創世記からヨハネ福音書へ
■創世記の創造論
ヨハネ福音書は「初めに」という一句で始まります。「初めに」(ヘブライ語「ベレシート」)は、旧約聖書の最初の書である創世記の原名です。創世記の冒頭がこの言葉で始まるので、創世記全体がそう呼ばれているのです。ヨハネ福音書の作者は、このことを意識してこの福音書を始めていますから、どうしても創世記に触れておかなければなりません。
旧約聖書では、神を「エロヒーム」(ヘブライ語の「神」)と呼ぶ箇所もあれば、神をその固有名「ヤハウェ」で呼ぶ箇所もあります。ただし、神名をそのまま呼ぶのは畏れ多いので、「ヤハウェ」を「主」(アドナイ)と音読しました。現在の聖書に「神」と「主」の両方がでてくるのはこのためです。これには、違った資料がそのまま用いられていることも関係しています。
創世記の初めの1章は、祭司資料/P(Priest)資料に基づくと言われています。祭司資料は、祭司資料編集者たちによるもので、旧約聖書の始めのモーセ五書の中でも、比較的遅く編集されました。最初にくるのに、遅れて書かれた(編集された)というのはおかしいと思うかもしれませんが、祭司資料は、イスラエルの南王国ユダが滅亡して、民が新バビロニアに囚われていた頃に編集されたと考えられます。紀元前587年から約50年間、南王国ユダの民は新バビロニアに囚われていて、国土を持ちませんでした。ちょうど、インドでは釈迦が生れ、中国では孔子が生まれた頃です。すでに北王国イスラエルの10部族は、アッシリアによって連行されていました。こういう悲惨な状況にもかかわらず、ユダの民は新バビロニアでの捕囚からいろいろなことを学んだのです。
ヘブライ民族は、それまで、宇宙の成り立ちとか世界の構造、すなわち「創造論」にあまり興味を抱きませんでした。主として、神の救い、「救済史」のほうに関心が向いていたからです。イスラエルの民は、神との交わりと信仰において優れていましたが、宇宙や世界を構造的に解釈しようとはしなかったのです。バビロニアは、天文学の非常に発達した国でしたから、ユダの人たちは、このバビロニア文化に触れて初めて、世界の成り立ちと宇宙の構造に、言い換えると世界の「創造論」に関心を持つようになったのです。こういうわけで、新バビロニアでの捕囚体験の中から、創世記の初めの章のようなすばらしい創造論が生まれました。
祭司資料編集者たちは、バビロニアから知識を得たけれども、けっしてバビロニアの真似をしたのではありません。彼らは、外国の学問や知識を学んでも、これに支配されることがありませんでした。逆に、外国の文化に接することで、自分たちの独自性に目覚め、ヘブライの宗教的霊性の優れたところに気がついたのです。偉大な民族は、いろいろ学ぶけれども、学ぶことによって、必ず自分たちの独自性に目覚めます。バビロニアの宇宙観は古くなって滅びましたが、創世記の宇宙観は古くなりません。バビロニアの宇宙観を取り込みながら、これを信仰によって再創造したからです。いわば創造論を再創造したのです。以下で、創世記の創造論の幾つかの特徴を見ていくことにします。
■創造と流出
第一に、「初めに神は、天地を創造された」とあり、続いて、混沌の深淵と神の霊とが語られ、それから、神が「言葉を発する」ことで「光」が創造されます。創世記の「神の言葉」は、古代の創造神話を受け継ぎながらも、これを「再創造」しています。
古代エジプトでは、太陽神ラーとアメンとプタハという三体の神がいて、元来は別々の国の神であったのが合体して一つの神になり、アメン・ラーとして崇められた時代があります。この神は、古代エジプト王の神として、カナン地帯にまで浸透しますが、プタハは、「心と唇」の両方から言葉を発して万物を創造します。だから、しばしば創世記の「神の言葉」と比較されます。
創世記には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の上を動いていた」(1章2節)とあります。神の霊が水の面を「動く」というのは、ちょうど母鳥が卵をかえすように、その上に「座る」という意味ではないかという説があります。古代の宇宙創造神話には、しばしば「宇宙卵」が現われます。古代の人類の思い描く宇宙は、いわゆる卵型をしていて、内部は混沌状態になっています。この卵は、そこから宇宙が生まれる元型として、人類共通の表象とされています。これを神の鳥が(鳥は「知恵」の表象)かえすのです。このことと創世記の「神の霊が水の面を動く」とを関連づける見方があります。
もっとも、こういう解釈に対して、ここで「動く」とあるのは「神の大風が吹きすさぶ」状態を指しているという説もあり、これだと「荒れた不毛の地の上をただ神の大風だけが吹いていた」という意味になります。「風」と「霊」は同じ「ルーァハ」というヘブライ語で表わされますから、二重の解釈が生じます。英語の新改訂標準訳では「神の風が吹いていた」〔NRSV〕とあって、欄外に「神の霊」という読みがあげてあります。「神の霊が水の面に漂っていた」〔REB〕という英訳もありますから、この「漂う」に鳥の舞い降りる姿を見ることもできます。
古代バビロニアの神話は、シュメール系の神話で、おそらく、世界で最も古いでしょう。はっきりはしませんが、そこでは、「初めに」原初の海を表わすナンムという母神がいたようです。この母神は、ほかの神々を産み出す「大親}(おおおや)で、いわゆる太母(たいも)と呼ばれる母神です。このナンムが、初めにアヌ(天)とキ(地)とを産みます。次に、天の神アヌと地の神キが結婚して(これを「聖婚」と言います)大気の神エンリルが産まれます。こうして天と地と大気の三柱の神々がそろいます。すなわち、天地は父なる神の手で「創造された」のではなく、大親の母神から「産まれてきた」のです。この辺り、日本の『古事記』の神話と似ているところがあります。
こう見てくると、創世記の冒頭にでてくる創造は、古代のメソポタミアやエジプト、カナン地方などのさまざまな神話がその背景にあって、それらが創世記を通じてヨハネ福音書の創造論の背景になっていると言えましょう。創世記以前の古代の創造神話では、自然界に存在するものが、次々に神々として「産まれて」きます。だから、わたしたちが見ている宇宙は、親神から産まれた多くの神々の宿る場所になります。宇宙は親神(おやがみ)が産出した神々で成り立っていますから、親神を中心に、宇宙全体がひとつにまとまり、親神と宇宙全体が、いわば親子のような一体感でつながります。こういう宇宙の生成の仕方を根源の親神からの「流出」と言います。人間もこのようにして産まれた宇宙と自然に属しますから、人間と神々の世界とは、いわば一つながりになって、どこからが神々でどこからが人間なのかが、はっきりしないところがあります。
ところが、創世記の天地はそうではありません。神が、その「言葉によって創造」したとありますから(創世記1章3節以下)、神と宇宙とは、はっきり区別されます。ここでは、「流出」と「創造」の違いだけでなく、こういう創造論の問題点にも注意してください。
神は人間を創造し、大自然を創造し、自然界を人間の支配に委ねたとありますが(創世記1章27〜28節)、それなら、神が、自然をあたかも工業製品のように製造して、この自然を人間の支配に委ねたという見方もできましょう。こういう創造論からは、人間は、自然を自分の好むままに支配できるという自然観が生じるのではないか。その結果、人間は、自然を自分の都合に従わせるようこれを「征服」し、人間の思うままに自然を「操作」する誘惑に陥るおそれがある。このように指摘されています。聖書の創造論からは、こういう歪んだ人と自然との関係が導き出される危険性があるというので、日本では、このような視点から、聖書に基づくキリスト教の創造論を批判する人たちがいます。事実、天地創造に続いて、創世記3章では、人間は自然を「私が物」にしようという誘惑に負けて、神に対して罪を犯すことになります。
しかし、最近では、自然に対する思い上がった人間支配を否定するのが、創世記の創造論の真意だと解釈されるようになりました。まるで機械製品を造るように、神が宇宙を「製作」して人の手に委ねたと考えることは許されません。神は、人間も動物も植物も、すべてが互いに結び合わされた体系として造ったのですから、人間は、与えられた自然を勝手に利用するのではなく、神から人に委託されたものとして、その生態系を壊さないように管理することが求められている。このような自然観が生まれています。
■光の創造と混沌の闇
第二は、天地創造が「光」の創造によって始まることです(創世記1章3節)。太陽や月は、この光の後で造られますから、ヘブライ人は、「光と闇」を直接太陽や月と結びつけなかったようです。「神は光を見て善しとされた」(3節)とあるように、この光は、太陽と月の放つ輝きではなく、善悪の「価値観」を表わす根源の光です。だからこの光は、生命を創造するだけでなく、「価値観を創造する」霊光です。価値観とは、何が「善」か「悪」かを、何が義か不義かを知ることです。だから、神からの光に導かれた命(いのち)には、善悪、正邪の価値観が働いていることが分かります。価値観には必ず「目的」が伴います。
人間は、原始的な細胞から、何十億年かは分からないけれども、気の遠くなるような時間をかけて、現在のわたしたちの姿に「進化して」きました。そこには神の目的が働いています。この意味で、聖書の言う「光」から生じた「命」は、善悪の価値観を含まない物理的で生物学的な「生命」とは、質的に異なることが分かります。
注意してほしいこのは、神がこのような創造行為を行なわれるその陰には、闇と「混沌の水」をたたえた深淵が、いぜんとして横たわっていることです(創世記1章4〜5節)。日本には、「玄(げん)色」という独特の「黒」があります。これは、ただ暗黒を現わす闇の「黒」ではなく、そこからすべてが生じてくる源となるような「はじまりのK」です。こういう独特の黒は、例えば輪島塗のような、家具などに描かれる漆の蒔絵の地(じ)となる「黒」にも見ることができます。
創世記1章7節に「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けた」とありますが、これは、丸いドーム型の固い天蓋のようなものを混沌の水の中へ沈めて、水を上と下に分離したという意味です。だから、古代のヘブライ人は、空にも水があると思っていました。価値観の「光」を創造してから、神は、「昼と夜を分ける」ことで「時/時間」を創造し、次に、天と地とを分離することで「空間」を創造したのです。さらに神は、大空の下の水を「集めて」海と陸とを分けました。だから乾いた陸の周りには、いぜんとして「混沌の」海があって、陸を取り囲んでいます。創造は、暗闇や混沌を取り除いては<いない>のです。だからといって、闇や混沌が勝手にあばれることもありません。それは分離されて、神のみ手によってコントロールされている。つまり、闇も混沌もいぜん存在してはいるが、それは光や神と「対等に」争うことはしないのです。古代のゾロアスター教では、「闇の神」と「光の神」とが、互いに競い争って、どちらが勝つか、なかなか決着がつかない状態が想定されています。これがいわゆる「二神対立」の二元論の世界ですが、創世記は、この意味での二元論に基づくものではありません。神と光の前では、闇と混沌はこれに克つことができないからです。この点で、古代ペルシアの宗教とは違っています。
■自然の命と創造の命
第三は、動物や植物を含む自然の内に働く生命力についてです。ギリシア神話では、自然の繁殖や生殖の力は、例えばアプロディテー(英語名ヴィーナス)の女神の生殖の働きで保たれています。その生命力は、いわば自然の内に自動的に具わっています。だから、自然は、それ自体の力で、その生命を維持しようとします。ところが創世記では、1章を読むと分かりますが、自然の繁栄は、「産めよ、増えよ」と言われる「神の言葉」によって保たれるのです。すなわち、神に「祝福」されて初めて、生命が働くことができます。だから、神に「呪われる」と生命は失われます。生命は、自然の内にある自動的な力ではなく、神自身の本質的な有り様と、その創造の働きから来ることになります。だから、ここで言う「生命」は、必ずしも生物学的な意味だけでなく、宗教的な意味、言い替えれば、「霊的な」意味を帯びていると言えます。
目に見える人間や動植物の肉体的・物質的な生命だけが、ほんとうの生命ではない。人の心霊も、宇宙の生命エネルギーも、要するに宇宙全体を生かす「命」は、神の本性から発する言葉によって創り出されているもので、神は、「現に今も」創り出しつつある、という思想がここにあります。「わたしは存在することで〔万物を〕存在させる者である」、これが「ヤハウェ」という聖書の神の名前の由来だと言われています。神が言葉を発すると「出来事」が起こり、万象が生起するのです。神の「言(こと)」が「事(こと)」になるのです。この神は、わたしたちの心臓を動かすように、片時もその創造の手を休めることをしないのです。
創世記2章2〜3節には、7日目に天地創造が完了して、神は「休まれた」とあります。だから、その後の宇宙は、まるで神様の手を離れて自動的に動いているようにも受け取れます。3章からは、人間の堕罪と、堕罪にともなう人間の歴史が始まります。これでは、創世記1章は、人間の歴史が始まる前のただの「序文」になりそうです。祭司資料編集者たちは、創世記1章で、神の働きの業を一日毎に区切って描いていますが、これは創造が「毎日」行われていることを確認させるためです。だから、神は、今にいたるまで絶えず創造の業を続けておられる。そうだとすれば、宇宙は、神の手を離れたのではなく、神は、現在もなお、休むことなく命を生み出す創造の営みを続けています。したがって、最終の七日目は、実は<まだ来ていない>ことになり、わたしたちは現在、天地創造の六日目にいることになります。
現代の宇宙物理学では、わたしたちの住む小さな地球を含む太陽系は、一つの銀河群の中に含まれていて、しかも、このような銀河が、ほかにも無数に存在していて、それらの銀河群が、全体として膨張を続けているそうです。宇宙は、それ自体が絶えず動き続けているのです。この宇宙はどこへ向かおうとしているのか?わたしたちの生命は、何のために保たれているのか? この疑問に答えるのが「目的」です。神が命を創造されて、今もなお創造の業を続けておられる、そこになんらかの神の「目的」があるはずです。その目的が、7日目の「安息」の日に成就するのです。聖書では、この目的のことを「終末」と言います。
■人間の創造と堕罪
第四は「人間の創造」です。創世記1章26〜27節で、神の語り方が、突然「わたしたちは・・・・・」と一人称複数に変わります。そこで神は、人間を「ご自分にかたどって」、すなわち「神の姿」に合わせて創造されたとあり、「創造された」が三回も繰り返されます。「姿」には、人間の身体の姿形の意味もあります。人間は、神をいろいろな「動物の姿」に似せて刻んでいますが、もしも神が、その姿を人間に顕すとすれば、神は「人間の姿」となって顕現しなければなりません。「姿」にこだわるのは、人間は霊魂だけでなく、その身体も神から与えられているからです。だから、人間を「肉体/身体」と「霊魂」とに分離するのは、聖書から見れば適切な人間観ではありません。聖書にあるのは、霊肉一体の人間観です。ヨハネ福音書を読むときに、この点が特に問題になりますから、心に留めておいてください。
しかし、これよりももっと大事なことがあります。それは、先ほど述べたように、人間は他の動物との共生にあって造られましたが、人には、動物にはない特別の任務が与えられていることです。1章27節で「創造された」が三回繰り返されていますから、神が人間を「神に<かたどって>創造された」ことが重要です。それは、人間が「神の創造行為に」与ること、この業に「参加する」ことを意味します。このことは創世記2章でさらに明確になります。ただし、人間にこのような参与が許されるのは、神のみ声を聴き、神に従い、神を賛美するとき、言い換えると「神を礼拝する」ときに初めて許される行為なのです。「神を霊と真をもって礼拝する」(ヨハネ4章24節)とは、このことを指します。神を礼拝する行為こそが宗教の本質ですから、宗教とは、どのように「神を拝むのか」という問題に帰着すると言ってもいいでしょう。人間の祭儀的な行為のほんとうの意義とは何か?祭司資料編集者たちは、これを問いかけているのです。
ところが、人間は、「神を礼拝する」代わりに、「神のようになろう」として、神に反逆して罪を犯すのです。この時点で、人間は、その本性の内に、神に逆らう性質、すなわち「罪」を宿す存在になります。人間は、神を<信じる>ことができなくなったのです。神を愛して、これを礼拝することができなくなったのです。人間によるこの「神への敵対」行為が、恐ろしい暴虐を地上に引き起こすことになります(創世記6章5節)。ノアと洪水伝承の直前に置かれている「神の子たち」が、人間の女とつるんで、天使の堕落が生じたとありますが、これが、ユダヤの黙示思想の言う堕天使伝承です。神が人間に授与した「知恵」は、これら堕天使たちとその頭サタンによって、人間を滅亡に導く傲慢と暴力の「反逆する知力」へ変容したのです。『第一エノク書』には、人間が創り出す一切の文明は、これら堕天使たちに操られた「悪しきロゴス(ことば/思念)」の産物に過ぎないとあります。
人間が、その罪によって創り出す「世界」(ヨハネ福音書はこれを「この世」と呼びます)は、神の創造を真似ながら、神の命とは似て非なる奇怪な擬似創造物を「この世に」出現させます。命を活かす代わりに命を殺し、自然を活かす代わりに破壊する力です。悪魔の業は、神の創り出した命を破壊して、ちょうど正反対のものへと作り替える働きをします。宗教でも政治でも、神の創造にあずかり、そこから命を得ない営みは、逆に人間を暗闇へ閉じ込める方向へ働くのです。
■創造と救済
第五は、アダムとエヴァの堕罪と、神による人類救済の歴史です(創世記3章)。人間は、神に反逆することで、神から与えられた「命」を失って、その結果、「死ぬ」存在へ転落します。ここで言う「死」も、「命」と同様に、単に肉体が失われる生物的な死のことではありません。「霊的に死ぬ」こと、価値観を与えられた人間が、人間でなくなる「人でなし」に転落することです。そこから人間の苦難に満ちた歴史が始まりますが(創世記4章)、神は、罪を犯した人間を救う計画を立ててくださいます。
人類の救済に先立つのが1章の天地創造ですから、創造が先にあって、救済がこれに続くことになります。神の造られる命を「救う」ことが救済ですから、「救い」とは、神による創造行為が「回復する」ことです。病気が、人間の健康状態を失うことであるのなら、これを元の体に「回復する」ことが救済です。しかし、聖書の言う救済は、ただ元の状態に復帰することだけでなく、以前の命よりもさらに高次の命へと成就し完成すること、言い換えると「新たな創造」なのです。人間の堕罪は、これを通じて、人がより高い命へ到達するための「必要悪」であったことが、ここで神の知恵によって明かされます。
だから、救いもまた、神の創造行為にほかなりません。救済は、堕罪の中から生じる神の創造です。だから「救い」は、神の造られたこの世界から離れて、どこか別の世界で起こることではありません。どこまでも、神が創造されたこの世界の「中で」救いが成就されるのです。神の創造のみ業それ自体が、救いの業と一体です。したがって、人間の救済と自然・宇宙の生成は別個に起こることではありません。人間は、どこまでも自然・宇宙と一つになって、創造の業とこれの成就に与ることになります(詩編8篇/19篇)。創世記1章の創造の終わりに神の安息が来ることで、創造の7日目になって初めて「終末」が訪れるのです。
ここで、ヨハネ福音書の伝える「終末」について言えば、それは、イエス・キリストの臨在によって終末が現在すでに実現している終末観だと言われています。いわゆる「実現した終末」 "realized eschatology"と呼ばれるものですが、こういう呼び方は、ヨハネ福音書の伝える救済が、「すでに」完成しているかのような誤った印象を与えます。ヨハネ福音書は、復活したナザレのイエスが、その現臨を通して新たな神の創造のみ業をこの時代(アイオーン)に行なわれると伝えています。だから、救いも終末も、ナザレのイエスが地上におられたときに起こった「出来事」と深く関わるもので、この出来事が、復活しパラクレートスとして現臨するイエス・キリストを通じて、現在も継続している、というのがこの福音書のメッセージです。だから、ヨハネ福音書の伝える終末は、すでに「実現した終末」ではなく、正しくは、「実現させていく」終末と言うべきです。「すでに実現した」のなら、終末はもう来ません。そうではなく、ヨハネ福音書の終末は、現在に終末を呼び寄せ、実現させて行くのです。だから、「現在ある終末」と言うよりも「現在を終末化する」ものです。ヨハネ福音書の伝える「救済」もまた、復活したイエス・キリストの御霊の働きによって、現在すでに実現しつつある「救い」です。このような終末観と救済観は、基本的には、パウロ書簡にも共観福音書にもすでに潜在的に語られていることですから、ヨハネ福音書は、これら最初期のキリスト教の霊性を受け継ぎつつ、これに明確な形を与えたと言えましょう。
■個人から人類の救いへ
第六は、先祖の宗教に関してです。創世記15章で、イスラエル民族の父祖であるアブラハムと神との間に契約が結ばれます。その前にはノアの洪水物語が置かれていて、そこでは、「〔混沌の水の〕大いなる深淵が裂けて」(創世記7章11節)神の裁きが降ったとあります。神が先に、上と下とに「分けた・割れた」上の水が「割れて」、今度はその水が、神の裁きの洪水となって降るのです。アブラハムも、神への供え物を二つに「分けて・裂いて」神と契約を結び、イスラエル民族の歴史がここから始まります。さらに神は、このイスラエル民族をモーセによって、海の水を通って、エジプトから救い出します。この時も海の水が「裂けた・割れた」とあります。しかし、海水が「裂けた」のは、裁きではなく救済を創り出すための「裂け目」です。このように、神様の創造行為が「割る・分ける」ことと深くかかわっているのが分かります。
洪水の出来事では、神の「救い」が、ノアとその一族を「選び分かつ」ことから始まりますが、イスラエルの民へ救いの業は、人類の中からアブラハムを「選び分かつ」ことで始まります。救いは、アブラハムとその子孫によって成就されると神は約束しました。このように、神は、契約と救いの業を、ある個人(アブラハム)を、あるいは、ある民族(イスラエル)を「選び分かつ」ことを通じて行なわれます。ところが、神の選びによるこの個別化は、全人類、全宇宙の創造と結びついていますから、個別化は、普遍的な救済を達成するための神の創造過程に組み込まれていることになります。選びから普遍へ、こういう神のご計画を洞察することができます。
なんのための個人の契約と救いなのか? なんのための家族の繁栄なのか? なんのための民族の救出なのか? なんのために教会がこの世に存在するのか? なんのために先祖からの宗教があるのか? これらすべては、人類と自然と宇宙を造られた神の創造行為を洞察することで初めて明らかになるのです。神はすばらしい宇宙を造ってくださいました。そこには「神の命」が、神の息吹として、神の聖霊として息づいています。これによって、詩編104篇のような生命の世界が保たれています。詩編19篇にあるように、この神の霊言が、世界を支えています。
個人としての自分の幸せを願うのも、自分の家族の繁栄を願うのも、自分の事業が発展するのを求めるのもいいでしょう。自国の繁栄も、民族の発展も、神はかなえてくださいます。けれども、神がこれらの祈りを聞かれるのは、その究極の目的が、どこにあるのかをわきまえている人たちのためです。このことを忘れるなら、その人、その民は神に見放されます。このことを覚えていれば、その人その民は神に覚えられます。「わたしの名によって、なんでも祈り求めなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ14章13節)とイエスが言われたのは、そういう人や民のためです。
だから、世界の平和、人類の幸せ、こういうことを本気で求めている国民を神は絶対に見捨てません。なぜなら、その人、その民は、「神と共に」働くからです。神と共に創造の業に参与するからです。このことを覚えているなら、その家族、その国家、その民族は、神様に祝福されます。逆に、これを忘れたら、たとえアブラハムの民でも神に見捨てられます。どんな民族も、どんな国家も、どんな宗教も、例外ではありません。これに背くものは、一時は「野生の木のように勢いよく」見えても、「時がたてば彼らは消えうせます」(詩編37篇35〜36節)。しかし、神に従うなら、その人、その民は、「レバノン杉のようにそびえ、実を結び命に溢れ」ます(詩編92篇13〜14節)。今わたしたちの国にいちばん大切なのは、こういう根本的なところをはっきりと認識することです。宗教も、<ここで>そのほんとうの値打ちが決まります。
■ヨハネ福音書と創世記
共観福音書は、イエスの誕生物語から、あるいは洗礼者ヨハネの宣教から始まります。ところがヨハネ福音書は、神の「ロゴス」(ことば)による創造論から始まります。しかもこの福音書は、ヘレニズムの思想を背景にしつつも、創世記の冒頭を編集した祭司資料編集者たちのように、ヘブライ固有の信仰をしっかりと貫いています。なぜヨハネ福音書の作者は、創世記1章と同じ書き出しで、冒頭を始めたのでしょうか? それは、神から人間に授与された人間の「知恵」が、堕罪から再び救われるためです。このために神は、その御子を「神のロゴス」としてこの世にお遣わしになりました。そのロゴス・キリストが、人間の暴力によって殺され、そこから復活することによって初めて、人間に新しい叡智/霊知がもたらされます。人間のロゴス(思念)は、現在のままでは、暴力と破滅へ向かう「文明」を作り出す知力にほかならないからです。この「罪のロゴス」を贖うために、イエス様が来られて、イエス様を通じて神の霊知が人間に啓示され、しかもそのイエス様が、死んでよみがえることによって、新たな霊知が、わたしたちに宿ることになります。ヨハネ福音書は、神から出た「ロゴスの受難と復活」をわたしたちに伝えているのです。
長々と創世記の「神の言葉」について書きました。ここで指摘したいくつかの点が、ヨハネ福音書を読んでいく上で重要な鍵となるからです。ヨハネ福音書の信仰と思想について、さまざまな説があります。しかし、この福音書には、旧約の信仰が根底に流れていることを理解してください。およそ解釈というものは、だれがどういう視点からこれを読むのか、という問題と切り離すことができません。わたしが、どういう視点からヨハネ福音書を読もうとしているのか、これをいくらかでも察知していただけたら幸いです。
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