「人の子」 について
【共観福音書の「人の子」】
四福音書で「人の子」は、イエスが自分のことを指す用語として用いられていますが、その正確な意味については諸説があり、現在もこの問題が論じられています。特に共観福音書の場合、「人の子」が問題になるのは以下の3点です。
(1)「人の子」は、生前のイエスが自分を指す言葉として用いたと考えられること(マタイ8章20節/同9章6節その他)。
(2)その「人の子」が、ダニエル書7章13節にさかのぼる「人の子」伝承を受け継いでいること。このことは、「人の子」が、例えば「イスラエルの民」のように、なんらかの共同体を表わす象徴性を帯びていることを意味します(マタイ16章28節/同19章28節その他)。
(3)「人の子」は、ユダヤ黙示思想では、終末に到来するメシアを指しています。イエスの時代には、このような「人の子」観は、一般には知られていなかったようです〔McHugh. John 1-4. ICC. 171〕(マタイ16章27節/同24章27〜30節など)。
まず(3)について説明します。最高法院でのイエスの裁判で、大祭司が「お前は、神の子メシアか?」と尋問すると、イエスは答えて「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る」と答えます(マタイ26章64節=マルコ14章62節=ルカ22章69節をも参照)。
ここでの「人の子」は、イエス自身のことを指していますが、同時に、イエス以後に来臨する別の「人の子」の意味をも視野に入れていると解釈することができます。このように、共観福音書では、「人の子」は、イエス個人を指すだけでなく、同時にイエスを中心とするなんらかの共同体を意味しています。また、共観福音書では、イエスは、現在の自分である「人の子」と受難と復活を経て終末に到来する「人の子」と、この二重性において「人の子」を把握していたことになります。教会は、このようなイエスの「人の子」理解を受け継いで「人の子」を「神の子」と等しく見て、そこにメシア(キリスト)を見出しました〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)〕。
【ヨハネ福音書の人の子】
ヨハネ1章51節は、ほんらい独立した伝承だという見方があります。そうだとすれば、ヨハネ福音書は、ここで、ナタナエルの「神の子メシア」告白を「人の子」と結びつけたことになります。
地上のイエスの「人の子」と復活以後の教会の「人の子」をつなぐこの解釈は、創世記のヤコブ物語が、ヤコブが知らずして腰を下ろしたその場所こそ、天と地の交流の場であったこと、この啓示を受けたヤコブは、「まことに主がここにおられるのに、自分は知らなかった」と畏れて、そこを「神の家」(ベテル)と名づけたという伝承を受け継いでいます。ヨハネ1章51節は、弟子たちが「メシア」として認めた「人の子の上に」天の門が開かれていることが、弟子たちにも見えるようになると証しするのです。メシアであるイエスこそが<地上に>神が現臨する聖なる「神の家」であると啓示されること、これが、ここ51節で、弟子たちに予告されている「もっと大きなこと」の意味です〔バルト『ヨハネ福音書』〕。
このような「人の子」は、創世記28章17〜19節では、世界の創造者である神が現臨する「石」であり、それが「天の門」へつながるという「ユダヤ神話」から出ていることになります〔ブルトマン『ヨハネの福音書』〕。ブルトマンは、オデベルク(Odeberg)の説を紹介して、ヨハネ福音書はここで、「人の子」をすでに天的な「栄光」の中にいる「人の子」とは区別して、地上の人間イエスを表わす存在として理解しようとしています〔ブルトマン『ヨハネによる福音書』〕。
こうしてヨハネ福音書は、「天と地を結ぶ人の子」を創世記28章のヤコブ伝承と結びつけ、しかも、このヤコブ伝承をミドラシュ的な解釈(ヤコブ自身が梯子であると見なすこと)において見ていることになります。ヨハネ福音書は、共観福音書の終末的黙示思想の「人の子」を「天と地を結ぶイエス自身」という人の子観へ移行したのです。したがって、
(1)ヨハネ福音書の人の子は、個人としてのイエスただ一人です。「人の子イエス」ただ一人が、「天への門」(創世記28章17節)となり、神の恵みの場になり、人の間に宿る神の幕屋になります(1章14節)〔シュナッケンブルク『ヨハネによる福音書』(1965年)〕。
(2)「人の子」は1章51節に見るように、<地上での>イエスのことを指します。弟子たちは、地上におけるイエスのすべての業において、ただイエスにおいてのみ臨在する神との合一を「観る」ことになります。
(3) ヨハネ福音書では、「人の子」がでてくるのは13章までで、14章以後に「人の子」はでてきません。その代わり14章以下には「パラクレートス」が現われます。だから、ヨハネ福音書では、「人の子」とは地上におけるイエスのことであり、この人の子イエスが、受難の栄光と復活を経ることによって、パラクレートスとして再び弟子たちに出会うことになります。
ヨハネ福音書講話(下)へ