「母マリア」の隠喩
 2章のカナの奇跡物語に出てくる「イエスの母」については、隠喩的(比喩的)な解釈の仕方がされる場合があります。母としてのマリアは「母なる教会」の表象にもなります。表象として見れば、「母」のマリア像には「父」の神が対応します。こういう表象的な解釈は、ただの「たとえ」にすぎないと考えないでください。このような「たとえ」は「隠喩/暗喩」(メタファー)と呼ばれますが、隠喩は、論理では説明できない神秘的な内容をイメージによって分かりやすく印象づける働きをします。だから、わたしたちが物事を見たり解釈したり信じたりするときに大切な意味を持ちます。
 父と母、男と女、光と闇、命と死、これらは今も昔も人類に共通する隠喩的なイメージです。これらの隠喩を持たない文化、これらの隠喩を含まない神話、これらの隠喩を信じない宗教は世界のどこにもないと言えましょう。しかし、わたしはここで、ヨハネ福音書に表われる「母」の隠喩としてのマリア像を「聖霊」の働きと関連づけたいと思います。聖霊とは、言うまでもなく、父なる神、御子イエス・キリストと並ぶ三位一体の聖霊のことです。
 聖霊が、マリアという母性を帯びた表象としてイメージされる場合を考えるその前に、「母」に対して、「父」としての神の場合を考察してみましょう。わたしたちキリスト教徒は、父性の表象としての神からは、人間を「超越した存在」を思い描く傾向が強いようです。「神」は、被造物に対する創造主だからです。それは、理念的に高度に抽象化された概念です。さらに、父なる神を思い描く場合に、わたしたちキリスト教徒は、人類がこれまで信じてきたもろもろの神々をも支配する「神々の神」 "the God of gods" として、唯一の公正な創造主を想起する傾向があります。このように、父性を帯びた神は、超越性と普遍性を具えた「聖なる」神としてイメージされます。
 ところが、ヨハネ福音書の神だけでなく、聖書が、わたしたちキリスト教徒に与える「神」は、創造主として超越したイメージと同時に、不思議なほどの「近(ちか)しさ」をも同時に覚えさせてくれるのです。聖書の神は、全知全能であるだけでなく、同時に、わたしたちの髪の毛の数まで知っておられる。わたしたち一人一人を掛け替えのない人間として見守っていてくださる。全世界の神、全人類の神、全教会の神としてだけでなく、「わたしの」神として、個人的にひとりひとりの傍らにおられて、現実の生活を導き、このわたしをその命によって活かしていてくださる。聖書の神のこのような身近さは、「超在する神」に対して「内在する聖霊」の働きとしてイメージされます。
 聖書が伝える神は、この聖霊によって、超越的な存在だけでなく、わたしたちの内に宿ることができる方ともなります。父なる神と同時に、母なるマリアの表象が、聖霊の働きとして、わたしたちの心霊だけでなく身体をも支えてくださるのはこのためです。聖霊が、母マリアの表象として受け取られる場合に、わたしたちは、身体をも含む人間存在を全体として赦して贖い、救ってくださる神の働きをイメージすることができるのです。
 ちなみに、このような聖霊の働きは、旧約時代から、創造主の神から啓示された「律法」と対照される「知恵」の働きとして知られてきました。箴言で語られる「知恵」は、人それぞれをその置かれた具体的な立場に合わせて導いてくれる神の霊の働きを指します。シラ書や知恵の書では、この「知恵」(ギリシア語で「ソフィア」)が、女性あるいは母性を帯びて描かれるのは偶然でありません。聖霊は、わたしたちひとりひとりを具体的に導いてくださる「知恵の御霊」です。
 父なる神と知恵の御霊、この両者の働きを正反対だと考える人もいるでしょう。けれども、わたしたちが聖書の伝える真理を生きていくためには、どちらも大切な働きをします。イエスの父なる神とイエスの母マリア、これら二つの表象は、一見矛盾しているように見える神の超在と内在の働きをわたしたちに正しく伝えてくれるのです。父と母の表象が一つにされるのは、イエス・キリストその方においてです。なぜなら、このイエス・キリストにあって、超越の神と内在の神、普遍の神と個人の神、ヨハネ福音書の1章にあるように、神のロゴスと人間の肉体とが出合うことができたからです。
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