カナの婚宴の奇跡
■バルトの奇跡観
ヨハネ福音書のカナの奇跡物語では、奇跡とは何か?ということが、改めて問われています。この問題について、以下に、カール・バルトの解釈をわたしなりにまとめて紹介することにします。
ヨハネ福音書が伝えているのは、ガリラヤのカナで起こった歴史的な出来事であるが、それは「神の奇跡」のことである。ここでイエスは、自分自身を啓示するが、それは直接的にではなく、間接的にである。なぜならイエスは、肉体と成って、地上での出来事において、人間の行為として、純粋に絶対的な意味で「神の奇跡」を啓示したからである。少なくとも、これが、ヨハネ福音書の記者の考えていることである。それは、いっさいの知力が停止してしまう創造の奇跡、全能の奇跡、すなわち「神の奇跡」のことである。
ヨハネ福音書が、そのテキストの言う通りに、ガリラヤのカナで起こった歴史を語ろうとしているのは明らかである。しかし、「神の奇跡」を歴史的にとらえることを断念するのであれば、その場合、断念された「歴史」とは、そもそもどのような意味なのか? 「神が奇跡を行なう」ことを肯定する側と、同時に、そのような奇跡の歴史性を否定する側も理解できないことではない。なぜなら、少数の人たちだけが「彼らは信じた」とあるのだから、その他の人たちは、別の解釈をすることもできたからである。だとすれば、ここでは、人間の空想や発案による「神話」が語られていることを意味するのだろうか。それなら、今度は、神話とは何か?が、「神の奇跡」から問われることになろう。人は、福音書で語られる神の奇跡を肯定する場合に、その奇跡を神話と見るのを否定することもまた理解できないことではない。こうなると、福音書の奇跡は、「歴史」と「神話」との狭間に立たされることになる。
ガリラヤのカナの奇跡の場合だけでなく、新約聖書全体において言えることだが、「神の奇跡」は、<歴史と神話の対立の彼岸に>立っている。それは、歴史でも神話でもないから、どちらの見解も間違っている。これこそが、ヨハネ福音書が「肉体におけるロゴスの栄光の啓示」と呼ぶところのものである。これを歴史的に理解しようと神話的に理解しようと同じことである。この出来事は、何よりもそれ自体で「神の創造の出来事」として存在すると主張されているのだから〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
バルトはここで、とても大切なことを二つ指摘しています。一つは、ヨハネ福音書の記者が、イエスによって実際にカナで起こされた出来事だと信じてこの奇跡を描いている、こうバルトが見ていることです。ちなみにブルトマンは、カナの奇跡の背後にディオニューソス神話を想定していますから、彼は、ヨハネ福音書の作者自身がこの奇跡を事実だと認めていたのかどうか、この点をも保留にするのです〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。なお、バートン・マックによれば、マルコ福音書の作者は、パウロの「キリスト神話」を歴史的状況へと設定し直すことで、イエスの神性を高めようとしたことになります。だから、マックは、福音書記者自身が、奇跡の史実性を全く無視していると考えるのです〔Mack.
Who Wrote the New Testament. 155.〕。
二つ目は、バルトが、イエスによる奇跡を「創造の出来事」だと見ていることです。イエスに働く霊性それ自体の内に「創造する神の言葉」の働きを見るのですから、そこに旧約の神ヤハウェの臨在をバルトが洞察していることを意味します。バルトが言う「歴史と神話との狭間」には、聖書の「神が語る/話す」ことで生じる奇跡を表わそうとする時に具わる「神話性」を見逃すことができません。ギリシア・ローマの「単なる作り話」の「神話」と対照させて、これを「神が話す」ことで生じる出来事を語る「聖書神話」(Biblical myth)と呼ぶとすれば、「聖書神話」は、通常の意味で言う「(偽りの)神話」のことではありません。ヨハネ福音書(と新約聖書)が語る「聖書神話」とは、辞義通り「神が話される」こと、「神のことば」のことです。しがたって、「聖書神話」(Biblical mythololgy)は、「神学」(theology)(神のことば)と同じ内容を意味することになります。
■歴史と神話の狭間
カナの奇跡は、「水がぶどう酒に変わる」という科学的な変化が生じたことを伝えているのでしょうか? どうもそうではないようです。聖書の世界は、このような現代の<科学的な>自然観に基づいて書かれたものではないからです。では、そこで実際は「何も起こらなかった」のでしょうか? そうでもありません。「水がぶどう酒に変わる」という比喩的な言い方で表わされるなんらかの出来事が生じたと見ることができます。では、そこで何か「歴史的な」出来事が起こったのでしょうか?
現代の歴史批評的な聖書学では、奇跡の歴史性を否定する傾向があります。「歴史的な」出来事でないとすれば、カナの奇跡は、イエスの生前に生じた事ではなく、後のキリスト教徒たちが「創出した」根も葉もない作り話にもなります。カナの奇跡は、それなりの古い伝承から来ていると考えられますから、そこには、イエスの生前に生じた何らかの出来事に基づく伝承があったと考えられます。しかし、それは、誰もが客観的な出来事として認めるような「出来事」ではなかったようです。なぜなら、この奇跡がどのように生じたのか、これが見えている人と見えなかった人たちとがいたからです(ヨハネ2章9〜10節)。だから、そこでイエスを通じて驚くべき神の御業が起きた事を観ることのできる人たち(例えば弟子たち)と、それができない人たちがいたことが分かります。
何か不思議な出来事があったとしても、同じ事態に接しながら、それが神の不思議な働きであることを見分ける人と、そうでない人がいたのです。これが「霊的な出来事」に具わる特徴です。たとえ、単なる心理的な幻想でも妄想でもない「出来事」でも、これを観る人によって、それが神から生じた創造の奇跡であると確信させるものか、あるいは、そうは見えないものか、たとえ、客観性を具えた出来事でも、そういう両面を具えた出来事が現実に存在するのです。現在の自然科学でも歴史学でも解明できないこういう出来事のことは「霊的な出来事」と呼ばれます。カナの奇跡物語は、ナザレのイエスを通じて働く神の御霊が、「水をぶどう酒に変えた」と比喩的(霊的)に言い表わすような不思議な事態をもたらしたことを言い表わそうとしているのです。
■ヨハネ福音書の奇跡
ヨハネ福音書には、共観福音書にはないカナの奇跡とラザロのよみがえりを含めて、全部で八つの奇跡が語られています。これらの奇跡は、原ヨハネ福音書の段階で、「しるし資料」と呼ばれている伝承の記録から採用されたと考えられます。「しるし資料」は、イエスがメシアであることを信じるきわめて素朴な信仰に立つユダヤ人キリスト教徒たちの間で形成されたものでしょう。だから、これらの奇跡は、単純に文字通りに実際に起こったと信じられていました。
しかし、ヨハネ福音書の編集者は、このような素朴な奇跡物語に霊的な意味を帯びる象徴性を与えることで、神の子イエス・キリストの栄光を顕す物語へ変容させました。だから、ユダヤ人キリスト教徒たちの素朴な奇跡信仰の上に、ヨハネ共同体の高度で霊的なイエス・キリスト論を重ね合わせたことになります。このようなヨハネ福音書の構成が、ヨハネ福音書の内容を深めると同時に、この福音書の解釈に独特の難しさを与える結果になったのです。なぜなら、そこに描かれる世界は、現実の出来事としてだけでなく、同時にきわめて霊的で象徴的な意味を帯びてくるからです。これこそが、ヨハネ福音書の作者と編集者が意図したことにほかなりません。永遠のロゴスが肉体を採ってこの世へ来たという驚くべき出来事を、ヨハネ福音書の作者と編集者は、このような「奇跡」として描き出すことに成功したのです。だから、ヨハネ福音書では、「奇跡」こそ、イエスを神の子と信じるための「躓きのしるし」ともなるのです。人間にとって不可能と思えることをもあえて可能にする神の恩寵を顕すこと、これがヨハネ福音書の奇跡が象徴していることなのです。
ヨハネ福音書講話(下)へ