(10)天のエルサレム
【聖句】
■4章21〜31節
21どうか答えてほしい。律法の下にいようとする人たちよ、
あなたがたは、律法に耳を貸さないのか。
22なぜならこう書かれている。
アブラハムには二人の息子があった。
一人は女奴隷からであり、
もう一人は自由な女からであった。
23ところで、女奴隷からは、肉によって生まれたのに対し、
自由な女ほうからは、約束の結果として生まれたのである。
24これには、寓意が存在する。
すなわち、これらの女は二つの契約である。
ひとつはシナイ山に由来して奴隷状態を産む。
これがハガルのほうである。
25ところで「ハガル」とは、アラビアではシナイ山のことで、
現在のエルサレムに当てはまる。
なぜなら、これの子たちと共に奴隷状態にあるからである。
26他方、天のエルサレムは、自由な女であって、
これがわたしたちの母なのである。
27なぜなら、次のように書いてあるから。
「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。
取り残された女の産む子供のほうが、
夫ある女の子よりも多いからである。」
28そこで、兄弟姉妹たち、あなたがたこそ、イサクのように、約束の子なのである。
29けれども、あの時、肉によって生まれた者が、
霊によって生まれた者を迫害したように、
今も同じである。
30しかし、聖書は何と言っているか。
「女奴隷とその子を追い出せ。
女奴隷から生まれた子は、
断じて自由な女から生まれた子と一緒に
相続人になってはならない」と。
31要するに、兄弟姉妹たち、
わたしたちは、女奴隷の子ではなく、
自由な女の子なのである。
【講話】
(1)二つのエルサレム
今日は天のエルサレムと地上のエルサレムについてお話しします。これはたとえで語られています。たとえというのは、イエス様のたとえもそうなんですけれども、とても分かりやすい語り方です。ところが、たとえというのは実は難しい。分かりにくいものなんです。これは考えてみれば当然であって、分かりにくいこと、難しいことを分かりやすく語るのがたとえですから、聴いている人はなるほどと分かったような気持ちになるのですね。ところが実は、よく考えてみるとその内容は難しいのです。もともと難しいことを分かりやすく語っているのですから、逆に考えれば当然のことです。
天のエルサレムと現在の(地上の)エルサレム、サラとハガル、イサクとイシュマエル、このたとえも分かりやすいようで、実は分かりにくいです。誤解しがちなところがあるのです。地上のエルサレムはユダヤ人の都です。天のエルサレムはキリスト教徒の都です。だからユダヤ人の都は亡びて、キリスト教の都は永遠に続く。大変分かりやすくいです。でもこれをこのまま鵜呑みにするのは危険です。ユダヤ人はダメでキリスト教徒はいい。このように受け取れますから。あるいは、ハガルは奴隷の女で、その息子はイシュマエルである。イシュマエル族は古代にアラビア半島に住んでいたアラム人の先祖ですが、エジプトのアラブ人とも関係があると言われています。これに対して、サラは正妻で、その息子はイサクで、その子孫はユダヤ人である。だからユダヤ人は周辺の民族やアラブ人より優れている。これも分かりやすいです。どうしてこういう見方が出てくるのか? その出所は、今日お渡しした注釈をじっくりと読んでいただければ分かります。でもこういう解釈は、単純で分かりやすいだけに危険です。アラブ人はユダヤ人に劣る。ユダヤ人はキリスト教徒に劣る。こういう差別を産み出すもとになるからです。
(2)御言葉を正しく読む
この分かりやすさに騙されないで、ほんとうのことを見分けるためには、どうしてもほんらいのパウロの言葉の意味に戻らなければなりません。そうすれば、なぜこのような考え方が生まれてきたのかが分かります。長い間のキリスト教の歴史の中でできてきた考え方からは、抜け出すことがなかなか難しいです。でも、そういう考え方の出所を突き止めてから、ではどうすればこれを未来に向けてとらえ直すのか? これが御霊にある聖書解釈の大事な方向です。これは学問の力だけではどうにもなりません。祈りによる霊的な洞察と御霊の導きが大事になります。学問的に言葉のほんらいの意味をたどることと、同時に未来に向けて祈ること。この二つが重ならなければ、御言葉を正しく読むことができないのです。実は、ニューヨークで、和宏と韓国系アメリカ人のトムさんと中国系アメリカ人のアレンさんとわたしたちと5人で、わたしたちのホテルの居間で集会を持った時にも、このような聖書解釈のことをお話ししたのです。
聖書のたとえは、長い間の歴史や伝統の中で、偏見や差別を産み出すもとになっている場合があります。でもこれを打破していくのもまた、御霊の導きによる聖書解釈です。実はパウロがここでやろうとしていることは、まさにこのことです。長い間培われたイスラエル民族の優越意識、これを象徴するのが、神殿のあるエルサレムです。ところがパウロは、これを「地上の」エルサレムと見なして、これに対して、キリストの御霊の自由が支配する別のエルサレムを対立させたのです。そこは、ユダヤ人も異邦人も全く平等に、キリストの御霊にあって自由になるエルサレムです。パウロはこれを「天の」エルサレムと呼んで、地上の現在のエルサレムと対立させました。だから、ユダヤ人や保守的なユダヤ人キリスト教徒の反発を招いたのですね。現代のわたしたちに要求されているのは、パウロのこのような姿勢です。だからわたしたちは、今もパウロの言葉を再解釈するのです。
(3)自由と隷従
ここでパウロが問題にしているのは、自由と隷従(奴隷状態)です。自由は天上のエルサレムで表わされ、奴隷状態は地上のエルサレムで表わされています。地上のエルサレムは、イスラエルの宗教的な中心で、そこには立派な神殿がありました。神殿を中心にしたエルサレムの街全体をパウロは奴隷状態と呼んでいます。それは律法という宗教制度によって支配されているからです。ここで「律法」というのは、街全体を支配する宗教制度のことだと言い換えてもおかしくないのです。エルサレムの都市全体が、宗教制度によって支配され、隷従状態に置かれている。パウロはこのように見ているのです。
もしも、世界に10億の信者がいると言われるローマカトリックの総本山のあるヴァティカンの街全体が、カトリックの宗教制度のもとに奴隷状態にある。これに対して、キリストの御霊にある自由は天のエルサレムにある。こう言ったとすれば、これを聞いたらカトリックの人は怒るでしょうね。実は、宗教改革の頃のプロテスタントたちは、そのように主張しました。ここでのパウロと似たようなことを言っていたのです。
わたしは決してカトリックを軽蔑して言うのではありません。でもパウロがこんなに厳しくユダヤ的な宗教制度を否定したのは、彼らが、異邦人キリスト教徒の自由を束縛し、これを奪おうとしたからです。自由と隷従と言いますが、隷従というのは、自由を奪おうとすること、人の自由を破壊してこれを支配しようとすること、これなのです。人間の自由を奪う自由は、人間にはないのです。だからパウロは怒ったのです。厳しく批判したのです。この世の中には、常に人間の自由を脅かそうとする隷従の力が働きます。だから、これに対して厳しく批判しなければならないのです。パウロは、ローマ人への手紙では、ユダヤの律法制度をここほど厳しく批判していません。むしろ、律法を弁護しています。これは、ローマのキリストの教会では、もはや異邦人キリスト教徒が、ユダヤ人キリスト教徒の律法主義に脅かされる心配がなかったからです。
宗教改革の時代、イングランドの国教会は、常にカトリックの力に怯えていました。まだ弱小国であったイングランドは、エリザベス女王のもとで、いつカトリックの強国スペインが攻め込んでくるかと恐れていたのです。無敵艦隊と言われた海軍を持ったスペインの軍隊が、カトリックのアイルランドに上陸したら、イングランドは陸と海との両方から攻め込まれて、国教会は崩壊してカトリックに復帰させられる。イングランドの人たちは、このことを恐れていました。だからイングランドのピューリタンたちは、カトリックを悪魔のように非難して、国内のカトリック教徒を迫害しました。政治的、宗教的な独立と自由、これが脅かされていたからです。でも現在では、カトリックがプロテスタントを脅かすことはありません。だから、イギリスでもアメリカでも、カトリックもプロテスタントも平等に自由を認め合って暮らしています。
(4)霊と肉
自分たちこそがアブラハムの子孫であり、正統な世継ぎである。こういうユダヤ人の宗教的な優越意識、これこそが、キリストの御霊にある自由な働きが打破しようとしていたことです。イエス様の御霊が、あえて異邦人キリスト教徒たちに働いてくださったのは、このことを人々に知らせるためです。神の御前での人間の優越意識と思い上がり、これこそ、キリストの御霊が、パウロを通して、打破しようとしていることなのです。だから、地上のエルサレムのユダヤ人はだめで、わたしたちキリスト教徒は、天上のエルサレムに属するから救われる。このように思い上がってはいけません。
自由と隷従をパウロは、「霊による」と「肉による」のように言い換えています。「肉による」とは人間的なこと。「霊による」とは、イエス様の御霊にあることです。人間的な営みとしての宗教、これと神様の御霊から出た霊的な働き、この二つをパウロは比較対照させているのです。だから、このような霊肉の対照の場合には、ある人たちは霊で、ある人たちは肉だ、などとは言えません。人間的なことが肉であるのなら、わたしたちは全員肉です。神の御霊から来るのが霊であるのなら、創造の御霊に与るものは全員霊です。だから、誰が霊で、誰が肉であるという色分けはできません。わたしたちは、全員肉でもあり霊でもあるからです。
だから個人的にも、また宗団や組織としても、色分けをしないほうがいいのです。ユダヤ人もギリシア人もアラブ人も、キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒も仏教徒も、カトリックもプロテスタントも無教会も、実はこれ、ことごとく霊ともなり肉でもあるという可能性を秘めています。だから、ほんとうの信仰は、天に存在する霊のエルサレムにあるのだよ。地上のものではないんだよ。こうパウロは言っているのです。ここのところをとらえてください。人間的な努力や欲求からではないのです。上から来るもの、常に新しく来るもの、これなんだとね。「上から」と「新しく」は、同じことです。
(5)二つのエルサレムの関係
だから天のエルサレムと地上のエルサレムとをどこかの特定の宗教や人々に当てはめないように注意しなければなりません。実はこの二つは、重なり合いながら歴史の中を進行しているのです。パウロは、「天のエルサレム」と「現在のエルサレム」という言い方をしています。「天の」と「現在の」というこの関係は少しおかしいですね。「天」に対しては「地上」、「現在」に対しては「未来」というのが正しい対応ですから。場所と時間を比べることはできません。パウロがこのように言うのは、これら二つのエルサレムが、場所的な意味だけでなく、時間的にも関係し合っているからなのです。二つのエルサレムは、現在の時に、天上と地上との両方に存在しています。同時に、この二つが、人類の歴史の歩みを導いている。こういう関係にあるのです。天と地、霊と肉、両方が互いに働き合いながら、しかも歴史の中を歩んでいます。天のエルサレムは、何時完成するのでしょうか? それは終末になって初めて完全な姿で顕現するのです。同時に存在しながら、将来へ向かっている。こういう不思議な関係にあります。神の国と地上の国、地上の宗教と天上のキリストの御国、現在地上の人間的な組織や支配によって営まれている宗教とやがて終末に天から顕現される御霊にある自由な霊的な状態、このふたつは、この世においても、わたしたち一人一人の人間存在においても、重なり合いながら、将来をめざして歩み続けているのです。ふたつのエルサレムは、このように時間的と場所的の両方の意味で理解できます。
天のエルサレムを場所的だけに限定すると、つい固定して考えてしまいます。ここが天の国であそこが地上のエルサレムだというように。時間的にとらえるというのは、動くことです。変化し変容することです。旧約から新約へ、ユダヤ主義的な宗教制度から世界的な福音へと転じていく。これが時間的な移りゆきです。時間が加わると移行と転位が生じるのです。御霊にある福音は常に進展します。変容していきます。そうでなければ福音とは言えません。常に未来へ向かって開かれていること。これが福音的な自由において大切なのです。これがキリストの御霊にある自由の意味です。
(6)アメリカ旅行から
この5月末に、わたしたちは、アメリカ旅行から帰ってきました。ニューヨークに滞在してから、わたしたちは汽車でワシントンへ行きました。わたしたちの泊まったホテルは、あのニクソン大統領が失脚するきっかけとなったウォーターゲイト・ホテルで、部屋の窓からはポトマック河を見渡すことができて、朝日を浴びて、ポトマック河沿いの道をジョギングしている人たちが何人も見えました。わたしたちは、ホワイトハウスや国会議事堂や最高裁判所などを見て回りましたが、こんな美しい平和な都市が、ヴェトナム戦争、湾岸戦争、そしていまイラクで起こっている戦争、このように世界中で起こった戦争を指導してきたところだとは、とても思えませんでした。実は、ニューヨークのチェルシー地区の人たちが、教会堂でイラク戦争に反対する歌の会を開いて、息子たちのグループもこれに参加して歌うのを聞いてきました。
ワシントンの大きな広いレストランでは、大勢の人たちが夕食を採っていました。彼らは、年齢的に見ても、各相の役人たちで、わたしたちは、順番待ちをしながら、この人たちが、世界の政治を動かしている官僚たちなのかと思いながら見ていました。世界を動かしているこの都市の政治家たちや官僚たちの考え方の根底には、今なお、アラブ人、ユダヤ人、キリスト教徒という格付けが伝統的にインプットされているのだろうか? わたしは、こんなことを思いながらその人たちを見ていました。
ホテルのテレビの数あるチャンネルを切り替えていると、ユダヤ教=キリスト教フェロウシップという団体が、ロシアの貧しいユダヤ人に食べ物を与える援助の手をさしのべるように繰り返しアピールしていました。わたしたちクリスチャンは、霊的なものをユダヤ人から受けたのだから、物質的なもので彼らを支えなければならない。パット・ロバートソンという、アメリカのキリスト教団体の指導者がこのように訴えていました。アメリカでは、ユダヤ=キリスト教連合ができつつあると聞いていましたが、この人たちは、パウロがここで推し進めようとしている御霊にある自由をほんとうに推進しようとしているのだろうか? こう思いながら、その番組を見ていました。人種的な差別、宗教的な誇り、こういうものを打破することこそ、パウロがここで言う御霊にある自由なのです。