律法の呪いから福音へ
■律法の呪い
ガラテヤ人への手紙3章1〜14節で、パウロは「あなたがたが御霊を受けたのは律法の諸行からか、それとも信仰の聴従からか?」と問いかけて、「約束された御霊を信仰によって受けるためである」と結んでいます。御霊に始まり御霊で終わるのですが、これに挟まれて「アブラハムの子」と「アブラハムの信仰」、もう一つ「律法の呪い」という聞き慣れない言葉が出てきます。
現在、ユダヤ教とイスラム教とキリスト教とが中東で出合っていますが、これら三つはモーセにさかのぼりますから、モーセ律法はこれらの宗教に共通します。しかし、モーセよりも先に、パウロが「信仰の父アブラハム」と呼ぶ偉大な人物がいます。「アブラハム」と「律法」、この二つがイエス様の御霊に挟まれて出てくるのです。ガラテヤ人への手紙を解く鍵がこの辺にありそうです。
ここでパウロが言う「律法」には、モーセ十戒とモーセ五書だけでなく、旧約聖書全体も含まれます。それだけでなく、現代的な視点からすれば新約の教えも入る、と言えば、読者の方は意外に思うかもしれません。けれども「敵を愛せよ」(マタイ5章43〜48節)というイエス様の教えを、わたしたちが「自力でまともに」守れと言われたら、恵みどころか恐ろしい束縛をもたらす「律法」に変じます。
日本語では、神と人との関係は「律法」、人と人との関係は「法律」、自然界は「法則」のように使い分けますが、「律法」も「法律」も「法則」も、パウロによれば同じギリシア語の「ノモス」です。だから、宇宙も人類も神と人との関係も「ノモス」に支配されていることになります。
人体には「健康のノモス」が働いて、脳の血管を血液が流れます。ところが血管が詰まって血液が流れなくなると、血管が破れて脳梗塞を起こします。健康のノモスは命の理法。守られれば祝福、破られたら同じノモスが死を招く。これが「律法(ノモス)の呪い」です。天地の法であるノモスは、守れば祝福、破れば呪いに転じます。
パウロはわたしたちが「律法の呪いのもとにある」と言います。なぜでしょうか?人類は、国と国との平和を守らなければ核兵器によって滅びる危険があります。平和の律法、敵をも愛するノモス、これを守れば人類に祝福が来ます。これを破れば滅びが来ます。しかも律法が一つでも破れたら、律法は呪いに転じます。脳でも心臓でも胃でも、どこか一箇所が働かなければ、人体のほかの部分が健康でもその人は死にます。膨大なコンピューターのプログラムも、一箇所が狂うとコンピューター全体がおかしくなります。これがノモスの厳しさ、ノモスの怖さです。
わたしたちは、どんなに「律法を守ろう」と頑張ってもこれを破ってしまう。「律法の全部」などとても守れません。「守れば」祝福になるハズの律法が、自力で「守ろう」とすれば逆に「呪い」に転じる、これが律法の謎です。律法を「自力で守ろう」とするのが律法主義、これを破るのが律法違反。この二つがセットになって、祝福となるべき律法が呪いに転じるのです。しかも人間は、自力で律法を「守れる」とうぬぼれるから困ったものです。律法破りは律法違反。律法追求は律法主義。人間の罪が働くと人をこのどちらかに「仕向け」ます。すると律法は「罪の律法」(ローマ7章25節)に変じるから始末が悪いです。進もうとすれば律法主義。退ひこうとすれば律法違反。「なんと悲惨なこのわたし!」とパウロが嘆くのはもっともです。これがパウロの言う「律法の呪い」の真相です。ところがこの律法の謎こそが「福音の真理」につながるのです。
■律法と自由
このように人を束縛し呪うはずのノモスが人に自由をもたらす、と言ったら、皆さんは驚くかもしれません。マリナーズのイチローのバッティングは自由自在です。でもその「自由」はでたらめではない。そこには驚くべき正確な「打法のノモス」が働いています。一寸一秒も狂わないバッティングのノモスです。しかし、頭で考えていてはとても間に合いません。彼はバッティングのノモスを「体で覚えている」のです。だからノモスを「守ろう」などと考えません。彼がノモスそのものだからです。ノモスが身に付けば、後は自由自在です。英会話でも、英文法を「守ろう」などと意識していてはとても英語は話せません。英語の文法(ノモス)が身に付いていれば自由に話せるのです。ノモスは、このように、外から来ると恐ろしい束縛ですが、内側から身につければ自由をもたらす。何とも不思議で、楽しいです。同じノモスが、守れば祝福、破れば呪いです。
では「律法の呪い」から自由になるためには、どうすればいいのでしょうか。わたしたちが律法そのものになる。でもそんなことができるのか? イエス様が「わたしたちのために」十字架におかかりになって、「律法の呪い」から贖いだしてくださった! わたしたちの代わりにご自分が「律法に呪われた人」になることで、律法を破る人間に降りかかる呪いをご自分が引き受けてくださった。だからイエス様を受け入れる者には、呪いではなく憐れみと罪の赦しが降ります。イエス様だけが、わたしたちの律法主義と律法違反の「律法の呪い」から救い出すことができるのです。
恵みの御霊は絶対無条件。十字架と御復活のイエス様の御霊が、わたしたちの罪を赦して、なおも働いてくださる(ローマ5章20節)。だから、わたしたちはなんにもしない。なんにもできない。「ハイ」と言ってイエス様を受け入れるだけです。イエス様の赦しの御霊に自分を委ねる人に、もはや律法の呪いは力を失います。これがキリストの「御霊のノモス」です。パウロの言う「恵み」です。イエス・キリストは復活され、聖霊となってわたしたちに宿ってくださる。イエス様の御霊がわたしたちに働くと、イエス様の愛が働く。神様への愛、隣人への愛、霊の兄弟姉妹への愛がわたしたちに働いてくださる。神と人とを愛することこそ律法全体の一番大事なところ。律法の「全部が」これに含まれます(ガラテヤ5章14節)。
この一番大事なことをイエス様が成し遂げてくださった。イエス様の御霊が働くと、自分ではできなかったこと、自己努力ではどうにもならなかったことが、赦しと憐れみの御霊にあって、わたしたちに成就されていくから不思議です。数ある律法を一つにまとめて、罪深いわたしたちの存在の「まっただ中」で、この罪に負けることなく、この罪を恐れることなく、この罪と関わることなく、聖霊ご自身が私たちにあって働いてくださる。御霊が働くとはそういうことです。これが神の憐れみ、神の愛です。だからこれは新しい創造のみ業です。古い自分を修理するのではない。古い自分にあって、新しい創造が行なわれるのです。
■アブラハムの真の子孫
冒頭のアブラハムと律法の呪いに戻ります。これは少し難しいですが、大事なところです。パウロは、アブラハムの子は祝福され(ガラテヤ3章8節)、律法のもとにある者は呪われると言います(同10節)。パウロが言う「アブラハムの子」とはイエス・キリストのことです(同3章16節)。なぜモーセよりアブラハムなのか。アブラハムはモーセよりも「先の」人、モーセ律法「以前の」人です。彼は「まだ異邦人アブラム」の時に、たとえ不信心な者でも神の御霊にあって義とされる、こう信じて御言葉に従った人です(ローマ4章1〜5節)。彼のこの絶対の信従に降る御霊のお働きに、後から加えられた律法の呪いは勝てません。ナザレのイエス様は十字架の死を通してわたしたちを己の罪から救い出す道を開いて下さった。このイエス様に全託して、イエス様の御霊のお働きを通して<自我>と我執(がしゅう)に死んで、「生きているのは自我ではない。キリストがわたしにあって生きてくださる」(ガラテヤ2章19〜20節)という霊境へいたること、これがイエス・キリストによる「福音の真理」の道です(同2章5節)。「己に死に、イエス・キリストに生きる」道です。この不思議を肉体にあって生きるわたしたちに成就してくださるのが御復活のイエス・キリストの御霊のお働きです。だからアブラハムの子キリストを信じるわたしたちは、アブラハムの「真の」子孫です(ガラテヤ3章14節)。たとえどんな宗教・宗派の人でも、キリストの御霊にある人は、アブラハムの子孫として神に祝福されます。
〔注〕この記事は雑誌
Revival Japan .(2011.12.18)に掲載されたものに、結びの部分を書き加えたました。
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