ロゴスの葬り
■ヨハネ福音書のロゴスの葬り
 ヨハネ福音書の受難物語には、共観福音書に見られない特徴があります。それは、イエスの復活を予想させる記述が見られず、どこまでもイエスの死を確認していることです(19章31〜37節)。この確認は、続くイエスの葬りにおいても変わりません。共観福音書の特にマタイ福音書では、埋葬の記事に、すでに復活を予想させる記述があります(マタイ27章62〜66節)。ヨハネ福音書には「大きな石」を転がしたこともでてきません(これにも復活の出来事へつながる意図が読み取れます)。これは、言わば自明のことなのでしょう(20章1節)。ニコデモは、埋葬のために27キロもの没薬と沈香を遺体の処理に用いたとあり、「ユダヤ人の埋葬の習慣どおりに」葬りの行事を終えたとありますから、イエスの葬りが完了したことを確認しています。すべてが「成し終えられ」、すべてが「終わった」からです(19章28節/30節)。そこには、復活への期待を匂わせるところは何もありません〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。
 だから、ヨハネ福音書では、埋葬と復活との狭間に潜む断絶が、共観福音書よりも深く厳しいと言えます。不思議なことに、この点に注目しているヨハネ福音書の注解は意外に少ないようです。菅隆志牧師(日本基督教団仙台北教会牧師:故人)の釈義には、「埋葬と復活との間には断絶があり、転換がある。ヨハネ19章42節と20章1節との間には越え難き断絶がある」〔『ヨハネによる福音書:説教者のための聖書講解』日本キリスト教団出版局(1991年)〕とあって、この点をはっきり指摘しておられますが、こういう釈義は希で、多くの場合、埋葬は、言葉を選ばずに言えば「そそくさと」復活の出来事へつながってきます。「すべてが終わった/成し遂げられた」が、それは終わりを意味するのではなく、「私たちにとっては、これが始まり、新しい生活の始まりである」〔加藤常昭『十字架上の七つの言葉』〕ことに異議を唱えるつもりはありませんが、うっかりすると、わたしたちは、イエスの葬りを軽々と乗り越えて、イエスの復活に救われる、ということにもなりかねません。もっとも、アウグスティヌスも、「まだ誰も葬られたことのない墓」をロゴスが宿った処女マリアの胎にたとえていますから、こういう釈義の伝統は長いようです。
■葬りと復活の狭間
 私がヨハネ福音書の「イエスの葬り」の記事にこだわるのは、この出来事が、ヨハネ1章の「ロゴスの受肉」とつながってくるからです。もしも私の理解が誤りでなければ、神のもとから降下し受肉したロゴスは、ここで言葉の完全な意味で「葬られた」ことになります。ロゴス(ことば)は、神から発せられた創造のみ言(ことば)であり、これが肉体となることで、ロゴスは、わたしたち人間と同じ人格的な霊性を宿す「人」となりました。こういうロゴスの人格的な宿りを軽視しませんが、それでも、「ロゴス」とは、ほんらい「ことば」の意味であり、それゆえに、わたしたちの言葉が支配する/される人間の知能の働きと関連することは確かでしょう。
 人としてのイエス・キリストの知能的な働きが、ヨハネ福音書の伝える通りに完全に「葬られ」て、たとえ一時的であるとは言え、とにかく「葬り」によって、死と復活との狭間に置かれた。このことは、神学的だけでなく人間学的に見て、いったいどのような事態を意味するのだろう? 繰り返すようですが、「この点に」触れている釈義には先ずお目にかかれません。「ロゴスの葬り」が意味する神学的な考察が、全くと言ってもいいほど、なされていないのです。「ロゴス」には、「ことば」を初めとして、イエス・キリストの「ペルソナ」、「理性」、「知性」、「霊知」、「宇宙の原理」などの諸概念が結びついてきます。パウロは、「イエスの葬り」に、洗礼による信徒たちの「葬り」をも見ていました(ローマ6章4節)。バルトは、使徒信条の「十字架につけられ、死にて葬られ」の「葬られ」の講解において、「<過去の人>となった人間イエスの最も確かな証しを読み取っている。<この点では>、信者と不信者とは完全に一致する。したがって『葬られ』は、明らかにきわめて危機的な意義を帯びてくる」と指摘しています〔Barth.Credo.85〕。「イエスの完全な人間性」を確認することにおいて、「イエスの葬り」(19章40〜42節)は「ロゴスの受肉」(1章14節)と対応するのです。受難によってロゴスが葬られた結果、ほんらい「ロゴス」に含まれるこれらの諸概念にどのような変容が生じた/るのか? わたしたちには、この大事な点に対する考察が欠けているように思います。
■ギリシアのロゴスとヨハネ福音書のロゴス
 私が知る限り、この問題について明晰な考察を加えているのは、ルネ・ジラールです〔René Girard. Things Hidden Since the Foundation of the World. Trans. by Stephen Bann & Michael Metteer. Stanford   University Press (1987). Original 1978. Chap.IV. 263-80.〕〔ルネ・ジラール『世の初めから隠されていること』小池建男訳。法政大学ウニベルシタス134。法政大学出版局(1984年)第4章「ヘラクレイトスの『ロゴス』とヨハネの『ロゴス』」〕。
 この書は、J・M・ウグルリアンとG・ルフォールの二人と、ジラールとの対話形式で構成されています。第4章でジラールは、「1世紀のキリスト教はギリシア思想に対して多大の不信感を露わにしている」〔Girard. 263.〕と指摘しています。ところが、「ロゴス」がギリシア語であるために、ヨハネ福音書の「ロゴス」にも、ギリシア独特の思想が反映されていると見られがちであった。「新約聖書は、ギリシアという孔雀の羽毛で身を飾った年老いたユダヤのカケスにすぎない」(イソップ物語から)というわけです〔Girard. 264.〕。キリスト教哲学の形成に伴って、ヘブライとギリシアのほんらい種類の異なる二つの「ロゴス」が統合されることになり、その結果、「西欧思想を通じて、二つのロゴスが適切に区別されたことは、いまだなかった」〔Girard.264.〕ことになります。
 ジラールによれば、この二種類の「ロゴス」を区別したのはマルティン・ハイデガー(1889〜1976年)です。ハイデガーは、ギリシア語の「ロゴス」に、ほんらい「共に同じ所へ連れてくる」「再結合する」という意味があることを読み取っていました。ただし彼は、その結合が「対立する者同士」の間で行なわれること、したがって、それは「暴力なしになしえない」ことを洞察していました。彼は、この洞察に基づいて、ギリシアのロゴス思想を代表するヘラクレイトスの「ロゴス」を「聖なる暴力」〔Girard.265.〕と呼んだのです。対立し合う双方を相対的な調和へ導くことによって、相互の滅ぼし合いを防ぐからです。
 ハイデガーは、ヘラクレイトスのロゴスに対して、ヨハネ福音書の「ロゴス」が、本質的に旧約聖書の「ことば」思想、すなわち「十のことば」(=モーセ十戒)を受け継いでいると見ました。それは、ほんらい「命令/勅令」から出ていて、この意味において、「ロゴス」は、命令/勅令を「宣べ伝えること」「遣わされた者/天使」「使者/通達者」に関係します。「しかし」、とジラールは指摘します。ハイデガーは、ヘラクレイトスのロゴスもヨハネ福音書のロゴスも、どちらも「暴力」と結びつけて考えているために、ヨハネ福音書のロゴスをも「権威/権力主義的な暴力」だと見なしたのです〔Girard.266.〕。当然その背後には、古代オリエント国家の帝王並みの冷酷で無慈悲な「神性」が控えていることになります。
 ジラールは、ハイデガーのロゴス観が、ヘラクレイトスの「ロゴス」には適切であっても、ヨハネ福音書の「ロゴス」には的確でないと考えました。ハイデガーは、ヘラクレイトスとヨハネ福音書とのふた種類のロゴスについて、二つの「暴力性の違い」を区別しています。一方(ギリシア的)は自由人による暴力であり、他方(ヘブライ的)は奴隷/従属民への暴力である、というように。ハイデガーのヘブライ的ロゴスに対するこのような考察は、その背後にオリエント専制君主による専制/暴政を読み取っているからです。そこには、ヤハウェがオリエント的な専制君主を代表する「神」であるという~観が潜んでいます。だから、ヘブライの「ことば/命令」は、専制君主の支配下にある従属民に「内面化された暴政」を造り出すことになるのです。ハイデガーのこの考察は、ヨハネ福音書のロゴスだけでなく、ユダヤ=キリスト教思想の全体に通じるものであり、ジラールが、ハイデガーを批判するのは、まさにこの点です。
 ハイデガーは、オリエントとヨーロッパとのふた種類のロゴス的暴力を区別しているように見えます。「敵対し合う双子」は、ヨーロッパ思想の中核に潜む恐怖であり、ハイデガーの思想も、この伝統に根ざしていると言えましょう。彼にとって、ふた種類のロゴス観は、まさに「敵対し合う双子」なのです。ハイデガーが、二つのロゴスをこのような「暴力性の違い」として区別したこと、このことが、ギリシア的なロゴスとヘブライ的なロゴスとの「ほんとうの区別」を逆に見誤らせている。こうジラールは考えたのです。
 ジラールによれば、ギリシア的なロゴスもヘブライ的なロゴスも暴力と関連しているのはその通りです。しかし、旧約聖書は、「身代わりの山羊」に向けられる暴力、言い換えると「犠牲」を求める供犠的な聖なる暴力に<対抗する>ことで、供犠的な聖なる暴力を減退させようとするものであり、したがって、旧約聖書は、聖なる暴力に支配されているのではなく、実際は、逆に、その暴力から遠ざかろうと意図していることになるのです〔Girard.268.〕。ここでジラールが提示している「犠牲」「身代わりの山羊」「聖なる暴力」などの概念は、「いじめ」から「迫害」へ、さらに「暴力的圧政」にいたる人間社会の<犠牲の構造>を社会学的に、あるいは民俗学/文化人類学的に、さらに宗教的な視点からも、これを解明しようとする彼の著作の主題です。彼によれば、「我々に<ヤハウェの暴力>と見えるものも、旧約聖書全体を通じて見れば、実は暴力行為を明るみに引き出そうと意図することであり、この意図は、福音書(の受難物語)において頂点に到達する」〔Girard.269.〕ことになります。ヨハネ福音書は「神は愛である」と伝え、共観福音書は、その物語において、しばしば「兄弟の和解」を説いています。御子は、父と人との間の仲立ちとなるが、御子が勝手で気まぐれな専制君主の命令を伝達することはありません。父の「み言(ことば)」は、父それ自体と同一であり、父がどのような方かを伝えることで、人々に「あなたがたの敵を愛する」よう教え、迫害する者のために祈ることで父の子となるように教えるからです〔Girard.269.〕。
 暴力は、人と人との差異を消し去ることで個性を殺すが、愛は、人と人との違いを交わりによって克服し個性を活かします。このような愛とこのような暴力とが両立し難いとすれば、「ロゴス」の定義もまたこれに対応するものでなければなりません。ヨハネ福音書の序の部分は、「ロゴス」のこの違いを明確に引き出していますが、このことに注目した人は少ないようです。人間の「ロゴス」と暴力との関係を十分理解していないからです。ヨハネ福音書のロゴスを定義するには、「犠牲の山羊」に表象される人間社会の「犠牲/供犠の原理」を導入しなければなりません。ジラールは、ヨハネ福音書1章の「暗闇は光を理解しなかった」(5節)と「だが、世は言葉を認めなかった」(10節)と「民は彼を受け容れなかった」(11節)を引用して、ヨハネ福音書のロゴスは、人間の文化の基底を形成するヘラクレイトスの暴力的なロゴスとは無縁であること、このロゴスの本質は、「犠牲」となる「受難」のロゴスであることを立証しようとするのです。だが、人類は、ヨハネ福音書のこのような「ロゴス」を受け容れなかったとジラールは指摘します〔Girard.270-72.〕。
■十字架の知恵
 ジラールが定義するヨハネ福音書の「ロゴス」は、言うまでもなく、この世に人間として受肉したロゴスを指しています。だから、このロゴスは、人の手によって「葬り去られる」のを避けることができませんでした。ただし、ジラールは、受難のロゴスを強調するあまり、そのロゴスが復活することで、人間社会の文化・文明の基底を構成する「暴力的なロゴス」から人を贖い、かつそのような暴力的なロゴスの支配から人を救い、わたしたちの理性的/知的な営みを変容させる働きをする、というところまでは行き着かないようです。彼はむしろ、「贖いの神話」が、暴力的なロゴスと、これに対応する受難のロゴスとが対立し合うむき出しの現実を覆い隠す働きをしていると見ているようです。
 ジラールは、十字架と葬りの出来事から、あまり急いで、復活と贖いへ移行することがないように警告します。ヨハネ福音書の葬りの出来事が指し示していることは、受肉した神のロゴスが、人間の手によって「葬られる」ことで、逆に葬られるべきなのは、神のロゴスを十字架につけた人間のほうであり、その行為を支える「人間のロゴス」のほうなのだということです。彼は、この点を正しく洞察しているのです。
 わたしたちは、パウロが強調しているように、十字架から復活したキリストの贖いに与るためには、人は洗礼によって「葬られ」なければならないことを軽視してはならないでしょう。これなくして、「人の知恵」が「神の知恵」に与ることができないからです(第一コリント1章20〜25節)。だから、もしも「ロゴス」が「ことば」であり、これを背後で操る人間の「理性」であり、「知性」であるのなら、それは、人間の文化・文明という「輝かしい暴力」装置システムを作り出す理性/知性として、イエスの十字架と共に葬られなければならないことになります。<そこ>からしか、ロゴスの復活は望み得ないこと、そこからしか、復活のイエス・キリストのロゴスに与る道が開かれないこと、ヨハネ福音書の葬りの記事がわたしたちに語りかけているのは、まさに<このこと>なのです。
 わたしたちは、人の理性/知性が、いかに脆(もろ)く破壊的で、それゆえに不完全きわまりないかを自覚して、まさに<この領域>において、謙虚にされて、憐れみと赦しを受けなければなりません。ヨハネ福音書は、わたしたちに「このこと」を告げています。その時に初めて、人間の破綻した理性/知性の上に、これを贖って救うロゴス・キリストの「恩寵の光」"lumen gratiae"が差すからです。
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