(12)御霊の実と肉の働き
【聖句】
■5章13節~26節
13なぜなら兄弟姉妹、あなたがたが召されたのは、自由になるためである。
ただし、この自由を、肉への機会とせず、愛によって互いに仕えなさい。
14なぜなら律法の全体は一言で成就される。すなわち、
「あなたの隣人を自分のように愛する」ことである。
15だが、互いに咬み合い、引き裂き合っているなら、
互いに滅ぼされないように注意しなさい。
16だからこう言おう。御霊にあって歩みなさい。
そうすれば、肉の欲に負けてしまうことは決してない。
17なぜなら肉の欲は霊に反し、霊は肉に反する。
これらは互いに対立し、その結果、
あなたがたの意志することが実行できなくなる。
18しかし、御霊に導かれるなら、
あなたがたは、律法の下にはいない。
19肉の働きは明らかである。
それらは、不倫、不潔、ふしだら、
20偶像礼拝、魔術、敵意、競い争い、嫉妬の情念、憤怒、
利己的な党派心、派閥争い、仲間割れ、
21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの。
先にあなたがたに告げたように、また予告するが、
このような仕業に及ぶ者は、神の国を受け継ぐことがない。
22これに対し、霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈しみ、善意、誠実、
23柔和、節度で、これらに反対する律法はない。
24だからキリスト・イエスの人たちは、
その衝動と欲望もろとも肉を十字架につけてしまった。
25霊に生きるのなら、霊に準じて歩もう。
26うぬぼれに陥(おちい)らないようにしよう。
互いに挑み合い、互いにねたみ合わないためである。
「この世の諸霊力」(4章1~11節)のところでは、パウロは、モーセ律法を「この世の諸霊力」の中心に据えて、しかもイスラエルの旧約聖書の宗教を異邦人の諸宗教と全く対等で平等に置いて観ているとお話ししました。聞いていた方々は、ずいぶん極端なことを言うと思われた方もおられると思います。ガラテヤ人への手紙では、パウロの信仰は、「極端に急進的である」とロンゲネッカーという注釈者が言っていますが、その通りだと思います。そこでガラテヤ人への手紙から、ふたつの疑問が湧いてきます。一つは、モーセ律法は神からでたものではないのか? ということ。もうひとつは、それでは、イスラエルの民の信仰と宗教は、全く無意味だったのか? ということ。このふたつの疑問です。
実はこの疑問は、ユダヤ人キリスト教徒たちからパウロに対して向けられた批判でした。ガラテヤ人への手紙の段階では、これらの疑問に十分応えるところまではいっていません。そもそも短い書簡の中で、御霊にある自由と律法と、このふたつの問題を両方とも論じることは無理です。このふたつのことを論じているのは、ローマ人への手紙のほうです。ローマ人への手紙のほうでは、ガラテヤ人への手紙よりも、律法について肯定的な見方が強くでています。ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙との間には、2年間ほどの間があって、その間に、第一コリント人への手紙や第二コリント人への手紙やフィリピ人への手紙などが書かれました。パウロの信仰と思想もその間に深められ、成長したと思われます。
ここで改めて、ガラテヤ人への手紙に表われている律法についてのパウロの否定的な見方と肯定的な見方とを並べてみましょう。これで見ると分かるように、ガラテヤ人への手紙でも、パウロの律法観は、決して否定的だけではありません。肯定的な見方も述べられています。実は今回のところ、5章13~28節は、キリストの御霊にある者が律法とどのように関わり合うのかを知る上で、大事な出発点となる箇所なのです。このようにパウロの律法観は決して易しくありません。難しいです。なぜなら、パウロの言う「律法」は、「この世の諸霊力」、すなわち人間の諸宗教と重ね合わせられているからです。人間の宗教は易しくないです。いろいろと問題が複雑です。ですからこれはやむを得ません。
▼ガラテヤ人への手紙から〔引用は新共同訳〕
律法への否定的な見方
「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」(2章16節)
「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(2章21節)
「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」(3章10節)
「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」(5章4節)
律法への肯定的な見方
「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。」(3章21節)
「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(3章24節)
「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(5章14節)
「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(6章2節)
▼ローマ人への手紙から〔新共同訳〕
律法への否定的な見方
「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(3章20節)
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」(3章21節)
「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(5章20節)
「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」(7章7節)
律法への肯定的な見方
「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」(2章13~14節)
「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」(2章17~23節)
「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(3章31節)
「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」(7章12節)
「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。」(7章14節)
「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。」(7章16節)
「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、」(7章22節)
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。(7章25節)
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」(8章4節)
「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。」(9章4~節)
「しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。」(9章31節)
「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(10章4節)
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(13章8節)
「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(13章10節)
(2)律法の成就
救いは「十字架につけられたイエス・キリスト」から与えられるというのが、パウロの信仰と思想全体の中心です。だから、彼が「律法の成就」について語ることも、この十字架のキリストの中に含まれています。パウロは、このような律法の「成就」は、人間の力では不可能だと知ったのです。これは、イエス様の十字架にある罪の赦しとそこから注がれる御霊の働きによらなければ成就しないのですから。御霊の働きは、決して律法を無意味だとしているのではないのです。十字架の光に照らされた時にのみ、彼の律法への肯定と否定との関係が、内面でつながっているのが見えてきます。十字架から降るキリストの御霊に照らして見ないならば、ここでの「律法」は正しく理解できません。なぜなら、パウロの言う「律法」の見方には、一方では保守的で律法をそのまま肯定する律法主義者たちの立場があり、他方では律法を否定して、律法からの完全な自由を主張する急進的な律法観があって、これらのふたつが、互いに無関係に流れているように見えるからです。パウロにあっては、律法の否定は十字架の結果です。律法からの自由はこの方法によってのみ達成されるからです。このことはしかし、御霊の働きによって与えられる自由ですから、イエス・キリストの御霊と切り離すことができません。
ですから、律法とパウロがここであげている悪徳との関係も、誤解を生じやすいところがあります。ここでの「悪徳」は、「御霊の導きに従う」(5章16節)ことと「肉の欲情を十字架につけてしまう」(5章24節)ことして語られています。もしもこの「肉の欲望を十字架につける」ことを律法的に受けとめて、内面的な悪徳を、自らの力で処理しなければならない、あるいは肉の欲情を自分の力で十字架につけなければならない、こう考えるなら、恐ろしい誤解を招くことになります。もしも御霊の働きが、「律法化して」、モーセ律法と同様の働きをすることになれば、これはとても厳しい「律法」になるからです。
パウロはここで、「律法違反」と「律法主義」とのふた種類の罪を指摘しています。律法違反とは、律法を破る罪、モーセ十戒その他で禁じられている教えを破る罪ですね。これは比較的分かりやすいです。もうひとつは、律法主義です。これは律法を自分の力、自己努力で守ろうとする罪です。真面目な人、プライドの高い人、知識人などがこの罪に陥りやすいです。これが罪なのは、いくらやっても、律法の教えをほんとうの意味で「実行する」ことは、人間にはできないからです。それだけではありません。できないのに、できているように思いこむ。これで自分は正しいと信じ込む。その結果、律法を守れない人たちを見下す。聖書を知らない民を軽蔑する。こういうことになるからです。ほんとうは神様の前で正しくないのに、自分は神のみ前にこれで十分だとうぬぼれるからです。パウロはこういう人間の罪を厳しく批判しています。
心が御霊に導かれている状態では、神からの律法は、ちょうど楽園の知恵の樹のように、たとえそこに存在はしていても、「触れてはならず」「食べてはならない」のです。たとえ正しい神の律法でも、これに「触れる」なら、これは律法を破ろうとすることです。律法違反の罪になりまず。またこれを「食べる」なら、それは神の知恵それ自体を神から奪ってわがものにする行為になります。これは律法を自力で守ろうとすることです。御霊の働きでも同様です。自力で御霊の霊法を実践しようと「うぬぼれる」なら、自己欺瞞と自己義認の「律法主義」の罪を犯すことになります。だからパウロが言う「御霊に導かれる」は、御霊の働きを律法として受け取るのではありません。律法を破ろうとせず、律法を守ろうともせず、律法にとらわれずに、御霊にとらえられること、あるいは御霊のみ翼に「乗せられる」ことです。パウロはこの事態を「律法に死ぬ」と言うのです。
罪はちょうどわたしたちの病気と同じです。わたしたちが、病気の癒しを祈り求めるときに、自分の努力でこの病気を取り除こう、あるいは取り除かなければならない。こう考えたら大変です。苦しくて辛くて、病気がいっそうひどくなりますよ。病院でお医者さんから手当を受けるときに、自分で何かをしなければならない。こう思って身をもがいたらどうなりますか? 「じっとして動かないでくださいよ。」きっとこう言われます。異言を祈り求める場合も同じです。なんとか異言を語らなければならない。こう思って自分で異言の真似をしたり、異言を語ろうと努力したりすると、これは危険であるばかりか、疲れてしまいます。苦しくて仕方がなくなります。宗教も行ないも、あるがまま主イエス様にお委ねして、主の御霊に導かれるままに、自然に生きる心が大事です。そうでないと、パウロが、ローマ人への手紙7章で味わったような苦しみに陥ることになります。
だから、決して自分で自分を裁いてはいけません。自分で自分の罪と闘おうとしてはいけません。どちらも、自ら自分の罪にはまりこむ危険があります。わたしたちが自分の努力で「実行する」のではありません。どこまでも「られる」のです。わたしたちの内に、御霊が働いてくださって、わたしたちが、神の御心に服従「させられていく」、しかも外からの束縛や脅しではなくて、内側からそのように願い、実行させられていく。これが御霊にある人に「成就する」ことなのです。
以上のことから言えることは、神と人間、霊と肉、このふたつを対立させてはならないということです。人は神に赦されて生き、肉は霊に活かされて歩む。この心がけが大事だと思います。間違っても、自分の力、自分の努力で、御霊の働きを創り出そうとしたり、真似しようとしてはいけません。だから絶対に自分で自分を裁いてはなりません。また自分で自分の罪と闘おうとしてはなりません。
(3)キリストにある自由
自由とは、律法とこの世のもろもろの霊力の束縛から解放されることです。パウロは、この自由こそ、アブラハムとその子孫に約束された御霊の賜であると言います。このような御霊にある自由は、これを常に行使し、働かせることによって維持されます。ですから、ガラテヤの信徒たちは、過去から伝えられた伝統もガラテヤ古来の宗教も、もはや頼りにできません。またこの世の「もろもろの霊力」にも束縛されません。その上、ユダヤ人キリスト教徒たちから伝えられた旧約聖書の「律法」さえも指針にならないとすれば、いったい何を基準にして御霊の賜を働かせるのでしょうか? このことで、ガラテヤの信徒たちの間に混乱が生じたのです。このため信徒たちの中には、自由奔放になりすぎて、放縦な生活に流れる傾向が生じたようです。中には性的なことで羽目を外したり、あるいは「霊的」なことで喧嘩をしたり仲間割れをしたり、あるいはお酒に溺れて騒ぐ。こういう傾向が生じたようです。これでは律法主義者たちから批判されても仕方がありません。それ見ろ。パウロの言うことを聞くからそういうことになるんだとね。
このように、ある事柄「から自由になる」だけでは、積極的になにをすればよいのか? この「するための自由」が見えてこないのです。だから自由には、なにかを積極的に「実行する自由」がなければなりません。おそらく律法主義的な人たちは、パウロの教えのこの点を突いて、パウロを批判したと思います。ではなにをすればいいのでしょうか? パウロは、「割礼があってもなくても、どうでもいいのです。大事なのは、愛によって働く信仰なんだよ」(5章6節)、こう言うのです。だからここ5章14節で、律法の最も大事なところを含む教えとして「愛によって互いに仕えなさい」と言うのです。なぜなら、イエス様が説いたように、この愛の教えこそ、旧約聖書の教えである律法全体を「一言で」成就する道だからです。
けれども「愛によって働く信仰」と言っても、いったいどうするのか? もうひとつよく分かりません。このことをパウロは、ガラテヤ人への手紙の終わりで、「割礼はあってもなくてもいいのです、大事なのは、新しく創造されることです」(6章15節)と言うのです。「新しく創造される」、新しい自分が創られることなんですよ、これは。これではだめだ。どうするか、こうするかの問題ではないですよ、これは。自分で自分を新しく創ることなんかできるわけがない。これはお手上げです。ニコデモがイエス様のところへ行って、どうすれば神の国へ入れますか? こう尋ねましたね。イエス様は、「新しく生まれなさい」と答えられた。ニコデモは分からなくなったね。だからニコデモは言った。「もう一度お母さんのお腹に戻って、生まれてくるのですか?」とね。これは人間がやることではないのです。人間はなんにもできない。だからわたしはいつも、人間ではないよ、神様がなさるんだよと言うのです。人が自由で「在りうる」ことと自由に「成る」こととの間には、大きな開きがあります。自由になる「可能性」と現実に自由を生きることとは同じではないのです。誰にでも開かれているこの可能性から、その人が現実に自由を生きる道へといたらせるのが、御霊の導きなのです。人間の側からすれば、その導きに従うことです。しかし、「自由に成る」とは、いったいどういうことでしょうか? 自由とは選ぶことです。選ぶことができることです。わたしたちは御霊にあって、日常生活で、いろいろな選択をします。しかし、イエス・キリストにある自由は、ほんらいそういうことだけではない。ほんとうの自由とは、自分が何者であり、自分が何者になり得るのか、それを決めることさえ自由であることなんです。それは「あなた自身を選ぶ」自由のことなんです。パウロが伝えるキリストの御霊にある自由は、ものすごいね。すごすぎて目がくらみそうになります。だから、「過激なほどに急進的だ」と言うのです。だからそれは、あなたが、自分自身を見いだしていくこと、あるいは自分自身を創造していくことにほかならないのです。
スポーツの選手であれ、芸術家であれ、なにかに「打ち込んで」いる人は、外から見るとずいぶん厳しい束縛に自分の身を置いているように見えます。しかし、本人にとってはそれが「やりがい」なのです。なぜでしょうか? それは、彼がなにかを「創り出して」いる、あるいは創り出そうと努力しているからなのです。人は創造する働きに参与している時には、それも自ら進んでそれを追求している時には、喜びこそ感じるものの、束縛とは思わないのです。人間の自由は、創造する働きのために与えられているからです。イエス様に出会う人は、イエス様の御霊にあって自由にされます。少なくとも自由へと「導かれます」。その自由とは、先に述べたように、「新しいあなた」を創造することです。キリストの御霊の働きは、まさにそのために与えられているのです。創造とは言うまでもなく、未来へ向かうことです。だから創造とは祈りです。祈りはあなたを神と共にしてくれます。神は創造する神だからです。この神と共に働くこと、これが、神の御子イエス・キリストが、わたしたちのために十字架におかかりになって開いてくださった道です。これこそ神が、イエス様を通じて、あなたに与えようとしておられる賜です。
(4)悪徳のカタログから
パウロは、ここで「肉」と「霊」との両方のカタログをあげて、信徒たちに御霊にある自由をどうすれば「生活する」ことができるのか、この「自由へのガイドライン」を示すのです。パウロのカタログは、ただ項目を並べただけだ。こう誤解しないようにしてください。ひとつひとつの項目は、読む人がそれぞれの項目の中身を自分で補っていく必要があるのです。このように、ひとつひとつの中身について自分なりに考えていくことが求められているのです。その時々、その場の状況、これに応じて、個人個人が、与えられた御霊に導かれて、判断し行動する。これが、パウロの言う「御霊にある自由」の姿です。だから、このカタログを「良い悪い」を決めるただのルールだと思ってはいけません。そこには、どうすればよいのか? について、霊的な判断が求められるからです。
なんだか難しそうだ。もっと楽なやり方がないのか? こう思う人にはぴったりのやり方があります。そういう人には「律法制度」というものがちゃんとあります。ちょっとした罪を犯した。ではあなたは「アヴェマリア」を100回唱えなさい。酔っぱらって喧嘩をした。ではあなたは「パテルノステル」を200回唱えなさい。私は嘘をついて人を騙した。ではあなたは、数珠の玉を数えながら、「主イエス」を唱えて、その数珠を10回まわしなさい。日常のどんなことでも、先生に相談すれば、どうすればよいかをちゃんと教えてくれます。日本の新興宗教などでは、結婚するのが良いか悪いか? 何時するのがいいか? この人と結婚するのがいいか? そういうことまでちゃんと指示してくれます。選挙の時には誰に入れるから箸の上げ下ろしまで、指示してくれます。その通りに実行しなければなりません。これを律法制度と言います。
私はそれが全部悪いとは言いません。「アヴェマリア」を100回唱えなさいと言われて、90回目に、「ああ、自分のしたことが悪かった。」そう心からそう思えるようになれば、それはそれでいいのです。御霊が働いて、悔い改めさせてくださったのですから。でも大事なのは、御霊が働いて悔い改めることであって、「アヴェマリア」を唱えることではない。唱えてもいいが、唱えなくてもいいのです。律法制度はあってもいいが、なくてならないものではないのです。
このように見ると、このカタログは、悪と善について、実に広い豊かな世界を展開してくれます。注釈は、ほんの示唆程度にすぎませんが、是非ご覧になってください。以下では、悪徳の中から少し注意しなければならない点を拾い上げてみます。悪徳からあげて、美徳からあげないのは、美徳をないがしろすると思われるかもしれません。でも、美徳のほうは、特に注意しなくても、皆さんは十分理解しておられるし、また誤解されることもないと思うのです。
〔不潔とふしだら〕について。パウロは、「不潔」「ふしだら」という言葉をさまざまな情欲や淫行と関連づけています。また、結婚前の恋愛の情熱だけでなく、結婚した後の合法的な性愛をも「節度」を保つように勧めています。このような性愛への態度は、彼が差し迫っていると考えた終末思想と関連していると思われます。しかし、性愛に対するパウロのこのような姿勢が、後の教会に大きな影響を与えました。パウロ自身は、性愛それ自体を否定してはいませんが、彼が性愛を否定的に見ているという印象を与えたのは事実です。このことが、例えば後のアウグスティヌスにおいて、夫婦は性愛のために結婚生活を送るのではなく、子供を産むために性愛が与えられているという結婚観を生じさせるもととなります。結果として、ユダヤ教の結婚観へ逆戻りすることになったとも言えます。ただし、ユダヤ教では、一夫多妻が認められていましたが、キリスト教では一夫一婦制が厳しく要求されました。こういう結婚観は、カトリック教会の独身制度の影響も受けています。
しかし中世を経てルネサンス以後に、恋愛が結婚と結びついて、いわゆる「恋愛結婚」と呼ばれる結婚観が誕生します。イギリスでは16世紀頃から、このような結婚観が出てくるようになりました。17世紀のピューリタン革命の頃になりますと、結婚は夫婦の霊的な交わりのために行なうものであって、必ずしも子供を産み育てるためではないという考え方に変わります。同時に、母なる教会からキリストの花嫁としての教会へと教会観自体も変化します。イギリスで16世紀頃から始まったこの結婚観は、19世紀の初頭頃には定着しました。
【敵意】敵意は肉の働きですから、これは御霊にあって克服されなければなりません。しかし、どのような場合でも敵に反抗したり逆らったりしてはならないのかと言えば、これがそうとも言えません。イエス様は、「災いだ、律法学者とファリサイ派は」と言って、偽善的な指導者を厳しく批判しています。パウロもまた、福音の真理を妨げる人たちに対して、激しい怒りと呪いを投げつけています。では、どんな場合に赦し、どんな場合に怒るのか? これがなかなか難しいです。ボンヘッファーは、ナチス時代にドイツのエリートの神学者でした。彼は、始めはヒトラーに反対することを慎んでいたのですが、後で自分からヒトラーの暗殺計画に加わります。このために彼は投獄されて、戦争が終わる間際に処刑されました。この人の思想は今でも生き続けています。
【偶像礼拝】これは、宗教に関係しますからいろいろと問題が多い悪徳です。キリスト教以外の宗教を批判したり非難する理由になりますからね。日本ではいろいろな宗教が、伝統的な文化となっています。それらを否定して、キリスト教をその上におくのは、うっかりするとパウロが指摘した律法主義者たちの誤りを犯すことになります。特に新約聖書で、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3章5節)とあって、お金儲けが偶像礼拝にされています。現代の偶像礼拝は、このお金ではないでしょうか? 利潤追求の論理だけで経済だけでなく政治も軍隊も動かされる世の中です。
靖国参拝や日の丸君が代の場合でもそうです。わたしは君が代を歌い、日の丸と仰ぐのを何とも思いませんが、しかし、これが強制されるとなれば、話は別です。現在東京都の公立学校では、君が代と日の丸が実質的強制されて、このために先生方が処分されたり職を失ったりしています。こうなると靖国や君が代は、悪霊的な性格を帯びてきます。
【競い争い】新共同訳では「争い」となっていますが、これは「競い争う」ことです。始め私は「競い合い」という訳を考えましたが、「競い合い」は必ずしも悪い意味ではないので、「競い争い」と訳しました。「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これもまた空しく、風を追うようなことだ」(コヘレトの言葉4章4節)とあるように、競い合いは、人間の営みの根源に根ざしている衝動です。戦争も暴力も、その根源には「競い争い」があると言われています。しかし「競い争い」を「競い合い」として文化的に高めたのがスポーツですね。サッカーなどは、もともと敵の首を転がす競技から発達したと言われています。スポーツは、ルールに従って競い合うことで、人間の闘争本能を文化的に変容させているのです。これは決して悪いことではありません。御霊に導かれて、スポーツの選手になった人たち、例えばアメリカの黒人のカール・ルイスなどがいます。一方では、「競い合い」を「競い争い」と解釈して、スポーツをいっさい禁止したキリスト教系の学校があります。これなどは、パウロの悪徳の戒めを律法的にとらえている恐れがあります。同じ御霊にあっても、スポーツで「競い合う」ことに御霊の導きを見いだす人と、「競い合い」を控える人と、信仰のあり方には多様なところがあります。
【利己的な党派心】パウロは、信仰の仲間同士で言い合いをしたり、真剣に討論することを決して否定していません。「真実が明らかになる」ためには、多少の仲間同士の言い合いもやむを得ないと見ています。正々堂々と言い合うほうが、かえって交わりを深める結果になります。ところが、「利己的な党派心」というのは、そうではありません。これは、交わりを形成するための話し合いや論議を拒否する人です。自分の主張だけを押し通そうとする人です。こういう人は、たとえ分派を創っても、そのグループの中では、自分だけが絶対的な権威を持っていて、メンバーの意見を受け容れない人です。こういう人の集会は悪魔的霊盲に陥ります。オウムの宗教を思い出してください。霊的傲慢の恐ろしさがよく分かります。こういう意味での「利己的な党派心」は、残念ながら、コイノニア会の霊的な交わりに入ることができないだけでなく、霊的な交わりを破壊する人です。コイノニア会に最もふさわしくない人です。私は、皆さんが、それぞれのあり方で福音の証人になってほしいと願っています。しかし、こういう証人、こういう指導者にだけはならないでください。利己的な党派心は、コイノニア会にとって最も警戒すべきことです。
【酒に酔う】エフェソ人への手紙5章18節に、「酒に酔うことで身を持ち崩すことをせずに、むしろ御霊に満たされなさい」とあります。御霊に満たされることが「酒に酔う」(使徒言行録2章13節)と言われているところがあります。酒に酔うことと御霊に酔うこととは、同じように見えながら、似て非なるものです。悩みの解決を酒に頼るなら、アルコール依存症へと導かれます。御霊は、キリストの人格へと人を変容させます。だからパウロはここで「酒に酔う」ことを肉の働きとしているのです。似て非なることを「アンティ」と言います。これは「取って代わる」ことです。偽物と本物は似ているのです。
ところがこのことから、酒に酔うことと御霊の働きとは、「反対のこと」だと誤解されたようです。「酒に酔っていない」状態、すなわち素面で真面目な状態のことを御霊の事態だと誤解されたようです。聖霊体験を「熱狂主義」と呼んでこれを毛嫌いする人たちがいます。またクリスチャンに禁酒禁煙を課した人たちがいます。おそらくこういう人たちは、「御霊にある」ことと「酒に酔う」こととの関係をこのように正反対の状態だと理解/誤解することから生じたのではないかと思います。パウロのこの箇所は、酒を禁じているのではありませんから注意してください。イエス様は「大酒飲み」だと非難されています(マタイ11章19節)。また、適度のぶどう酒は体によいからこれを飲むように勧めているところがあります(第一テモテ5章23節)。