「辛口批評」欄 :『HAZAH』 2001年12月号
編集室に1冊の本が送られてきた。一見すると、造りは安っぽく、自費出版のような雰囲気であったので、片付けてしまおうと思ったが、著者名が特殊なので、どう読むのかなと思いつつ、しばらく眺めていると、見覚えのある名前であることに気がついた。この著者の本は、当誌の書評で一度扱っていた(98年4月号)。著者は甲南女子大学の英文科の教授であり、ひょっとすると、面白い観点があるのかもしれない、とあまり期待はしないで、読み始めた。
本書は1年に1度の著者の公開講演を10回分まとめて、ただ年代順に並べているだけだが、これが企画編集したように、見事に配列されている。第1部をなかなか面白い視点で書いているなと感心しつつ読んだ。ところが、第2部に入ってからは、もうこっちが読むのを止められなくなってしまった。全210頁というパンフレットみたいな単行本だが、内容はちょっとしたと言おうか、否、大文明論である。キリスト教というものをこれほど大局的に捉えている本を、小生は他に知らない。また、キリスト教における日本の使命というところまで、言及している本も知らない。いま、興奮を覚えて読了したところである。
たとえば、第7章「寛容な神を求めて」ではキリスト教は現在に至るまでの歩みの中で、4回ほど大きな過ちを犯したという。最初は、4、5世紀の頃でローマ教皇制度ができて、東方教会を異端にしてしまったこと。第2回目は、11世紀から13世紀の十字軍。第3回目は、コロンブスのアメリカ大陸発見に始まる、15世紀から17世紀にかけて、異教徒に対する非寛容、残酷な政策。それは、黒人奴隷制度とインディオの大虐殺、それからアメリカインディアンに対する差別と攻撃。第4回目は、キリスト教がアジア諸国にとっている姿勢で、キリスト教以外を異教と見なし、その宗教的価値をまったく認めようとしないことである。これだけのことをさらりと言ってのける本書は、すごいと言わざるをえない。
第8章「日本とキリスト教との出合い」になるとますます冴えている。「キリスト教を、欧米の文化や制度を学ぶ一環としてでなく、日本人の視点から直接にこれを観ようとする人たちが現れたのです。内村鑑三という人が、その代表です」とこれまた大変重要なことをさらりと書いている。「キリスト教が日本に根づくために」という項目では、日本のキリスト教の現状を分析し、「しかし、私が気になるのは、これらのどの勢力も、ほんとうの日本に根ざした福音の本質から出発しているのではないことです」と的を射ている。そして、どのようなキリスト教が日本に根づくかということを提示している。
第9章「現代の『歴史』と『神話』」でもなかなか呻らせる。「自虐史観」論、「自閉史観」論を考察しながらも、「謝罪史観」ではなく、「贖罪史観」を提唱している。最後の第10章「聖書が今日本に語りかけること」では、このような結論を導いている。
「私は、日本が、カトリック、ロシア正教、欧米型プロテスタントのどれとも異なるキリスト教の形態を生み出す可能性を秘めていると見ています。日本は、アジアで脱白人のキリスト教文明を創る最初の国になるかもしれません」「日本はキリスト教のアジア化を達成して、欧米と非欧米とをその価値観において結ぶという重要な使命があります」ではご一読を勧めて終わる。