ここに引用した節をいちいちヨハネ文書の引用と対応させる必要はないであろう。ブルトマンは、『ソロモンの頌歌』には、グノーシス的な性格が比較的弱い点に言及して、それは、この頌歌が、旧約聖書の影響によって、そのグノーシス性を「後退させた」からであると言う〔大貫297〕。その上で彼は、この頌歌を「第四福音書の著者ヨハネにとっての最も近い思想史的背景」と見なしている。この文書が「グノーシス的である」ということを前提にして読むならば、このように迂回した推論を行なわざるをえなくなるのであろう。ただし、ブルトマンが、この頌歌は、ヨハネ文書に近い受肉神学と啓示神学への可能性を秘めていると洞察しているのは正しいと思う。
■礼典
この詩に現われる「水」は、第一義的には洗礼の水のことであり、「飲み物」とは聖餐の飲み物を指している。ただし、頻出する「乳の飲み物」「乳を飲む」という用語から判断すると、この宗団では、禁欲的な理由からか、聖餐にはぶどう酒を用いないで、ミルクを用いていたのではないかと推測されている。その他に、「冠」、「生ける水」、「命の泉」、「封印」、「乳と杯」など、共同体の礼拝で礼典に使用される洗礼・聖餐用語が多い。しかも、東方教会での礼典に用いられる用語が多いことが注目されている。
ただし、これらの用語が、これを象徴する物としてよりも、霊的な意味で使用されていることに注意する必要があろう。したがって、これらの用語は、場合によっては、具体的な儀式としての礼典に向けられた反サクラメント的傾向を帯びることがある。例えば、先に出てきた「心の割礼」の場合がそうである。ともあれ、次の節には、まぎれもなく、宗団として信仰共同体とこれに際して用いられる礼典とこれを授与する役目を与えられた者たちに対する尊敬が言い表わされている。
■三位一体
この頌歌に表わされた三位一体論とこれに関係する神学については、大貫氏の優れた解説がある〔大貫292ー94〕。これによれば、父の二つの乳房から聖霊が乳を絞り、これをみ子に与える。み子は万物に先立つ存在であるが、聖霊が、しぼった乳を世(アイオーン)に与えることによって、「処女の胎」がこれを受けてみ子が処女降誕する。これが「受肉」である。世に降ったみ子は、受難の道を歩み、十字架にかかり、陰府へ降り(死者の救済)、高められ、この世にある教会の頭となる。このような神学は、東方教会の系統に属すると考えられる。
上の引用で、「父の乳」という新約とは明らかに異なる表象が注目されるが、この表現は、次の項目で述べる「母の乳」と重ねられて(「父母の神」へつながる)両性具有の性格を示唆している点が興味深い。しかし、ここでの父の神は、超越した創造主である(4:2)ことに変わりはない。ただ、パウロ的な十字架の救済神学に対して、ここでは、ヨハネ的で東方教会の神学に属する「受肉キリスト神学」が強調されているのである。大貫氏は、「この『受肉神学』には一般に、その論理構造上の理由から、欲すると否とに関わらず、いわゆる『仮現説』に近づく内在的傾向がある」と指摘している。
いわゆるグノーシス的な仮現説では、み子の誕生も受難の十字架も、現実の人間存在としてのイエスに当てはまるものであって、そのイエスに「仮に宿っている」とされる「キリスト」自体は、地上での出来事から直接の影響を受けない。上の引用で、「見知らぬ者のように」(17:6)とあり「別の種族」とあるのが、はたして、イエスの人間存在から区別されたグノーシス的な意味でのキリスト論を示唆しているのかどうかは疑問が残るであろう。また、ここでの「アイオーン」(12:7~8)が、大貫氏の主張するように擬人化されていて、聖書的創造信仰からはずれた宇宙論を示しているかどうかも問われることになろう。しかし、この頌歌では、救済が、受肉のキリストにあると言うよりは、このようなキリストを「認識する」ことに重点が置かれているのは、上の引用から明らかである。この認識こそ「無知」と対立する救済の原理なのである。この意味で、ここでの受肉神学は、さらに一歩を進めて、受肉キリストの「啓示神学」へと向かっていると言える。「受肉神学」から「啓示神学」へのこのような展開こそ、ヨハネ文書の神学の神髄であり、同時に東方教会神学の基礎なのである。
この頌歌の作者が、ヨハネ福音書を知っていてこれを用いているという確証はない〔大貫294〕。しかしながら、「彼(キリスト)は私に似たものとなった」や「その形姿にいて私のように見えた」(コプト語7:4)という表現が、救済者キリストと救済されるべき人間自体との不可分な同一性を意味すると解するのであれば、キリストへの認識と人間的な「知」とが同一のものと判断されるから、これは明らかにグノーシス的な傾向を持つことになろう。この頌歌に表わされる神学とヨハネ神学との分岐点が、まさにここにあることを私は指摘しておきたいと思う。
■母性
ここに引用した節に含まれる母性的表象について、説明する必要はないであろう。三位一体論においては、第三の位格としての聖霊が、初代教会から現代に至るまで、常に「女性」ないしは「母性」的な性格を有するものと考えられてきた。欧米のキリスト教の歴史では、聖霊の宿る教会は、伝統的に「母なる教会」あるいは「花嫁なる教会」として、その隠喩に重要な意義が与えられてきたことを特に指摘しておきたい。
なお、これと同時に、この頌歌には、明らかにプラトン的なイデアを思わせる一節があるので次に紹介しておきたい。この頌歌とプラトニズムとの結びつきの背後には、例えばフィロンの思想があるのかもしれない。
この頌歌では、楽園の回復に対する強い関心が示されていること(11:13~19)(11:24)をも付け加えておかなければならない。また、次に引用するように、ヨハネ黙示録にも似た黙示思想が見られる。グノーシス的傾向を帯びているとされるこの頌歌に、黙示の要素を見いだすのは意義深いことであると思う。
先号で指摘したように、ヨハネ福音書は、パウロからヨハネ宗団にいたる1世紀から2世紀初頭までのキリスト教の流れの上にこれを置いてみることで、初めて正しくその位置を確認できる。この視点からするならば、『ソロモンの頌歌』は、ヨハネ文書とほぼ時期を同じくしているがゆえに、正統と異端を問う上で重要な位置を占めていると言わなければならない。この頌歌は、ヨハネ福音書と同じく、東方教会の神学系列に属している。まさにそのゆえに、私たちは、「東方」と「西方」との神学系統の違いを逆照させてこの文書を判断する場合に、いっそうの注意が必要であろう。なぜなら、グノーシスをめぐる異端論争は、どちらが「正統」でありとちらが「異端」であるかはともかく、西方教会による東方教会神学の排除という側面をも帯びていたと考えられるからである。