微妙な心身の「変容」から始まりましたが、それが長い年月を経るに連れて、絶滅と繁栄を分けるほどの大きな差異を生じさせてきたのです。
神による人類の「救済史」と自然による人類の「進化の歴史」を同一視することはできませんけれども、二千年前のナザレのイエスの出来事を機に、ホモ・レリギオースゥス(宗教する人類)の素質を具えたホモ・サピエンス(英知の人)に、何か大きな変革が生じたと考えざるをえません。宗教的な救済史と自然科学的な人類史は、相互に関連し合うからです。現在、ホモ・サピエンスは、地球全体を覆い尽くすほどの繁栄の絶頂にあります。しかし、あえて予測するなら、過去のホモ科同様に、何十万年か、百万年か後には(?)絶滅を免れえないでしょう。しかし、神は、すでに新たなホモ・スピリトゥスを創造しつつあるのではないか。そんな気がします。終末がいつどんな形で訪れるのか知るよしもありませんが、聖書が伝える「新天新地」とは、ホモ・サピエンスの時代が過ぎ去り、ホモ・スピリトゥスの時代が始まる時、新たな「霊の人」の目に映る宇宙の姿のことかもしれません。
【召天と人格の復活】
最期に、先の【A】の項で見たように、新約聖書で預言されている「終末における人類の体のよみがえり」について考察しなければなりません。【A】では、人の霊魂と身体とを分けることで、救われた霊魂は直ちに天国へ、遺された身体は終末での甦りへと、空間的、時間的に区別されていますから、この二つを併せて初めて完全な「復活」が成就します。
では、その「復活」は、どのような様態なのでしょう? わたしは、ここでも、聖書に証しされているナザレのイエスの復活のことしか、想い描くことができません。具体的には、ヨハネ20章14〜17節でのマグダラのマリアへの顕現であり、同19〜23節の弟子たちへの顕現、同26〜28節のトマスへの顕現、ヨハネ21章4〜14節でのガリラヤ湖畔での顕現です。これに、ルカ24章13〜31節のエマオ途上の二人の弟子への顕現を加えてもいいでしょう。
これらの復活顕現を見るとき、イエスの霊魂と体が分離した復活の様態を想い描くことが、わたしにはどうしてもできません。そこで証しされているのは、その人が誰であるかを判別できる「姿形(すがたかたち)」であり、その姿形が「イエス固有の人格」を顕していることです。新約聖書は、わたしたちもまた、イエスと<同じ>復活の様態へと「変容(メタモルフェー)する」と証言しています。これが、わたしの想い描くことのできる「復活」の様態です。
では、それはいったい<何時>起こるのでしょう?ヨハネ福音書で言えば、マグダラのマリアへの顕現はイエスの在世中の姿であり、弟子たちへの聖霊授与の顕現は昇天以後の姿であり、ガリラヤ湖畔での顕現は、昇天から終末の再臨の間の期間のイエスの復活様態のことになるのでしょうか? ルカは、イエスが昇天したと「同じ姿で」終末にも再臨する(使徒言行録1章11節 )と伝えています。復活様態に時間差がないのは、イエス様だからであり、わたしたち人間には霊魂の昇天と体の復活の間に時間差があるのでしょうか?しかし、ナザレのイエスは、神の霊性を有しながらも、わたしたちと「同じ人間」になられたのです!わたしたちはここで、「終末と時間」という難しい問題に直面します。「終末」は宗教的な「時」を意味し、「時間」は物理的な概念ですから、ここでは、救済史の「霊の人」と人類史的な「自然の人」とが出逢うことになります。宗教と自然科学の両方を橋渡しするのは哲学しかありません。幸い、わたしたちには、こういう「心霊の事実」を扱った西田哲学があります。
「我々の自己は、単に物質の如く、空間的に働く所にあるのでもない、また単に非空間的にすなわち時間的に、いわゆる精神的に、意識作用的に働く所にあるのでもない。どこまでも時間空間の矛盾的自己同一に、絶対現在の自己限定として創造的に働く所にあるのである。いわゆる時間空間の矛盾的自己同一に、絶対現在の自己限定として創造的に働く所に在るのである。」〔「場所的論理と宗教的世界観」(1946年)〕〔西田幾多郎『西田哲学選集』第三巻:宗教哲学論集:上田閑照監修:灯影社(2001年)〕
これをわたしなりに分かりやすく言えば、現在のわたしたちがいただく聖餐は、イエス様が、過去に最期の晩餐の席で弟子たちに授与されたイエス様の「体と命(血)」でありながら、わたしたちは、これを「現在の出来事」として受け取ります。だからこそ、聖餐のパンとぶどう酒を通じて、現在のわたしたちの体と心霊が、復活して現臨するイエス様の霊性に与ることができるのです。しかも、この聖餐は、わたしたちが「終わりの日に復活する」時をも顕します(ヨハネ6章54節)。だから、聖餐の時間にあっては、過去(最後の晩餐)と未来(終末の再臨)とが、現在(聖餐を受けるわたしたち)において、一つになります。西田哲学では、宗教的な時と自然科学の時間との区別がありません。そもそも「時間」とは、過去も未来も、「現在の場」として実在するものだからです。わたしたちは、この意味での「現在」を生きながら、<同時に>過去と未来を生きていることになります。ところで、「過去・現在・未来一如」のこのような聖餐の場は、量子物理学で言う「素粒子」の世界にも通じるところがあるのでしょうか?
ダンテの『神曲』では、人が死ぬと、ある者は地獄へ、ある者は天国へ、ある者はその中間の煉獄(ここは、この世での人の霊性のことか)へと千差万別に分かれます。しかも、地獄では、その人の死の時の霊性のままで刑罰を受けながら終末を待っています。だから、死後の状態が永遠に続くことになります。言い換えると、過去、現在、未来にわたる人類は、個人の死のその時に、その人の霊性が、その人固有の姿形を帯びた様態として「永遠に」確定されるのです。ある者はその場からイエス・キリストと共に居る場へ直結し、ある者は終末の裁きの場に直結します。個人の死から終末の全人類の甦りまでに介在している「時間的あるいは空間的な違い」は、こういう時空一如の場では成り立たないのです。
ヨハネ黙示録の場合を考えてみましょう。新約聖書には、終末は何時起こるのか誰にも分からないとあります。だから終末は、今日(2019年4月4日)の夕方にも起こるかもしれません。そうなれば、ヨハネ黙示録に書かれてあるすべての出来事は、今日の夕方までに<すでに起こっていた>ことが啓示されるのです。黙示録の出来事を〔A〕のように図式化して説明することもできます。それは、天文学者が、ある惑星か星座の運行を予測して、これを図式的に言い表わすことができるのと同様です。しかし、その天文学者の図式化も、何万年あるいは何十万年<以前の>過去の光を<現在に>おいて観測して、そこから、何万年、何十万年の未来を<現在において>予測していることに変わりありません。
だから、現在のわたしに言えることは、かつてのナザレのイエスの霊性が、罪人であるわたしの現在において絶対恩寵として宿り、このわたしの場で形成されるイエス・キリストにあるわたしの霊性は、わたしの身体がこの世から無くなっても、そのまま永遠に変わることがなく、終末にいたるということです。終末が来るのは、今日か明日か長い将来のことか知るよしもありませんが、そのような頭の中での想念ではなく、「霊の人」の実体験としては、過去から未来への全人類は、それぞれの人が死を迎えるその「時の場」で、その人固有の「姿形を具えた人格体」が永遠に定まり、終末の裁きに面することになるのではないでしょうか。この場合、天国への空間移動と終末への時間移動が、どこまで実体験できるのか?今のこの世にいるわたしたちがこれを見分けるのは、本質的に不可能でしょう。
以上見てきたように、わたしの「霊の人」と「永遠の命」との関係は、三位一体の~観に根ざすもので、古風で人を躓かせる要因を具えています。しかし、人への躓きと裁きを逆転させる「絶対恩寵」こそ、ナザレのイエスの出来事であるというのが、わたしの信条です。わたしは、「ホモ・スピリトゥス」を神の救済史と人類の歴史的な進化と、その両方にまたがる意味で用いています。この両方を同一視することはできませんが、ホモ・スピリトゥスが、今後どのような展開を見せるにせよ、この二つの領域が相互に関わり合うことになるとしか、わたしには言うことができません。こういうわたしの聖書解釈は、旧約聖書と旧新約中間期でのメシア預言と復活信仰の成就という視野から新約聖書を読み解こうとするものです。
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